2017年12月13日

sanctuary lost THE ORIGIN VII.冷光

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/silence.html
luminescence   ━ 【名】
  【U】 〔理〕 (熱を伴わない)発光, 冷光


 私はこの1年間でいくつかの経験をした。
  何かの参考になるかどうかは分からないけれど、ここに書きとめようと思う。



 一通の返信

小泉総理大臣あてにメールをお送りいただきありがとうございました。いただいたご意見等は、今後の政策立案や執務上の参考とさせていただきます。

 皆様から非常にたくさんのメールをいただいておりますが、内閣官房の職員がご意見等を整理し、総理大臣に報告します。あわせて外務省、外務省、内閣官房安全保障危機管理担当、内閣官房拉致被害者・家族支援室へも送付します。

 今後とも、メールを送信される場合は官邸ホームページの「ご意見募集」からお願いします。

                   内閣官房  官邸メール担当 2004/5/26/09:05



これは、「IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見」の報道のあと、私が官邸にメールした時にいただいた返信だけれど、おかしな点が一つある。

「あわせて外務省、外務省、」

官邸には思えば幼稚なメールを何通も送ったのだけれど、メール担当者の方のこのようなミスは初めてだった。

送った内容は、

・核拡散の危機から世界を守って欲しいこと。
・拉致被害者家族を分断から守って欲しいこと。
・自衛隊、米軍が協力して拉致被害者を救って欲しいこと。

ただのミスなのか、それとも動揺させるような内容だったのか。





「IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見」、この報道を見てから、私は謎解きの鍵を探し始めていた。

"過去へ行くべきだ"

私はそう思い至った。



2004年6月、辿り着いた先。

第百五十一回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説 平成十三年五月七日
(ttp://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2001/0507syosin.html)



私は新世紀維新のヴィジョンを知った。
いや、忘れていたといった方がいいだろう。



小泉総理の就任時、今でもよく覚えている。
田舎の居酒屋に総理のポスターが大きく張り出してあって、その人気の高さを感じ取れた。
私の第一印象は、「この人はやる」という漠然とした直感だけだった。

何をやるのか。
どうやら維新をやるらしい。
その通り、総理。
維新をやらなければ日本は終わりだ。

その時はそれ以上深く考えることもなかった。

その年に、私の中に巣食う病魔は再び活動を活発化させた。
社会的な死というのはすぐ傍にあるものだということを、私は知っている。

敗北の味とは苦いものだ。
病というものは激烈でもなくて稀少すぎると、社会のシステムに居場所を求めようにも、医学的にも手のうちようもなく、何ともやりようがない。

私はこれから何かを手に入れることはないだろう。
手に入れたとしてもそれを維持できなければ意味がない。

あとはこの身体を引きずってどう生きるかということだけれど。

しかれども小栗はあえて不可的(インポシブル)の詞を吐きたる事なく、病の癒ゆべかざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず、国亡び身斃るるまでは公事に鞅掌するこそ真の武士なれといいて屈せず撓まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以って進みて己が負担となせり。



小栗忠順はこう言ったというから、私もこう生きよう。

それが長いものになるのか、案外短いものになるのか、よく分からないけれど。



 浜田幸一氏のこと 

「一つだけ言っておくと(中略)、マスコミなんて(安倍)留任なんて書いているマスコミはみんなバカなんだよコノヤロー。オレが言ってんのに何だよ。オレがTVタックルで言っていることはだよ、オレが本人に確認しなきゃ絶対言わない男だから。何言ってんだよ。」
(TV朝日 『TVタックル』、9/13放送「9/10ハマコー総理官邸へ!小泉総理と何を話したのか!?」<ハマコーは知っていた 安倍幹事長辞任>)



浜田幸一氏、 通称ハマコー氏。
小泉総理に最も近い人物の一人。
ひょっとすると、小泉総理はこの人の声を使って、重要な情報を流しているかもしれない。

もちろんご本人と何かの面識があるわけはない。
ただ、少しばかりの奇妙な縁はある。




投稿日:2004/09/17(Fri) 03:28
・ブッシュ大統領は小泉総理と、金正日の「処理」について頻繁に相談しあっている。



2004年10月4日
「みんなね、本当に国会議員であるならば、いかにしてあの分からず屋のトップを、ここで何とか処理するのかということを、もっと真剣に考えないといけない、これは。」
(TV朝日 たけしのTVタックル、10/4放送<北の独裁体制をどうやって倒すのか?>)



他にもギクリとするような発言があったことがあるけれど、これが一番近かったように思う。

ハマコー氏と私はネットを介して繋がっていたのだろうか。
小泉総理の声と私の声が、この人から発せられていたなら――私には確かめる術もなく、予断にすぎない。



この人は勝海舟のような人に思える。



 インテリンク

2ch 東アジアnews+
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2ch ハングル板
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  「ですが」で検索できるエクセレントなスレがある。

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  小泉総理関係では、通称運スレと実力スレがある。

FNN News JAPAN
  外交の松本方哉 キャスター
  政治の和田 圭 解説委員
  社会の箕輪幸人 解説委員
  文化・福祉の滝川クリステル キャスター
  生活の一部。

日高義樹のワシントンリポート
  米国の考え方を知ることができる。



 情報の光学

 さて戦争当事者が、このような予期せざる新事態に直面して、たじろくことなく不断の闘争を続けてゆくためには、二つの性質が是非とも必要になってくる。すなわち、その一つは理性であって、これはいかなる暗闇の中でも常に内的な光を投げかけ、もって真相のいずれにあるかを発き出すものである。その二つは勇気であり、この微弱な内的光に頼ってあえて行動を起そうとするものである。前者はフランス人の表現を借りて比喩的に言えばクー・ディユ〔「眼の一撃」くらいの意味―訳者〕と呼ばれているものであり、後者はいわば決断心である。

  このクー・ディユについて若干考えてみるに、もともと戦争においては戦闘が最も目立ち易いものであり、そして戦闘においては時間と空間が最も重要な要素となる。このことは、騎兵隊が迅速な決戦を絶えず心がけていた時代には一層よくあてはまるものであった。それゆえ、時間や空間についての測定は敏速かつ的確な決断によらざるを得ず、これはまた正確な眼力によってしか目測し得ないものであった。フランス人がクー・ディユと名づけたのはこれである。そしてまた今日まで、多くの兵学理論家はこの語を右に述べたような狭い意義に限って使用してきた。しかし今日では、戦闘を遂行するにあたって下されるべきあらゆる的確な決断が、すべてクー・ディユと呼ばれるに至っていることは注意しておく必要がある。例えば適切な攻撃点を見定めることなどもこれである。つまり、クー・ディユとは単に肉体的眼力ばかりのことではなく、精神的眼力も指しているのである。もちろんこの語は発生上から見れば戦術の領域に属するものではあったが、戦略においてもしばしば迅速な決断が要求されるものである以上、戦略の領域において使用しても差支えない。この語につきまとっている比喩的で狭量なニュアンスを取り除いてその本質を言うなら、このクー・ディユなる語の意味は、日常的眼力の人にはまったく見えないか、あるいは永い観察と熟慮の末ようやく見得るところの真理を、迅速かつ的確に把握し得る能力のことにほかならない。
  (クラウゼヴィッツ『戦争論』)

予見とは実際には寧ろ遅疑なく現在に処そうと覚悟した人々だけに訪れる光の如きものである。
 ( 小林秀雄  戦争について 昭和十二年――1937年 )

・ブッシュ政権は韓国の姿勢、特に若者層の反米運動に激怒している。韓国は中国よりもロシアよりもイラクよりも悪い。
・米国は金王朝崩壊後の民主国家としてのリーダーとして機能するような人材を探している。
・ブッシュ政権は反米国家である韓国や中国に崩壊後の北朝鮮を任せたいとは思っていない。
・手詰まりとなった六者協議を打開するため、食糧支援を6月に視野に入れており、小泉首相は大変苦しい立場に追い込まれるだろう。
・食糧支援とともに部隊を入れて核査察するという条件を加え、北朝鮮が拒否した場合は西太平洋の米軍に命令を発することになる。

この話を講演会で聴いてあと、情報を整理している途中に、自分の中に冷たいものが存在していた。
様々な情報がフラットに感じられ、熱を失っていく奇妙な感覚。

情報にはある程度の物理法則に似た法則が当てはまるような気もする。
情報が持つ密度、熱、速度。
密度は高く、冷たく、速い。
こういった属性の情報は、強さを持つように思う。
一次の情報源が持っていた相対的な零度に近づけば近づくほど、情報は暴れることを止める。

クー・ディユ:
理性。いかなる暗闇の中でも常に内的な光を投げかけ、もって真相のいずれにあるかを発き出すもの。微弱な内的光。
(クラウゼヴィッツ)

密度は薄く、熱く、昏い。
逆にこういう情報は弱い。

人のエネルギーが注がれたものは熱い。
情報は加熱する。

光は熱を持つものだけれど、クラウゼヴィッツのいう微弱で内的な光とは、熱血漢というより「冷静」「沈着」などを尊重しているように、熱は持たない方が良い。
内的な冷たい光はいかにして手に入れることができるか。

屈折した体験と心情がない者は世の中の表面しか分からない。
(大森義夫 著 『「インテリジェンス」を一匙 情報と情報組織への招待』)

とすると、心の闇を持つことも条件に入る。

心の闇が深い人間の、わずかしかない内的な光を集めるには鏡がいる。
鏡となるのは他者であり、他者の厳しい眼に晒される必要がある。
自己の斫断を繰り返し、無意味なものを削ぎ落とし、自己の限界を知る。
微弱な内的光を頼って「composeされた」情報は熱を失っていく。


(後は小泉内閣が退陣するまでの間、いくつか書いていきます)
posted by     at 16:26| Comment(0) | sanctuary lost | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

sanctuary lost THE ORIGIN VI.沈黙

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/silence.html
 千里眼たるべし、千里眼となるべし、と僕は言うのだ。詩人は、あらゆる感覚の、永い、限りない、合理的な乱用によって、千里眼になる。恋愛や苦悩や狂気の一切の形式、つまり一切の毒物を、自分で探って自分の裡で汲み尽し、ただそれらの精髄だけを保存するのだ。言うに言われぬ苦しみの中で、彼は、凡ての信仰を、人間業を超えた力を必要とし、又、それ故に、誰にも増して偉大な病者、罪人、呪われた人――或は又最上の賢者になる。彼は、未知のものに達するからである。彼は、既に豊穣な自分の魂を、誰よりもよく耕した。彼は、未知のものに達する。そして、狂って、遂には自分の見るものを理解することができなくなろうとも、彼はまさしく見たものは見たのである。彼が、数多の前代未聞の物事に跳ね飛ばされて、くたばろうとも、他の恐ろしい労働者達が、代わりにやって来るだろう。彼等は、前者が斃れた処から又仕事を始めるだろう

――アルチュール・ランボオ 1871年5月15日付 ドムニイ宛 "見者の手紙"




維新に必要なものを3つ挙げるとすれば、

・外部からの衝撃

・国益に殉ずることのできる、確かな時勢眼を備えた指導者

・新時代の設計図



幕末維新の扉を開けたのは、ペリー提督率いる米国海軍だった。

新世紀維新の扉を開け放つことが可能なのは、おそらく米国海軍以外にはない。



聖域なき構造改革の聖域に入る前に、もう一つの聖域を発こう。

日米関係の原初へと還る。

それが最後の聖域への鍵になる。





 維新の聖域

いよいよ出来の上は、旗号に熨斗を染出すも、なお土蔵付きの売家の栄誉を残すべし

――小栗忠順



小栗忠順は、武士階級がその終焉を迎える時に送り出した幕末の俊英であり、米海軍第七艦隊の母港となる軍港・横須賀の礎を築いた。



小栗が興し、計画した事業
・横須賀製鉄所・艦船製造所(横須賀ドック)の建造。
「軍艦を有する以上は、破損は有中の事なれば、これを修復するの所なかるべからず」
・横須賀製鉄所の運営には必然的に近代的なマネージメントが要求された。小栗は、製鉄所首長のフランス人青年ヴェルニーとともに、組織、職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、自然保護、流通機構などの近代経営方法を導入したという。そのため、「近代的マネージメントシステムの父」とも呼ばれた。
・「六備艦隊」構想。後の連合艦隊に連なる構想で、日本を六つの地区に分け、江戸湾に東海艦隊、函館に東北艦隊、能登に北海艦隊、下関に西北海艦隊、長崎に西南艦隊、大阪に南海艦隊を置く。
・軍制(歩兵・騎兵・砲兵の確立)の充実。歩兵・騎兵・砲兵の三兵隊編成と陸軍教育は非常に優れたもので、桂小五郎(木戸孝允)も「関東の政令一新し、兵馬の制頗る見るべきものあり」と、幕府の軍制を高く評価したと言われる。
・日本最初の株式会社「兵庫商社」や諸色会所(商工会議所の前身)の設立。
「外国人と取引致し候には、何れも外国交易の商社(西名コンペニー)の法に基き申さず候ては、とても盛大の貿易と御国の利益に相申すまじくと存じ奉り候」
(小栗の建白書)
・横浜フランス語伝習場(フランス語専門学校)開設。
・滝野川反射炉及び火薬製造所、小石川大砲製造所の建設。
・湯島鋳造所の改造。貨幣の鋳造所。
・中央銀行設立の計画。
・新聞発行の計画。
・書伝箱(郵便)・電信事業の建議。鉄道建設(江戸・横浜間)の建議。
・ガス灯設置の建議。郡県制度(私案として大統領制も視野に入れての)建議。後の廃藩置県に連なる。
(濤川栄太 著『小泉純一郎を読み解く15章』文芸社 参考)



小栗は1860年1月18日、米海軍艦ポーハタン号に乗り込み太平洋を越える。

これが米海軍と日本との初の共同作業であろう。

小栗はこの時一本のねじを持ち帰っている。



▼赤塚行雄 著『君はトミー・ポルカを聴いたか――小栗上野介と立石斧次郎の幕末』

 慶応二年(1866)、小栗は、小野友五郎に密令を与え、アメリカ海軍と接触させる。南北戦争が終わり、軍艦放出の可能性が高いことに着目しているわけだ。
  小野友五郎は、数学者で、軍艦操練所の教授をつとめ、咸臨丸アメリカ派遣の際には、士官として乗り込んで航海測量を担当した。だから軍艦購入委員長としての渡米は、彼にとっては二回目の渡米になるわけで、帰国後は勘定奉行並に昇進している。維新後は、後でふれる小栗の友人、長井昌信と同じく工部省に出仕し、鉄道建設に従事している。なお、著書としては『尋常小学児童洋算初歩』四巻などが残されている。
  小野友五郎らの一行は、三月十八日、国務長官スワードを公式訪問、四月一日にホワイトハウスでアンドルー・ジョンソン大統領に謁見する。ジョンソン大統領は、万延元年の遣米使節のことにふれ、日本海軍の強化に全面的に協力すると約束する。
  小栗が蒔いた種が実り、ジョンスキン准将やポーター中将が親身になって意見を交換してくれ、装鉄艦ストーンウォールの購入が決まる。これは、当時の世界最強の戦艦で、この一艦で、敵の全艦隊を撃破することができるといわれていた。





小栗は当時最高の知米派と言えるだろう。

小栗は1868年1月13日に最後の献策を行い、1月15日その任を解かれた。




/////

▼司馬遼太郎 著 『竜馬がゆく』

少年時代の小栗には逸話が多い。

 その一例をあげると、十四歳のときに母親の実家の播州林田一万石の領主建部内匠頭の江戸屋敷に父の代理に行った。そのとき藩生や家老をむこうにまわして物おじするどころかいかにも高慢づらで応答し、しかもすでにたばこをくゆらし、たばこ盆をたたく間合までが堂々としていた。なみいるひとびとはこの少年は将来どれはどの巨人になるだろうと舌をまいたという。

 長じて、乗馬、剣にたくみで、幕府役人にとりたてられてからは、上司の無智や惰弱がゆるせないところがあり、しばしば衝突した点、勝に似ている。



十四歳の時、小栗は播磨の大名である建部家を訪れ、藩主に対して臆することなく、「今後の日本は積極的に船をつくり、海外に進出すべきだ」と論じたという。
 (NHK その時歴史が動いた)
その人となり精悍敏捷にして多智多弁、加うるに俗吏を罵嘲して閣老参政に及べるがゆえに、満廷の人に忌まれ、常に誹毀の衝に立てり。小栗が修身十分の地位に登るを得ざりしはけだしこのゆえなり。
  (福地桜痴 著 『幕末政治家』)

/////

ダグラスは父を理想の人格として生涯を通じて尊敬しており、その勇気、指導力、行政能力をそっくり引きついだといわれる。しかし彼は同時に父の資質に含まれていた二つの欠点も引きついでいた。それは、「自分の領域とみなしているところへ文官が口をさしはさむことに対する軽蔑と侮蔑、そして自分の管轄権を越えた問題に対して遠慮ない発言を行なうこと」であった。この父にしてこの子あり。二人を知るものは親子を貫く強烈な個性についてこうもいう――「わたしはアーサー・マッカーサーほど、とほうもなく自我意識の強い人物はないと考えていた――とにかくその息子に会うまではね」(ジョン・ガンサー)
 (袖井林二郎 『マッカーサーの二千日』)

マッカーサーの複雑な人間性を理解しようと大いに努力し、「冷酷で、見栄っ張り、無節操で自意識が強いが、すごい素質、生き生きとした想像力、過去の事例からすぐ学び取る能力を持ち、指導者になるべき人物だ」
  (リチャード・オルドリッチ 著 『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』)

/////

孤高という言葉こそ、いまの小泉首相を表現するに最もふさわしいだろう。「孤独で高傲」とは、まさに小泉首相の立場そのままである。
 (「三十年河東 十年河西」)

/////

改革者はこういった人格に限るようだ。



 小栗は、無口な実行家で、文章もほとんどのこしませんでした。遣米使節のひとびとは多くの記録、随想のたぐいを残していますが、小栗はそういう意味でも沈黙しています。不気味なほどというか、いっそ沈黙がかれの人格表現というか。
  (司馬遼太郎 著 『明治という国家』)





小栗の頭脳は、明治国家の聖域となる。

永遠の沈黙とともに――






▼赤塚行雄 著『君はトミー・ポルカを聴いたか――小栗上野介と立石斧次郎の幕末』

  小栗忠順は、慶応三年元旦から慶応四年四月二日までの一年四ヵ月の間の日記を残している。
  それ以前の日記もあったにちがいないとは思うけれど、この最後の一年四ヵ月の日記が発見されたのでさえ、僥倖といわねばならない。東山道総督府軍は、小栗家にあるものは大砲小銃刀剣から、馬、書画骨董、懐中時計の類まで、目ぼしいものを没収した。没収というより略奪といってよい。その竜巻が荒れ狂ったようなあとに残ったものの中から、当時、東山道総督府軍のお雇いだった男が拾い上げて保管していたのが、この一年四ヵ月間の日記と量入制出簿だったのである。

/////

 元治元年(一八六四)に岩永に生まれ、幼い時、父に連れられて小栗上州公の悲運の最後を見た塚越停春楼(本名芳太郎)は、後に徳富蘇峰の民友社に入り、「国民新聞」の記者となった。その「小栗上野介末路事蹟」、「小栗上野介末路事蹟補正」によれば、この三月四日の夜、川浦、岩永、水沼、三ノ倉の村役人に、次のような意味のことを語ったという。
  「実は、私は、ここ権田村に私学校をつくり、若者たちに数学、外国語、海外事情などを教えたい。ついては、あなた方の村からも、その志がある若者がいたら、推薦してもらいたい。私はここで官軍と争ったりして事をおこすつもりは全くない。平和な前朝の頑民として、教育に専念したいのだ」



▼司馬遼太郎 著 『明治という国家』

 この場合の小栗の心事は、明快でした。武士として説くべきことを説いた。容れられなかった以上は、わが事が畢ったわけで、それ以上のことはしません。政権が消滅した以上、仕えるべき主もありませんから、江戸を去り、上州の権田村(群馬県費渕村権田)というかれの知行地にひきこもりました。

  のち、関東平野に入った新政府軍は、右の権田村において小栗をとらえ、打首にしています。ばかなことをしたものです。新政府は、徳川家とその家臣団に対し、いっさいこれを罪にする、という革命裁判をやっておらず、やらなかったところが新政府のよさですが、小栗に対してだけは例外で、小栗の言い分もきかず、また切腹の名誉も与えず、ただ殺してしまいました。小栗が、おそろしかったのです。小栗の人物は過大に西のほうにつたわっていて、これを野に放っておけばどうなるかわからない、という恐怖が、新政府側にあったのでしょう。このあたり、やることの気品という点では、徳川の遺臣にくらべ、新政府のほうがガラが悪かったようです。

(中略)

 小栗は、福沢諭吉のいうところの「瘠我慢」をつらぬいて死にました。明治政府は、小栗の功も名も、いっさい黙殺しました。





「お静かに――」

これが彼の最後の言葉となった。

1868年4月6日、小栗上野介忠順、斬首。

享年42。



ここに明治という国家の限界がある。

明治維新の設計図を描いたその根源と、そしてアメリカとの最良のパイプ役を、智への畏れから斬り捨ててしまった。



因果は東京裁判に巡ってくる。




▼平間洋一 著 『日英同盟』

 パワー・ポリティックスを支え、同盟条約締結を促進する要素として軍事力が大きな比重を占めるものである。
(中略)

  また、日本は艦艇だけではなく、それを支える後方支援施設なども整備していた。欧米諸国は極東に艦艇を派遣していたが、アジア・太平洋地域で軍艦を整備できる施設や技術、特に乾ドックは日本の横須賀や呉の海軍工廠にしかなかった。
(中略)

  イギリスが日本の後方支援能力に期待していたことは、日英同盟条約の交換公文に「一方ノ軍艦ガ他ノ一方ノ港内二於テ入渠スルコト、及ビ海軍貯炭所ノ使用トソノ安全ト活動ニ関スル事項ニツイテ、相互二便宜ヲ与フベシ」との条項がイギリスの要求によって加えられたことからも理解できるであろう。



▼赤塚行雄 著『君はトミー・ポルカを聴いたか――小栗上野介と立石斧次郎の幕末』

 明治四十五年の夏、小栗貞雄と息子の久一が、連合艦隊司令長官だった元帥東郷平八郎から丁重な招待状を受け取った。
  日露戦争が終結して七年目に当たる年だった。
  (中略)

 「自分が連合艦隊司令長官としてバルチック艦隊に勝つことができたのは、軍事的には、小栗上州公が横須賀造船所をつくってくれたからで、改めて、あなた方にこのことを申し上げたくて、今日お招きしたのです。振り返ってみて、つくづくとそう思うのです。小栗公の先見力と実行力には、本当に頭がさがります」
  そう語り、今日の記念に、自分の書を進呈したいと申し出た。
  貞雄は、その厚意を深く感謝して、折角揮毫していただくのならば、その為書きは、息子の又一の名にしていただきたいと注文した。
  「仁義禮智信 壬子(明治四十五年)の夏 爲小栗又一君 東郷書」
  東郷平八郎は一気に、そう書き上げた。
  (中略)

  驚くなかれ、一九九〇年代に入ってからも、小栗がヴェルニーに依頼して設置したスチール・ハンマーは威力を発揮しており、なんとアメリカの原子力空母インデペンデンスのボイラーを補修するのにも、この機械をつかっているのである。



▼NHK その時歴史が動いた

マザーマシンの設置
  神奈川県横須賀市には、いまも小栗が計画した造船所がその面影をとどめている。そこには、江戸時代に描かれた造船所の設計図もある。
  図面のなかほど、ちょうど敷地の中央にある製鉄所が、最初に建設がはじめられた施設である。そして、その製鉄所のなかに最初に設置された機械がスチームハンマーであった。
  愛称をマザーマシンという。母なる機械と呼ばれたこのハンマーは、造船所を建設するための資材や部品を生み出すためのものであった。元治二年(一八六五)に設置されたこのマザーマシンは、以来平成九年まで、約一三○年にわたって稼動した。その間、さまざまな資材や部品を生み出し続けて、文字どおり日本近代化の母となったのである。

マザーマシン
 幕府はオランダ・ロッテルダム製の〇・五〜三トンまで六基のスチームハンマーを輸入。そのなかで最大の三トンハンマーが、工具や部品をつくるための工作機械を生み出すことからマザーマシンと呼ばれた。





 横須賀ドックは日英同盟締結、日露戦争の勝利、戦後の日米同盟、そして現在に至るまで、日本という国家の防衛の要として、その中心的な役割を果たし続けている。



 政治・政治家ということばは、あたらしい。
 明治後、ヨーロッパ語の訳として定着した日本語である。
 この新鮮な日本語に該当する幕末人の一人は、小栗上野介忠順(一八二七〜六八)であったにちがいない。
(司馬遼太郎 著 『街道をゆく 三浦半島記』 「小栗のこと」)





小栗の死から一世紀の時を経て、横須賀は一人の政治家を送り出す。





最後の聖域へとゆこう。

喧騒を突き放した静寂の向こう側に、小泉総理のヴィジョンと戦略がある。






 維新への戦略



維新に必要な3つの要素



・外部からの衝撃

・国益に殉ずることのできる、確かな時勢眼を備えた指導者

・新時代の設計図





新世紀維新の黒船――

2002年9月17日

この国に衝撃をもたらした、第一次小泉訪朝。



その日から、この国は明確に変化した。
この日から個としての私自身にも変化が始まっていた。




▼司馬遼太郎 著 『明治という国家』

 明治維新の最大の功績者は、まず徳川将軍慶喜だったでしょう。かれは幕末、外国文書では"日本国皇帝"でした。それが、鳥羽・伏見における小さな敗北のあと、巨きな江戸期日本そのものを投げだして、みずからは水戸にしりぞき、歴史のかなたに自分を消してしまったのです。退くにあたって、勝海舟に全権をわたし、徳川家の葬式をさせました。となると、明治維新最大の功績者は、徳川慶喜と勝海舟だったことになります。

  この功績からみると、薩摩や長州は、単に力にすぎません。また、この瞬間の二人にくらべれば、西郷隆盛や木戸孝允は小さくみえますね。





2004年5月22日

第2次小泉訪朝。

敗北に見えたこの訪朝劇は、恐ろしく不可解な事件だった。

不可解過ぎた、という方が私の個人的感想だった。

この事件は、私に巨大な疑問を衝き付けた。

翌日、2004年5月23日

「IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見」の一報が世界を駆け巡る。

私はもともと2chの[東アジアnews+]の住人だったので、幸運にもあるスレッドの流れを読むことができた。





当時の空気を伝えるために、ここに抽出していたものを載せる。

あくまで2004年5月23日から数日の間に行われた議論であることをお断りしておく。





▼小泉総理訪朝の7つの謎

IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見 

訪朝の翌日、平壌宣言を死文化する情報がアメリカからリークされた。これはとあるスレッドを集約した、あくまで推論の集合に過ぎない。だが、北朝鮮による核拡散情報の確度によっては、北朝鮮問題の大きな分岐点になり得る。

・何故小泉総理は訪朝を急いだのか

・何故一国の宰相としてのプライドを捨てた行動に出たのか

・何故日本側から食糧援助を切り出したのか

・何故小泉総理は平壌宣言に固執したのか

・何故ジェンキンス氏への説得に時間を割いたのか

・何故在日朝鮮人への差別をしないようにする、とのコメントを出したのか

・何故政府は日テレの米支援25万トン報道に過剰反応したのか

国交正常化すべきでない」という意見が11%しかない状況の中、小泉総理のとった不可解な行動の裏には、米国大統領選挙と北朝鮮空爆へのシナリオが見え隠れする。



・アメリカ当局、韓国駐留米軍の撤退・削減などを発表(北は、これを非難)
・アメリカ、グアムの基地へステルスなど配備ほぼ完了との情報
・ラムズフェルド 小型核バンカーバスター発言

・米エネルギー省は、ネバダ州の地下核実験場で25日に核爆発を伴わない臨界前核実験を実施。

もう問題は、日朝なんてレベルをはるかに超えている。
人道支援 ⇒ 新たな核疑惑(現在) ⇒ IAEAの核査察 ⇒ 北が拒否(平壌宣言違反)
⇒ 核疑惑を根拠にWFPが支援物資の凍結(日本の古米&薬はWFP経由で送られる)
⇒ 北が核査察を受け入れないことに日本の世論が沸騰⇒ 安部氏あたりが制裁可能と神発言
⇒ 6ヶ国協議に持ち込む⇒ 主要各国の支持を得た上で『経済制裁』

4/1に平沢・山崎訪中「半年後には分かる」
4月+半年 = 10月

7月1日 イラク新政権へ主権移譲完了
アメリカ大統領選挙日程 11月7日 :投票日

イラク戦争からリビアの屈服。そして北朝鮮の核問題まで発展。

北朝鮮からリビアに核物質が渡っていたなら、テロリストにすでに渡っているだろう。だから94年に北朝鮮を崩壊させるべきだった。クリントンは、また歴史に名を残すのだろうか?テロ国家を放置した史上最大の無能大統領として。

北朝鮮攻撃は、イラク戦争の正当性と民主党の瑕疵を同時に訴え得る。

イラク空爆をいち早く支持した日本政府の判断は正しかった。今世紀の重要な国際的懸案「テロリストとの戦い」において、日本は米英とともに指導的役割を果たしたとも言える。それも武力行使すらせずに。

「Xデー」は10月?



リビア・カダフィの全面協力によりもたらされた情報は、世界に衝撃を与えた。

ttp://news.ft.com/servlet/ContentServer?pagename=FT.com/WireFeed/WireFeed&c=WireFeed&cid=1084193682183
The paper said the classified evidence had touched off a race among the world's
intelligence services to explore whether North Korea has made similar clandestine
sales to other nations or perhaps even to terror groups seeking atomic weapons.

北朝鮮による6弗化ウランのリビアへの販売がわかったおかげで、世界中の諜報機関が北朝鮮が他の国にもウランを販売していないか、またテロリスト・グループにはどうかなどを捜査する競争が一斉に起こっている。(フィナンシャルタイムズ、NYT記事の引用記事)

この記事は、NYTだけでなくロイター、AP、AFPなどが報じているので、世界中の主要な新聞にはだいたい掲載されている。もう北朝鮮は核を完全廃棄するか、戦争するかのどちからしかない。

1) リビアが北朝鮮からウラン買ってたことが明るみに出た
2) 日朝会談で、北朝鮮から「核は自衛のため」という言質を採ってあったので、「自衛はウソ」というカードが取れた
3) リビアはヨーロッパ向けテロの輸出国なので、これまで極東核問題に無関心だったヨーロッパが、北朝鮮に対する態度を変える可能性が出た
4) WFP(人道支援をやっているところ)に、核問題を理由にヨーロッパが圧力を掛けると、25万tの米も11億の医療支援も、日本がWFPに送っても、WFPが北朝鮮に対してストップする可能性が出てきた。
5) 日本の人道支援は、あくまでWFPの要請に応えるものなので、米をWFPに送った後、WFPが北朝鮮に送らなくても、日本は約束を履行したことになる。

このニュースの最も重要な点は、北が他の国にも核を売った可能性があるどころか、テロリストにも売った可能性があるということで。
そして、ここが肝心なんだが、テロリストに対しては「核抑止力」が機能しない。テロリストが核を持ったが最後、世界のどの都市でいつ核爆発が起きるかわからんわけだ。これはアメリカのみならず他の国も絶対容認できない。徹底した核査察の要求は必ず行われる。そして、拒否すれば金政権は経済制裁ないし爆撃によって確実に潰される。

核の運搬手段(ミサイル)を持つ国はそう多くない。テロリストが持てばヨーロッパでの使用のほうが簡単。今回の件は中国を拒否出来ない状況に追い込める。
核拡散で一番打撃を受けるのが陸続きのためいくらでも簡単に輸送・移動出来る大陸国、具体的にはEU・ロシアと、ちょっと影響は小さいけど中国。
で、実際にEUが必死になってテロネットワークに流れてないか情報機関を総動員して確認中なんだけど、IAEAの段階で「三大陸八ヶ国に拡散」、かなり危険な状況。
おそらく今週の核拡散防止国際会議で発狂状態のEUからIAEAに「北朝鮮核の絶対阻止」が要求されると思われ、IAEAもかなり瀬戸際なんでそのまま北朝鮮に査察要求となる可能性大。
ここで、現在進行形で中共がEUを口説いている流れがある、ハイテク禁輸を解除させたい状況でEUを激怒させるのは下策中の下策なのに既にそれに嵌ってる、今後北朝鮮を容認すればそれは確実にEUと絶縁を意味する。
外交と、軍事的に中国自身も核テロの悪夢と無縁でない現実があるときに北を擁護なんてあり得んよ。

結局奴等の生き死には日本が握ってるんだよ。これって、北朝鮮がIAEAに加盟していた時の事件だよね。とすれば、かなり重大な掟破りになる。それに世界中がこれだけテロに過敏になっている時期にこの事実の裏付けが取れたなら、もう北朝鮮包囲網をひくしかない。
そして、北寄りの韓国からも資本が大量に引き上げられるだろう。アメリカという世界一執念深いアングロサクソンの国が、裏切りを見過ごすとは思えない。

北朝鮮から濃縮ウランが輸出されたとを、もっとも心配しているのはアメリカとヨーロッパ・ロシア・中国であると思う。

これらの国々ではすでに、テロが発生している。爆薬から核に変わったとしたらどうなるか。

日本と違いこれらの国は対策立案し実行するだろう。テロリストにとって、濃縮型の核は製造の技術レベルのハードルは低い。難しいのはウランを濃縮すること。輸出先を叩くのが一番効果が高い。

しかし既に8個製造済みて・・・
そのうち何個流出したんだろう・・・
マジでヤヴァイって。



・なぜ小泉総理は訪朝を急いだのか

敵を騙すにはまず味方から、を結果的に実践してみせた

今回の訪朝がどうしても解せなかった。

世論を読むのに長けてる小泉(飯島)が、世論が猛反発するのが必至な経済援助&制裁発動無しを、簡単に宣言してしまったのが。いくら年金問題を逸らすためとはいえ、もっと窮地に陥ることは、素人でもわかる援助の確約をどうして容認したのか。
アンチに言わせれば小泉がバカだから、飯島も年金問題でパニくって正常な判断ができなかった、とかいうだろうけど、その程度でパニくるようじゃ政治家なんてやってられないだろ。それに総理にもなる人物でこれまで多くの難問をクリアしてきたのに。

年金問題をもみ消すための訪朝って風潮が、結果的に隠れ蓑になった。金正日に自らの政治生命延命のためと思わせる。経済援助を餌に、家族の奪還と平壌宣言の確認と遵守を取り付けることに成功。

六ヶ国協議、G8サミットを睨んだら土曜の訪朝しか時間がなかった。
この情報が公開される前に会談を終わらせて、被害者を日本に連れ戻さなきゃならない。
実際土曜日の時点で、会談の内容以外に気になってたのはなぜ、その場で被害者を連れ戻したかだ。
単に返すという約束をして、後から迎えに行くのではなく首相と同時に即帰国させたか。
次の日には状況が一変していることを知っていたとすればすべて納得できる。

このニュースが出る前になんとしても訪朝して、空約束しないといけなかったからじゃないかと疑ってみる。
たしか、安保理に既に北非難決議案は提出されてる。
六者協議の経過を見る為に保留という記憶があるんで、一旦再開すればかなり早く決まると思われ。
日本向けはほぼ確実にデコイ。今から日本向けを作るかもしれんがね、もう手遅れだろう。
現時点で、確実ではないが可能性が高いこと。
1. 次回六カ国協議は核問題に絞り、断固とした査察要求が行われる。

または六カ国協議はもう開かれず、一気に国連安保理に提出される。
2. アメリカが開戦した場合、日本は参戦はしなくとも有事に対処できる体制を整えている。

現時点で、どうなるかまだ不明のこと。
1. 国連安保理で北朝鮮問題が提出された場合、中国・ロシアが拒否権を発動するか。

この両国以外は北朝鮮制裁でほぼ同意するだろう。
2. アメリカ開戦前に、北朝鮮への経済制裁のワンクッションが置かれるかどうか。

現時点で確実と思われること。
1. アメリカは、テロリストにまで核を渡していかねない北朝鮮を絶対に放置しない。これはアメリカだけでなく、世界の危機になりかねないから。そして、今度はEUも放置しない。査察要求は必ず行われる。
2. 北朝鮮は査察を受け入れない。受け入れたら最期だから。
3. アメリカとEUは北朝鮮の核を止めるため強硬手段に出る。
4. アメリカは既に、命令があり次第北朝鮮を空爆する準備を整えている。
以上のデータから、近々北朝鮮への攻撃が行われる可能性は高いと結論できる。

状況的には、これで北朝鮮の主張していた「自国内の」「平和的な」核利用が双方とも否定されたわけだから米国の完全非核化に軍配が上がる、北朝鮮的にはそれは絶対に承認出来ないだろうから六者協議は破談確定。
んで、同様にNPT復帰・IAEA核査察も拒否するだろうから国際規約に従うことを明記した平壌宣言もアウト、今回の合意も破談。
ついでに、安保理に提出されてる北朝鮮非難決議案も、中露の拒否権発動はなくなるわけだから多数決で通るだろうし、大統領選挙が近い米国としては武力行使するもよし、経済制裁で国連との関係修復を図るもよし。

山拓へのインタビューで「6月だと思っていた」という主旨のコメントを言っており、6月訪朝で進んでいたのが早まった。
外務省でも訪朝前の準備に実務協議があと2,3回予定していた。しかし、それを飛び越し今回の訪朝になった。
外務省のほうはTVのNEWSで聞いたが、真実なら小泉首相主導で今回の訪朝が決定したと思われる。



・なぜ一国の宰相としてのプライドを無視した行動に出たのか

会談が終わった後の金豚を見送るときの小泉の顔を見た?お前も最後だなと言う余韻があった。

そういや会談後、金正日が「また会いましょう」って言ったのに対して、小泉が無言だったと報道で聞いたんだが。これって…
馬鹿ではないようだから、その意味するところを理解したはず。
アメリカが、まともに交渉する気などなかったということを(北もそんな気はなかっただろうが)。

グアムでの準備、イラクでのくぎり、韓国への失望と見切り。そのための時間稼ぎにしか過ぎなかったということを。
そういえば2002年の会談直後に金豚と握手をしているときの小泉の顔と同じものを感じたよ。

なんか、あらゆるところに罠が仕込んであるのかもしれないと勘ぐれてしまう。
たとえば今回の訪朝、金正日はものすごく居丈高だったらしいじゃない。ほとんど小泉を下僕扱いしていたという。
これすら、わざと相手に居丈高な振る舞いをさせたとしたら?
近い将来、どうしても金正日の方から小泉にお願いしたいことがあっても、金正日は低い態度を取れないことになってしまった。
以前に威張って下僕扱いした同じ相手に頭を下げたら、金正日自身の権威の失墜を示すわけだろ。
権威で生きてる金正日の権威が失墜したら、政権終わり。

今回の件で年金問題を隠れ蓑にしつつ会談を実行し、キムを釣ったばかりでなく、実際に年金問題も同時にうやむやにできた。一石二鳥どころか今回の行動は幾つもの効果を生みそうだ。

金「複雑な事情の中、良くきてくれた」(選挙の票稼ぎご苦労さん)
小泉 (よし、つかみはOK、まんまとつれたぞ)

小泉「米と医療品を人道支援します」
金「(うほほ)人質帰りたければ帰ればいい」
        ↓
    家族連れ帰る
        ↓
北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見、IAEA
(The New York Times: 5/23)   報道
        ↓
小泉「あなた方は平壌宣言破りましたな。人道支援停止&経済制裁を行います」
金「人質すべて返しますので許してくれ」
小泉「帰したければ帰すがいい・・・でも制裁はする」

訪朝もリビアのこと知っていて、早くしたのなら、5人取り返しただけでも成果。「批判は甘んじて」といっているのを見て、小泉批判=>アンチ北朝鮮世論沸騰の転化まで考えているなら策士だな。国内の敵(菅・小沢)もつぶしておいて訪朝、5人の奪還、リビアが発覚で1日にして訪朝批判を沈静化させ、10人問題が残ってアンチ北世論は沸騰、安倍も岡田も制裁。

週末あれだけ批判していた平沼が今日になってぴたりと批判を止めた。それはこのニュースが原因か。それともリークした問題が原因か。それとも世論調査が原因か。西岡氏は昼間のザ・ワイドで「反省します」とまで言ってたらしい。

それはつまり、小泉側から大盤振る舞いをしたときに「小泉必死だな(w)と金正日に思い込ませるためだったと。
普通だったら逆に、「何で自分からこんな大盤振る舞いする?おかしいぞ、何か裏がある」と勘ぐられそうだからな。

年金問題は小泉が訪朝を早めた理由にみせかけるためのだろう。
金豚はすっかりこれにだまされ、小泉は点数かせぎに必死でおれに逢いにくる、うんと援助をむしりとってやれ、と油断させたのだろう。

核放棄「リビアとは違う」=金総書記が小泉首相に

 小泉純一郎首相は24日午後、首相官邸で開いた政府・与党連絡会議で、22日の平壌
での日朝首脳会談の内容を報告した。この中で首相は金正日総書記に核放棄を説得した
際、大量破壊兵器の開発計画を放棄したリビアの事例を引き合いに出したが、金総書記は
「北朝鮮はリビアと違う」と反論したことを明らかにした。 

#どうちがうんだよ>金豚

現在「リビア型で」と米も言ってますね



・なぜ日本側から食糧援助を切り出したのか

被害者の会の副会長が認めたね。勘違いだったと。政府から渡された報告書にはこうあったそうだ。
−平壌宣言及び日朝首脳会談の合意事項が遵守される限り、経済封鎖その他の制裁は行わない−
この日朝首脳会談の合意事項には拉致事件も含まれている。
小泉は最強のカードを切ったわけではなかったんだよ。

北朝鮮への食糧支援はトウモロコシ中心で なるだけ安く[05/25]

トウモロコシでは軍部を宥められない。転売もできない。むしろ庶民に放出される可能盛大。
小泉が口先でどう言おうと金正日を忌み嫌ってる証拠。

厚生・大蔵族の小泉だからできることだな。
農水族の影響が強い議員だと、喜んで国産米を買ってたろう。

食糧支援、文書化しない方針 日朝首脳会議
ttp://www.asahi.com/politics/update/0520/003.html
>日本側が「国際機関を通じた支援であり、政府間で文書化するのはそぐわない」などの理由で拒否していたことが分かった。

「どのような問題についても批判はあろうかと思いますが、私どもとしては国際機関の要請を踏まえて人道支援を行うと。しかも国際機関を通じて行うわけでありますので、見返りとは言えない。米国も人道支援を行っております。韓国も行っております。人道上の支援、日本としても国際社会の応分の責任を果たしていきたいと思っております。」と言っている。
「国際機関の要請を踏まえて」「国際機関を通じて行う」「国際社会の応分の責任」と言ってる。
つまり、言い換えれば「国際社会の動きに応じて」の援助であって、「国際社会が制裁賛成に回れば方向を変える」とも読めるんだよ。
さらに、「見返りとは言えない」、つまりこの援助は拉致被害者返還の代償ではなく、それとは別に行うものだと言ってる。そのまま読めば、ただでくれてやるという意味に取れるが、もしも国際世論が制裁賛成に回ったら「国際社会の要請に応じて、食糧援助は止めます。え?家族を返したのにそれはないって?おかしいですね、この援助はもともと拉致の代償じゃなく別物という話だったでしょ?」と言えるわけだ。
恐ろしく深読みが可能な内容だ。・・・馬の鼻先に人参より悪質だ。小泉、鬼だな。

世界食糧計画(WFP)が支援する北朝鮮住民100万人に対する食糧配給が今年5月から中断されたと伝えられた。
24日、WFPの週間報告書によれば、WFPは国際社会の食糧支援不足により、5月初めから北朝鮮の中核支援対象100万人以上に対する食糧配給を中断している。
 また、追加の寄付の約束がない場合、今年10月からは380万人余の中核支援対象全員に対する配給も中断される見通しだと、WFPは懸念した。

>ならないの。
>小泉が約束した身代金は平壌宣言とは切り離した約束なんです。

その通り、日本は人道支援を行う。止めるのはWFP。

WFPはIAEAと同じく国連の機関。日本が支援してもWFPが止めたら届かない
WFPがどういう決定をするかは・・・・


・なぜジェンキンス氏の説得に自ら当たったのか

アメリカがすんなり恩赦とかすると、何か有ると思われるから米は、あえて強行発言を行ない、日本も第三国(中国とか)で、面会(出国)する形をとった。同時に、10人やその他の関しても、全てを急がせると怪しまれるので、1ヶ月ぐらい後に、生存者が帰国するように持ていっている。タイムリミットは、大統領選の11月の3〜4ヶ月前の7〜8月。最初の訪朝予定はもっと遅かったんだろ?確か6月とか何とか・・・平沢は8人帰国の情報は得ていた。しかし、5人帰国とは想定外。安倍氏も平沢と同程度の情報を得ていたんだろう。口では首相をかばっていたが、批判したいのは見え見え。平沼ら拉致議連は小泉首相を批判。会談後、小泉がリストをチェックしたのは連れて帰れる人数=空爆を回避させられる人数をチェックしていたと・・・


家族会の批判を甘んじて受けると言った、小泉の心中も如何ばかりのものだったろうか…
もし、小泉がこれを本当に知って居たんだとしたら、金が去った直後の厳しい顔みると、なんか、苦しいな・・・。
この言葉の意味が、やっとわかってきた・・・・
「甘んじて」
ここ重要だな
人間小泉として、家族救出。政治家小泉として、残った家族や被害者は生死すら黙殺。
400人にものぼるという拉致被害疑惑者すら、戦争ということで切って捨てた可能性もあり得る
という点では、政治家として国益尊重したという点で、既に十分怖いと思う。とても運任せでやったこととは思えないし。

核拡散は御旗としては最上級ですから。

ジェンキンスさんたちを説得しているときの総理の心境は、
ユリウスよロシアを出ろと言ったユスーポフ候の如きものであったのだな…
…間に合うといいけど。


・なぜ小泉総理は平壌宣言に固執したのか

首相官邸のページに小泉の会見があるから見てご覧。
ttp://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2004/05/22press.html
なぜか、くどいくらいに「平壌宣言の重要性」を強調している。
匂わないか?



Q.制裁は出来るの?国際条約上の「確認」は法的拘束力がないって本当?
A.英文ではconfirm 法学的には条約・協定などの「承認」を意味するので、拘束力がありますがなにか?

Q.リビアにウランを提供したのが2001年なら平壌宣言の前になるけど・・?
A.平壌宣言に国際規約(NPT復帰・IAEA核査察)に従うことを明記してあるので、北が『核査察を拒否すれば』平壌宣言を破ることになります。

Q.でも米は送るんだよね?
A.日本は約束通りWFPを通して支援します。人道支援ですからね。ただし国際機関であるWFPが核疑惑を根拠に支援を凍結するかもしれません。その場合でも日本は約束を果たしたことになります。

Q.リビアが核を持つとどうなるの?
A.リビアはヨーロッパ向けテロの輸出国だったので、これまで極東核問題に無関心だったヨーロッパが北朝鮮およびロシアに圧力をかけてくると思われます。また核拡散を絶対に許さないアメリカが強行な手段をとるかもしれません。

Q.小泉首相はIAEAの調査を知ってたの?
A.スレ的には「知っていた派」が多いようです

Q.これから先、どうなっちゃうの?
A.IAEAが核査察を要求し、北朝鮮がそれを拒否することは間違いないでしょう。その結果は6カ国協議に持ち込まれると予想されます。ここで協議が破談になれば舞台は安保理に移り、北朝鮮非難決議案が焦点になります。拒否権を持つロシアと中国がどう動くかは分かりません。





・なぜ在日朝鮮人への差別をしないようにする、とのコメントを出したのか

北が日本の朝鮮総連への課税や万景峰号の検査に対し緩和を迫る論拠を獲得
ttp://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040522i113.htm
今後の日朝正常化交渉、総連幹部参加へ 北朝鮮が決定
ttp://www.asahi.com/politics/update/0523/003.html

これって来るべき第二次朝鮮戦争に今までどっちつかずだった朝鮮総連を、北の出先機関であることを彼ら自身に認めさせる事で戦後の処分決定の事実のひとつにするための布石か?
総連は今まで自分たちが置かれた状況によって立場を使い分けてきたわけだ。
拉致が明らかになると「私たちは北朝鮮とは関係ない」。

で、課税されそうになると「施設は北朝鮮との実質的な外交使節云々・・・」。
で、日本国内で総連主導で日朝の友好を促進するっていう条文を盛り込ませたって事は
「総連は、今後北朝鮮からの意向を受けて在日の環境を整えていきます」

って、政府は総連にこう言わせたかったんじゃないかな?
ぶっちゃけていうと、「私たち(総連)は、北朝鮮と密接につながっている機関ですよ」と

マンギョンボンが遠心分離機部品を密輸したこと、その密輸会社が総連幹部のだと
いうことは立件済み。
そして今回の「朝鮮総連は今後の国交交渉に正式窓口として立ち会う」。

中国は半島が完全自由化される事を危惧しているよ。北と台湾は、中国にとって、アメリカとの緩衝材になってるからな。
アメリカも、中国と直接対峙する環境は好まないだろ。だから、半島を統合することを喜ぶ国はほとんどないのが現状。
南鮮自身が、今統合なんて言われたら、経済的な打撃が大きすぎて持たない。当然、応援は日本に依頼される。
そんなことで、日本経済が重荷を背負う事をアメリカが喜ぶとは思えない。

小泉が金の軍門に下ったと思いこんで色んな所が「評価」してしまったからね。

しかし実際は北への攻撃の準備が着々と進んでいる事を知ることになる。

で、「騙された」と思い込んで、八つ当たり気味の小泉批判。

私怨と言うか逆恨みというか・・・まあ前の状態に戻っただけと言う噂もある。

逆にこれを知ってたから、ここまで焦ってたんだろうね。核問題が表面化してしまったら、拉致家族どころではなくなる。
先に取り返せる人だけ取り返しておいたんだろう。



・なぜ政府は日テレの米支援25万トン報道に過剰反応したのか

訪朝のときに年金未加入の誤報を流したのは飯島秘書官。日テレのスクープに切れて排除しようとしたのも飯島秘書官。
普通は官房長官がすることを何故今まで裏方に徹してきた人間がしゃしゃり出てきたのか?
少なくともこの2つの件で北朝鮮は小泉に圧倒的に優位な条件で会談に臨んだ。

重村先生がテレビで言ってたような。自民党の中に小泉訪朝を阻止したい奴がいて、北朝鮮に働きかけたらしい。
その事を北朝鮮が小泉首相側リークしてきたって。確かそんな内容の事を言っていたと思う。
やっぱ自民党内に小泉政権転覆を狙っている奴がいるんだろう。当然わざともらしたのだろう。
今後日テレの情報に注目だ。
政府(小泉)の意図が表れているかもしれない。やっぱ6月まで待てない緊迫した何かがあったんだろうよ。
小泉レベルでしか手に入らない情報が。6月まで待つと状況が悪化して取り戻せなくなる可能性。

そういや日本の援助スクープしたの日テレだよな。自民党の御用報道機関が何故って思ったんだよな。
情報源が政府なら?茶番なら?
日テレへのリークは自作自演だとしたら「米25万トンが確実にもらえる」って思わせるためか?



・北朝鮮、イラク。アルカイダと朝鮮総連

国際"911以降、危険度最高" 「今夏、大規模テロ」の信頼性高い情報

 政府高官は「テロリストが米国を攻撃して深刻な打撃を与えようとしていると
 警鐘を鳴らす確かな情報がある」と指摘。テロリストが通常爆弾とは比較に
 ならない大きな被害を与える生物・化学兵器や放射性物質を使った兵器を
 使用する可能性を懸念している。

「放射性物質を使った兵器」

ほいでもって、マジで実行されたら・・・
出所はどこよ?ってことになったら・・・

北爆決定だな。米世論はおそらく正常な判断力を絶対に喪失する。

入港禁止法成立へ チャーター船も対象 与党・民主修正合意
ttp://www.sankei.co.jp/news/morning/26iti003.htm

日本側の法整備も進展中

ttp://news.xinhuanet.com/english/2004-05/26/content_1490337.htm
US sends radiation detectors to Athens Olympics

新華社;アメリカはギリシャ・アテネに放射線検知器をプレゼント

アテネを訪問中のアメリカ、エネルギー省のSpencer Abraham長官は、オリンピックに
向けての警戒強化のため、放射線検知器をプレゼントした。これは携帯型の高性能の
放射線検知器で核物質の捜索などに有効とされている。これに関連してギリシャの原
子力エネルギー委員会のLeonidas Kamarinopoulos委員長はギリシャの7つの空港、12
の国際港、13の国境検問所に放射線検知システムを設置すると語った。
タイムリーなプレゼントですこと。

日本で拘束されたアルカイダ4人に関しても
もしかしたらこの壮大な歴史の流れを構成する一部分かも知れないね。
日本国内にいる北朝鮮勢力から武器の横流しを受けていた可能性も
否定できないし・・・

武器だけだといいんだけど、よりによって新潟なんだよね。
マンギョンボン号の核資材密輸事件といい、北朝鮮だけじゃなく朝鮮総連の核テロリストと
しての対処も国際問題に既になってるのか?、とちと不安。

最悪の事態を考慮すると、既に核が日本に持ち込まれ
総連に渡っているという可能性も……。

そういや、新潟だったな
なんで新潟なのか、疑問に思っていたが
なんでアルカイダ関係者が新潟を拠点に・・・・

いや、総連が持ってるってのは「総連が日本国内で核を移動させる」ってことなんで、
高確率に公安含む警察組織が捕捉出来る、そっちの心配はあまり必要じゃない。
ただ、船舶というのはある種の治外法権を持っているのは確かで、つい最近までは
マンギョンボンがそれを悪用していた事実もある、特にマンギョンボンによる核資材密輸で
総連幹部が検挙されてる現実がある。
マンギョンボンで核を日本近海まで輸送、港湾内で闇に乗じて/領海外で監視を逃れて
積み替えて、てのは十分危惧される状況では有る。
あと、足利銀行が北朝鮮への送金窓口として新潟でも有名だったこともやはり洒落に
ならない状況と思われ、マネーロンダリング、それも核マネーに関わってたりすると・・・。(鬱

そうやって一つ一つ検討して行くと、アルカイダが新潟で逮捕されたこと、昨年の核資材
密輸検挙や足利銀行破綻&公的資金導入による公営化、マンギョンボンに北朝鮮が
こだわったことや朝鮮総連捜査に関する疑問と今回の総連引っ張り、様々なことに
全く別の側面が見えて来るわけで。

だからマンギョンボン。
指導船長だっけ?、行ってみれば工作員の提督みたいな立場だから朝鮮総連議長より格上。
また、船舶としての治外法権もある、北朝鮮との物資のやり取りもある。
次点の要素としての足利銀行、日本で殆ど唯一の北朝鮮送金機関。
ここから北朝鮮にパチンコマネーを送ってたのは有名だけど、このやり取りの過程で
マネーロンダリングの要素も噛む可能性大。

マンギョンボン→新潟のアルカイダ→世界各国のアルカイダ→世界同時核テロ
(もちろん日本も含む)簡単に言うとこういうことでつか?

総連とアルカイダの糸が繋がれば、この前のイラク3馬鹿もぁゃιぃ線で繋がりそうだw
捕まった本人達は踊らされただけかもしれんが、それに伴う市民団体の動きとか諸々。
総連・アルカイダ・プロ市民(赤軍派)のトライアングル。…まぁ、話が飛躍しすぎかw

もしこれが事実だったとすると、日本国内での法整備を進めてこなかった事
に対して各国からの非難が集中するって事は考えられないかな?
核資材輸出に関して総連幹部の逮捕はしたが、それ以前に
なぜ防止できなかったかって事に。

それを逆に利用して、国内にいる社民や共産、プロ市民団体など北朝鮮シンパの連中を
根絶やしにするというシナリオに転化させることもできるけども・・

北朝鮮とアルカイダを結ぶ仲介役に日本の極左組織が大きな役割を果たしてたとしたら
それを見過ごしていた責任はやっぱり日本という事になりそうな悪寒…

日本がこのまま自浄作用を発揮しなければ、海外からの責任追及に答える為に
色々な面でかなりの損失を覚悟しなければならない状況に追い込まれるかも。

核テロからアテネ五輪守れ…IAEAが共同行動計画 (読売新聞)

【ウィーン=島崎雅夫】国際原子力機関(IAEA)は25日、今年夏のアテネ五輪を
狙った核のテロの脅威に備えるため、核施設の安全度向上や核関連物質の違法移転の阻
止などを盛り込んだ「共同行動計画」を発表した。

同計画はギリシャ政府からの要請で、IAEAが1年前から五輪組織委員会などと協議
し、策定した。

それによると、IAEAは、ギリシャの首都アテネ近郊にある研究用原子炉の防御施設
の安全性を向上させるとともに、ギリシャ国内6都市の医療、工業用施設で使用されて
いる放射性物質の保管体制を強化した。

また、万一、テロリストが放射性物質を入手した場合は、同物質を通常の爆弾で爆発さ
せる「汚い爆弾」を製造する危険性があるため、IAEAは、国境地帯や主要幹線道路
に放射性物質の感知器を設置、数千人の警備担当者や税関職員には放射性物質の簡易感
知器も配布し、水際で核のテロを防ぐ体制を整備した。

米国やフランスなどIAEA加盟国が感知器や核技術を提供したことから、IAEAの
エルバラダイ事務局長は、その「広範な協力体制」を評価し、「過去に前例のない」共
同行動計画の意義を強調した。 26日14時20分
ttp://news.www.infoseek.co.jp/world/story.html?q=26yomiuri20040526i206&cat=35
どうみても本気にみえる・・

新潟って、テロの巣窟と違うかなあ。
横田めぐみさんをはじめ、曽我さん、蓮池さんなども拉致事件は
あそこで起きてるし、万ピョウ何とかという貨客船はあそこの港に
ヨコずけになるし。
スパイ機関朝鮮総連の活動も活発だし。
アルカイーダも北朝鮮のスパイも皆、水面下では握手してますからね。

そこの有力者が田中フアミリーですよね。
田中真紀子氏、小泉総理訪朝について、もったいぶったコメント
してたけど、どうも臭いなあ。


新潟の闇に包まれた不審なあれこれも、このアルカイーダの幹部逮捕で、
かなり炙り出されて、オモテにでてくるのではないかな。
   ・
   ・
   ・
   ・







金正日を見送る姿――戦後の日本外交史上最も醜く、不気味で恐ろしい場面。

恐らく此処に、日本戦後政治の極点がある。

小泉総理の胸中はいかなるものだったのだろうか。





一つの疑問。

小泉総理はその情報が翌日に出ることを知っていたのか。



 国交正常化を進めようとする日本。一部に小泉総理は国交正常化を急ぎすぎているとの批判があることに対しては――

パウエル国務長官
「小泉首相はとても慎重に対応していると思う。米国としては小泉首相の手法を支持している」
  (2004年8月16日 FNN News JAPAN)



その後のアメリカ政府の小泉総理への対応ぶりがその答えを物語っている。

答えは"yes"といって差し支えないだろう。





次に起こる疑問。

何故訪朝したのか。

何故米国は小泉総理の対北朝鮮外交を評価しているのか。

何故その情報を会談で使うことをしなかったのか。

敵地でむざむざ敗北の姿を晒すために?





単純な事実だが、重要なポイントは二つ。

これら一連の対北朝鮮外交は、2001年9月11日の後に行われていること。

もう一つ、これらの外交を仕掛けたのは小泉総理であること。















何のために?















拉致被害者救出のためだけではない。

北朝鮮の核・ミサイル問題の解決は、日米両国にとっては勿論のこと国際社会をテロから守るためにも行われなければならなかった。



聖域なき構造改革の表の顔が郵政民営化ならば、裏の顔は対北朝鮮外交といっていいだろう。

そしてその真の目的とは、先に述べたように新世紀維新に他ならない。



聖域なき構造改革とはつまり、「維新への」構造改革である。



維新の風をわずか一代で、しかも4−6年の間で興すためには?





▼塩野七生 著 『マキアヴェッリ語録』 

 人は、ほとんど常に、誰かが前に踏みしめていった道を歩むものである。先人が行なったことをまねしながら、自らの道を進もうとするものだ。
  それでいながら、先人の道を完璧にたどることも、先人の力量に達することも、大変にむずかしい。それで賢明な人は、踏みしめた道にしても誰のものでもよいとはせずに、衆に優れた人物の踏みしめた道をたどろうと努め、そのような人の行動を範とすべきなのである。たとえ力量ではおよばなくても、余韻にぐらいはあずかれるからだ。
  言ってみれば、これは、慎重な射手のやり方である。的があまりにも遠すぎ、自分の力ではそれに達するのが不可能と思った場合、射手は的を、ずっと高いところに定める。狙いを高く定めることによって、せめては的により迫ろうとするからである。

――『君主論』

 宗教でも国家でも、それを長く維持していきたいと思えば、一度といわずしばしば本来の姿に回帰することが必要である。
  それで、改革なるものが求められてくるのだが、自然に制度の改革ができる場合は、最も理想的である。だが、なにかのきっかけでその必要に目覚め、改革に手をつけた場合も長命だ。
  つまり、はっきりしていることは、なんの手も打たずに放置したままでいるような国は、短命に終らざるをえないということである。
  改革の必要性は、初心にもどることにあるのだが、なぜそれが有益かというと、それがどんな形態をとるにしても共同体であるかぎり、その創設期には必らず、なにか優れたところが存在したはずだからである。そのような長所があったからこそ、今日の隆盛を達成できたのだから。
  しかし、歳月というものは、当初にはあった長所も、摩滅させてしまうものである。そして、摩滅していくのにまかせるままだと、最後には死に至る。
  本来の姿にもどることは、共和国の場合、自発的判断の結果か、それとも外からの圧力によるかのどちらかであることが多い。
  だが、共同体の活性化というこの問題を論ずるにあたって、やはり必要に目覚めた人々の苦労によって為されるほうが、外からの圧力によって無理強いの形で為されるよりも、良策と信ずる。

――『政略諭』

 なにかを為しとげたいと望む者は、それが大事業であればあるほど、自分の生きている時代と、自分がその中で働かねばならない情況を熟知し、それに合わせるようにしなければいけない。
  時代と情況に合致することを怠ったり、また、生来の性格からしてどうしてもそういうことが不得手な人間は、生涯を不幸のうちにおくらなくてはならないし、為そうと望んだことを達成できないで終るものである。
  これとは反対に、情況を知りつくし、時代の流れに乗ることのできた人は、望むことも達成できるのだ。

――『政略論』

 しかし、時代の流れを察知し、それに合うよう脱皮できる能力をもつ人間は、きわめてまれな存在であるのも事実だ。

――『政略論』

 優れた指揮官ならば、次のことを実行しなければならない。
  第一は、敵方が想像すらもできないような新手の策を考えだすこと。
  第二は、敵将が考えるであろう策に対して、それを見破り、それが無駄に終るよう備えを完了しておくこと、である。

――『政略論』

 行動ともなると、遠くに離れていては予知など不可能なものだが、計略の予知ならば、離れているほうがかえって有利なものである。

――『政略諭』

 戦闘に際して敵を欺くことは、非難どころか、賞讃されてしかるべきことである。
 人間生活一般において人を欺す行為は、きわめて憎むべきことだが、戦時は別だ。戦闘状態の中では、策略をめぐらせて敵を欺き、それによって勝利を得るのは、正面きってぶつかっていって勝利を収めるのと同じくらいに、賞讃されてよいことと思う。
 このことに関しては、歴史上の偉人の伝記を書く作家たちも同意見のようである。
 彼らもまた、策略によって勝ったハンニバルやその他の人たちを書くとき、非難どころか誉め讃えたのだから。
 ただし、わたしは、次のことは言っておきたい。
 すなわち、欺くことはよいことだと言っても、それは、信頼を裏切ることでも結ばれた条約を破ることでもないという一事である。
 なぜなら、この種の破廉恥な行為は、たとえそれによって国土は征服できても、名誉までは征服できないからである。
 だから、わたしの言っているのは、あなたとはもともと信頼関係にない相手に対しての、欺きについてである。つまり、戦時下のそれだ。
 たとえば、ペルージア湖のほとりで逃げるふりをして、ローマ軍の包囲に成功したハンニバルのやり方である。彼はまた、ファビウス・マクシムスの包囲網から脱出するのに、牛の角にたいまつを結わえつけて、ローマ軍を欺いたのであった。

――『政略論』

 祖国の存亡がかかっているような場合は、いかなる手段もその目的にとって有効ならば正当化される。
  この一事は、為政者にかぎらず、国民の一人一人にいたるまで、心しておかねばならないことである。
  事が祖国の存亡を賭けている場合、その手段が、正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞讃されるものか恥ずべきものかなどについて、いっさい考慮する必要はない。
  なににもまして優先さるべき目的は、祖国の安全と自由の維持だからである。

――『政略論』



▼小林秀雄  戦争について 昭和十二年――1937年

 歴史は将来を大まかに予知する事を教える。だがそれと同時に、明確な予見というものがいかに危険なものであるかも教える。歴史から最大の教訓を知らぬ者だ。歴史の最大の教訓は、将来に関する予見を盲信せず、現在だけに精力的な愛着を持った人だけがまさしく歴史を創って来たという事を学ぶ処にあるのだ。過去の時代の歴史的限界性というものを認めるのはよい。併しその歴史的限界性にも拘らず、その時代の人々が、いかにその時代のたった今を生き抜いたかに対する尊敬の念を忘れては駄目である。

 この尊敬の念のない処には歴史の形骸があるばかりだ。

 現在は将来の予見の為に犠牲に出来る様なものではない。予見とは実際には寧ろ遅疑なく現在に処そうと覚悟した人々だけに訪れる光の如きものである。歴史は断じて二度繰り返されるものではない。スペインの政府軍が勝っても、フランコ軍が勝っても、ロシヤのモデルもドイツのモデルも繰返される筈はない。支那が将来スペインのモデルを繰返す筈もないのだ。


これは正確にいえば、回帰ではない。

何故なら、かつてこの維新は完遂されなかった。







維新へとこの国を向かわせる3つの策。



衝撃と、屈従と、そして――



新世紀維新への戦略を決定づけるもの。









維新の構想を描いた小栗忠順。

彼が遺した、最後の策を組み入れる。





▼司馬遼太郎 著 『明治という国家』

 江戸開城の前夜、小栗は主戦派でした。

 主戦派がいいとかわるいとかではありません。小栗の心映えというものは、じつに三河武士らしいということをいっています。かれは、薩長から挑戦されてなぜ戦わずして降伏するのか、戦って、心の花を一花咲かせるべきではないか。福沢のいう「瘠我慢」であります。

 小栗の作戦は、こうです。

 薩長軍――新政府軍――は、長蛇の行軍隊形をつくって東海道を東へ東へと進み、箱根をこえて、関東平野に入ります。その行車中の部隊を、静岡県下の東海道でもって、寸断してしまう。その方法は、日本最大の艦隊をもつ徳川方が、駿河湾に海軍兵力をあつめ、艦隊で東海道を射撃しつづけるのです。ある程度の新政府軍はぶじに通過させる。半ばあたりから、これをやるのです。ぶじ通過した新政府車を、関東において袋のねずみにしてやっつけてしまう。

  あとで、新政府軍の総司令官である大村益次郎が――この人は新政府軍唯一の名将だった人ですが――これをきいて"もし徳川方がこれを実施すれば大変なことになっていたろう"といったといいます。おそらく歴史はちがったものになっていたでしょう。









何故ならば、最高の聖域が守護しているものは軍事力だからだ。

マッカーサー司令官の下で国会を監視する任務についていたウィリアム・ジャスティン中佐
「日本は憲法を変えることが出来ないだろう。我々は占領が終わったあと日本人が直ちに憲法を変え、ふたたび軍事国家になることを恐れていた。だから日本人が憲法を変えられないように、さまざまな条件をつけてがんじがらめにした。」
(日高義樹 著『日本人が知りたくないアメリカの本音』)



自衛隊は未だ軍ではない。

小泉総理の政治生命を賭けて送り出された、イラクへの自衛隊派遣。





西太平洋に展開する米軍。





幕末維新の歴史は、江戸城無血開城という形で一つの終幕を迎えた。

歴史は旋転する。





米朝が戦えば、必ず米国側が勝利する。

小泉総理は強硬な外交を主張しない。

何故ならばこの日米の戦略の中心にいる。



小栗と小泉総理が同じ立場であるのは、極東において軍事力を行使するという根源的な決定権を持っていないことだ。

そして違う立場である点は、日本国の最高責任者であるという点。

小泉総理には自衛権の行使に踏み切る責任と権限がある。





小泉総理はここまで忍耐を重ねた。

すべては最後の一手を打つために残されているから。





150年の時が構築した日米関係、歴史、軍事力、経済力、政治、戦略、情報――

すべてを使い切る。





この戦略で何を討つのか?



人、勢力、制度、思想、精神?





―― 戦後という時代

60年という時間 ――





これから予想される動きは、

・北朝鮮の核開発問題の国連安保理への付託

・米国海軍第七艦隊を中心とした海上封鎖

・国内のテロ組織への破防法適用

・最悪の場合、北爆







衝撃波は繰り返し聖域を襲う。

かつて封建制度に終幕をもたらしたように、再び米国海軍によって。

それをこの国に止める術はない。

半世紀前そうだったように。





沈黙が叫びをあげ、古い聖域は破壊される。

破壊され、生成され、構築され、――

――人々の中に繰り返し反響してゆく沈黙

そして、新たな聖域が形成される。



人の想像力以上のものはない。

国民の意志が、国を在るべき処へ運ぶ。



かつて、マッカーサーがそうしたように。



この国には幸運にも、維新という変革への概念が、人々の中に根源的に存在している。



これから、今後数十年の維新の始まりになる。

それは長く、凄絶な道程となるだろう。

約束の地は、楽園ではない。





2001年4月26日。

85%の支持率という国民の意志により、新世紀維新への扉の前に、この国は立った。







小泉政権の終焉は、新世紀維新の幕開けを告げることになる。







私は、この門の前でもう一度立ち止まる。

果たしてこれが聖域の果実だったのだろうか、と。










孤高の宰相



 英雄のまわりではすべてが悲劇になり、半神のまわりではすべてが茶番劇になり、そして神のまわりではすべてが――さて、どうなるのか。もしかすると〈世界〉にでも――

――フリードリッヒ・ニーチェ《善悪の彼岸》




ダグラス・マッカーサー

沈黙の支配者

姿の見えぬ半神の周りで騒ぐ人々

すべては茶番劇







小栗忠順

沈黙の犠牲者

英雄の悲劇

清冽な精神と偉大な事業







小泉純一郎

沈黙の破壊者

神でも半神でも英雄でもなく

この国のこの時代を担った宰相





拉致被害者の人々に同情を示せないほど私は不幸ではないし、

小泉総理がサンパウロで流した涙の理由を忖度できないほど、私は疎いわけでもない。





 知識階級という様な言葉を知らなかった明治の知識人は、自分の責任に於いて知識を愛し求める術をよく知っていた。そして知識人の選良が期せずして到達した大問題は、わが国の伝統的文化と新しい西洋の文化とをどういう具合に統一したらいいかという事であった。漱石も鴎外も一生涯この問題に悩んだ。福沢諭吉も言った様に、日本の知識人の生は二重になっている。この大問題を離れてこれからの日本の文化の個性だからだ。敗戦による反動から、何かと言うと国際的という言葉を喜んで使っているが、個性のない文化なぞ全くなさぬ、cultureとtechniqueとは異うという事にやがて皆が気付く時が来るであろう。日本の文化の個性というものを観察すれば、恐らくこれほど複雑な異質な諸文化を背負うた知識人は世界中にないと思うだろう。封建主義の清算なぞと高を括っていても何んにもならぬと悟るだろう。
  (小林秀雄  知識階級について 昭和二十四年――1949年)









小栗忠順の遺した精髄は、最後に残した戦術よりも、もっと上位のものだ。



未来への透徹したヴィジョン、それを具現化した物理的遺産、誠忠な献身、戦略的思考。





そして、意志。





先人の遺志を受け継いだ人から、私はその遺産を受け取る。





中国や米国は敵であって敵ではない。

国益を最大化する上での選択は何か。

その選択の上で、障害となるものを排除する。

障害でないかそうでないかを分けるものが認識と指導者のヴィジョンであり、障害を排除するものが戦略と呼ばれる。





・小泉政権において、

・北朝鮮が関連する、

・日本の有事。





この条件下でのみ、私が書いたことが意味を為す余地があるかもしれない。

それ以外には意味は無い。





私は硬質なものに、無機的なものになろうと考えた。

自らを鍛え、情報の戦いに耐えうる断片に、可能ならばなりたいと。

情報の戦いは、国家が存続する限り永遠に続く。








 勝が営んだ江戸幕府の葬式というものは、明快な主題がありました。むろん、かれは口外していませんが、"国民の成立"もしくは"国民国家の樹立"ということが、秘めたる主題もしくは正義だったでしょう。
 (司馬遼太郎 著 『明治という国家』)







私は微弱ながら、戦後の日本という時間を見た。



私の唯一つの祈願のために。



私は、この日本という国家の、新しい世紀の一人の国民に、なりたいと思う。







聖域の果実は―――




















美徳は狂暴に抗して、武器を持って起たん

戦火は速やかに熄まん

祖国の民の心に

古えの勇武は今も滅びざれば


――ニッコロ・マキアヴェリ 『君主論』 末尾より
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sanctuary lost THE ORIGIN V.聖域

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/sanctuary.html
然れど善悪を知るの樹は汝その果を食ふべからず。汝之を食ふ日には必ず死ぬべければなり

――『創世記』2・17




いわゆる「小泉総理にはヴィジョンがない」という批判がある。



小泉総理の掲げる「聖域なき構造改革」とは何か。



第百五十一回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説 平成十三年五月七日

 (新世紀維新を目指して)

  この度、私は皆様方の御支持を得、内閣総理大臣に就任いたしました。想像を超える重圧と緊張の中にありますが、大任を与えて下さった国民並びに議員各位の御支持と御期待に応えるべく、国政の遂行に全力を傾ける決意であります。

  戦後、日本は、目覚ましい経済発展を遂げ、生活の水準も飛躍的に上昇しました。資源に恵まれないこの狭い国土で、一億二千七百万人もの国民が、これほど短期間に、ここまで高い生活水準を実現したことは、我々の誇りです。

  しかし、九十年代以降、日本経済は長期にわたって低迷し、政治に対する信頼は失われ、社会には閉塞感が充満しています。これまで、うまく機能してきた仕組みが、二十一世紀の社会に必ずしもふさわしくないことが明らかになっています。

  このような状況において、私に課せられた最重要課題は、経済を立て直し、自信と誇りに満ちた日本社会を築くことです。同時に、地球社会の一員として、日本が建設的な責任を果たしていくことです。私は、「構造改革なくして日本の再生と発展はない」という信念の下で、経済、財政、行政、社会、政治の分野における構造改革を進めることにより、「新世紀維新」とも言うべき改革を断行したいと思います。痛みを恐れず、既得権益の壁にひるまず、過去の経験にとらわれず、「恐れず、ひるまず、とらわれず」の姿勢を貫き、二十一世紀にふさわしい経済・社会システムを確立していきたいと考えております。

  「新世紀維新」実現のため、私は、自由民主党、公明党、保守党の確固たる信頼関係を大切にし、協力して「聖域なき構造改革」に取り組む「改革断行内閣」を組織しました。抜本的な改革を進めるに当たっては、様々な形で国民との対話を強化することを約束します。対話を通じて、政策検討の過程そのものを国民に明らかにし、広く理解と問題意識の共有を求めていく「信頼の政治」を実現してまいります。

  相次ぐ不祥事は、国民の信頼を大きく損ねてしまいました。政治や行政に携わる一人ひとりが国民の批判を厳粛に受け止め、職責を真摯に果たす中で、信頼関係の再構築を図っていかなければなりません。

  さらに、国民の政治参加の途を広げることが極めて重要であります。首相公選制について、早急に懇談会を立ち上げ、国民に具体案を提示します。

 (むすび)

  新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。

  私は、この内閣において、「聖域なき構造改革」に取り組みます。私は、自らを律し、一身を投げ出し、日本国総理大臣の職責を果たすべく、全力を尽くす覚悟であります。議員諸君も、「変革の時代の風」を真摯に受け止め、信頼ある政治活動に、共に邁進しようではありませんか。国民並びに議員各位の御理解と御協力を心からお願い申し上げます。

(ttp://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2001/0507syosin.html)



私ならば、最も望んでいることを冒頭に述べる。

「聖域なき構造改革」とは方法の名であって目的ではない。

小泉政権が目指す目的とは、究極的には「新世紀維新」である。

これが小泉総理のヴィジョンだ。

ここで問わねばならないのは「聖域」とは何か、ということであるが、それが容易に語りえるものであるならば聖域ではない。





「聖域」とは何であろうか。






 マッカーサー元帥は、自ら〈聖域〉と称して、巨大な執務室に立て篭もり、部下を寄せ付けない〈孤高の人〉であったが、このホイットニー准将だけはその〈聖域〉に立ち入ることができたたった一人の将軍だった。
 (三根生久大 著 『日本の敗北』アメリカ対日戦略 100年の深謀』)



 青い眼の大君 ダグラス・マッカーサー

日本の軍隊が完全に壊滅すれば、ヒロヒトの神聖も国民の目の前で壊滅してしまう。そうすれば精神的虚脱が生じ、新しい考えをうけ入れる機会ができよう。日本国民は彼らに敗北をもたらした多くの手段に対して、恐怖と尊敬をあわせ持つことは避けられないだろう。彼らは力が正義をつくることを信じて、われわれアメリカ人こそ正義の士であると結論するだろう

――ダグラス・マッカーサー

▼袖井林二郎 『マッカーサーの二千日』

「大統領新聞係秘書チャールズ・G・ロスは、先週、日本の降伏提案に対する連合国の回答の中に挙げられた最高司令官にはアメリカ人が任命されるということを確認した。三千マイルの大洋を越えてアメリカ軍を勝利に導いた人々が偉大なキラ星の如く並ぶ中で、そのうち一人が、かつては神聖だった日本の天皇を通じて、平和を達成するという至高の権限を手にするのだ。推測される何人かの候補者の中で一人抜きん出ている者、それはマッカーサー陸軍元帥である。アメリカの戦時指導者すべての中でこの将軍は、ジャップと最も長期間に渡って戦い、最もいまいましい敗北を初期に喫し、しかももっとも輝かしい再起を為し遂げたのだ。他の司令官の誰にも増して、マッカーサーの生々とした個性はこのモダン・ショーグンの役割に適することであろう」

天皇を通じて日本国民を支配する、それこそまさに将軍家の機能に他ならなかった。明治維新によって最後の将軍が廃絶されて以来、七十余年ぶりで、日本は将軍を戴くことを強制される。しかも史上初めて戦いに敗れての結果であってみれば、乗り込んでくるショーグンが紅毛碧眼の偉丈夫であることは是非もなかった。幕末に外国の使節が日本の真の実力者である徳川将軍を「大君(tycoon)」と呼んだひそみにならえば、我々がここで対面するのは「青い眼の大君」である。

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ダグラスは父を理想の人格として生涯を通じて尊敬しており、その勇気、指導力、行政能力をそっくり引きついだといわれる。しかし彼は同時に父の資質に含まれていた二つの欠点も引きついでいた。それは、「自分の領域とみなしているところへ文官が口をさしはさむことに対する軽蔑と侮蔑、そして自分の管轄権を越えた問題に対して遠慮ない発言を行なうこと」であった。この父にしてこの子あり。二人を知るものは親子を貫く強烈な個性についてこうもいう――「わたしはアーサー・マッカーサーほど、とほうもなく自我意識の強い人物はないと考えていた――とにかくその息子に会うまではね」(ジョン・ガンサー)

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「平和主義とその連れ[同衾者(ベッドフェロー)]の共産主義は、至るところで私たちをとり巻いている。劇場に、新聞雑誌に、協会の説教壇に、講演会場に、学校に、この勢力はさながら霧のようにアメリカの顔をおおい、騒乱を求める勢力を組織化して働く者の倫理を破壊している。われわれは米国にはんらんしているセンチメンタリズムや感情主義を、しっかり地についた常識で置きかえねばならない。

 平和主義のやり方では平和は保証されず、米国を侮辱や侵略から守ることもできない。自尊心を失いたくないと思う国は、みずからを守る用意がなくてはならない。心ある者はだれしも、戦争が残酷で破壊的であることを知っている。しかしわれわれを包む文明という外皮は、戦争熱だけではくずれない。歴史はかつで偉大だった国が国防を怠ったために灰に帰したことを示している。ローマやカルタゴはどうなったか。ビザンチン帝国はどうなったか。あの偉大だったエジプトはどうなったか。死の叫びを世界に無視された朝鮮はどうなったか。われわれもまた滅亡してしまうことを望まないなら、備えをもとうではないか」

1932年6月 マッカーサー ピッツバーグ大学卒業式典記念講演 

 

 この事件(ボーナス・マーチ事件)の年の秋、大統領に当選したフランクリン・ルーズベルトは、このようなマッカーサーの姿に独裁者の影を見出し、「稀代のデマゴーグ」ヒューイ・ロング上院議員と並んで「アメリカで最も危険な二人の人間」に数えた。その言明を直接きいたタッグウェル(のちの大統領顧問)によると、ルーズベルトは次のように語ったという――この国の企業家や影響力ある人々は、この30年代の経済的危機の中で民主主義を軽蔑し、強力な指導者を求めている。アメリカでシーザーになり得る人間の中で「マッカーサーほど魅力と経歴と威厳に満ちた風貌をみごとに備えている人間はいない」

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「われら主要参戦国の代表はここに集まり、平和恢復の尊厳なる条約を結ばせようとしている。相異る理論とイデオロギーを主題とする戦争は世界の戦場において解決され、もはや論争の対象とはならなくなった。また地球上の大多数の国民を代表して集まったわれらは、もはや不信と悪意と憎悪の精神を懐いて会合しているのではない。否、ここに正式にとりあげんとする諸事業に前人民を残らず動員して、われらが果たさんとしている神聖な目的に叶うところのいっそう高い威厳のために起ち上らしめることは、勝者敗者双方に課せられた責務である。

 この厳粛なる機会に、過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界、人間の尊厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは予の熱望するところであり、また全人類の願いである。

 日本軍の受諾せんとする降伏条件は、いまや諸君の前の降伏文書の中に記載されている。連合国最高司令官として、予の代表する諸国の伝統に従って、降伏条件の完全、迅速、忠実なる遵守を確かめるために必要とする一切の手段をとると同時に、正義と忍耐をもって予の責務を遂行することは、予の堅き決意であることを声明する・・・・・・」

1945年9月2日 対日戦勝利の日「YJデー」 米戦艦「ミズーリ号」での演説



  日本が降伏文書に調印し占領が正式に始まったその日のうちに、占領軍最高司令官マッカーサーの存在は、天皇の心の中に深く刻みつけられた。すぐれた媒介があったためとはいえ、その源はミズーリ号艦上のスピーチにある。その意味ではこれは日本の歴史を決定したスピーチといえよう。マッカーサーは二千日の在日の間に、日本の国民や指導者を前にした公開の演説または放送を全くしていない。文書による声明か下僚による代読だけである。それまで多くの機会に演説を行ない、雄弁家として知られたマッカーサーは口をつぐんでしまったかの観がある。


 彼は次第に自分自身をはるか高みに押し上げて、天皇と現存する政府とを通じてリモート・コントロールを行なうのだが、それにしても横浜からでは働きかける対象に遠すぎた。日本政府はGHQを横浜に閉じこめようとしていたが、彼は東京にでて来なければならない。将軍には首都に城が必要なのである。
  (中略)

 九月八日マッカーサーがアイケルバーガー、ホイットニーらを引きつれて東京で進駐式を行ない、ついで、アメリカ大使館に星条旗を掲げたことは、単なる大使館の再開ではなく、その旗の下に日本の主権が従属することを意味していた。因みにその国旗は日本が真珠湾を奇襲したときワシントンの国会議事堂の上にかかげられていたものである。日本人もそうだがアメリカ人は特にそうした因縁が好きである。調印式のさいミズリー号にかざられた星条旗は九十二年前、日本の開国を迫ったペリー提督の旗艦のマストにひるがえっていたものであった。



「私は日本国民に対して事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった。私の権力は至上のものであった」
「私は八千万を越える日本国民の絶対的な支配者となり、日本がふたたび自由諸国の責任ある一員となる用意と意志を示すまでその支配権を維持することとなったのである」(『回想記』)

/////

 「沈思黙考する遍在神」

 戦いにおける勝者は、勝っただけでは単に敵より強かったか運がよかったにすぎない。彼が力と戦運に恵まれただけでなく、正しかったからこそ勝ったのだということを示すためには、勝者は敗者を裁かなければならない。敗者を断罪することによって、勝利が完成する。太平洋戦争に関する三つの戦犯裁判を指揮することによってマッカーサーはそれを果した。三つとは、マニラの虐殺に代表されるフィリピンにおける残虐行為の責任を問われた山下本文大将の裁判、パターン「死の行進」の責任で起訴された本間雅晴中将の裁判、そして日本の戦争責任を問われた二十八人の指導者にかかわる「東京裁判」である。いずれの場合も、マッカーサーは総司令官として、裁判規則を定め、判決を最終的に審査し、それを承認した。法廷に姿を現わすことは決してなかったが、彼は、これら三つの裁判のすべての上に、「あたかも沈思黙考する遍在神(オムニプレゼンス)のように……鎮座していたのである」(ベアワルド、袖井訳『指導者追放』)。

/////

「日本は民主主義で進まねばいかん。民主主義発展のためには援助を惜しまぬ。……日本はこれから、東洋のスイスたれ」



マッカーサーは
「今日の世界でキリスト教を代表する二人の指導的人物こそ、自分を法王だとさえ考えている。法王が精神的な面で共産主義と戦っているとすれば、かれは地上でこれと取り組んでいるのだ、という考えだ」(『マッカーサーの謎』)。だから、改革の中でもっとも根本的な――そしてそれだけに困難な――改革である、日本国民の精神改革に、彼が力を注いだのは当然であろう。
  (中略)

 だが日本人がキリストを求めなかった最大の理由は、彼らの多くが物質的な復興=繁栄という現世の利益を追うことに専念していたからだったのではないだろうか。それを可能にしてくれた「救世主」としてマッカーサーがいる。それで足りなければ天皇を敬うことも許されている。それ以外の権威を必要とする理由がどこにあろう。
(中略)

「天皇は目に涙を浮べられて、日本再建についてのマッカーサー将軍の態度と関心に感謝の言葉を述べられた。天皇は、国民がマッカーサー将軍を“神風”と考えている、とおっしやられた。ペリー提督はアメリカヘの日本のトビラを開いたが、マッカーサー将軍はアメリカの心を日本に向って開いてくれた」

 マッカーサーがこれを書くために用いた民政局の資料によると’“Kamikaze”は divine influence、つまり「神の威霊」となっている。神に奉仕しているつもりのマッカーサーは、そのあまりに強烈な個性と尊大さの故に、日本人の目には神そのものに映ったのであろうか。そうだとしたら、キリスト教が占領下日本にひろまらなかったもう一つの理由は、マッカーサー自身にあることになる。
(中略)

だが、キリスト教の精神によって、日本を共産主義に対するとりでとして、精神的に武装し「東洋のスイス」たらしめようという理想が実現できないことは、もはや確かだった。

/////

 「立憲的手続の下に支配している多数派のものから政権を窃盗により、また浸透、欺瞞により少数派のものが奪いとることができるための暴力および脅迫の手段として共産主義は出現したのである。概念上、無神論である共産主義は全智全能の神の存在を否定し、人類の高度な感受性を支持する道徳的教訓および神学的教義を拒絶する。共産主義の指導者の人格に適合して共産主義の唯一の潜在的動機は個人的権力の欲望に奉仕することである。
 この目的のために共産主義は犯罪者、腐敗しやすいもの、および無智なもののための集中手段となった」
  「共産主義は混乱、不安および暴力を広めることにより、秩序だった社会の団結および力を破壊しようとするために社会のこれらの変態的分子を一つの組織だった規律ある有力な力に統合するのである。人類の中で共産主義の犠牲になった者に対しては、最後に奴隷にするほか何ものも与えない。共産主義はかくして真の哲学的基礎を持だない国家的および国際的民権剥奪運動として出現したのである」
  「共産主義が成功するためには破壊しなければならない諸自由のタテのかげでその背信的目的を前進し続けていることはこの時代の矛盾の一つであり、かかる運動に対し法律の効力、是認および保護を今後与えるべきや否やの問題を提起するのである」

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コワルスキー幕僚長は「当時の米国軍隊の中で、マッカーサー元帥を除いて誰があれだけの自信と自惚れと勇気をもって日本の再軍備を命じることができたであろうか。彼はポツダムにおける国際協定に反し、極東委員会よりの訓令を冒し、日本国憲法にうたわせた崇高な精神をほごにし、本国政府よりほとんど助力を得ずして日本再軍備に踏み切ったのである」と賞賛と皮肉を交えた観測を下している。

 もちろんマッカーサーは日本人への信頼だけで素手で日本の防衛ができるとは考えていなかった。彼は自分の掲げた軍備撤廃の理想が時代に早すぎたことを、朝鮮戦争の勃発によって決定的に知らされたのである。しかし、一旦戦争が始まり、野戦司令官の任についたとき、彼の心は勝つという意思と、それを実現するための方策に支配される。警察予備隊の創設はその一つにすぎない。かくてマッカーサーは変身(メタモルフォーシス)をとげる。クラーク・ケリーはその変身の意味を次のように分析する。

「この変身の中に、我々は再びマッカーサーを一つのシンボルとして見る。それは一人の分裂的人間というシンボルだ―平和と戦争の間に、善と悪との間に引き裂かれる男。永遠の平和を夢みながら常により大きな破壊的な戦争をたたかう男。清冽で安定し思索的で安らぎに満ちた平和の理念を尊びながら、激動に挑戦に、そして戦争という残酷な冒険に、熱心に喜んで応じていく男」―それがマッカーサーなのである。

 あるいはマッカーサーは一人の双面神なのかも知れない。平和の守護神と戦争の英雄という二つの顔を共存させて矛盾を感じないこの男は、公けに示す自分の顔が平和の顔から戦争の顔へ急転換することをみずからの責任とはしない。もし責められるものがあるなら、それは転換を余儀なくさせた状況の方である。いま朝鮮戦争の野戦司令官として、戦う彼の念頭には勝利以外のなにものもない。

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 トルーマンはいう―「私の感じでは、マッカーサーはついに真実と嘘の違いのわからない男だったと思う」。「何らリアルな感じのしない男という強い印象がある」というトルーマンのコメントは同じく痛烈である。







ウィルキンソンはマッカーサーの複雑な人間性を理解しようと大いに努力し、「冷酷で、見栄っ張り、無節操で自意識が強いが、すごい素質、生き生きとした想像力、過去の事例からすぐ学び取る能力を持ち、指導者になるべき人物だ」と記している。
  (リチャード・オルドリッチ 著 『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』) 

▼ジェイムズ・バムフォード 著 『すべては傍受されている 米国国家安全保障局の正体』

 これらの報告はすべて、統合参謀本部、ホワイトハウス、マッカーサー元帥、国進軍司令官が利用可能だった。にもかかわらず、十月十五目にトルーマン大統領に中国軍の介入可能性について訊かれたマッカーサーは「きわめて少ない」と答えた。

 「東京のマッカーサー司令部のG−2[情報部]等から配布されていたような通信情報を見ていれば中国人民解放軍の朝鮮戦争介入に驚く者はいなかったろう」と、最近でたNSAの高度機密報告にある。同報告はこの悲劇の責任者としてマッカーサーを直接名指している。第二次大戦中マッカーサーは通信情報を無視し、それに反した戦闘計画を立てた。マッカーサーは鴨緑江に向け進軍することに熱心なあまり、中共軍の大量介入を示唆する通信情報を過小評価したのだろう。かつて彼は日本に関する"不都合"な通信情報報告を過小評価したが、それと同じだ。こうして彼は麾下の将兵を兵を朝鮮における大敗北へ追いやった」





1867年10月14日の大政奉還より、70年余の時を経てダグラス・マッカーサー元帥は占領した日本に君臨した。
日米両国史上に残るこの複雑な人物は、キリスト教の伝道者たらんとして、また維新以来の将軍としてこの国を改造した。

小泉総理の所信表明演説に掲げられた"聖域"と"維新"とは、この戦後日本を造った人物へ向けられたものとして私は捉えている。

雄弁家として知られたマッカーサーは口を噤み、次第に自分自身を遥か高みに押し上げていった。
なぜなら彼は、沈黙の持つ力を知っていたからだ。

沈黙と劇的なエピソードは、人々に神性を見出させる。



江藤淳 著 『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』▼

《 削除または掲載発行禁止の対象となるもの
  (1)SCAP―――連合国最高司令官(司令部)に対する批判
   連合国最高司令官(司令部)に対するいかなる一般的批判、および以下に特定されていない連合国最高司令官(司令部)指揮下のいかなる部署に対する批判もこの範暗に属する。
  (2)極東軍事裁判批判
   極東軍事裁判に対する一切の一般的批判、または軍事裁判に関係のある人物もしくは事項に関する特定の批判がこれに相当する。
  (3)SCAPが憲法を起草したことに対する批判
   日本の新憲法起草に当ってSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に当ってSCAPが果した役割に対する一切の批判。
  (4)検閲制度への言及
   出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及がこれに相当する。
  (5)合衆国に対する批判
   合衆国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (6)ロシアに対する批判
   ソ連邦に対する直接間接の}切の批判がこれに相当する。
  (7)英国に対する批判
   英国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (8)朝鮮人に対する批判
   朝鮮人に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (9) 中国に対する批判
   中国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (10)他の連合国に対する批判
   他の連合国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (11)連合国一般に対する批判
   国を特定せず、連合国一般に対して行われた批判がこれに相当する。
  (12)満州における日本人取扱についての批判
   満州における日本人取扱について特に言及したものがこれに相当する。これらはソ連および中国に対する批判の項には含めない。
  (13)連合国の戦前の政策に対する批判
   一国あるいは複数の連合国の戦前の政策に対して行われた一切の批判がこれに相当する。これに相当する批判は、特定の国に対する批判の項目には含まれない。
  (14)第三次世界大戦への言及
   第三次世界大戦の問題に関する文章について行われた削除は、特定の国に対する批判の項目ではなく、この項目で扱う。
  (15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に間する言及
   西側諸国とソ連との間に存在する状況についての論評がこれに相当する。ソ連および特定の西側の国に対する批判の項目には含めない。
  (16)戦争擁護の宣伝
   日本の戦争遂行および戦争中における行為を擁護する直接間接の一切の宣伝がこれに相当する。
  (17)神国日本の宣伝
   日本国を神聖視し、天皇の神格性を主張する直接間接の宣伝がこれに相当する。
  (18)軍国主義の宣伝
   「戦争擁護」の宣伝に含まれない、厳密な意味での軍国主義の一切の宣伝をいう。
  (19)ナショナリズムの宣伝
   厳密な意味での国家主義の一切の宣伝がこれに相当する。ただし戦争擁護、神国日本その他の宣伝はこれに含めない。
  (20)大東亜共栄圈の宣伝
   大東亜共栄圈に関する宣伝のみこれに相当し、軍国主義、国家主義、神国日本、その他の宣伝はこれに含めない。
  (21)その他の宣伝
   以上特記した以外のあらゆる宣伝がこれに相当する。
  (22)戦争犯罪人の正当化および擁護
   戦争犯罪人の一切の正当化および擁護がこれに相当する。ただし軍国主義の批判はこれに含めない。
  (23) 占領軍兵士と日本女性との交渉
   厳密な意味で日本女性との交渉を取扱うストーリーがこれに相当する。合衆国批判には含めない。
  (24)闇市の状況
   闇市の状況についての言及がこれに相当する。
  (25)占領軍軍隊に対する批判
   占領軍軍隊に対する批判がこれに相当する。したがって特定の国に対する批判には含めない。
  (26) 飢餓の誇張
   日本における飢餓を誇張した記事がこれに相当する。
  (27) 暴力と不穏の行動の煽動
   この種の記事がこれに相当する。
  (28)虚偽の報道
   明白な虚偽の報道がこれに相当する。
  (29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
  (30) 解禁されていない報道の公表 》

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 ここで看過すことができないのは、このように検閲の秘匿を強制され、納本の遅延について釈明しているうちに、検閲者と被検閲者とのあいだにおのずから形成されるにいたったと思われる一種の共犯関係である。

 被検閲者である新聞・出版関係者にとっては、検閲者はCCDかCI&Eか、その正体もさだかではない闇のなかの存在にほかならない。しかし、新聞の発行をつづけ、出版活動をつづけるというほかならぬそのことによって、披検閲者は好むと好まざるとにかかわらず必然的に検閲者に接触せざるを得ない。そして、被検閲者は、検閲者に接触した瞬間に検閲の存在を秘匿する義務を課せられて、否応なく闇を成立させている価値観を共有させられてしまうのである。

  これは、いうまでもなく、検閲者と被検閲者のあいだにおけるタブーの共有である。この両者の立場は、他のあらゆる点で対立している。戦勝国民と戦敗国民、占領者と被占領者、米国人と日本人、検閲者とジャーナリスト――だが、それにもかかわらずこの表の世界での対立者は、影と闇の世界では一点で堅く手を握り合せている。検閲の存在をあくまで秘匿し尽すという黙契に関するかぎり、被検閲者はたちどころに検閲者との緊密な協力関係に組み入れられてしまうからである。

 タブーは伝染すると、文化人類学者はいっている。「タブーとなっている人や物に接触したものは、それ自体がもとのタブー同様危険なものとなり、新たなる汚染の中心となり、共同体にとっての新たな危険の源泉となる」つまり、被検閲者は、タブーとの接触の結果「もとのタブー同様危険なもの」に変質し、「新たな汚染の中心」となり、必然的に「共同体にとっての新たな危険の源泉」とならざるを得ない。

 この伝染現象の動因とたっているのは、恐怖以外のなにものでもない。検閲者の側における「邪悪」な日本に対する恐怖と、被検閲者の側における闇の彼方にいて生殺与奪の権を握っている者たちへの恐怖―――新聞関係者を、国家に対する忠誠義務から解放した「新聞と言論の自由に関する新措置」指令のごときも、それだけではおそらく占領軍当局の期待通りの効力を発揮し得なかったにちがいない。表の世界の"解放"は、影と闇の世界の黙契を支える"恐怖"の裏付けを得て、はじめて日本人の「精神にまで立入り」、これを変質させる手がかりをつかんだのである。

 重要なことは、検閲の存在をあくまでも秘匿するというCCDの検閲の構造そのもののなかに、被検閲者にタブーを伝染させる最も有効な装置が仕掛けられていた、ということである。この点で、CCDの実施した占領下の検閲は、従来日本で国家権力がおこなったどのような検閲と比較しても、全く異質なものだったといわねばならない。

 「出版法」「新聞紙法」「言論集会結社等臨時取締法」等による検閲は、いずれも法律によって明示された検閲であり、被検間者も国民もともに検間者が誰であるかをよく知っていた。そこで要求されたのは、タブーに触れることではなくて、むしろそれに触れないことであった。検間者は被検間者に、たとえば天皇の尊厳を冒涜しないというような価値観の共有を要求したからである。
  つまり、戦前戦中の日本の国家権力による検閲は、接触を禁止するための検閲であったということができる。天皇、国体、あるいは危険思想等々は、それとの接触が共同体に「危険」と「汚染」をもたらすタブーとして、厳重に隔離されなければならなかった。被検間者と国民は、いねば国家権力によって眼かくしをされたのである。

  これに対して、CCDの検閲は、接触を不可避にするための検閲であった。それは検閲の秘匿を媒介にして被検間者を敢えてタブーに接触させ、共犯関係に誘い込むことを目的としていた。いったんタブーに触れた披検閲者たちが、「新たな汚染の中心」となり、「邪悪」な日本の「共同体」にとっての「新たな危険の源泉」となることこそ、検間者の意図したところであった。要するに占領軍当局の究極の目的は、いねば日本人にわれとわが眼を刳り貫かせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼を嵌めこむことにあった。

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《……反抗や敵意、あるいは通敵協力者の烙印を捺されはしないかという恐怖を態度に表わす者は皆無であった。あるいはもしいたとしても、その感情を巧みに隠蔽していた》

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検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられて行く。

 この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。

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1948年2月6日
  CI&E「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)
CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に間する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ばして来た民間情報活動の概要を提出するものである。文書の末尾には勧告が添付方れているが、この勧告は、開局が、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の続行に当り、かつまたこの「プログラム」を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものにまで拡大するに当って、採用方れるべき基本的な理念、および}般的または特殊な種々の方法について述べている

各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること

 一、戦争の真相を叙述した『太平洋戦争史』(約一万五千語)と題する連載企画は、CI&Eが準備し、G−3(参謀第三部)の戦史官の校閲を経たものである。この企画の第一回は一九四五年十二月八日に掲載され、以後ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載された。この『太平洋戦争史』は、戦争をはじめた罪とこれまで日本人に知らされていなかった歴史の真相を強調するだけではなく、特に南京とマニラにおける日本車の残虐行為を強調している。

  二、この連載がはじまる前に、マニラにおける山下裁判、横浜法廷で裁かれているB・C級戦犯容疑者のリストの発表と開運して、戦時中の残虐行為を強調した日本の新聞向けの「インフォーメーション・プログラム」が実施された。この「プログラム」は、十二月八日以降は『太平洋戦争史』の連載と相呼応することとなった。

d、ラジオ
  (1)『真相はこうだ』――これは『太平洋戦争史」を劇化したものであるが――という番組が、一九四五年十二月九日から一九四六年二月十日まで、十週間にわたって週一回放送された。

  (2)それと同時に、CI&Eは、日本の放送ネットワークに『真相はこうだ』の質問箱の番組を設けた。これは『真相はこうだ』の聴取者に、質問の機会をあたえて番組に参加させようとする意図によるものである。『真相はこうだ』の放送が終了した時点で、この質問箱は『真相箱』となった。この番組は四十一週つづき、一九四六年十二月四日に終了した。この番組には、毎週平均九百通から千二百通の聴取者からの投書が寄せられた

四、この「インフォーメーション・プログラム」の第二段階は、一九四六年初頭から開始された。この第二段階においては、民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできるような将来の日本への希望に力点を置く方法が採用された。しかしながら、時としてきわめて峻厳に、繰返し一貫して戦争の原因、戦争を起した日本人の罪、および戦争犯罪への言及がおこなわれた。第二段階の活動としては、次のようなものがあげられる。

  a、新聞
  (1)週三回の記者会見、毎日の報道提供、新聞社幹部と記者の教化等、活動の大部分は民主化を強調するプログラムにあてられている。かくして日本のあらゆる新聞は、全国的にはCI&Eを、府県別には軍政部を通じて、毎日占領政策の達成を周知徹底させられている。政治、行政、社会の風潮、経済、公衆衛生、福祉、海外貿易等、占領のあらゆる面に関する詳細な説明と質疑応答が、このメディアを通じて処理されている。SCAPは、このメディアを通じて、何を日本人に助言し援助しつつあるかを示している。CI&Eはまた、日本の民主化達成のみならず、経済的、社会的自立のために必要な、詳細な理念と方法を保有している。

  (2)民主化の過程を進行方せる一方で、日本の戦争に関する罪や、破滅をもたらした超国家主義に直接言及し、罪悪感を扶植する努力もなおざりにされていない。一九四六年六月に東京裁判が開廷されるに先立って、CI&Eは国際検事局のために二回の記者会見、弁護団のために一回の記者会見を開催した。この記者会見には、共同通信と全国の代表的な新聞の記者たちが出席した。国際法廷の目的と手続きについて入念な解説が行われ、同様に入念な報道が行われた。横浜では、同地で裁かれるB経戦犯を目的とする「インフォーメーション・プログラム」が開始され、これに関連して一連の記者会見が開かれた。A級およびB級戦犯裁判開始以来、CI&Eは、B級裁判については毎日情報将校提供の広報資料を配布し、A級裁判については全面的な「インフォーメーション・プログラム」を遂行中である。市谷法廷で取村中の日本人記者団との連絡事務に当るために、連絡将校が毎日派遣されている。

  (3)裁判に関する一切の情報を日本の新聞に取得させるために、特に注意が払われているが、とりわけ検察側の論点と検察側証人の証言については、細大洩らさず伝えられるよう努力している。(下略)

  (4)CTC(対敵諜報部隊)およびCI&Eの新聞出版班の活動を通じて、新聞や雑誌の幹部に対し、公式の席上や日常の記者会見の席上で、戦前戦中の日本の報道機関の腐敗ぶりを指摘する試みが、繰返しておこなわれている。日本の侵略と、軍国主義政府のお先棒をかついだ新聞の役割との関係は、動かしがたいものだと力説することにしている。
 一九四七年七月に開催された、日本新聞協会年次総会で、主賓のD・C・インボデン少佐(CI&E新聞課長)は、次のように語った。
 「二、三の日本の新聞編集者と会談したところ、この人々は、新聞が政治上の議論に容喙する責務はないと思うと語った。私は不同意を表明しなければならない。私は確信するが、もし戦前に日本の新聞が政治上の議論に影響力を行使していたならば、東條とその一味徒党は、日本を今日のような悲惨な状況に陥し入れようとはせず、またしようとしてもできなかったであろう……」
「われわれの務めは、……日本に、いつの日か自由な新聞となるべき責任ある新聞を創り出す手伝いをすることである。マッカーサー元帥は、降伏後も日本の新聞に引続いて発刊を許可したが、これは前例を見ないことだ。それまでの歴史の示すところによれば、占領軍の司令官は敵国の新聞に停刊を命じるのが常道である。……」(下略)

五、G−2(CIS・参謀第二部民間諜報局)のみから得られる口頭の報告にもとづき、当CI&Eは左のごとく諒解する。

a 合衆国内の一部の科学者、聖職者、作家、ジャーナリストおよび職業的社会運勤家たちの論説や公式発言に示唆されて、日本の一部の個人ないしはグループが、広島と長崎への原爆投下に"残虐行為"の焙印を押しはじめている。さらにこれらアメリカ人のあいだには、一部の日本の国民感情を反映して、将来広島でアメリカの基金によって行われるべき教育的・人道主義的運動は、何であろうとすべてこのいわゆる"残虐行為"に対する"贖罪"の精神で行われるべきだという感情が、次第に高まりつつある。

  b、一部の日本人、特に世界と同胞に対して、日本の侵略と超国家主義を正当化しようとしている分子のあいだに、東條は自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない。

  c、この二点は、両々相侯って、現在なりを潜めている超国家主義者たちが、占領終了後に再び地歩を固めようとするに当って恰好の証拠となるものである。

 六、これらの態度に対抗するため、今一度繰り返して日本人に、日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍の行った残虐行為について自覚させるべきだという現実が、非公式にCI&Eに対してなされている。なかんずく"マニラの掠奪"のごとき日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきであり、広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーンを開始すべきであるという示唆が行われている。

 七、当民間情報教育局これまでの本件に間する研究およびG−2(CIS)ならびに局内のメディア担当責任者との協議の結果、本キャンペーンの「第三段階」は、左記のごとき基本方針および方法によって実施されるのを相当と思料する。

 a、基本方針
  (1)直接かつ正面からの攻撃を目的とする宣伝計画は、双刃の刃となりかねず、大多世論を激昂させ、日本人を一致団結させることにもなりかねないので、極度の注意が肝要である。一方、現在人手可能な文書類は、"超国家主義者"と"残虐行為"的思考が、一部少数の分子に限定されていることを示している。

  (2)全面的な宣伝計画実施との関連において、それがわが方の政策と矛盾しないかどうかという問題についても、考慮しなければならない。現在の政策は、日本の安上りな再建をめどしており、そのためには早期講和が望ましいと考えられている。一方、問題の諸点について"正面攻撃"を開始した場合、占領軍当局はアメリカ国民に対して、日本人は信頼に価せず、経済援助継続には問題があり、講和条約は望ましくないと、黙示的に認めることになる。

  (3)東條裁判と広島・長崎への"残虐行為"はいずれも"ウォー・ギルト"のうちに分類言れてしかるべきものだという点については、大方の見解が一致している。しかしながら、その処理は、左記の計画中に略述されている個々の方法によって多様化することができる。

  b、一般的方法
  (1)超国家主義に対する解毒剤としての政治的情報・教育の強調。(現在までに大規模に実施され、現に実施されつつあるが、さらに一層集中化された「プログラムLを展開中であり、承認を待っている)

  (2)超国家主義運動の復活を示すあらゆる具体的な動きを暴露し、細大洩らさず報道すること。そして、そのことによってそれらの動きを支える誤った思想を指摘し、その不可避な結果を明らかにすること。

  (3)影響力のある編集者、労働界、教育界および政界等々の指導者とつねに連絡を密にすること。その際、全体主義国家に対する自由社会の長所を強調すること。

  (4) 進歩的、自由主義的グループの組織発展を奨励すること。

 c、特定の方法
  (1)新聞
  (a) CI&Eの新聞出版班は、特別任務に当る新聞係将校(単数)を任命したが、その任務は、日本人編集者との連絡を維持し、前記b(3)に示されたイデオロギーを鼓吹するとともに、東條および他の戦争犯罪人裁判の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるよう指導することにある。広島に聞する報道もまた、任務のうちに含まれる。

  (b) 極東国際軍事法廷に常駐する新聞出版係連絡将校(女性)は、東條の最終弁論と評決の段階に特に留意して、引続き自由な新聞の目的と義務に聞する広報活動を行うものとする。

  (c) 新聞出版班は、一九四八年(昭和二十三年)四月に予定されている広島での原爆の碑献呈式に代表を派遣し、日本の新聞関係者がこの行事を正しく解釈するよう指導する。

  (d) 東條と広島の双方について、SCAP各部局より新開発者用に適切な材料を求められることになるものと思われるが、その材料は、パラグラフ五において指摘されている印象に対抗し得るものでなければならない。(マッカーサー元帥の声明が発表されれば、はなはだ有効と思料言れる)

  (2) ラジオ
  (a) CI&Eラジオ班は、戦犯裁判の継続中、パラグラフ四b(1)および(2)に略述方れている線に洽って、引続き定期番組において「ウォー・ギルト」の主題を強調するものとする。また、パラグラフ四b(4)に略述されているその他の番組においても、常時「ウォー・ギルト」の主題に言及するものとする。

  (b) 裁判での東條の最終弁論と評決の段階においては、大々的な取材および報道が計画されている。

  (c) CI&Eラジオ班特別代表一名が、日本の放送関係者に助言と指導をあたえる目的で、四月の献呈式の際広島に派遣される。

  (3) 展示
  (a) CI&E展示現は、すでに戦犯裁判に関するポスター・シリーズの概要を準備し、関係SCAP各部局の承認を待っている。その主題は、何故に戦犯裁判が聞かれているか……いかに少数のグループが、国家と全世界を渾沌のなかに投げ込んだか……にある。……平均的市民は自分の生活の問題についての真の発言権を持てなかった……誤った情報を鵜呑みにしたあげくの因果応報……軍艦、軍用機、弾薬等に費やされた金と、それが平和な目的のために用いられた場合、どれだけの家が建ち、電力の余裕が生じ、近代化が進んだかの比較等々……戦犯裁判から学ぶべき教訓の数々

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つまり、一面における禁止と他面における強制の原則が、ここでも拡大されて効果的に併用された結果、『太平洋戦争史』と題されたCI&E製作の宣伝文書は、日本の学校教育の現場深くにまで浸透させられることになったのである。

それは、とりもなおさず、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の浸透であった。『太平洋戦争史』は、まさにその「プログラム」の噴火として作成された文書にほかならないからである。歴史記述をよそおってはいるか、これが宣伝文書以外のなにものでもないことは、前掲の前言を一読しただけでも明らかだといわなければならない。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。

  これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起こった災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである。

 そして、もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないから。

 CI&Eが、このような対立の図式を仮構するに当って、どの程度マルクス主義的思考の影響を受けていたかは、さだかではない。しかし、「これらのうち何といっても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは真実の陰蔽であらう」という、前書の一節が、グロテスクな響きを発せざるを得ないのは、この宣伝文書が、戦争とは国家間の争いにほかならないという自明な「真実」を「隠蔽」したまま、いわゆる「真相」の暴露に終始しているためというほかない。しかも、この宣伝文書が発表されたとき、日本の言語空間は、すでにその存在を秘匿し、「隠蔽」していたCCDの検閲によって、ほぼ完璧に近いかたちに閉され、監視されていたのである。

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 なぜなら、教科書論争も、昭和五十七年(1982)夏の中・韓両国に対する鈴木内閣の屈辱的な土下座外交も、『おしん』も、『山河燃ゆ』も、本多勝二記者の"南京虐殺"に対する異常な熱中ぶりもそのすべてが、昭和二十年(1945)十二月八日を期して各紙に連載を命じられた、『太平洋戦争史』と題するCI&E製の宣伝文書に端を発する空騒ぎだと、いわざるを得ないからである。そして、騒ぎが大きい前には、そのいずれもが不思議に空虚な響きを発するのは、おそらく溜涙となっている文書そのものが、一片の宣伝文書に過ぎないためにちがいない。
 占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうか返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というはかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しつづけているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生れの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。
 つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史批判によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。教育と言論を適確に掌握して置けば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことを、CCDの検閲とCI&Eによる「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、表裏一体となって例証しているのである。



WGIPが効力を発揮したのは、次の理由にも因るだろう。



民主主義の定着には歴史が要る。英国の民主主義もマグナ・カルタから名誉革命まで五世紀の試行錯誤を繰り返してきた。日本の現在の民主政治は、政治の実態からいって大正デモクラシーとほとんど変わらないが、一番大きな違いは、その間軍人に政治を委ねた試行錯誤があまりにも破滅的だったために、国民のあいだにもう民主主義以外の選択肢が存在しなくなっている、その安定性にある。
  (岡崎久彦 著 『日本外交の情報戦略』)



日本はキリスト教圏にはなることはなかったが、戦後日本の言語(思考)空間は、思いのほかキリスト教的であるといっていい。



▼永井均 『これがニーチェだ』 講談社現代新書

 だが、ニーチェの議論の真骨頂は、じつはここから先にある。「罪」の、とりわけキリスト教的「原罪」の観念の起源の探究が、次の課題である。それは、債務−債権関係と良心のやましさとを、二つの源泉とする。

  たとえば、責任の観念が成立する以前、罰は、受けた被害に対する被害者の怒りの爆発という意味しかもたなかった。苦痛を与えられたら苦痛を与え返せ。要するにお返しである。だが、なぜお返しをするのか。それは、加害者と被害者の関係が債務者と債権者の関係と感じられていたからであろう。苦痛は、金品とは逆に、与えた者が負債を負って債務者となり、与えられた者が債権者となる。つまりそこにはいわば、お返しすべき約束と責任が暗黙のうちに生じているのである。債務−債権関係の起源は、このように古い。

  こうした債務−債権関係は、現存する人間を越えて、共同体と祖先の間にも成立するようになる。祖先の犠牲と功績に対する畏怖心、祖先に対する負債の意識は、絶対的な債権者として神という表象を生み出すにいたる。ユダヤ教の神がその典型である。だが、この負債の意識は、それだけではまだ、宗教的な意味は持っていても、道徳的な意味は持っていない。それが道徳的な意味を持つためには、やましい良心がそれを自己の内面に取り込む必要があるのだ。

  やましい良心の起源は人間の内面化にある。残酷さに祝祭的な喜びを覚えるような人間の攻撃的な本能が、何らかの力によって外に発散することを妨げられ、はけロを失って内へと祈り返したとき、そこにやましい良心が成立するのだ。自分の心の中の苦悩に自虐的な快楽を感じること――それがやましい良心の本質である。「それと同時に、人類が今日なお快癒していない、最も重い、最も不気味な病気が持ち込まれた。人間が人間であることに、自分自身であることに苦しむという、あの病いである。それは、人間が動物的な過去から強引に引き離され、新たな状況と生存条件へ飛躍し突進したことの帰結であり、これまで人間の力と喜びと恐れの基礎となっていた古い本能へ宣戦布告したことの帰結にほかならない」(『道徳の系譜』)。こうして、人間は反省意識による自己観察を知ることになり、これまで地上に出現したことのない「将来性に富んだあるもの」(同)、すなわち精神となった。この病気とともに、人間はいねば一個の創造的な芸術作品となったのである。

  そのやましい良心があの負債を自己の内面に取り込むとき、外面的な負債(Schulden)は内面的な罪責(Schuld)に変わる。キリスト教の本質は、個々の人間が唯一の神に対して負債を、しかも自力ではけっして償うことができない負債を負っている、という解釈の創造にある。
  自分ではけっして償うことのできない罪――だが、この解釈こそが人間を救うのである。はけ口を失った不安な生は、「罪人」という恪印を押されることによって、はじめて意味を待つからである。人間の生全体を「罪」という観点から意味づける、新たな強力な道徳空間が、こうして成立する。

  この過程は、誰も考えつかないような、じつに意外な、途方もない、最後の一手によって、完成することになる。すなわち、キリストの磔刑である。債権者の方がなすすべもない債務者のために自分を犠牲にするという恐るべき奇策である。「神御自身が人間の罪のために自分を犠牲にされた、神御自身が身をもって支払いを引き受けてくださった、神こそはわれわれ自身が返済できなくなったものをわれわれに代わって返済してくださる唯一の方であられるのだ、――債権者が債務者のためにみずからを犠牲にする、それも愛ゆえに(これが信じられようか?――)債務者への愛ゆえに!」(『道徳の系譜』)

  この返済は、それが知らされてしまったならば、内面化された、精神的に深められた、祈たな負債を生み出すことになるだろう。誰にも借金などした覚えのない者に向かって、こう吹聴してまわる人物がいたらどうだろうか。「まだ気づいていないかもしれないが、おまえは実は莫大な借金をしていたのだ。でも、安心しろ。おまえのその借金は、なんともう俺たちの親分が支払ってくれたのだから」。これを間いて、身に覚えのない者も、つい感謝したくなるだろうか。私ならその人にこう答えたい。「きみがそれを吹聴してまわるかぎり、私はきみを信用できない。人の借金を(愛ゆえに)肩代わりしてくれるほどの方なら、そのことが知られることを望まないであろうから。きみは親分さんを利用して新たな債権者になろうとしているね? きみのその行動そのものが、きみの言説の嘘をすでに示しているのではないか?」

  良心のやましさの成立は、自分で自分の生の現実を知り、自分で自分を統御する、新しい人間の可能性を意味した。だが、キリスト教の僧侶の介入によって、事態は意外な方向に展開したのである。転倒した形ではあっても、敵に向けられていたあの攻撃的本能が、自分に向けかえられ、自分の存在それ自体をやましいものと考える、神の前にひれ伏すしかなすすべのない、精神の奴隷が誕生したのである。
  (中略)

 返済を吹聴してまわるのは、パウロをはじめとするキリスト教の僧侶たちである。ニーチェは彼らを禁欲主義的僧侶と呼ぶ。彼らの介入によって、やましい良心が負債を罪として内面に取り込むようになるとき、人間は神に対して償うことができない負債を負った罪人となるのだ。罪人たちの恐怖を鎮める力を待つのは僧侶だけだ。肉体の病理を知りそれを統御できるがゆえに、医師たちが病人たちを支配する権力を待つのと同様、精神の病理を知りそれを統御できるがゆえに、僧侶たちは「罪人」たちを支配する権カ――この世を越えた絶対的な権力――を待つことになる。M・フーコーのいう牧人型権力の出現である。

  無によって支配され、無に向かって方向づけられた、魂の麻薬患者が、つまりニヒリストが、こうして誕生する。いや、そうではない。それは充実した、意味のある生なのだ。僧侶の方向づけのおかげで、さ迷えるやましい生は、はじめてひとつの一貫した意味を待ったのだ。「これまで人類の頭上をおおっていた呪いは、苦悩そのものではなく、苦悩に意味がないということであった。しかるに、禁欲主義的理想は、人類に一つの意味を提供したのだ。(中略)だが、この解釈は――疑う余地なく――新たな苦悩をもたらした。より深い、より内面的な、より有毒な、より生を蝕む苦悩である。それはあらゆる苦悩を罪というパースペクティヴのもとに引き入れたのである。……にもかかわらず――人間はそれによって救われたのだ」(『道徳の系譜』)。

  われわれは自分の存在の意味の問題に苦しんでいるので、苦悩という最も強い潜在的な力をもっていたものに意味が与えられて、そのマイナスのパワーがプラスに転化することは、大変な喜びなのである。なぜなら、それぱ、苦悩の問題と意味の問題を、一挙に、しかもたぐい稀なほどの力をもって、解決してくれるからである。僧侶は、この世での苦悩の原因を取り除いてはくれないが、それに意味を与えることで、生に希望を与えてくれるのだ。

  そうなってしまえば、僧侶のたくらみを見抜き、その誘惑を拒否する者は、まさにそのことによって、最も罪深い者とされるほかはなくなる。また、意味のある生をうらやましく感じ、しかもなお僧侶の誘惑には乗り切れない者は、そのことによって、また別の種類のニヒリスト――自分の生の空しさを嘆く種類の――にならざるをえなくなる。空間がつくりかえられてしまったのである。
 (中略)

 ところで、この僧侶自身は、いったい何者なのだ? ニーチェは言う。「禁欲主義的僧侶ぱ、別の者でありたい、別の他にありたいという願望の化身である(中略)だが、ほかならぬ彼のこの願望こそが、彼をこの世に縛りつけるのだ。この力ゆえにこそ、彼はこの世で人間として存在するためのさらにいっそう有利な条件をつくりだすために努力せざるをえない道具と化す。――この力のゆえにこそ、あらゆる種類の出来損ない(中略)といった全牧畜の牧人となって彼らを導き、本能的に、彼らを生存につなぎ止めるのである。(中略)禁欲主義的僧侶、この外見における生の敵、この生の否定者、――彼こそが生を護るきわめて大きな力であり、肯定を生み出す力でもあるのだ」(『道徳の系譜』)。ニーチェがけっして単純な思想の宣伝家ではなく、繊細な認識者であり探究者であることが、この引用からもわかってもらえると思う。つまり、牧畜たちとはちがって、この牧人には力があるのだ。

  その創造的な力が、この世の現実を否定する意志と結びついて超越的な背後世界(神、天国、等)を握造し、その観点からこの世の生に意味を与えたとき、禁欲主義的理想が生まれる。背後世界を信じることはこの世で禁欲的であることを強いるからだ。禁欲主義的僧侶とは、自分の本能の力だけで、このような転倒したパースペクティブを打ち立て、みずからそれを生きることができる力を待つ者のことである。だが、その僧侶の生が貫徹されるためには、不安におびえるルサンチマン的弱者の存在が不可欠なのである。そこに完璧な相互依存関係が成立する。僧侶は弱者の「傷から来る痛みを鎮めながら、同時にその傷口に毒を注ぐ」(『道徳の系譜』)。ということはつまり、弱者は傷口に毒を庄がれながらも、その傷から来る痛みを僧侶に鎮めてもらうのである。

「人間のこの本質的に危険な存在様式、すなわち僧侶的な存在様式という土壌の上で、およそ人間というものがはじめて一個の興味ある動物となったのであり、これによってはじめて人間の魂はより高い意味で深さを獲得し、そして邪悪になったのである」(『道徳の系譜』)。つまり、人間という動物はここにおいてはじめて深い意味で悪くなったのであり、興味深い人間的現象のすべては、この悪にその起源を持つのである。

  僧侶は、転倒したパースペクティブの内部においてではあるが、力への意志に活路を与えることに成功した。これは特筆すべきことである。その土壌の上で、自己の罪過をごまかすことに対する極度の潔癖さが、「良心の贖罪師的鋭敏さ」が、つまり真理への意志が育てられたのである。キリスト教によって学問的良心にまで鍛えられたこの真理への意志、真理へのこの誠実さこそが、ついにはキリスト教の虚偽を暴き、それを打ち倒すことになることを、われわれはすでに知っている。禁欲主義的理想によって育てられた真理への意志が、育ての親である禁欲主義的理想そのものを否定するのだ。自分をごまかさずに、自分に嘘をつかずに、誠実に考え直してみるならば、神などじつは存在しない。神の国もじつは到来しない。

  こうして「無への意志」が暴露され、こうして「神」は死ぬ。「比較的近い時代」における無神論の到来である。そのとき一方では、無意味、無駄、徒労、甲斐のなさの感覚がひろがる(受動的ニヒリズム)。他方ではしかし、真理への意志を信じた、新しい、科学的、政治的冒険が開始される(能動的ニヒリズム)。

  禁欲主義的理想の無への意志が、真理への意志を育てることによって、おのれ自身を凌駕するそのプロセスのうちに、ニーチェは、力への意志の自己貫徹を見た。無への意志が、背後でおのれを支えてきた力への意志によってついに凌駕されたのである。隠されていた力への意志が、おのれの外皮を食い破るまでに自己成長を遂げたのだ。だからたとえば啓蒙主義の成立は、力への意志の自己貫徹なのである。そう認識するニーチェ自身もまた、一面では、この自己超克し、自己貫徹する「力」の化身にほかならない。

  だが、ただひとつ、そこにおいてなお、ただひとりニーチェだけが与える最後の一撃がある。それは、その真理への意志そのものに対して、「真理への意志そのものは何を意味するか?」(『道徳の系譜』)という問いを立てたことである。

  この最後の一撃がニーチェを傑出させるのだ。つまり、「真理への意志」そのものに対する真理への意志。「誠実さ」そのものに対する誠実さ。自分の問いそのものを自己破壊することをも辞さない極端化された誠実さ。系譜学の遂行とは、まさにそういう作業であったのだ。だから、それは、最終的には、もはや真理への意志への誠実さであることができず、むしろ、力への意志そのものへの誠実さとなるだろう。こうして、真理への意志もまた無への意志であることが暴露されて、「真理」として現れていた「神」もまた死ぬ。

  なぜ「神」は死ぬのだろうか。ニーチェが与えた究極の答えはこうだろう――もともとほんとうは死んでいたからである。もともと〈神〉が死んでいたからこそ、いま「神」が死ぬのだ。まずは、それが無であることによって〈神〉が死に、つぎにその無が知られることによって「神」が死ぬ。ニーチェのニヒリズム概念の外見上の多義性は、この構造に由来するのであろう。

  それにもかかわらず、同時にまた、この系譜学的探求を通して、「神」に代わるものが発見されたのではないか? 〈神〉が再発見されたのではないか? たしかに、転倒したパースペクティブの内部においてさえ、無への意志という外皮を内側から食い破って、自己貫徹する力への意志が発見された。だが、それは「神」に代わりうるものだろうか。それは〈神〉であろうか?





小泉総理にヴィジョンがないのではない。ヴィジョンは既にその始まりに告げられている。
小泉総理はそれ以来ヴィジョンを語れない、というよりもむしろ語らない。
なぜなら、その戦略の質的な転換を要請する出来事が起こったからだ。

9.11

日本の新世紀の幕開け――この日を境にして、新時代に対応した国家の安全保障体制の確立が要求された。
日本単独での安全保障体制の根幹を破壊し、そして戦後の日本を造ったもう一つのアメリカは、見えない敵との不確実な戦争に突入した。




マッカーサー司令官の下で国会を監視する任務についていたウィリアム・ジャスティン中佐
「日本は憲法を変えることが出来ないだろう。我々は占領が終わったあと日本人が直ちに憲法を変え、ふたたび軍事国家になることを恐れていた。だから日本人が憲法を変えられないように、さまざまな条件をつけてがんじがらめにした。」
(日高義樹 著『日本人が知りたくないアメリカの本音』)



 ブッシュ政権の意向と政権に関係の深いシンクタンク等の提言は、リチャード・アーミテージ氏が中心となってまとめた「合衆国と日本:成熟したパートナーシップへ向けての前進」が象徴する通り、マッカーサーが遺した戦後日本の構造的な弊害を解消することにある。



アーミテージ・レポート

最も重大な点は、日米関係を米英関係にまで高めようという提案である。
総論:アメリカ外交の中心は、ヨーロッパからアジアにシフトしつつある。ヨーロッパにおける大きな軍事紛争の可能性はもうないが、アジアにはある。核兵器使用の可能性もある。台湾海峡と朝鮮半島が最も危険だ。日米同盟こそ、アジア太平洋地域における安定と繁栄の基礎である。
政治:日本の若い政治家たちは、唯経済主義では未来は切り開けないと考えており、国家主権の尊厳に覚醒しつつある。これは同盟強化の好機である。
安全保障:日米同盟のモデルを米英同盟に求めるべきである。しかしそのためには、日本が集団的自衛権の行使を認めなければならない。
情報:アメリカは日本との情報共有を進めなければならないし、日本独自の情報収集衛星を容認すべきである。
経済:日本は規制緩和・市場開放を勇気をもって進め、経済の持続的成長力を回復しなければならない。日本とシンガポールの自由貿易協定は、将来のアメリカとの共同市場設立の実験として歓迎する。
外交:日本は「小切手外交」から脱皮すべき時である。日本外交の独自性追求は、アメリカの国益と相反することはない。
(藤井厳喜 著 『ジョージ・ブッシュと日米新時代』)





小泉総理の新世紀維新の構想もまた、軍事的色彩を帯びていく。

新世紀維新への戦略は何度でも書き換えられる。
アメリカが日本を打ち破ったように、この国はアメリカが遺した亡霊を葬らねばならない。


沈黙を武器にするには、あらゆる誤解を受け入れる必要がある。
それと引き換えに困難な使命の遂行を可能にさせる。



沈黙が支配する聖域への涜聖は、同じく沈黙をもって為される。





▼NHK報道局「自衛隊」取材班 『海上自衛隊はこうして生まれた 「Y文書」が明かす創設の秘密』 

 海上自衛隊の哨戒機P3C百機により集められた潜水艦情報は、横須賀を事実上母港とする米海軍第七艦隊の行動にも生かされ、「ソビエトの軍事力の封じ込めに大きく寄与した」(海幕防衛部幹部)とされている。

 「第七艦隊の打撃力を海自の哨戒能力が補完する体制だった。両者が連動したからこそソビエトは膨大な軍事支出に耐え切れなくなり、冷戦の崩壊に至ったのだ」(海幕首脳)とも言われている。

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「NAVY TO NAVY」という世界各国の海軍に特徴的な用語を説明しながら、小貫は言った。

「世界各国の海軍は、自分たちは外交官であるという誇りと自負があり、国家を超えた連帯感を持っている。特に半世紀にわたって、冷戦時代をともに支えてきたという海上自衛隊の米海軍に対する思いは特別なものがある」

 さらに続けて、

「要するに、海上自衛官は形を変えたアメリカ人なんですよ」

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 アーミテージ米国務副長官の「Show the flag」(旗幟を鮮明に)発言が話題になっていた時である。

 日本とアメリカしか持たない最新鋭の護衛艦「イージス艦」の派遣が、国会でも議論していた。

「イージス艦を出すかどうかのこの議論は、海軍=国家という構図を象徴することだ」

という打ち合せでの小貫の発言が、右田の取材メモにも残っている・

同じ頃のメモに、海上自衛隊の幹部が語った言葉も記されている。

「もしここで海上自衛隊が後方支援に乗り出さなければ、日本は国際社会の孤児になってしまう。アメリカの軍事力にタダ乗りしたまま、政治と経済は一流でも、安全保障では四流といわれる」

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 答える佐久間氏は、穏やかな表情とは裏腹に、切り口の鋭い、明快な言葉を繰り出した。

「イージス艦は、情報通信能力で桁違いのずば抜けた能力を持っています。海上自衛隊はそれを米海軍と訓練し続けてきました。NATO(北大西洋条約機構)よりも互いに連携しやすい関係にあるのです」

 イージス艦派遣の是非、有無については言及せず、佐久間氏は米海軍がいかに海上自衛隊の協力を望んでいるかを具体的な言葉で説明した。

 そもそも「日米同盟」において、明確な共通の目標を持つ日米は、精神的にも一体となったシステムであること、湾岸戦争直後、機雷の掃海を単独ではできない米海軍に代わって、海上自衛隊は最後まで任務を全うし、「ウェルダン」と米海軍の指揮官に称賛されたこと。このように補完し合う海軍同士は国際的な関係なのだ、そう強調する。

 佐久間氏の米海軍への強い信頼感と憧憬にも似た一体感が、ひしひしと伝わってくる。

 米海軍第七艦隊司令部から「海上自衛隊がいてくれて、どんなに心強いか」と言ってもらったと語る時、佐久間氏は何ともいえない満足げな表情を見せた。

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「テロ攻撃で崩壊した世界貿易センタービルがアメリカの富の象徴なら、空母はアメリカの軍事力の象徴だ。世界貿易センタービルの高さが三百メートルあまり、空母の長さもちょうど三百メートルあまりだ。アメリカは次は空母が狙われるかもしれないと本気で恐れていた。だからレーダーも艦載機の使えない停泊という危険な状態を脱し、一日でも早く洋上に出たかったのだ。当時の米海軍の警戒心は尋常ではなかった。」(海幕幹部)

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 チャップリン司令官は、防衛大学校の卒業式や海上自衛隊が主催するパーティーを覗いたことのある人なら一度は目にしたことのある、いわば在日米海軍の「顔」だ。元々ヘリコプターのパイロットで、上陸作戦を行う強襲揚陸艦の艦長として、アフリカのソマリアやカリブ海のハイチでの作戦に参加していたらしいと聞いていた。(中略)

 のちに海上自衛隊のある幹部は、アメリカがヒステリーともいえる状態に陥っていたのだと、当時の事情を打ち明けてくれた。

 2001年9月11日、突如、大型旅客機による自爆テロという予想外の自体に直面したアメリカは、本土の防空に異常なまでに神経質になっていた。本土が直接被害にあったのは、二百年以上前の独立戦争以来初めてのことだった。民間機の飛行は再開させたが上空の監視の目を緩めることはなかった。当時アメリカが考えたのは、アメリカの東海岸と西海岸の両岸にイージス艦を張り付けて、本土の防空を担当させようという前代未聞のアイデアだった。ただ、アメリカ本土の海岸線は単純に計算しても東西それぞれ二千キロ近い。いくらイージス艦のレーダー性能がいいといっても、最低四隻ずつ、計八隻が必要となる。交代のために待機するイージス艦も用意した場合、その倍は必要になる。こうした事情から、アフガニスタンから遠く離れたディエゴ・ガルシア島にイージス艦を一石でも派遣することは、さしものアメリカにとっても大きな負担だったのである。

 この幹部は、米海軍側が「イージス艦を出してくれ」と具体的に要求してきたことはないが、日頃の会話の中で、「米海軍はこういう艦艇をこういう場所に展開させて、こういうことをやっているよ」といった情報の提供を受けていると話した。

 海上自衛隊と米海軍が調節しながら支援の構想を決めているのではなく、米海軍からキャッチした情報をもとに海上自衛隊側がどのようなプランが可能か、みずから組み立てていくというのがこの世界の流儀のようだ。当時、海上自衛隊の幹部の頭の中には、米迂回軍の苦しい台所事情を軽減してあげたい、しかもそれがアメリカの利益にもなり、日本の国益にもつながるはずだという思いがあったのである。これが最初のイージス艦派遣論gの真相だった。

 チャップリン司令官は、日本のイージス艦のディエゴ・ガルシア島への派遣構想については最後まで語らなかったが、司令官は思わせぶりな一言を述べていた。

「日本の周辺海域で日米が共同演習できるのですから、いつの日にか、海上自衛隊の艦艇が米海軍の艦艇と同じ作業を行う能力があると理解しています。私たちが何を頼んでも、海上自衛隊にはまったく問題なくこなせる能力があるでしょう。しかも素晴らしい働きをするでしょうし、私たちはとても頼りになります」

 海上自衛隊はアメリカの秘匿された苦境さえも共有する立場にあり、それゆえアメリカの働きに敏感に反応したということだったのか。なぜ海上自衛隊が焦りを感じていたのか、謎が一つ解けたような気がした。

 取材班は皆、「日米同盟は海洋同盟である」というある幹部の話を思い浮かべていた。

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 防衛庁の電波傍受施設は、昭和58(1983)年の「大韓航空機撃墜事件」の際、旧ソビエト軍機の交信内容を傍受。政府の判断でその内容を「撃墜の動かぬ証拠」として国連に提出するだが、当時の空気を知る四十歳代半ば異常の幹部自衛官は口を揃えて、「あれで十年遅れた」と振り返る。

 要するに傍受内容の公表で、日本がどういった電波情報をどの程度まで聞いているかという手のうちを明かしてしまったことになった。ソビエトはその後、当然のことながら交信方式を変更した。その解読に再び追いつくのに十年を要してしまったというのである。電波傍受能力に関する情報は、極めて秘匿レベルの高いものなのだ。

 さらに、防衛庁・自衛隊にとって、もっと隠さなければならない存在がある。米軍情報である。

 防衛庁の電波傍受施設が動き始める前に、アメリカの軍事衛星から工作情報はもたらされる。アメリカの軍事衛星は、北朝鮮の工作船情報はもたらされる。アメリカの軍事衛星は、北朝鮮の工作船拠点とされるナムポ(南浦)、ウォンサン(元山)、チョンジン(清津)などをはるかな上空から監視、工作船の出入港状況を常時とらえている。出港後も複数の衛星で代わる代わる追跡する。情報は米国防総省情報部局と防衛庁情報本部、横須賀を事実上の母港とする米海軍第七艦隊と海上自衛隊自衛艦隊司令部の、主に二つのルートで入ってくるとされる。こうした情報と並行して防衛庁電波傍受施設での工作船の位置特定作業が進められ、最後に哨戒機P3Cの乗員が目視で相手を確認する、というカラクリだ。

「日米安全保障」の一端と言えばそれまでだが、一般国民には縁遠い両者の関係性がそこにある。

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「日米同盟はその実、海洋同盟である」(海幕防衛課幹部)

すなわち、日米関係の根幹は、戦後一貫して「アメリカ海軍と海上自衛隊にあった」、というのである。

「同盟」とは、軍事的意味を多分にはらむ言葉だ。

 海上自衛隊は、ハワイ・オワフ島にある米海軍太平洋艦隊司令部に、常時三佐クラスの幹部自衛官を連絡官として派遣している。ある太平洋艦隊司令官は、海上自衛隊の連絡官にこう話したという。

「日米関係は、政治にも経済にも存在するが、両国のパートナーシップのために汗を流し、時に犠牲を払ってきたのは、われわれ(米海軍と海上自衛隊)だけなのだよ」

 日米同盟は海洋同盟だという思考は、米海軍側にもあるようだ。

 海上自衛隊のトップである海上幕僚長は、例年、年頭の訓示でまず第一に「米海軍との協調」を挙げるという。海上自衛隊の形は、対米関係を極めて重視する日本の縮図ではないのだろうか。

 ある元海将は、日米同盟について、自分たちがアメリカに全面的に与しているわけではない、と前置きしたうえで、次のように語った。日米同盟を単に”友好”や”連携”という言葉で語らないところが印象的だった。

「弱肉強食の国際政治の現実の中で、日本が生きのびるためには、スーパーパワーであるアメリカにつくしかない。国家として長い将来を考えると、長いものには巻かれなければならぬ時代もあるということだ。アメリカは恐ろしい国だ。日本のDNAを残すためには、今は取り入るしかないんだ・・・・・・。百年か二百年かたって、相手(アメリカ)が仮に弱ってくれば、その時には別の選択肢を考えればよい」

/////

 『よみがえる日本海軍』でY委員会の資料を含め、様々な資料や証言を駆使しながら、米海軍からみた「海上自衛隊の創設・現状・問題点」を検証した米海軍の少佐、アワー。アワーはこの論文を上梓した後、同研究に伴って培った海上自衛隊人脈を買われて、昭和48(1973)年まで横須賀の在日米海軍司令官の政治顧問を務めた。アワーはその後中佐に昇任。昭和53(1978)年には横須賀を事実上の母港とする米海軍第七艦隊のフリゲート艦の艦長となり、翌54(1979)年には米国防総省の日本担当課長となった。さらに2年後の56(1981)年、ロナルド・レーガン大統領が就任すると、上司の東アジア太平洋地域担当の国防次官補代理に海軍出身のリチャード・アーミテージが就いた。現在、米国務副長官を務めるアーミテージである。アワーとアーミテージはともに日本をはじめ極東の安全保障政策に深く関わった。アワーは昭和63(1988)年、日本担当部長として米国防総省を去るまで公人として日本に関わり続けた。そして今もたびたび来日し、日米同盟の重要性を訴える講演などをして各地を回っている。

 海上自衛隊の幹部はよく、「アメリカの知日派と呼ばれる人たちは皆、海軍出身なんですよ」とうれしそうに語る。日米同盟の基底は「海軍(海上自衛隊)」にあると言いたいのだろう。

 9・11米同時多発テロ事件の後、インド洋に海上自衛隊を派遣するかどうかの議論が続いていた時、ある海幕首脳は米政府内の知日派について次のように語ったことがある。

「米政府内に知日派と呼ばれる人たちはいるが、決して多数派ではない。その人たちの立場を危うくしないためにも、日本が早期に対テロに協力する姿勢を示す必要があると私は思う。日本がいつまでも決心できないと、知日派の面々は『お前たちの育ててきたという日米安保とはこんなものか』と窮地に立たされかねない」

 アワーは現在、米政府担当者ではなく大学教授の肩書を持つが、この海幕首脳の言う「知日派」とは、アワーと現在も気脈を通じているとされるアーミテージなどを指していたと思われる。もちろん海幕首脳の脳裏にはアワーの姿も浮かんでいたのかもしれない。

 アワーは、日米同盟は戦闘条約ではなく「保険政策」だと言った。同盟の目的は戦争に勝利することではなく、紛争が起こることを抑止するためだと笠間に説明した。

「日米同盟関係は、冷戦期よりも強まったと思う。冷戦後すべての違いを超えて日米には共通する国益がある。日米の人口は世界人口の7パーセントにすぎないが、この7パーセントで世界の富の40パーセントを押さえている。言葉も文化も違うが、二つの豊かな大国が繁栄を享受している。日米はともにこの繁栄を享受したいのだ。ソビエトが敵だった時も、ソビエトの人間が憎いからではなく、彼等がわれわれの富を脅かすから戦ったのだ。日米安保は、不安定に対する保険なのだ」

 アワーはさらに冷戦期を振り返ってこう言った。

「率直に言って、冷戦期のソビエトは『日本はアメリカの奴隷だ』と見誤った。アメリカが戦えと言えば、日本は戦うと思っていた。でもそれが抑止力となった。ソビエトはアメリカの艦隊と戦うだけでなく、P3C、護衛艦などを持っている日本艦隊とも戦わなければならないと恐れていたのだ。その抑止力は大きかった。今、中国、北朝鮮が『日本に闘う意思あり』と思っていたら同じ(効果を生む)だろう。しかし『日本が後方支援しかしない』と思ったらリスクはより大きくなる。アメリカと組むことで抑止力は高まるのだ」

 しかし、日本には憲法解釈上、集団的自衛権の行使に歯止めがかけられている。テロ対策特別法に基く対米支援が進められているが、アメリカは日本にどこまでの協力を求めているのか笠間はアワーに聞いた。

「内閣法制局が『日本には集団的自衛権があるが、それを行使できない』と言ったから、制限された。日本には、(一)何もしない、(二)後方支援、の二つの選択肢しかなくなった。しかし、もし日本が将来決断したら、(一)何もしない、(二)後方支援、(三)小規模の戦闘、(四)中規模の戦闘、(五)空軍も導入しての大規模戦闘、という五つの選択肢に増える。しかし、今は政策によって選択肢は二つしかない。今はいいが、将来、後方支援だけでは不十分になったらどうなる?日本の貢献はアメリカ人だけでなく、日本人から見ても不十分なものになるだろう」

 そしてインド洋、アラビア海で進められている海上自衛隊による対米後方支援について「とてもよい評価をしている」としたうえで、その意味をこう解説した。

「今回(の海上自衛隊による支援)は、とても自然な継続の結果だと思うんだ。帝国海軍は1945年で解体され、1952年に(GHQ=連合国総司令部による)占領が終わり、日本にも小さな陸海軍=自衛隊ができた。その初期においてすら、米海軍と海上自衛隊は緊密な関係を持っていた。陸や空の日米関係よりも緊密だった。海運国である日米の国益は、太平洋においてとても近い。陸・空でも現在は日米でより緊密な関係ができているが、海上自衛隊と米海軍の関係は早い時期から築かれ、とても洗練されたものとなっている。1980年代、海上自衛隊と米海軍はとても近かった。1990年代、湾岸(湾岸戦争における日本の軍事的非協力)によってそれは遠ざかった。しかし、それは海上自衛隊のせいではなく政治の問題だ。今、小泉首相が決断し、海上自衛隊は行動できた。政治的決断さえあれば、海上自衛隊は行動できる。日本、そしてアメリカ、さらにイギリスの三カ国はいずれも海運国であり、国益において協力できる」

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 式典では、正面の壁いっぱいに飾られた巨大な「日の丸」と「自衛艦旗」を背にして、石川亮海幕長(当時)が壇上に登った。その場に居合わせた藤木も右田も小貫も笠間も、現役最高幹部が創設50周年のこの日をどのように総括するのか、かたずをのんで見守っっていた。石川海幕長は、終戦直後のある「伝説」から始まった。

「昭和20年(1945)年11月30日、帝国海軍は77年の歴史を閉じました。巻く引きを務めましたのは最後の海軍大臣である米内光政大将であります。帝国海軍が終焉を迎える日、海軍省の中庭において、米内海軍大臣はじめ海軍省職員が見守る中、海軍軍楽隊による演奏会が行われました。その時、最後を飾った曲は、栄光の海軍を象徴する『行進曲海軍』でありました。聴く者も、演奏する者も涙を禁じえず、万感胸に迫るものがあったと伝えられています。この演奏会に参加した人々の胸に去来したものは、海軍への惜別の念と、いつの日にか新たな海軍を再建したいという熱い思いでありました」

 帝国海軍は、明治元(1868)年に海軍局が設置されたのをその起源としている。

 そして敗戦の年(昭和20年)、9月13日に陸海軍の統帥権のすべてを掌握していた大本営が廃止、10月15日に海軍の全作戦を司る軍令部が廃止、陸海軍は完全に武装解除され、11月30日、海軍省も廃止されて77年の歴史に幕を閉じることとなった。

 石川海幕長が式辞の中で披瀝した「伝説」とは、旧海軍最後の日に起きた出来事である。

 海上自衛隊や旧海軍関係者の間で言い伝えられているのだが、この日、今の東京・霞が関の厚生労働省と農林水産省の敷地にあった旧海軍省の中庭に生き残りの海軍省職員が集まり、海軍軍楽隊による演奏が行われた。そして曲目の終わりに「行進曲 軍艦」、いわゆる軍艦マーチが奏でられたのだという。当時、軍艦マーチは軍国主義の復活につながるとして、演奏は自粛されていた。海軍がなくなるにあたり、米内海軍大臣は「海軍の再建」を部下の海軍省幹部に委嘱したというのが「伝説」の中身だ。

 その時、実は軍楽隊の演奏はなかったというのがのちに判明した史実のようだが、石川海幕長の式辞がいきなり海軍解体の話から始まったことに取材班は戸惑いを感じた。各国の駐在武官が列席し、NHKだけでなく民放各社のテレビカメラも回る公の場で、現役最高幹部が「海軍を再建したいという熱い思い」を明言したからだ。

 もちろん内輪では、「伝統墨守、唯我独尊」の海上自衛隊といわれるだけあって、「海上自衛隊は帝国海軍の伝統を受け継いでいる」という話をたびたび耳にした。ただし、現役最高幹部の口から公式の場でこうした発言が出ようとは予想だにしていなかった・・・・・・、というより、いわゆる五五年体制の時代なら、海幕長の進退問題に発展しかねない発言だった。しかし、何事もなかったように、石川海幕長の式辞は次にY委員会の歴史に移っていく。

「日本国民の軍に対する抵抗感が極めて強い時代における旧海軍軍人を中心としたこの一大プロジェクトは、おそらくわれわれの想像を超える大変なご苦労を伴ったものと推察されます。これら諸先輩の心を支え、苦難を乗り越えさせたものは、米内大将以下が海軍最後の日に誓った『新しい海軍』を再建し、再び『行進曲 軍艦』をよみがえらせるという一念であったと思います」

「われわれは、今後とも海軍のよき伝統を日本の財産として、堂々と継承してまいります。そして、そのうえに『真心を尽くす』ということを精神基盤とした海上自衛隊のよき伝統を築き上げていく決意であります。

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 海上自衛隊の幹部(三尉以上)と呼ばれる人たちに「アーレイ・バーク大将を知っていますか」と問えば。99パーセントの人は「はい」と答えるだろう。今の若手士官でも知らない人はいない。そして、皆バークを「海上自衛隊の生みの親」の一人として認識している点で一致している。

 1901(明治34)年に生まれたアーレイ・バークは、メリーランド州アナポリスにある米海軍兵学校を卒業、太平洋戦争で日本海軍との熾烈な戦闘を戦い抜いた。戦後、1950年(昭和25)年9月に来日。当時、東京にあった米極東海軍司令部の参謀副長(少将)として、朝鮮戦争が激しさを増す中、翌5月に転属になるまで勤務を続けた。

 この日本滞在の間、バークは旧日本海軍幹部らによる「海軍再建」計画に助言を与え、彼等の意向を米海軍作戦本部に伝える役割を担った。アメリカによる占領下、バークの存在が海上自衛隊の前身、海上警備隊の発足に果たした役割は極めて大きかった。

 その後、バークは1955(昭和30)年に米海軍トップの作戦部長(CNO)に就任。歴代作戦部長の中でも異例と言える三期六年の任期を勤め上げ、退役した。この間バークは、米海軍と同じ護衛艦や対潜哨戒機を海上自衛隊に対して提供することに尽力した。この頃つくり上げられた海上自衛隊の部隊編成は、現在のそれの基礎とも言える。

 バークの存在は、海軍兵学校出身の草創期の幹部たちから防衛大学校世代の幹部へと語り継がれてきた。さらに1970年代、バーク自身が米東海岸のノーフォーク海軍基地に寄港する海上自衛隊の遠洋航海部隊の初任幹部に対し、決まって「海軍士官のあり方」といったテーマで講和を行っていた。この頃の初任幹部は、今海上自衛隊の最高幹部クラスに位置している。こうした背景があって、海上自衛隊では今の若手士官に至るまで、バークを「(みずからの組織の)生みの親」と認識しているのである。

 また、海自の公的な記録の中でもバークは圧倒的な存在感を示している、1977(昭和52)年、創設から25年を迎えて海上自衛隊が編纂した『海上自衛隊二十五年史』には次のような記載がある。

「バーク少将は米極東海軍司令部参謀副長の職を離れた後も、わが国の防衛力建設に関するよき理解者であった。海上自衛隊が設立された後、米海軍作戦部長バーク大将の尽力により『あきづき』『てるづき』二隻の護衛艦が域外調達され、海上自衛隊に提供された他、当時の最新鋭対潜機P2V−7・16機、及びS2F−1・60機が無償提供され、P2V−7の国産が実現するなど、同大将は創設期の海上自衛隊の育成に多大の尽力を与えた」

こうした関係だから、海上自衛隊は、海上自衛隊はアーレイ・バークを非常に大事にした。ある意味で「ご先祖様」のような感覚で敬っていたところがある。防衛庁担当記者の小貫は、現在の海幕副長・道家一成海将からバークの思い出を聞く機会があった。

道家海将は、平成2(1990)年6月から同5(1993)年までの三年間、ワシントンの日本大使館で防衛駐在官を務めた。当時の階級は一佐だった。

大使館着任後間もなく米海軍のトップ、海軍作戦部長の交代式がアナポリスの米海軍兵学校で行われた。この式典に海幕長経験者四人が出席した。四人の米滞在中の日程に「バーク大将訪問」もあり、道家海将が案内することになった。

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増田教授

「アメリカという占領する側の考えが変わると、直ちに占領される側の日本は影響を受ける。占領された側としてはやむをえないことだが、日本はアメリカの方針転換に翻弄され続けた。軍人などの公職追放解除をめぐる動きも、その最も顕著な例だったのだと思います」

占領開始直後、アメリカは日本の非軍事化・民主化を中心とした政策を行っていたが、冷戦の開始に伴い、1948年1月、ロイヤル陸軍長官の「日本の反共防波堤化」演説をきっかけとして変化していった。さらに同年10月にまとまられた対日占領政策「NSC13/2」によってアメリカは、日本の経済自立化を促す方向へと大きく政策転換した。それが海上自衛隊の創設に関するアメリカの転機だったと増田教授は指摘する。

 ただし・・・・・・、と増田教授は付け加えた。

「日本は、アメリカの変心に翻弄されるだけでなく、したたかにそれを自分のものにしていった。その姿に今の日本を見るうえでの連続性を感じます」

 占領期と戦後日本の「連続性」。この言葉は番組にとって重要なキーワードとなっていく。

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1948年(昭和23)年3月 マッカーサーとジョージ・ケナンの会話記録

 朝鮮戦争前、国務省をはじめとするアメリカ政府は、すでに日本の再軍備の可能性を検討し始めていた。しかし、マッカーサーは再軍備は不可能であると考えていた。

 当時は国務長官高官であったケナンとの会話の中で、「日本人の戦争体験からくる再軍備への拒否感」と、日本国憲法の存在がそう考える理由だと明確に語っている。

1948年10月21日 国務長官から米統合参謀本部へのメモ

 アメリカ政府は、「共産主義の防波堤として」日本の再軍備を必要と考えていた。しかし、具体的な方法としては、軍隊再建ではなく、警察機関の創設によって補おうという計画であったことが記されている。

 一とあわせて、朝鮮戦争の時のアメリカ政府は、海軍再建について積極的な考えをもっていなかったことが明確である。

1950(昭和25)年、1月と4月 国務省幹部による会話記録

元海軍大将・野村吉三郎が、GHQ外交局の幹部を少なくとも二回にわたって訪問したことが記録されている。

 その時、野村氏は「日本はスイス=中立国にはなりえない。アメリカの長期にわたる保護がぜひとも必要である」と進言したと記されている。

 第二復員局がアメリカへの働きかけを始める頃と前後して、公職追放されていた旧海軍の大物が、密かにアメリカとのつながりを強めていたことを物語っている。

1950年8月19日 ダレス宛ハリー・カーンからの書簡

 この文書を読んだ時、キャサリンと右田は一瞬顔を見合わせた。「EMPEROR’S MESSAGE=天皇のメッセージ」という言葉が記されていた。日本再軍備の関連文書に、なぜ昭和天皇に関する文書が含まれているのか。

 これは、バケナムという米国人ジャーナリストが昭和天皇の側近と会話した内容を、ハリー・カーンというニューズウィーク社極東部長が、国務省のダレスに報告する手紙だった。

 昭和天皇の側近が、「天皇は、公職追放緩和を求めている」と伝える内容だった。

 キャサリンは一読し、これは「バックチャンネル=裏の外交ルート」だと表現した。戦後、政治に関わらないと憲法で定められた天皇。その権威が政策に何らかの形で影響を及ぼしていた可能性を示していた。

1951(昭和26)年3月19日 海軍作戦部長から統合参謀本部への覚書

 日本人を要員とした艦艇の武装化を早急に進める必要性があることを進言する内容である。すなわち、米海軍が日本海軍の再建を積極的に支持していることを示している。

1951年8月28日 マーシャル国防長官からトルーマン大統領への書簡

 日本人を要員とした艦艇を武装化し、その日本海軍を防衛と国内治安の安定のために使用したいと大統領の承認を求める書簡。

「旧帝国海軍軍人たちの働きかけによってアメリカは、日本に海軍を再建することが必要だという方向へ考え方を変えていったのではないか」





▼2004年8月12日 西日本新聞 非戦の回廊 自衛隊―加速する変容

 二〇〇三年一月、米国務副長官リチャード・アーミテージは日本人記者団を前に上嫌だった。「日本は素晴らしい旗を見せた」。前年十二月、海上自衛隊のイージス艦が、アラビア海でアフガニスタン作戦支援の洋上給油を続ける補給艦警護のため横須賀を出た。米軍とリアルタイムでデー夕を共有し共同作戦が可能な最新鋭艦。憲法が禁じる集団的自衛権行使につながるとの論議を積み残したまま、政府は派遣に踏み切った。

  ○一年「9・11米中枢同時テロ」後、米軍は警戒監視の一角を任せたいと派遣を打診。反対派を抑え一九八八年の日本への売却を後押ししたアーミテージも派遣に期待を表明していた。
 海軍出身のアーミテージは海上幕僚監部の幹部を前に「米海軍はここ」と手をかざし、その手をわずかに下にずらし「次がJMSDF(海自)」と言ったことがある。

 「冷戦を共に闘い抜いた。米は海自の実力を分かっている」と幹部。
 海自は自衛隊の中でも特に米軍との結び付きが深い。米海軍から艦艇を譲り受けて発足。冷戦期の八〇年代、環太平洋合同演習(リムパック)などで共同訓練を重ね、旧ソ連の潜水艦封じ込めの共同作戦を展開した。

  海自出身の元統合幕僚会議議長夏川和也は「最初は大人と子供。装備もノウハウもすべて見習った」と言う。米海軍にとって信頼できるパートナーであることが日米同盟を支え、国益につながるとの意識が強い。





▼阿川尚之 著『海の友情 米国海軍と海上自衛隊』

アワーだけでなく、戦後横須賀や佐世保に駐在した経験のある米海軍関係者は、その多くが現在にいたるまで日本と日本人に好意的である。私がアメリカに住んでいたときも、むかし日本に駐屯していたという現役退役の海軍士官や下士官に出会うと、決まってなつかしそうに思い出を語ってくれた。もしかすると、日本で勤務した米国軍人、特に海軍軍人は、層の厚さからも数のうえからも、もっとも有力な隠れ親日派かもしれない。

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 留学から帰った内田は、その後昭和四十四年(一九六元年)、海上自衛隊の最高指揮官である海上幕僚長に昇進した。この職を三年弱務めたあと、昭和四十七年に退役する。海上自衛隊での最後の十年間、内田は与えられた任務を黙々と果たした。しかしアメリカでの厚遇と比して、日本で海上自衛隊幹部が尊敬を受けることは少なかった。国防に関する海上自衛隊制服組の考え方は、なかなか理解されない。日本政府は国の防衛について真剣に考えていない。ソ連の脅威について認識が足りない。シビリアンコントロールがなていない。我々の話が本当に通じるのは、海の上でともに訓練に励むアメリカ海軍だけだ。航空自衛隊や陸上自衛隊よりも、むしろ話が通じる。

  「ネイヴィーは不思議なものです。そこにはもっとも洗練された国際的に通じる文化がある。飾らずとも交わっていける共通の教養をもっている。マナーからすべて、おまえネイヴィーか、ああそうかとなる。互いにわかりあえる。遠慮がいらない。海が影響しているのはまちがいないと思います。海というのは、嘘を言ってもはじまらないのだから。嵐がくると、同じ方法で危難を避けねばならない。大自然を相手にし共通の流儀をもった集団同士、仲間としての意識がある。ネイヴィー同士、時には同胞よりも話がしやすい。

  情が移るというのですかねえ、わが先輩がぶつかっていって負けた国の海軍、それと仲良くすることによって、わが先輩の意志に沿うているんじゃないか。最大の敵と最大の仲良しになるのを、先輩に見せてやろうじゃないか。そういう気持ちがありましたねえ」

  話が通じやすいネイヴィー同士がさらに親しくなり、いざというときともに働くためには、もっともっと人的交流を活発にせねばならない。留学から帰ってから今に至るまで、内田はそう信じてきた。海上自衛隊が世界で名誉ある地位を占めるためには、同じ海軍同士の友情を築くのが早道だとの計算もあったろう。海草長時代、各国の海軍と人の交流にっとめた。東南アジア各国の海軍ともつきあいができたし、同盟国アメリカの海軍とのつながりは特に大切にした。

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戦時中渾身の力をふりしぼってアメリカ海軍と戦った中村は、戦後海上自衛隊に入って米海軍から学び、艦艇や航空機を譲り受け、共同で訓練に励む立場に置かれた。アメリカ人の教官は概して親切でオープソで、悪い印象は持たなかった。海の戦いは陸の戦いと違い、顔をつきあわせて殺し合うわけではないから、個人に対する憎しみや恨みはお互いに抱かなかった。それに米海軍も日本海軍も英国海軍の末裔であり、訓練や作戦のやり方に違和感はなかったという。

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 兵学校時代は目立たなかったバークが、任官するとめきめき頭角を現した。最初に乗り組んだのは戦艦「アリゾナ」である。持ち前の体力とやる気で艦内のつらい仕事を完璧にやりとげるこの若い士官ぱ、上官の注目を引いた。バークはこの艦で五年間勤務する。異例の長さであった。彼のすさまじい働きぶりを見て、同僚士官たちは「パークは五十になるまでに死ぬだろう。もし死ななければ海軍作戦部長になるだろう」と噂しあったという。
(中略)

  このころからパークは日本に興味を抱いていたらしい。一九二九年、一通りの艦隊勤務を終えたパークはアナポリスヘ戻り、幹部教育を受ける。そのあと、ミシガソ大学で一年間化学を学んだ。ある目、パークの書斎に太平洋とアジアの地図が貼ってあるのを見た級友が、不思議に思ってそのわけを尋ねると、パークは「君、我が国はいつか日本と戦うことになる。そのときにはお国のために太平洋でひと働きするつもりだ。そのためにもこの地域のことをできる限り詳細に頭へ叩き込んでおく必要がある」と答えたそうだ。パークがミシガン大学から修士号を得て無事卒業した、その十年後、彼の予想したとおり両国間で戦争が始まる。
  バークの名が内外に知られるようになったのは、戦争中ソロモン海域で縦横の活躍をしてからである。開戦時ワシントンで勤務についていたバークは、艦隊勤務を再三懇願して、四三年の二月、第四三駆逐隊司令としてようやく南太平洋に出る。海軍大佐に昇任したあと、十月第二三駆逐隊群司令に任ぜられた。エスピリトゥ・サント島で旗艦「チャールズ・S・オースバーン」に着任したパークは、集合した傘下の駆逐艦長たちに、かねて用意した戦術書を渡す。その表紙に
は、こうあった。

  ジャップを殺すに役立つなら、重要なり
  ジャップを殺すに役立たぬなら、重要でなし
  常に貴艦の練成度を高め、戦闘に備えよ
  常に補給を怠らず、戦闘に備えよ
  常に戦闘準備状況を、上官に報告せよ

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 日本滞在中のパークにもっとも大きな影響を与えたのは、開戦前夜駐米大使を務めた野村吉三郎元海軍大将である。ホテルでのでぎごとをきっかけに、バークはこの国のことをもう少し知りたいと思った。日本人の哲学と論理は何なのか。何が彼らを万歳突撃に駆り立てたのか。どうして日本人は自分たちどうし、あるいは外国人に対して、こんなに礼儀正しいのか。あれほど荒々しい戦い方をする人々が、他人の気持ちになぜこれほど気を使うのか。中国人や朝鮮人とはどこがどう違うのか。誰か自分にこれらのことをわかりやすく説明してくれる人はいないだろうか。
ピアス大佐に相談すると、野村を推薦された。

  バーク自身の文章によれば、野村は、バークを最初自宅に招き、着物を着せ、畳の上に座らせた。野村は机の上に大きな朝鮮の地図を広げ、日本の朝鮮統治の歴史と、なぜそれがうまく行かなかったかを説明する。そして地図を十五分間集中して見つめ、できうるかぎり多くを記憶するようにと言った。そのあと今度は地図をどけて、覚えたことを現在の戦争と関連づけて考えるようにと命じる。沈黙のなかでさらに十五分ほど経ったとき、バークは少し足を動かした。すると野村が言う。「どうしたのかね」。

  「足がしびれたので動かしましたと私が答えると、野村は言った。それが君の最初の教訓だ。朝鮮半島の地図を思って集中していたら、しびれなど感じなかったはずだ」

  こうして戦争に負けた国の引退した老海軍大将と、戦争に勝った国の前途ある海軍少将のあいだで、交流が始まった。日本に滞在した約九ヵ月のあいだ、バークは忙しい合間を縫ってほぼ一週間に一度野村に会う。野村はパークに、地理や天候そして国民性といった、いつの時代にも変わらぬ要素がいかに重要かを教えた。「国連軍が鴨緑江に近づいたら中国は参戦するだろうか」とある日パークが尋ねると、野村は「必ず参戦する、奇襲攻撃をかけるために密かに参戦するだろう」と、確信をもって答えた。周恩来がインドでのスピーチで警告しているではないか。国家は狼のごとくだ。隅に追い詰められたら必ず激しく抵抗する。バークはその内容を国連軍の情報担当者に知らせたが、誰も耳を貸そうとしなかった。そして野村の予言は100パーセント正しかったと、バークは記す。

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 バークは日本滞在中、海上自衛隊の前身である海上警備隊の誕生にあたって大きな役割を果たす。敗戦とともに海軍は解体されたが、戦前の英米協調はを中心とする海軍指導者は、将来の海軍再建を期していた。海軍省を引き継いだ第二復員省内部では、密かに再建計画の作成が行われる。しかし戦後しばらくは、海軍の再建など夢にしか過ぎない。一九四八年五月に海上保安庁が発足し、最小限の武装を許された巡視船が海上の治安維持にあたるようになったときでさえ、日本海軍の復活につながるとして、占領行政を監督する対日理事会や極東委員会の席上でソ連が反対し、イギリス、中国、オーストラリアの代表も警戒感を表明した。占領事総司令部内でも、民生局が当初反対の立場をとった。

  戦後日本へ進駐した米海軍は、しばしば米内光政、山梨勝之進、野村吉三郎など海軍の良識派といわれた指導者を宴席に招き、鄭重に遇した。日米海軍間には戦前活発な交流があった。たとえば海軍作戦部長をつとめたウィリアム・V・プラット大将は、一九二九年練習艦隊司令官として野村が米国艦隊旗艦「テキサス」を訪れたとき、同艦隊長官であったし、連合軍紀司令部最初の海軍代表ベアリー少将は、そのとき長官の副官を務めていた人物である。一九三一年から三二年にかけて第一次上海事変が起こったとき、作戦部長になっていたプラットは、ワシソトソ駐在の海軍武官下村正典大佐と夕食を共にする。そして日本海軍はなぜ野村を上海に派遣しないのかと尋ねた。下村は早速本省に電報を打ち、米海軍の意向を伝える。東京の海軍首脳はこの意向を尊重し、野村を上海に派遣した。その結果、事変が日米関係に悪影響を与えることはなかった。日米海軍間には、このように緊密な意思疎通があった。

 こうした戦前のつながりがあればこそ、野村はベアリー少将はじめ米海軍の友人だちと会うたびに、日本海軍再建の構想を語った。彼らは共感を示しはしたが、具体的な動きにはつながらない。海軍軍人同士の友情はあっても、アメリカ偏はまだ、日本の再軍備を真剣に考えていなかった。

  米側の態度が徴妙に変化しはじめるのぱ、朝鮮戦争が勃発する前後である。アワーの研究によれば、すでに一九四八年の終わりごろ、米国国家安全保障会議が日本における軍事能力拡張を秘密裏に推進するとの決定を下し、翌年日系の米民間人を極東米海軍司令部に送り込んだ。そしてこの人物が一週間に二回、海上自衛隊発足後第二代の海上幕座長となる長沢浩元海軍大佐と会い日本語で情報関係事項や再軍備について旧日本海軍士官たちの考えを聞いた。

  一九五〇年六月朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは警察予備隊の発足ならびに海上保安庁の8000人増強を、日本政府に対して書簡で指示する。続けてその秋、吉田茂総理が米偏要人を招いた席で、極東米海軍司令官ターナー・ジョイ中将が、野村に向かって語りかけた。「ソ連から米国に返還されたフリゲート艦(PF)が18隻ある。これを日本に貸与してもよい」。同じころ、日本へ着任したばかりのバークが大久保海上保安庁長官に、「ソ連に貸していたフリゲ
ート艦をとりもどすので、海上保安庁の任務に提供してもよい。その使用の方途を研究するように」と話を持ちかけている。

  バークは、大久保にワシソトンを訪問して海上保安庁強化を陳情するように勧め、翌年一月大久保はそれを実行に移す。大久保はペンタゴンで、巡視船の速力(一五ノット)ならびに船型(一五〇〇トン)制限の撤廃、大砲の搭載、アメリカのフリゲート艦提供、浮遊機雷監視用航空機保有などを要請した。これらの要求はパークからの根回しもあって、ことごとく承認されたという。

  一方、一九五〇年六月にはジョン・フォスター・ダレス米国務省顧問が来日し、吉田首相と講和ならびに再軍備について話し合った。バークが大久保の海上保安庁強化案を支持していたことなどからみて、この時点ではアメリカ側に、日本海上兵力別途創設の意図はない。再軍備構想も、陸上兵力増強が中心のようだった。

  この事態に危機感をつのらせたのが、海軍再建をめざす日本海軍の元指導者たちである。野村と近い立場にあり米内光政海軍大臣のもとで最後の軍務局長をつとめた保科善四郎元海軍中将は、そのあたりの事情について「我が新海軍再建の経緯」という手記を残している。これによると、朝鮮戦争勃発に伴い再軍備の動きが出てきたが、「米国の意向として伝へらるる所に依れば海、空軍は米国側にて引受け陸軍丈け再建する方針の如く、斯くてぱ陸軍独走の苦い明治、昭和の歴史を繰り返す虞あり、陸、海、空同時再建の必要を米国側に理解せしむる必要ありとし、其運動の開始に努力することとなった」とある。

  一九五一年一月十七日、保科は野村を自宅に訪ね、自らの危惧を伝える。これに対して野村は近く再来日するダレスと面会すべく努力していることを明かした。それを受けて保科は、ダレスに申し入れるべき内容を盛り込んだ海軍再建に関する意見書を、野村のために用意すると約束した。

  野村はまず根回しのため、一月二十二目ジョイ極東米海軍司令官を訪れ、新海軍再建案を示す。この案は、第二復員省の仕事を引き継いだ厚生省復員局残務処理部内で前年十月旧海軍関係者が作成した、再軍備に関する研究資料をたたき台としたものである。同研究資料によれば、軍は陸軍と海軍の二本だてとし、海上兵力は巡洋艦二隻、駆逐艦一三隻をふくむ総隻敬二七五隻、二一万トン、兵力約三万四〇〇〇人となっている。ジョイは提示された再建案の規模に驚きを示した。そして自分は総司令部から日本海軍再建について任されているけれども、米海軍は西太平洋の制海権を確保する力針であり、この海面を去る意思がない、再建日本海軍については横須賀に繋留中のフリゲート艦を基幹とするコーストガードくらいの規模を考えていると述べた。野村がさらに詳細を計画の策定者から説明させたいと申し入れると、ジョイはバークを指名し紹介する。

  野村に指名されてバークヘの説明に当たることになった保科は、まず旧友エディー・ピアス海軍大佐に再建案を示し、パーク少将の人となりを尋ねた。ピアスは、「彼はファイティング・オフィサーでありシンシャーでエーブルで級友の評判の良い方である」と説明し、次いで電話にて保科を紹介し、「保科とは二十年来の知友であり信頼し得る人物で海軍はもちろん部外の評判も良い、胸襟を開いて話されたい」とパークに伝えた。ピアスという人は海上警備隊誕生史の節目節目で、重要な役割を果たしている。

  保科が初めて正式にパークと面会したのは、一月二十三日である。、、ハークは保科を「頗る慇懃に接待」した。保科は再建案をバークに示す。このときの内容は復員局作成の研究資料よりさらに増大している。護衛空母四隻、潜水艦八隻、巡洋艦四隻、総隻敬三四一隻、総トン数二九万二〇〇〇トン、海空軍機(海軍航空隊航空機のことだろう)七五〇機。戦前の海軍に比べればどうということはないが、ネイヴィー相応の規模を考えたことがわかる。

  これに対しパークからいくつかコメントがあった。海空軍を必要とする理由を明記せよ。海軍整備の実際計画を記述せよ。米海軍としては横須賀に繋留中のフリゲートなどをなるべく早く渡すよう、海軍省に申し入れる。海軍の任務をもっと具体的に記述すること。海上にはよく訓練された士官を要する理由を明記せよ。これは文官にはわかりにくいから、はっきり書け。一々もっともな指摘であり、反応はおおむね好意的であった。二十九日、保科はバークのもとに修正案と兵力配置図を持参する。バークは一覧のあと“Excellent and Perfect”と賞賛した。保科がこの反応を野村に報告すると、大変喜んだという。

  一月末再来日したダレス特使に当初会見なかったので、野村は私信をしたため海軍再建計画の修正案と一緒にダレスの秘書フィアレーを通じて届けた。ダレスの随員に海軍の代表がおらず、特使は陸軍の再建だけ考えているとの情報がもたらされ、野村は少し気弱になる。しかし二月三日シーボルト大使邸で催されたカクテルパーティーの席で特使と初めて会ったとき、修正案の礼を述べられ、気をよくした。修正案は二月九日、吉田首相にも届けられる。

  その後保科はパークに会って、ダレス特使は陸上兵力しか考えていないのでぱと懸念を表明する。パークは、ダレスは再軍備の細目にまで手が届いていない、自分はダレスの随員であるジョンソンに日本のような島国は英国と同様海軍と海軍航空隊が国防上絶対必要だと話したが、反論はなかった。野村修正案はジョイ司令官名でシャーマン作戦部長あてに送り、すでに同意を得ている。正式のルートで回答があるだろうと伝えた。そして日本海軍の再建は、「米国の利益ともなり又日本の為にもなると思ふと云う根本的の考の下に相互信頼の上に立てる良い日本海軍の再建を力説した意見を作戦部長に対し提出した」と付言した。

  アワーの研究によれば、、ハークは三月にコ斐ワシソトンヘ戻り、ラッドフォード大西洋艦隊司令長官と会って、ソ連から返還されたフリゲート艦を日本に使用させる件について話し合った。ラッドフォード司令長官には日本海軍の必要性を強調し、新日本海軍が掃海艇と哨戒艇で出発すべきという自分の考えを述べたと、バークは同地から東京のジョイ極東米海軍司令官あてに送った書簡のなかで述べている。ワシントン滞在中、おそらくシャーマン海軍作戦部長ともこの件について語っただろう。

  東京へ戻ったバークは、三月三十一日、日本政府が野村修正案に同意ならば米海軍は野村バーク案にて進めるとのシャーマソ作戦部長の意向を、保科たちに伝えた。ところが大蔵当局が同案発足後の維持費に問題ありとして、同意しない。国の財政を預かる立場としては、まだとても海軍を維持でぎないと考えたのであろう。このため米海軍の好意的提案を無にすることとなった。保科は「我国の将来を考え遺憾極まりなし」と述べている。

  この事態にもかかわらず、パークは野村たちの活動の支援を熱心に続けた。四月三日保科邸で野村とピアスを交え懇談したときに、パークは、「日本海軍の建設に適当な海軍士官を一〇人ぐらい出してもらうよう一案を海軍省に提出してある。同意を得ればジョイ司令官からマッカーサーに相談し、日本海軍士官を入れて共同で計画と訓練を行なうための部局を作り、将来の海軍省の基幹としたい。自分はもうすぐ巡洋艦戦隊の司令官として日本を離れ、その後秋にはワシソトンヘ戻るが、そうしたら海軍省で実現に努力する」と述べた。

  これより少し前に、バークは「船舶の護衛、哨戒、掃海および漁船の保護などの業務を計画しかつ実施するための機構制度に関する研究」を提出するよう、日本側に申し入れていた。これに応える形で四月十八日、野村からジョイヘ、保科からバークヘ、復員局で完成させたばかりの第二次研究資料が届けられる。本資料は艦艇、航空機、武器および弾薬をアメリカから一時貸与してもらい、要員、給料、弾薬以外の補給物資を日本が負担して、将来の海空軍の母体とすることを提唱していた。そして本計画実現の方法には、独立した戦力機関、海上保安庁の外局、極東米海軍司令部の編成指揮下に置く機関という三つの方法があるが、第一案が理想的で、第三案は望ましくない、第二案がもっとも実現性があると記した。日本側はもし独立組織を創設するならば、憲法に抵触しないこと、外国、少なくとも西側諸国の正式な同意を取りつけること、議会の承認を得ること、自主独立のものたるべきこと、旧海軍から人を得ること、米軍に連絡参謀を派遣し日米合同研究委員会を設け、米海軍と緊密なる連携を維持することなどを強調した。

  パークはこの計画に大いに感銘を受け、四月二十二目、七ページに及ぶ書簡に日本側の新しい案を添付して、海軍作戦部長の部下である国際部長のジェームズ・サッチ少将に送った。そして少将に作戦部長への説明を要請する。書簡のなかでパークは「この問題はいつかは我々が直面しなければならないものである。早く取り組めば取り組むほど、アメリカにとってより有利な結果となろう」と述べた。日本側の三案については、「新日本海軍は必ずしも海軍と呼ばれる必要はない。沿岸警備隊あるいは海上警察、またぱその他の名称であってかまわない」。四、五人のアメリカ海軍士官と約一〇人の日本海軍将校で日米合同研究グループをつくり、小規模な日本海軍の創設について研究、計画、指導をさせよう。「これらの旧日本海軍将校グループは、新しい日本海軍省の中核となるであろう。合同グループはまず第一歩として小規模の海上部隊―おそらく六隻を越えない哨戒艇と小規模の将校下士官兵訓練学校を設立するであろう」と付け加えた。

  ここまで尽力したあと、五月はじめ、第五巡洋艦戦隊司令官に任命されたパークは東京を去る。九月には対日講和条約と日米安全保障条約がサンフランシスコで調印された。その一カ月後の十月十九日、総司令部を訪れた吉田首相は、最高司令官リッジウェイ陸軍大将に対し、横須賀に繋
留されているフリゲート艦受け入れの意思があることを正式に表明する。すでに一年前、野村と大久保に打診のあった、ソ逓から返還された艦である。翌日、岡崎勝男内閣官房長官は、山本善雄元海軍少将と柳澤米吉第二代海上保安庁長官を官邸に招く。そして貸与舟艇の受け入れと運用態勢確立のため、旧海軍から八名、海上保安庁から二名、計一〇名からなる委員会をもうけ、政府の諮問に応じて欲しい旨を伝えた。

  こうして発足したのがいわゆるY委員会である。この委員会では、新しい組織を海上保安庁から独立したものとするかどうかについて、何回もやりとりがあった。そして翌一九五二年四月、海上警備隊がとりあえず海上保安庁の付属機関として発足した。同年八月、海上警備隊は海上保安庁から独立し、警察予備隊とともに保安庁警備隊となる。海上保安庁の航路啓開部門、つまり朝鮮水域で活躍した掃海部隊は、警備隊に吸収された。さらに講和条約発効後の一九五四年七月、海上自衛隊として再発足する。野村たちが夢見た海軍再建は、こうしてようやくその第一歩を踏み出した。

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 海上警備隊発足に一役かったことは、バークにとってもよい思い出になった。このころのことを、バーク自身はのちにこう記す。

  「(海軍関係者との議論のなかで)私は日本が本土と重要な海上交通路を防衛するために、十分な規模の海軍を保有すべきだという、自己の見解を披瀝した。そう主張したのは、何も日本のためではなく、合衆国のためである。日本が自らの防衛力を有することは、自由世界と合衆国の利益にかなう。なぜなら合衆国が日本を守れないときが必ずくるからである。私は合衆国と日本が友好国であり同盟国であるべきだと信じた。(中略)世界のために貢献するには、他国に影響を及ぼし得るよう、経済、軍事、政治の各分野において強力でなくてはならない。三つすべてが必要である。どんな国も他国に完全に頼りきるべきではない。もしそうすれば強国の属国になるしかなく、何ら進歩に貢献できないであろう」

 また『海上自衛隊二十五年史』に寄せた序文のなかで、バークは「私の生涯でもっとも楽しかった経験の一つは、多大なる尊敬を寄せるようになった人々と一緒に、日本に適した海上防衛戦力の概要につき議論したことである。そのなかには、野村吉三郎大将、保科美四郎中将、長沢浩海将、中山定義海将、そして大久保武雄氏がいる」と述べている。

  さらにアワーの著書、『日本海上兵力の戦後再軍備』に寄せた序文には、こうある。

  「どんな軍隊にとっても一番重要な要素は幹部の品格と能力である。私は日本が、まず最初に、きっかり十人の最も優秀な帝国海軍士官を選び、新しい海軍を創設すべきだと助言した。日本はそれを実行に移し、それゆえに今日、日本海軍は精強である」

  バークが海上自衛隊生みの親の親といわれるのは、このような事情によるものである。

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 一九八九年には、バークを隣に立たせたバーク夫人ボビーがシャンペンを割って、イージス駆逐艦「アーレイ・バーク」を進水させた。生前に自分の名前が艦名となったのはバークが三人目、その進水式に本人が立ち会ったのは初めてだという。

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 パーク少将(ジュリアン・バーク。アーレイ・バークとは別人)家の居間には、十九世紀初頭とおぼしいアレキサンドリアの港を描いた絵がかかっている。食後談笑しながらこの絵を見ていると、少将がいろいろ説明してくれた。アレキサンドリアは連邦政府の首都がコロンビア特別区に置かれるよりずっと前から、煙草の積み出し港として栄えた。煙草を積んだ帆船はここからポトマック川を下ってチェサピーク湾に出て、大西洋を渡りヨーロッパヘ向かった。バーク家は代々この街で銀行業を営んでいた。南部の伝統に従って、軍人も多く出した。南北戦争ではもちろん南東に属して戦った。南軍の総司令官ロバート・E・リー将軍は親戚にあたる。

  「南北戦争は、奴隷制度にしがみつく頑迷な南部が反乱を起こしたかのように受けとめられがちだが、南部人はそう考えない。北部の人間に乗っ取られた連邦政府の横暴に耐えかね、州固有の権利を守るために立ち上がった戦いであったと、今でも多くの人が信じている。やむにやまれぬ戦いだったんだ」

  バーク一族は代々、初代大統領ジョージ・ワシソトン将軍が通った教会で、日曜日ごとの礼拝を欠かさない。少将は今でも同じ教会で役員を務める。教会を中心に古い家族が絆を保ち、伝統を維持する。今はすっかりワシントンのベッドタウンになってしまったアレキサソドリアにも、そうした南部の貴族的な文化がかすかに残っている。パーク少将には少年時代、カソリックの友人が一人しかいなかったという。もちろん黒人はまったく別世界に住んでいた。つきあってよい家柄とそうでない家柄が、厳然と分かれていた。南部というのは、そういう場所であった。

  「第二次世界大戦の結果起こったことが、アメリカには一つある」

  パーク少将は、絵を見ながら言った。

  「それは南北戦争の傷跡がついに癒えたということだ」

  軍の動員計画が実施されて、大規模な人口の移動が起こった。北部の人間が南部へ移り、南部の人間が北部や西部の軍事基地やその周辺に移動した。そして戦後そのまま住みついた。

  「北部と南部の人間が肩を並べて働き、軒を接して暮らすようになって、敵対心やわだかまりがようやく消えたのだよ。共通の敵ドイツや日本と戦って、アメリカは一つという意識が初めて生まれた」

  アメリカ国内で一つの大きないくさが戦われ、その傷跡が癒されるまで、同じ国民でありながらおよそ八十年かかった。日米戦争の傷跡がすっかり消えるまでには、もう三十年ぐらい、一緒に汗を流して働く必要があるのかもしれない。

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 ハロウェイ大将は、一九一二年(大正十一年)にサウスカロライナ州チャールストンで生まれた。父親が海軍提督、母方の祖父が陸軍の将軍という、軍人一家である。兄弟の一人がウェストポイントの陸軍士官学校を出たし、いとこで海軍に進んだ者がいた。夫人の父親も海軍提督である。民主主義の国アメリカでありながら、代々軍人という家は珍しくない。とりわけ海軍には、ある時期まで一種貴族的な雰囲気があった。そうした環境にあって、日本こそアメリカの仮想敵国だと父から教わって育った少年が海軍を目指すのは、ごく自然な成り行きである。

  希望どおり、一九三九年にアナポリスの海軍兵学校へ入学する。一九四一年十二月七日には、将来の妻と外出していた。兵学校の門まで帰ってきて、真珠湾攻撃を知る。そのとき、実は真珠湾がどこにあるか知らなかった。ニュースに接して最初は、「やった、これで日本を完全にやっつけた」と考えたそうだ。当時大方のアメリカ人は、日本が安物の粗悪品しか作れない国だと思っていた。ジャップが旧式の複葉機でハワイの太平洋艦隊を攻撃しても、次々に撃墜されてしまうはずだ。そう考えたという。ところが詳細が明らかになるにつれ、事態の深刻さが判明する。ワシントンの海軍省艦艇局にいた許婚の父親が、「こっぴどくやられた」と教えてくれた。真相を知って、ハロウェイと周囲の侯補生たちは、日本海軍の腕は確かだ、我々が兵学校で教わった通りの方法で見事に奇襲攻撃を成功させた、これは手ごわい敵だと思ったそうだ。

  ローズヴェルト大統領は真珠湾をだまし討ちだとして徹底的に非難したし、国民の多くもそう考えた。しかし、あれは戦意高揚のためのプロパガンダだったと、ハロウェイ大将は言う。海軍内部にいるものは、日本海軍の技倆の高さに、一種の尊敬さえ覚えたと言うのである。

 一九四二年六月に兵学校を卒業した。大戦の勃発で一年繰り上げての卒業である。戦局は芳しくなかった。南太平洋で撃沈された巡洋艦の乗組員がワシソトソに帰ってきた。一様にショック状態にあった。厳しい報道管制が敷かれ、米海軍艦艇が沈んだニュースは一般国民に知らされなかった。アメリカ海軍はずいぶん長い間なかなか日本海軍に勝てず、目立った戦果を上げたのは、ソロモン水域で駆逐艦部隊を率いるアーレイ・パーク大佐、ムースバーガー大佐など、ごく一部だけであった。

 ハロウェイ大将は、アメリカ海軍が戦争に勝ったのは結局物量の差によるもので、もしその差がなければ日本が勝っただろうと語る。「ちびのジャップ」などというのは非戦闘員向けの宣伝文句であり、海軍軍人の多くは敵である日本海軍の能力を高く評価していた。

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 戦場での体験にもかかわらず、ハロウェイ大将は敵である日本人に対して憎悪感を抱いたことがないという。むしろ日本海軍は敵ながらあっぱれとの感じが強かった。パールハーバーでは友人が死んだし、兵学校のルームメートも戦死した。しかし戦争で戦死者が出るのは当たり前と考えた。いとこの一人はコレヒドールで日本車の捕虜となり、パターンの行進を経験したが、戦後まったく憎しみを抱かず、むしろ周囲が驚いた。「我々は戦いに負けたんだ。日本車は厳格だったけれど、自国民にも同じように厳格だった」と語った。ずっとのちにヴェトナムで捕虜になった友人も、同じように憎悪の感情を長く引きずらなかった。それが軍人というものだとハロウェイは言う。死ぬまで日本人を嫌った提督を一人知っているが、そういう人は稀だった。

 ハロウェイは一九五一年(昭和二十六年)の秋、はじめて日本を訪れる。空母「ヴァレー・フォージ」乗り組みの艦載ジェット攻撃機パイロットとして、横須賀に入港した。着艦したジェット戦闘機を止める強力なネットを飛行甲板に取りつけるのが、寄港の目的である。寒くて暗い日であった。ドックで作業する日本人を見て、これが敵であった人々かと思うと、妙な気がする。しかし横須賀艦船修理部の仕事は文句のつけようがないほど素晴らしかった。現場の労働者はよく働き、仕事が丁寧であった。ハロウェイは日本人に対して尊敬の念をいだく。
 (中略)

 こうした経歴を経たあと、ハロウェイ大将は一九七四年七月、第二十代の海軍作戦部長に就任する。大将は前任のズムワルト大将に引き続いて、海上自衛隊との関係を大事にした。当時の海上幕僚長は中村悌次海将である。中村はハロウェイを目本に招き、またハロウェイが中村を逆にアメリカヘ招いて、両者は意見を交換する。ハロウェイは中村にこう語った。米国軍事予算には引き続き削減の圧力がかかるだろう。アメリカ海軍だけで極東の安全を確保することはできない。であれば将来米海軍と海上自衛隊は戦略的な役割を分担すべきである。第七艦隊はソヴィエトのバックファイア戦略爆撃機から日本を守る。海上自衛隊は宗谷、津軽、対馬の三海峡を監視して、ソヴィエト海軍の通行を抑えてほしい。また中東からの石油輸入に全面的に依存している日本は、シーレーンを一〇〇〇マイル程度自分で守るべきである。「マヤゲス」号乗っ取り事件に見られるように、シーレーンを妨害すれば小国でも日本の通商活動を効果的に破壊できる。

  これに対して中村は、全く同感だが、モのためには海上自衛隊は、まずもってシーレーンを防衛できるだけの作戦能力を備えねばならないと述べたという。残念ながら、当時の海上自衛隊にはまだそこまでの力がなかった。

  こうしたやりとりは、もちろん公式なものではない。しかし彼らが語り合った海上自衛隊と米海軍の任務役割分担は、やがてレーガン政権時代ほぼその通りに実現する。それより五年前、ハロウェイと中村はすでに日米海上兵力の進むべき道について議論していた。

  この二人は何も隠し立てせずに話し合えたし、お互い話した内容を他には決して漏らさなかった。中村はまた、ハロウェイが答えにくいような微妙なことを無理に尋ねようとしなかった。ハロウェイは中村を一〇〇パーセント信頼していたという。

  なぜそのような信頼関係が築けたのか。アナポリスの町の海岸に近いとあるレストランで一緒に食事をしながら私が尋ねると、ハロウェイはしばらく考えてからこう答えた。

  「やはり中村提督がすぐれた指導者だったからだと思う。非常に頭のよい人であったし、こちらとまったく同じように考えたから、多くを話る必要がなかった。他の国、他の指導者ではそうはいかなかった」

  「海上自衛隊と米海軍は、英国海軍から伝わった伝統を共有している。海上自衛隊は法的に海軍でないけれど、その練度の高さ、職業意識の高さ、ユーモアのセンス、品格、手際のよさ、すべての面で一流のネイヴィーである。同じ事態に接して同じように考え対処する訓練ができている。あまりごちゃごちゃ言わなくても、すぐに一緒に仕事ができる。そういう意味で、実にやりやすい相手だった」

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  アワーがワシソトンヘ戻りペンタゴンで働きはじめたのは、カーター政権時代である。国防長官ハロルド・ブラウンの下に国防次官補を筆頭とする国際安全保障局があって、国防長官のミニ国務省と呼ばれていた。政治と軍事の接点として、予算上も権限上もきわめて強力である。リンドン・ジョンソン大統領の時代には、米ソ軍縮交渉で有名なポール・ニッツェがこの部局を任され、ラスク国務長官より強力だといわれた。アワーはここで、最初アマコスト国防次官補代理の
部下として働いた。

  約二年後の一九八一年一月、ロナルド・レーガンが大統領に就任し、この部局はいっそう強力となった。ペンタゴンとの関係がぎくしやくしたカーター政権と異なり、レーガソ政権は国防を重視した。多少の紆余曲折があったものの、八三年までに国防長官がキャスパー・ワインバーガー、アジア太平洋地域担当の国防次官補がリチャード・アーミテージ、日本課長がジェームズ・アワーという体制が確立した。ちなみにこのころワインバーガー国防長官の補佐官を務めたのが、アーミテージと近い関係にある、のちの統合参謀本部議長で新ブッシュ政権の国務長官となったコーリン・パウエルである。さらにパウエル大将の息子マイケルは、現役の陸軍士官時代、一時アワーのもとで働いていた。

 アーミテージは海軍の出身である。一九八七年に海軍兵学校を卒業した。アメリカはヴェトナムでの戦争に深く介入し苦戦していた。アーミテージは自ら志願し、この戦争で危険な作戦に従事する。一九七三年一月にパリでヴェトナム和平協定が締結されると、戦いを途中でやめることに抗議して海軍を辞めてしまう。ただしサイゴンにある米軍駐在武官本部の民間人顧問としてヴェトナムに留まり、特殊任務についた。シルヴェスター・スタローソが演じた映画の主人公ランボーは彼がモデルだという、まことしやかな説がある。

  いったんワシソトンヘ戻ったが、一九七五年四月に北ヴェトナム軍がサイゴンに迫ると、国防省から特定南ヴェトナム人の救出作戦実行を頼まれる。六年間の長きにわたってヴェトナムで戦って、その最期を見届けずにはいられない。パンアメリカン航空の最後の定期便で戦乱の国へ戻り、陥落寸前の市内に入る。北の軍隊に包囲されたサイゴン郊外のビエンホア空軍基地にヘリコプターで乗り込み、機密保持のために基地内の機器を破壊してまわった。そして取り残されていた南ヴェトナム空軍の将兵三〇人と一緒に、間断なく撃ちこまれる砲火のなかを命からがら脱出した。そのあと南ヴェトナム海軍艦艇と将兵およびその家族数千人を率い、八日かかって無傷でフィリピンまで連れてきた。アワーと同様、アーミテージは典型的なヴェトナム戦中派に属する。

  その後ワシントンヘ戻り、ロバート・ドール上院議員の事務所で補佐官として働いた。レーガン大統領候補の選挙戦に加わり、功績が認められ、政権に入る。大統領の特使としてフィリピンの独裁者フェルディナンド・マルコスやパナマの独裁者マヌエル・ノリエガと直談判をして民主化を勧めたり、アフガニスタンのゲリラ、ムジャヒディンの代表と交渉したあと、ナイフを振りかざす彼らと一緒にテーブルを囲んで羊の肉を食べたりと、世界中を飛び回って危機や紛争の解決にあたった。実に勇ましい国防外交問題のエキスパートである。しかしがっちりした体躯とは裏腹に心優しい人で、自宅では黒人の子供を何人も里子として引き受け育てている。

  アーミテージが国防次官補であったころ、ペンタゴンに日本の国会議員団がやってきて面会したことがある。少し遅れて姿を現したアーミテージは、昨晩寝ていないために皆さんの質問に的確な回答がでぎないかもしれないと、会談の冒頭ことわりを言った。

  「里子の一人が熱を出して苦しがり、一晩中腕に抱いてあやしていたため、眠れませんでした。そして子供を抱きながら考えました。君は肌の色が黒いが、アメリカに生まれてよかった。この国でならたとえ差別があっても、努力さえすればどんな職業にでもつける。はやく熱をさましてがんばれってね」

  アーミテージの述懐を聞いて、ある社会党の議員が、「今日あなたに会って、レーガン政権の好戦的な安保政策についてたくさん文句を言おうと思っていたけれども、今の話を聞いて何にも言えなくなった」と述べたそうだ。

  若干年下ではあるものの同じ海軍出身であるアーミテージを上司に得て、アワーの仕事は格段にやりやすくなった。アーミテージはヴェトナムで戦った勇ましい武人であるだけでなく、抜群の知力を有し、判断が常に的確であった。アワーはアーミテージのことを、クロゼット・インテレクチュアル、つまり隠れインテリと呼んでいる。カーター政権から居残ったアワーを最初警戒するふうがあったが、しばらく一緒に仕事をするうちに全面的な信頼を寄せるようになった。対日政策について、アワーがアーミテージに提言する。彼はそれをよく聞いて、同意すれば直接ワインバーガー国防長官に伝え、実行に移した。

  このラインがよほどよく機能したからであろう。八三年にアワーが規定により中佐で海軍を退役するとき、ワインバーガーは彼を自室に招き、レーガン大統領と自分はアワーが退役すると聞いて遺憾に思っている、制服を脱いだあともできれば国防省に留まってほしいと要請した。明らかにアーミテージの進言を得ての言葉であったが、アーミテージは長官の発意だと言い張った。

  政治的任命であるこの人事は、ホヮイトハウスの承認を必要とする。必要な書類を提出してからしばらくして、ホワイトハウスはこの人事案を却下した。共和党内の対日強硬派が、アワーは日本に近すぎる、アーミテージを日本びいきにしようと画策していると主張して、ストップをかけたのである。しかしワインバーガーとアーミテージが強硬に抗議して、この決定はくつがえされる。二人に対するアワーの信頼がさらに高まったのは、いうまでもない。

 こうしてアワーは文官の日本担当部長として、同じ仕事を八八年八月まで続けた。ヴァンダーヴィルド大学に移った今も、アワーとアーミテージのつながりは強い。

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 アワーは国防総省で、もちろんアメリカの国益のために働いた。ただ、それまでの経歴からも与えられたポストの性格上も、日本との安全保障関係先実に力を注いだ。特に海上自衛隊との協力体制強化に心を砕く。まず提言したのは、海上自衛隊がシーレーン、つまり海上交通路を自ら防衛するという案である。

  海上自衛隊が自らのシーレーン防衛を引き受けてくれることは、アメリカ側に大きなメリットがあった。海車力を西太平洋へ投入せずにすめば、他の分野へ展開できるからである。いねば日本の海域分担である。海上自衛隊は日本列島から南へ伸びるシーレーンを中心とする海域で、また宗谷、津軽、対馬の三強海峡で、ソヴィエト潜水艦の動きを昼夜監視する。米海軍は日本が防衛しきれない南東太平洋やインド洋のシーレーンを守ると同時に、いざというとき空母機動部隊でソ連を叩く。

  ただし米政権内部にも、日本がその軍事プレゼンスを増大させることについて、国務省を中心に否定的な見解があった。戦後の目本には軍事アレルギーがあるから、こうした役割を求めるべきでないというのである。日本の軍事大国化を警戒する向きもあったろう。これに対しアワーは、ソ連の軍事力抑止のため日本を信頼しその協力を求めるべきだ。アメリカは日本の助力を必要とする。また日本にはシーレーン防衛に必要な装備を備えるだけの財政的能力がある。信頼して協力が求められないのなら、同盟の意味はない。こう主張した。

 シーレーン防衛は、そもそも海上自衛隊の長年の夢であった。それどころか、海上自衛隊発足の根本理由だといってもよいだろう。なぜなら、敵の攻撃から日本の国土を守ることのみが自衛隊の役割であれば、海に関しては沿岸贅備にあたる海上保安庁だけで用が足りるからである。

  アワーは日本で海上自衛隊創設の事情を調べたときに、京都大学の高坂正亮教授がもらした言葉をよく覚えている。自分は海上自衛隊の任務がよく理解できない。専守防衛に徹するならば、海上自衛隊は必要ないではないか。一体海上自衛隊は何をめざしているのか。アワーは、高坂教授のこの疑問こそ、海上自衛隊の存在意義に関する根源的な問いかけだと思った。

 海上自衛隊がめざしたのはもちろん、日本の領海を一歩も出ない専守防衛ではない。広い太平洋に出て、海洋国家日本の海上交通路を守ることである。海上自衛隊の指導者たちは、これをブルーウォーター・ネイヴィーヘのあこがれと呼んだ。碧い海原を行く海軍を想う言葉である。しかし予算もない艦もない初期の海上自衛隊にとって、その実現は不可能に近かった。防衛庁内部にも、たとえばのちに国防会議事務局長を務めた海原治のように、海上自衛隊が領海の外に出て活躍することに否定的な立場をとる者があった。それでも海上自衛隊の制服組は、いつの日かブルーウォーター・ネイヴィーたらんと夢見て、日夜訓練を続けたのである。

  アワーは幹部学校留学中、壁に貼ってある大きな地図に太い練が引かれているのを見た。大阪湾から南西諸島ぞいに台湾とフィリピンのあいだのバシー海峡まで続く線と、東京湾から硫黄島を経由してグァム島の北まで延びる線を、教官や学生は中村ラインと呼んでいた。中村悌次海幕長の引いた、海上自衛隊が本来守るべき日本の海上交通路という意味である。二つの線はそれぞれほぼ一〇〇〇海里の長さがあり、一〇〇〇マイル・シーレーソ防衛構想の最初の出所となった。それ以遠、たとえばバシー海峡からペルシャ湾まで、あるいはグアムから北米大陸までについては米海軍の制海権に領るというのが、暗黙の前提である。中村は自分の名前がついたそのような線ぱなかったと言うが、アワーは中村から直接、こうした海上自衛隊の防衛構想をたびたび聞かされたのを覚えている。

  アワーの提言には、このように海上自衛隊が抱いた長年の夢が投影されていると考えて間違いない。海上自衛隊発足の研究を行ない、海上自衛隊の学校で勉強したアワーが、その成果を自国の国益に照らして再構築し、アメリカ側の要望として日本へぶつけたのである。早くも一九七九年の日米安保事務レベル協議の席で、アマコスト国防次官補代理が日本に対して北太平洋の防衛を要請したのは、アワーの助言によるものであった。

  一九八一年二月には、国防次官補代理に就任したばかりのアーミテージがアワーを伴い、対日安全保障政策のあるべき方向を探るため非公式に来日する。レーガン政権発足後、はじめて日本を訪れた高宮であった。カーター政権とは一味違う新しい政策を打ち出したい。こう考えたアーミテージは、外務省の丹波実安保課長や防衛庁の岡崎久彦国際問題担当参事官、自民党の椎名素夫政調副会長、アワーの友人である木村英雄などと積極的に会い、意見を交換した。このときはじめて出た考え方が、日米海上兵力の任務役割分担(ロールズ・アンド・ミッションズ・シェアリング)である。海上自衛隊と米海軍が役割を分担し、二つで一つの海軍となる。海上自衛隊は対潜水艦作戦や機雷掃海などを行ない、一方アメリカ海軍は空母機動部隊を中心とした攻撃能力を提供することにより、共同でソヴィエトの脅威に対処するべきだ。

 アーミテージにこの考えを最初に説明したのは自分だと言う木村英雄は、これを内田ドクトリンと呼んでいる。戦後日本が置かれた国際環境を勘案したうえで、内田海幕長以来、海上自衛隊の首脳が考えつづけたブルーウォーター・ネイヴィーの役割を煎じ詰めると、論理的にここへ行きつくというのである。木村によれば、これに対し中村悌次海草長は、理屈はわかるが、日米海上兵力を一つにし、ここまで育ててきた海上自衛隊を将来にわたって一人前のネイヴィーにできないのは、情において忍びないと、あるとき述べたという。できればすべて自前でやりたい、しかしそれぱでぎないし賢明でもないというのが、かつての帝国海軍を知る海上自衛隊指導者たちの率直な心情であった。

  まったくの余談だが、このときアーミテージをもてなすのに、増岡一郎と木村英雄の口ききで代議士の山下元利が金を出し、ある料亭に席を設けた。外務省の高官や木村たちがアーミテージと一緒に杯を交わすなか、仲居さんたちが彼の厚い胸板を見て驚き、触らせろとうるさい。英語で注文の趣旨を聞いたアーミテージは、相好を崩して答える。「こういう要請を受けたのは初めてだ。日米関係は何事もレシプロカル、つまり双務的でなければならない。本要請も、双方向ありなら受けましょう」同席した木村から聞いた話である。

  アワーによれば、ロールズ・アンド・ミッションズという言葉を初めて使ったのは、レーガン政権の初代国務長官に就任が決まったアレキサンダー・ヘイグ陸軍大将である。イランからの石油購入や防衛予算について公然と日本を非難したカーター政権を念頭に置きながら、レーガン政権下では同盟国を表立って批判することは避け、非公開の席で安全保障に関するそれぞれのロールズ・アンド・ミッションズについて率直に意見を交わしたい。こう述べた。

  これを知ったアーミテージとアワーは、日米間の任務役割分担についてメモを作成し、ワインバーガー国防長官に提出する。日米が各々防衛すべき海空域を分け、それぞれが分担する任務を定め、軍事技術は最大限相互に提供しあうとの内容であった。ちょうど同じころ、レーガン政権下で留任が決まったマイク・マンスフィールド駐日大使からレーガン大統領に電報が送られ、安全保障問題と通商問題について新大統領がなるべく早く対日政策を表明するようにとの意見具申がなされた。大統領はこの前言に従って関係各省に政策提言を行なうよう要請し、安全保障についてはアワー・アーミテージ作成メモの内容がレーガン政権の政策として正式に採用される。





▼ 西日本新聞 非戦の回廊 揺らぐ三原則 2004年11月11日掲載 
 その玉川に転機をもたらしたのは、海軍大将アーレイ・バーク。九十二人抜きで55年に海軍作戦部長に上り詰めた伝説の人物だ。装備供与などで海上警備隊誕生を支援し「海自生みの親」といわれた。
(中略)

85年ごろと記憶している。バークに「今度、おれの名前が付いたイージス艦ができる。興味あるか」と聞かれた。当時、米国ではイージス艦の開発が本格化。「いつかは日本に」と思っていた玉川はうなずいた。

バークはすぐに受話器を手にした。

「タマガワというやつがいる。日本がイージス艦を買いたいと言ったら、彼を使ったらいい」

相手はRCA社、現在のロッキード・マーチン社だった。


 

その一つは「菊クラブ」と呼称され、一般にも〈日本寄り〉と見做され良好な日米関係を維持することに努力を重ねてきたグループである。
(中略)
その「菊クラブ」の代表が自他ともに「知日派」をもって鳴る日本最大の理解者といっていいリチャード・アーミテージ氏だった。
 (三根生久大 著 『日本の敗北』アメリカ対日戦略 100年の深謀』)





・米国における最大の知日派は米国海軍出身者である。
・ 米国海軍出身者の対日観を決定的に変えたのは海上自衛隊である。
・日本を防衛する究極的な存在は在日米軍、特に米国海軍第七艦隊である。
・ 米国海軍第七艦隊の最良のパートナーは海上自衛隊である。
・ 海上自衛隊を創設したのは帝国海軍出身者と米国海軍である。
・ 海上自衛隊は帝国海軍の末裔であり、米国海軍とともに英国海軍の流れを汲む。






▼「三十年河東 十年河西」

富坂 聰  翻訳・志水 武三 「文藝春秋」十月号掲載

孤高の首相 小泉純一郎

 この人物を論評する前に、彼の将来について中国の権威ある日本問題研究所が分析した二つの予測結果について記しておこう。

 一、小泉純一郎氏は悲劇的な運命を持つ人物である。彼の行う「改革」には名前があっても、ほとんどの国民にはその中身も実体も分かっていない。そのため、時間が経てばたつほど中途半端なものとなり、具体的な利益と成果が見えなければ、どんどん注目度が低下し支持層が減っていくだろう。まさに、「善始あって善終なし」の状況に陥るだろう。

 二、小泉総理は、日本の政界においてはここ数十年でも稀にみる傑出した政治家となるであろう。小泉政権もまた、戦後有数の長期政権となり、小泉首相の名は近代日本の政治史にも残るほどの影響力を発揮するだろう。中国の関係機関も、小泉対策を十分かつ真剣に検討する必要がある。

 孤高という言葉こそ、いまの小泉首相を表現するに最もふさわしいだろう。「孤独で高傲」とは、まさに小泉首相の立場そのままである。彼がいま向き合っている戦後の自民党政治は、長い歳月を経て、表面は清らかな湖面のように澄みながらも、湖底には分厚い汚泥が深く堆積されているといった状況にある。その汚泥を清掃するためには相当の勇気と手腕が必要なのは言うまでもなく、そうでなければ逆に泥に足をとられて身動きもままならず溺れ死んでいくしかない。

 小泉首相は自民党改革を掲げて当選し、直後の支持率は85%という前代未聞の数字を記録した。この圧倒的支持の背後には、汚泥を一掃してくれるのではないかという国民の熱い期待があったのである。

 だが、「改革」という二文字は、いまの日本政治にはふさわしくない表現だ。

 二十世紀末の中国。70年代末期から?小平氏が実行した改革・開放のように、「改革」とは実際には「革命」でなければならない。?小平革命によって、古い独裁的計画経済が潰され、いまのような資本主義の優れた要素を取り入れた社会主義市場経済が確立されたのだ。

 すわわち、小泉改革は新しい「革命」でなければならない。毛沢東氏は、文化大革命の中で「不破則不立」(破らざれば立たず)という名言を残している。日本の政治はまさにこの状態にある。旧弊を打ち破らなければ新しい政治体制は立てられない。政治革命がなければ、日本は永遠に政治小国に甘んじ続けるしかないのである。

 改革の成功のためには、二つの必須条件を満たさなければならない。

 一つは、国民・有権者とマスコミの強力な支持。そしてもう一つが、絶対的権力の支持である。

 一つ目の条件に関しては、すでに小泉政権発足時に満たされていたはずだ。日本の国民は、中途半端な政治改良ではなく、真の政治革命を心から期待していたはずである。85%という驚異的支持率こそ、何よりの証であろう。

 だが、現実は三年以上が過ぎたいまも改革の成果はあまり見えてこない。中国の諺で言えば、「雷声大、雨点小」(雷の音ばかりが激しくて、雨は落ちてこない)状態だ。有権者もマスコミも現実的で功利的であるから、いくら掛け声の雷鳴が大きくても、成果という雨の恵みがなければ離れてしまうだろう。そして、小泉首相はまさに、この絶好の改革の条件から見放されようとしている。

 八五%などという異常な政権支持率は、もはや北朝鮮以外にはほとんど見られないものだろう。その意味では絶好の機会を逃すことになるのだ。

 かつて小泉首相を含めた「YKK」は、実力も知名度もキャリアもそなえた日本政界の希望の星だった。しかし、いまは過日の輝きは失せ、「惨めな」という言葉で表現されるありさまだ。

(中略)

 仮説だが、もし加藤紘一氏と山崎拓氏が昔の勢いのままであったなら、小泉政権の立場もいまとは大きく違っていただろう。党内での妥協や駆け引きといった負担が減り、小泉首相の発言も行動ももっと大胆であっただろうと想像される。

 いまでは、孤独な小泉首相は自民党内の抵抗勢力と真っ向から勝負する力を失ってしまった。彼にはまだ、自民党を解体するまでの「革命」を行うだけの度胸もなければ指導力もないということだ。

 だが、もし日本で革命が成功した場合は、日本は長い混乱の時期を経てまったく新しい政治の局面を迎えることだろう。それは、歴史的な新紀元と呼べるものだ。従来の官僚主導型の国家体制も変えられるかもしれない。

 中国の?小平氏は、1978年から中国の歴史を変える改革・開放の大革命を成功させた。当時、中国にあった抵抗勢力や民衆の戸惑いは、いま小泉首相が対峙している抵抗に比べたら、恐らく十倍、いや二十倍も激しいパワーだったに違いない。そして、残念ながら日本には、?小平氏のような英雄的政治家が生まれる土壌はない。

(中略)

 では、なぜ日本の政治土壌には世界に名を馳せる英雄が出ないのか。

 一つの根本的原因は、日本の政治家が国家の利益と名誉より、自分自身の利益と名誉を重んじるからだろう。

 小泉改革を成功させようとしても、数十年の伝統を継承してきた権力と利益の既得権者たちは、おとなしく「はい、分かりました」と政治陣地を放棄するとはとても考えられない。

 改革の三年間、小泉政権への支持率は、85%から45%前後まで下がってしまった。そして、小泉首相はますます孤独になっていくのだ。

 一人の人間として見た場合、小泉氏は非常にプライドの高い人だと思われる。世襲議員で、若いころにはイギリス留学もし、系統的な西洋教育を受け、欧米式の民主政治に心酔している。趣味は、クラシック、オペラ、ハリウッド映画。骨の髄から「酒池肉林」タイプの泥臭い政治家を軽蔑している。派閥政治も嫌っている。

 根本的な改革はかなわなかったが、ギリギリの妥協をしながら、改良を試みている。特に人事では、「傲慢」と形容される予想外の党役員・内閣人事を行い、若手の起用などでも驚きの声と喝采を浴びていた。

 中国の唐家セン前外相が思わず、

「小泉政権はいつもの短命政権と思ったが、ここまで続くとは予想しなかった。日本の政治過渡期にはこういう人物が必要だろう」

 とオフレコで評価したほどだった。

 小泉氏の基本的政治理念は、「親米・反共」である。彼は、中日国交正常化後の三十数年間で中日関係を最も悪化させた政治家の一人だ。

 首相就任以来続く毎年恒例の靖国神社参拝は、中国人の反日感情を最高潮に高めさせた。最近になってやっと中国の高官も、「小泉首相は、本当に骨と肝がある」と驚嘆したほどである。

 中曽根内閣以降の歴代政権は、ほとんど中国政府の顔色を見ながら対中政策を調整してきた。たまに、国内世論の圧力で対中強硬論に傾いても、いつのまにか修正されてしまうのだ。そしていまでは、中国の国家指導者と親交を持ち、中国政府内に広い人脈を持つことが、大政治家たる証の一つとなっている。

 その点、小泉氏は歴代首相たちより賢かった。「土下座外交」との批判が民間に渦巻くなか、靖国神社への公式参拝を公約に掲げて実行し、対中ODAの削減を行った。こうした一連の行動は、日本国内で喝采を浴びると同時に中国政府には難題を投げつけた。

 小泉氏は、中国側の裏事情を見抜いていたのではないか。

 いままで中国は戦争の被害者として、歴史清算問題を切り札に日本の歴代内閣に圧力をかけ、常に両国間の政治的駆け引きのなかで主導権を握り、日本からODA資金と円借款を獲得してきた。

 ただ、こうした古い切り札を使いすぎたためにいまではあまり通用しなくなってしまった。特に、若返りが進む日本の政界では、効果を失いつつあるのだ。

 小泉首相が毎年靖国神社に参拝しても、中国政府には非難声明を出すほかには、何の実効ある対策も取ることはできない。正直なところ、中国側には昔のような切り札はもうないのである。

 また、別の意味で中日関係をこれ以上悪化させても国益にはなんらプラスはないことも明らかなのだ。

 いま、中国政府がむしろ恐れていることは、民衆が反日感情を高ぶらせたことを切っ掛けに、国に対するあらゆる不満を爆発させ、政権安定の基盤を揺るがすことだ。特に、四年後の北京オリンピックや六年後の上海万博を控えるこの時期には、昔のような狭小な民族主義情緒をバックに、日本に圧力をかけるといったことはさすがにできなくなっているのだ。(以下略)





新世紀の維新というヴィジョンは、再構築されねばならない。



第157回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説 平成15年9月26日
 (はじめに)
  私は、就任以来、「構造改革なくして日本の再生と発展はない」との信念の下、改革を進めてまいりました。
  この間、国民には、今の痛みに耐え明日を良くし、変化を恐れず新しい時代に挑戦しようと呼びかけてまいりました。改革の痛みに直面しながらも、多くの国民の努力によって、日本再生に向けた改革にようやく芽が出てまいりました。
  「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」との方針で構造改革を進め、活力ある社会を作り上げていかなければなりません。
  この度、小泉内閣の責務である改革を更に推進していくため、内閣改造を行いました。新しい体制の下、構造改革路線を堅持し、改革の芽を大きな木に育ててまいります。



「聖域なき構造改革」という名を冠せられた改革の実体は、国民には分からないように「隠されている」。

改革の果実は果たしてどこにあるのか。



その果実は、小泉純一郎という人が創った聖域にある。



ここから先は新世紀の聖域になる。



さて、聖域の果実に手をかけようか――






文献

1.袖井林二郎 著 『マッカーサーの二千日』 中公文庫
2.三根生久大 著 『日本の敗北 アメリカ対日戦略100年の深謀』 徳間書店
3.阿川尚之 著『海の友情 米国海軍と海上自衛隊』 中公新書
4.リチャード・オルドリッチ 著 『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』 会田弘継 訳 光文社
5.NHK報道局「自衛隊」取材班 『海上自衛隊はこうして生まれた 「Y文書」が明かす創設の秘密』 NHK出版
6.岡崎久彦 著 『日本外交の情報戦略』 PHP新書
7.藤井厳喜 著 『ジョージ・ブッシュと日米新時代』 早稲田出版




――そして、回帰して、かの別な小路を走り、彼方へ、ぼくらの前へ、この長い凄絶な小路を辿って、――ぼくらは永劫に回帰せねばならぬのではあるまいか

フリードリッヒ・ニーチェ 『ツァラトゥストラかく語りき』 幻影の謎 / 原田義人・訳
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人は己の喪失を確実なものとするような諸手段によって己を救わなければならない。

――カタ・ウパニシャッド




現代人は二つの人生を同時に生きている。一つは現実の世界、もう一つはデジタルの世界である。



知ろうとする欲望の強弱と、検索に掛ける言葉を取捨選択する能力、記憶装置に蓄積される情報群。
博学を衒うことも、何者かを演じることもできる。
開放された電子の空間は、それぞれの時間を喰らいながら果てしなく増殖を続ける。
ネットに繋がっていると、強い情動を感じる。

ネットの特性として幾つか挙げてみると、
 ・匿名性
 ・不確実性
 ・速度

これらは諸刃の剣ではある。


○匿名性

 兵を形わすの極は、無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺うこと能わず、智者も謀ること能わず。形に因りて勝を錯くも、衆は知ること能わず。人みな我が勝の形を知るも、吾が勝を制する所以の形を知ることなし。故に其の戦い勝つや復さずして、形に無窮に応ず。

――『孫子』 第六 虚実編

▼中島悟史 著 『曹操注解 孫子の兵法』

真の戦略家は無名であれ

 『老子・乙本』第二十二章に、「常に客観性を要する参謀役は当事者である組織指導者になってはならない。たやすく自己満足するような者は出世しない。やたら目立とうとする者は中味がなく、先の見通しは暗い。自慢ばかりしている者は他から功績を認められない。地位に満足して、いばりくさっている者は、やがては地位をうしなう(企者不立、自是者不彰、自見者不明、自伐者无功、自矜者不長)」とあるように(真の戦略家は無名であれ》と孫武は説いた。
  曹操が引用した太公望の言葉は、『六絹・軍勢篇』の「敏に勝つ者は形無きに勝つ。上戦はともに戦うなし。故に勝ちを白刃の前に争う者は、良将に非ざるなり(勝敏者勝於無形、上戰無與戰、故爭勝於白刃之前者、非良將也)」である。

 『黄帝四經・經法・道法篇』は「したがって《道》の原理によって天下の情報を議論する者は何ものにもとらわれず、国家や国境にもとらわれず、自分の立場にもとらわれず、自分の利害も捨てた人物である。……利害を離れて判断できるのが本当の智者ということである。最も智恵のある者は、天下の情勢を総覧して、権力のバランスを調整し、天地自然の必然性の法則を応用する人物である(故執道者之観天下也、無執也、無處也、無爲也、無私也……無私者智、至智者爲天下稽、稱以權衡、參以天當)」とある。





▼ジェイムズ・バムフォード 著 『すべては傍受されている 米国国家安全保障局の正体』

 たとえ食堂で隣のオフィスの人と食事をしているときでさえ、仕事の話をしている様子がない、ということだ。就業規則は「話すな、訊くな」である。新任者に渡される『NSAハンドブック』のまず最初に書いてあることは「匿名性の実践」だ。「おそらく新入局員が知るべき最初の保安要領のひとつが、匿名性の実践である……」とある。「匿名性とは、NSA職員は自分自身や自分のNSAとの関係に他人の注意を惹いてはならないということである。またNSA職員は、NSA関係者以外からNSAの活動に関する特定の質問を受けた場合、肯定も否定もしてはならないと注意されている」さらにこのハンドブックは「匿名性の実践は、きわめて多岐にわたる」と警告する。





▼松岡心平 著 『宴の身体――バサラから世阿弥へ――』

「花の下連歌」

  中世の初め、京都近郊で、春、桜が爛漫と咲いている下で行われた行事に「花の下連歌」がある。
  中世後期、室町時代に全国規模でしかも各階層にわたって盛んに行われた連歌会の原型であった。
  ただし、花の下連歌の孕む問題は、単に連歌という、和歌に替わる中世固有の一文芸ジャンルにとどまるものではない。
  花の下連歌を、この連歌会特有の共同性の面から追求していくと、そこに姿をあらわすのは、中世の新しい共同の世界、人と人との新たな結びつきを示す「一揆」なのである。
  花の下連歌の共同性を考える際重要なのは、まずこの連歌会が、花の下、つまり桜の下で張行されるということである。
  桜に関しては、古来、日本人特有の信仰がある。
  桜の花びらが散っていくのを、憤死した人間の怨霊すなわち御霊の吹き荒れと感じるというもので、桜の樹の下に眠っている御霊を鎮魂する祭が行われた。 (中略)

  枝垂桜のもとに張行される花の下連歌は、「よろづのもの」に開放されていたが、「よろづのもの」は「忍びて」、つまり身分・姓名を隠して連歌会に参加しなければならなかった。連歌の一座を構成する宗匠や連衆は、善阿法師や花下の十念房など主に念仏聖であり、彼らは遁世者、アウトローであって、建前上あらゆる社会的関係を断ち切っている者たちであった。そういう無縁の聖たちが主宰する連歌会に参加するためには、世俗にあって有縁の人々である「よろづのもの」は一時的にせよ身分・姓名を隠すことで自己を無縁化させる必要があったのだ。
  花の下連歌の無縁の場は、同時に無礼講の空間でもあった。
  (中略)

 花の下連歌は、無縁の場であるがゆえ無礼講空間となり、
(中略)
  貴賤の自由な交流が可能となったのである。

    

「連歌と一揆」     

 わけても興味深いのは、一揆と連歌会が実際にストレートに結びつく例が、すでに南北朝期から見られることである。
  (中略)

  このとき、文芸としての連歌は、一揆集団の形成・維持の上で、二つの重要な機能を果たしたと思われる。
  第一は、連歌の融和的側面である。連歌では、他者をよく理解し、前の句を充分に咀嚼しないと、いい句は付けられない。そして、完全に目立たないような句を作っても面白くないし、また突出してしまうと全体の雰囲気が壊れてしまう。つまり、連歌会においては、全体の「座」の空気を常に感じ取り、その流れに寄り添って主句していかなくてはならないという、気くばりが常に要求されるのであり、これはまさに、一揆集団をまとめていく時の配慮と結びつくのである。
  第二は、連歌のもつ興奮性である。
  連歌の付合には、他人が付けるということにより見当もつかない偶然性が一句ごとに介入してくるのであり、偶然性によってひきおこされる意外さの感興の集積が、連衆全体を興奮へと導いていくのである。
  こうして、「一巻の終りに至りては某々の句のよかりし、すぐれたりしなどの意識は何もなくなり、たヾ面白し、愉快なりと感ずるのみにして恍惚として我を忘れたる境に」(山田孝雄『連歌概説』)達するのが、上級の連歌というものであり、これは一揆集団における身心の昂揚という側面にぴったりと結びつくのである。
  いったんそこに入れば社会的関係をわすれて一味同心できる共同世界が遊宴の文芸として身近にあったことの意味は地方武士にとって大きかったにちがいない。社会的流動、不安定という時代状況にあって地方武士たちは連歌の場に積極的に新たな共同の場を求め楽しんだともいいえようが、いずれにせよ、無縁平等の共同性の支配する連歌の場を生きた「宴の身体」はレベルこそちがえ、一揆の身体へと容易に引用されていったのだ。



「連歌会所」           

 一方、「会所」という言葉は、鎌倉期に入って、『無名抄』『沙石集』などに漢詩や和歌の場として見え始めている。
  (中略)

 会所は、無縁の人間によって管理される場であり、また世俗の身分秩序を離れた空間であった。
  (中略)

 能舞台は、なにもない空間ではあるが、コスミックな意味の方向性を濃密に持つ空間である。これに対し、会所はなにもなくフラットな空間であるゆえ、羅列的な装飾空間になりうる。五十もの花瓶と花々が立ちささめく貞成親王の会所は、無方向なエネルギーの充満するバサラ空間であるといっていいだろう。

 会所は、花や茶や連歌といった文芸の母胎ではあったが、いざその花や茶などが花道・茶道といった形で洗練されてくると、非シンメトリーの空間へと昇華されてしまう。茶室の空間などその典型であろう。

 中世にあっては、権力者の屋敷の中にまで、無縁空間としての会所が作られたが、これは江戸期に入ると姿を消す。しかし、江戸期に入っても、無縁で融通無碍の空間としての会所は、地下水脈となって日本社会の底に流れ続けたと思われる。山口昌男氏は、「幕末になってくると、会所的なものは表面的には殺されるけれど、例えば草莽がそこから出てくる空間であったり、それから例の隠れキリシタンばかりではなくて、隠れ浄土も九州に集まって、そこでは武士も商人も百姓も一緒になった仏飯講空間をつくる、というふうにいろいろ形を変えて生き残ったのではないか、という気もするわけです。本来、中世であれば無縁とかアジールといったものが、近世では画一された政治空間が出来たために隠れてしまった。しかしいろんな名目をとって姿を現わす」(トータルメディアとしての能」『国文学』昭和六一年九月号)と言う。

 これは実に近代までも持ちこされたのではなかろうか。森山軍治氏は、『民衆蜂起と祭り』(筑摩書房)で、秩父事件での困民党の組織のされ方や動員範囲は、俳諧の交流網とほぼ重なると述べている。中世に発する連歌・一揆・会所の問題の射程は、おそらく近代、そして今日までも届くものと思われる。





▼金春國雄 著 『能への誘い 序破急と間のサイエンス』

能はそれぞれの演者がアノニマス(匿名)な存在として全演者の共通意図の下に機能することによって、初めて成立する





よろずもの、無礼講、無縁、連歌、座、空気、偶然性――

同じ地方に生まれた人々は、時代が変わろうとも、同じような気質をもちつづけるものである。

機械と電子の媒体に替わったが、連歌のような言葉の饗宴は、日本人には馴染み深い。
2chのような匿名掲示板には卓抜した書き手が幾人もいるし、それらの人の中には無名で通す人もあれば、書き込みを特定する記号を付ける人もある。

個人的なことになるが、私の主張いうのはそれほどバリエーションに富んだものではない。
このwebsiteで私の書いていることというのは、日米同盟とそれを推進している小泉総理を支持しているという単純なものだ。
自分の持つ型に従って、事象に反応している。






もし運命というものが世にあるならば、それは運命そのものが舞台をぐるぐる廻っていた

――川瀬一馬


 ▼観世寿夫 著『観世寿夫 世阿弥を読む』  

 沈黙

・創造は沈黙に対決して人間の存在を実証することからはじまる。

・沈黙は恐怖を持つ。

・何もない「無」から、訓練を積み重ねた「有」へ移行する。

・透徹した自己否定、自己の放擲、言語による理解を超え、「死」という逃れ得ない現実的な「無」へと回帰する。

・絶望的な真空の中にある虚、非情な美と緊張、虚構の裏にある真実性を引きずり出し、舞台という虚構の世界を実存へと引き上げる。

・演技者を固有の個性から無人称的なところへ持っていく。

 

 夢幻能

・夢幻能は、ワキ方の役である僧や旅人の前に、所の里人が来合わせて、その土地や風物にゆかりのある物語りをするという設定でたいていははじまる。その物語りが進行するにしたがって舞台はしだいに物語りの世界にひき込まれ、語り終わった時点においては里人―大方はシテの役―は物語りの主人公と一体化してしまい、私はその霊であると主人公の名をほのめかして消え失せる。そこまでが前段で、なおも旅人が物語りの主を想って待っていると、ふたたびシテが、今度は物語りの主人公の在りし日の姿で現われ、昔の有様を仕方ばなしにして見せたり舞を舞ったりして、いつのまにかまた、闇の世界へと消えてゆく。これが典型的な夢幻能の形である。つまり夢幻能とは、ワキの役をつうじて、舞台全体を幻想の世界へとひき込んでしまう。この手法は、語り物の持つ呪術性―語るは騙るにつうずると言われているが―を巧みに利用することで、現実的な時間や空間を超越させ、曲の本意を的確に観る人びとの脳裡に印象づけることを可能にする。

・本質的に劇的なものは人間と運命との対決が根底にすえたものである。

・語るは騙るにつうずる。

 

 立つ

・からだの中の自分のありどころを捉えるという基本を自得する。

・前後左右から無限に引っ張られているその均衡の中に立つ。

・無限に空間を見、しかも掌握する。

・能舞台という、吹き抜けの宇宙的空間の中に、ひとつの存在として立つ。

・自分の中の内的な力によりて、劇空間の中の不確定なものを、極限にまで切りつめる。

・吹き抜けの無限の空間、無限であるべき空間の把握。

・そこに立つ自分は、とぎれることなくしずかに、永遠の無限の向こうに気持が通わせる、そうあるように目をひらく。



 力

・基本的なカマエは崩さず、それ以外の無駄な力は抜いてからだを柔軟に扱う。

・力は自分の内へ向けて満たす。

・力一杯になる稽古は、究極的には、外側への力をいつでも抜くことができるようになるためである。

・自分の内部で充実し、集中しているたしかな力は、外に向けては余分な誇示などせずにすむ。



 身体

・からだは縦横に使いこなさなければならない。

・近くで聞けば決して大声でなく、しかも遠くまで明晰に聞こえる声を持つ。

・演ずることへのべたついた欲望を排除し得ている声とからだ。

・詞章についた感情移入や情調的演技を濾過し、余分なものはすべて技術に還元する。

 見る

「無心の位にて、我心を我にも隠す安心」

・演じている自分の心、自分の意識を自分自身にも隠してしまわなければいけない

・自意識を離れる

・何かに化けようということは、その役らしく見せるという表象的物まねの域でしかない。そうかといってなまの役者そのままが出てしまっては、観客の反発を買ってしまう

・舞台上の演技者は、意識を超越した次元へ追い込まれていなければならない

「離見の見」

・「我見」から脱け出した離れた視点を持つ

・舞台にのめり込んでしまわない、覚めた眼がなければならない

・このように読んだから、観客にはこういうふうに見せられる、と思ったり、いかにも解説しているかのような解釈の見える能ではまずい。

・舞台という虚構をいかに実存に変えるには、まず演者が、見せる意識を自分の中から取り除かねばならない。同時に観客の見るほうの意識も変える。

・演者側の、見せよう、与えようという意識が見えてしまったら、観客は多くの場合反発するだろう。そっぽを向くか批評家的になるかである。

・博識を標榜したり、観客におもねって見せることとちがう。

・はじめに自分なりの解釈があって、それを自分の中で消化していくうちに、解釈を超えたものを立ち現わせる

・演技者というものは、まず観客の立場を理解し、その同じ時点に立つことができなければならない。

・その演技者は、多くのさまざまな表現を可能にする技術や感覚にすぐれていなければならず、そのための修練を重ねたうえで、自分の能を通じての生き方をはっきりと打ち樹てることが必要である。つまり観客を知り、能を知らねばならない。

・そのうえで、そうした演者の強い意思を他人に見られぬ仕掛けを考える。

・「我心を我にも隠す安心」、つまり自分の意志を自分でさえ意識する必要がなくなるほどの強い深い境地が最高である。そこに至ってはじめて「見所同心の見」が成り立ち、観客の主体性と演者側の主体性とが相反することなく一体となってその舞台を経験し、演者は観客を意識することも、無視することも、おもねることもなく自分の能を創り上げることができる。

・役者というものは、若さと美貌に執着したり、技術の達者さに溺れたがったりする。

・からだが利いたり、技術に自信があったりすると、ともすれば必要以上にオーバーな動きになりやすい。

・若ければ、動けるだけ動いての熱演も魅力のうちだが、ある年齢以上の熱演は、逆に観客をシラケさせかねない。

・「自分」と「役」と「観客」の三つのものの相応を見きわめ、体得する、それが「能を知る」ことに外ならない。

「まことの花を極めぬ為手と知るべし」

・自分の技術に頼って、あくどい芸や達者にまかせた芸に陥り、いつか非幽玄な役者に成り下がってしまう者になってはならない。

「関心遠目」
「心閑かにして、目を遠く見よ」
「命には終わりあり、能には果てあるべからず」

 年齢

二十代

・役者としての正しい基礎を築く。

・この時期の稽古はその役者の一生の芸の行方を定めさえする。

・師について学ぶということは、この時期までのことである。

三十代

・三十四、五歳は盛りのきわめ、その年齢までに、あらゆる役との対決をし終え、自分の能が鑑賞の対象になる。

 

 仮面

・観客に対するときの表玄関でもあるおもて、その能面の裏の暗闇の中に能役者は姿を隠している。

・隠れているからこそ逆に、役者自身の訴えたいことを思いのままに舞台上に描き出すことができるということもあるし、面というワンクッションをおくことが、演者と観客という対立者でも、協力者でも、批判者でもある複雑な関係を素直にときほぐしてくれもする。

・能の役者というのは、常に冥暗の世界と現世との中間にただよう霊魂のようなものだから、何らかの思いなり訴えなりを安心して託し、託すことによって、ある呪術力を持たせてもらえると信ずることのできる相手がなくてはならない。

・ある意味では自分の顔になりながら、それを通して内側の演技者が定着していたい。

・演者としては、仮面そのものが、自分と同等またはそれ以上の力量をもって立ち向かっていてほしいし、そうした仮面と演者の枯抗のうえにこそ、夢幻能の持つ緊張感を支えるものが生まれる。

・変身のための呪術性、魔術性、憑依性。

・そこでは演者も、役柄も、特定の誰かであることも否定している。

・本質的な意義は、顔面表情その他の瑣末的演技を一度全部切り捨てることによって、身体全体の内から湧き上がる演技を要求される

・能面は、単に他の人間に化けるためのものではなく、そうかといって、役と役者とを同一化してしまうためのものでもない。

坂邦恵氏『仮面の解釈学』
  仮面を意味するペルソナとは、人称なしの、つまり、自分でも相手でも特定の他人でもない、あるいは自分でも相手かもあるかもしれぬ「原人称」とでも名付けられるべきもの

・感情をあからさまに表出しようとはしない。「我」の表現はない。

・能の演技を成り立たせる基本であるカマエやハコビ、そしてすべての演技表現は、まず安易な表現欲を切り捨てさせられるところから出発する。しかも面によって、演者は顔まで失わせられてしまう。

・面をかけるとき、演者は自分の姿を鏡にうつして見ている。自分を客体として眺めている。

・いかなる芸能でも、舞台に出れば観客に見られることが役者の宿命で、したがって役者はいつも見られているという意識から離れられないものだが、その、見られるという意識、さらにそこに必然的に出てくる見せるという意識、それをなくす。

・面をかける、ということは能の役者にとって、これから一番の能を演ずる自分の、心の状態と位置とをきめる鍵となる。

・面をかけると演者は自分の内側に自分を入り込ませることが可能になる。

・自分を、日常的な世界から飛躍した場所に持っていく手立てとなる。

・今日演ずる能の、自分の思いを面の裏側に思いきりぶつけても、面が、それを支えてくれなければならない。

・面の力を信じて、永劫の亡魂とも自分を思える。

・面は、安心して己れの全部を委ねられるものであってほしいのと同時に、思いきって闘い合える相手でもなければならない。

・役者の内面と役者が感じる面の力とが闘争するだけでなく、役者の肉体と無機的な木彫品である面との反発のし合い、闘い合いが、そこに象徴される。


劇、それは何事かの到来である。能、それは何者かの到来である。

――ポール・クローデル



○沈黙と神性



微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る。故に能く敵の司命と為る。

――『孫子』 第六 虚実編

▼中島悟史 著 『曹操注解 孫子の兵法』

柔軟性なきものは滅ぶ

 『黄帝四經・道原』には、「故に聖人こそ、無形なるものに真理を洞察することができ、民衆たちの声なき声をも聴きわけることができ、何でもないところに真実を発見することができるのである(故隹聖人能察無形、能聽無聲、知虚之實)」とある。

 『同・經法・道法篇』には「ゆえに最も純白に、最も透明に仕上げれば、織り布も精神もすみずみにまで広がり、形がなくなってしまうような柔らかさになる(故能至素至精、浩彌無形)」



▼鈴木晶 著『ニジンスキー 神の道化』

ニジンスキーは、わずかな写真と、その踊りを見た人びとの証言の中にしか存在しないダンサーである。私は、動くニジンスキーが見たいという願いと同時に、彼にはいつまでも「イメージの中にしか存在しないダンサー」でいてほしいという願いも抱いているのだ。だから、観にいった映画が劇映画だったことに、失望すると同時に安堵したのである。

 ここまでに、すでに何度も「ニジンスキー・ファン」という言葉を使ったが、実際に世の中にはニジンスキー・ファンとかニジンスキー崇拝者と呼びうるような人びとが大勢いる。私のまわりにもたくさんいる。ニジンスキー・ファンとは、ニジンスキーこそ史上最高のダンサーだと信じている人たちのことである。

 これは、考えようによってはじつに奇妙な現象である。ニジンスキー・ファンの誰ひとりとして、ニジンスキーの踊りをじかに見たことはないのだから(ニジンスキーが最後に人前で踊ったのは一九一九年のことだから、世界中を探せば、ニジンスキーの踊りをこの目で見たという人は何人かまだ生存しているかもしれないが、それはこの際問題ではない)。ダンサーにとっての作品、つまり小説家にとっての小説、画家にとっての絵に相当するものは、いうまでもなく「踊り」である。したがって極端な言い方をすれば、ニジンスキーを崇拝するということは、その人の小説を読んだことがないのに特定の小説家を崇拝するようなものだ。

 そうした矛盾にもかかわらず、現実にはニジンスキー・ファンが大勢いる。それどころか、ニジンスキーの名声がこれほどまで高まったのは彼の死後のことである。たしかに彼はバレエ・リュス時代に一世を風靡したが(といっても欧米だけであるが)、彼を崇拝する者の数は彼の死後かなり経ってからのほうが生前よりもはるかに多いはずである。少なくとも日本の場合、一九七〇年代以前には、ニジンスキーの名は一般にはほとんど知られていなかった。

 それなのにどうしてニジンスキーはこれほど崇拝されているのか。

 まず、「幻は乗り越えられない」ということがある。誰でもいいが、たとえばファルーフ・ルジマートフのことを考えてみよう。ルジマートフ・ファンにとって、彼は世界最高のダンサーである。ファンたちから見れば、他のダンサーたちはどんなに優れていようともルジマートフには及ばない。だが、彼らファンですら、ルジマートフのことを史上最高のダンサーだとは考えていないだろう。彼らがルジマートフのことを「世界最高」と言うとき、それは「今現在、世界最高」、つまり「現在、彼の右に出る者はいない」という意味であって、ファンの多くは心の底で「昔は昔で素晴らしいダンサーがいたのだろうし、時代が変わればまた優れたダンサーが出てくるだろう」と考えているにちがいない。つまり、ルジマートフはやがては乗り越えられる存在なのだ。だが、幻は乗り越えられることはない。言い換えれば、他と比べられることを拒否する。

 ニジンスキーは生前、「ヴェストリスの再来」と騒がれた。ヴェストリスはロマンティック・バレエ時代の名ダンサーである。だが、私たちはヴェストリスという名を間いても少しも胸はときめかない。彼は私たちにとってあまりに遠い存在なのだ。史上最高のバレリーナがタリオーニではなく、アンナ・パヴロヴァであるのと同じことだ。ニジンスキーの時代には、ヴェストリスはすでに神格化されていた。そして今度はそのニジンスキーが、観客の前から唐突に姿を消すことによって、幻としてのみ存在するダンサーとなった。そして「神」の仲間入りをしたのである。

 ニジンスキーが神格化されたのは、彼の生涯があまりに劇的だったからだ。俗っぽい言い方だが、彼は彗星のごとく現れ、彗星のごとく姿を消した。彼が観客の前で踊ったのは、その六十一年の生涯のうちのたった数年間である。そういうダンサーが理想化されやすいことは、恋愛のことを考えてみればよくわかる。恋愛にはかならず「終わり」がある。恋入たちはかならずや別れる。それは恋が初めるからだ。それまでは「あばたもえくぼ」だったのが、「えくぼもあばた」に変わる。あんなにも素晴らしく見えた相手が、しだいに色初せて見えるようになる。だが、一つだけ例外がある。恋愛の絶頂期に相手が死んでしまえば、恋する者の心の中では恋愛は終わることがない。恋人の崇高なイメージは崇高なまま存在しつづける。残された恋人が詩人だったならば、失った恋人を賛美しつづけることが、彼に残された人生の仕事となる。

ニジンスキーは若くして狂気の闇へと消えていったために「伝説」になりえたのである。しかも彼は、右に挙げた恋人の例とは違って、突然死んだわけではない。夭折していたとしたら、現在これほどまで崇拝されてはいないだろう。彼は狂気に陥ったことによって、死んだ場合よりももっと高い地位に昇った。なぜなら、少なくともニジンスキー崇拝者にとっては、彼の狂気と彼の踊りとはどこか深いところで繋がっているのであり、彼の狂気は「聖なる狂気」なのである。ニジンスキー・ファンの間には、「彼は踊りを奪われたために狂気に陥った」という説がかなり広く浸透している。この説が果たして妥当なものなのかどうかについては、いずれ詳しく検討することになろうが、どちらにしても、ニジンスキーの狂気は、舞踊の中に潜む狂気、すなわち「神になる」とか「神に憑かれる」といった一種のトランス状態に光をあてることになったのである。

 ただし、ニジンスキーの狂気といっても、私たちは彼が主に精神病院で過ごした日々について詳しく知っているわけではない。せいぜい精神病院のカルテにしるされた彼の姿と、妻ロモラの眼を通してみた彼の姿しか知らない。それはあくまで「外」から見たニジンスキーにすぎない。後世に影響を与えることになったのは、ニジンスキーの狂気というより、一九一九年頃、すなわち彼の精神が狂気の闇の中へと沈んでいきつつあった頃に書かれた『手記』である。この『手記』はニジンスキーが世を去る十年以上前の一九三七年に出版された。出版当時もそれなりの話題を呼んだらしいが、この書物を世界的に有名にしたのは、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』(一九五六)である。この世界的ベストセラーによって、ニジンスキーは、ヴァン・ゴッホやT・E・ロレンス(アラビアのロレンス)と並んで、「アウトサイダー」(言ってみれば「確信犯的はみだし者」)としての地位を確保したのである。

 かくしてニジンスキーは「幻の中でのみ存在するダンサー」となったのだが、私たちの手元には、数が限られているとはいえ、写真が残されていることをも忘れてはならない。それらの写真は、たんなる存在証明ではなく、どれ一つをとってみても、恐ろしいほどのインパクトをもって私たちに追ってくる。写真を見てニジンスキーに一目惚れ」したという人は多い。

 たとえばここに「コボルト(小鬼、地の精)」を踊るニジンスキーの写真がある。この写真を見た者は誰しも、一体どんな踊りなのだろう、そもそもこれは一体何なのだろう、と胸をときめかせたにちがいない。『シェエラザード』を見ても『薔薇の精』を見ても『牧神の午後』を見ても、ニジンスキーは他のダンサーにはけっして見られないオーラを放っている。バレエに詳しくない人が見ても、「これは只者ではない」と感じるはずだ。これらの写真は「幻の踊り」を再現するための魔法の鍵である。つまり、私たちの脳裏にしっかりと焼き付けられたこれらの写真たちは、やがて頭の中の劇場で動き出す。動く映像が残されていないがゆえに、ニジンスキーは私たちの頭の中で、他のダンサーにはけっして真似のできない「最高」の踊りを見せてくれるのである。

 アウトサイダーという言葉は、別にコリン・ウィルソンの造語ではなく、昔からある語だが、ウィルソンによって新しい意味を盛り込まれ、世界的流行語となった。一言でいえば「はみ出し者」「疎外者」「仲間はずれ」である。社会に適応することができず、周囲の人びととなじめない。だが、彼が社会に溶け込めないのは、彼の眼には社会の病が見えてしまうからで、一般の人びとはそれに気づいていないからこそ平気で日常生活を続けることができるのだ。その意味で、アウトサイダーは真理の探求者であり、「見者」でもある。しかしながら、アウトサイダーは社会の指導者になれるわけではない。彼らは往々にして自分自身を知らず、その洞察はしばしば狂気という形をとる。いわば、自分だけが眼が見え、他はみんな盲人という、H・G・ウエルズの描く『盲人の国』に住んでいるようなもので、アウトサイダーたちはたえず寂寥感・孤独感・無益感に苛まれている。

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「アウトサイダーの制御への試み」から一般的な結論をひきだそうとするどんな企ても、肉体の修練を第一の仕事とした「アウトサイダー」の経歴をそれに付記しないかぎり、完全に満足のゆくものとはなりえない。ヴァン・ゴッホとロレンスについてこれ以上一般論を述べる前に、誰か、かような人物を考察してみる必要がある。例として適当な聖者や隠者にこと欠かぬが、どちらにしても、われわれがこれまで守ってきた条件に合致しそうにない。その条件とは、「アウトサイダー」たるものは、その宗教に関するかぎり、「出発点から始めねばならぬ」ということである。彼は宗教から出発してはならぬのであり、誰にも理解でき容認できる立場、すなわち世のなかと人生とから出発せねばならない。とすれば、選択の範囲はかなり狭められるが、幸運にも、手近な実例が一つある。
(コリン・ウィルソン著『アウトサイダー』 中村保男訳)



文献

1.観世寿夫 著『観世寿夫 世阿弥を読む』 平凡社ライブラリー 
2.ジェイムズ・バムフォード 著 『すべては傍受されている 米国国家安全保障局の正体』 瀧澤一郎 訳 角川書店
3.中島悟史 著 『曹操注解 孫子の兵法』 朝日文庫
4.金春國雄 著 『能への誘い 序破急と間のサイエンス』 淡交社
5.金関猛 著 『能と精神分析』 平凡社
6.観世銕之亟 『ようこそ能の世界へ 観世銕之亟 能がたり』 暮らしの手帖社
7.松岡心平 著 『宴の身体―バサラから世阿弥へ―』 岩波書店
8.観世清和 『一期初心 能役者森羅万象』 淡交社


語りえぬものについては沈黙しなければならない

――ウィトゲンシュタイン



今日ではむしろ情報量に富む生データを情報に携わる人々すべてが、それぞれの立場から観察・判断することが大切になっている。

情報分析とは直感力を頼りに多元方程式をいっぺんに解こうとするようなアート(芸ないし芸術)の要素がある(弁証法的思考)。
この多元方程式は全ての変数が与えられているのではないので不確実な問題から不確実な回答を引き出す決断を伴うのが宿命である。
不確実の中の確実性を高めるツールとして経験あるいは失敗の集積、雑多な知識(ナレッジ)が役立つ。
その繰り返しからエキスパティーズ(専門技能)が育ってくる。
情報を読むためには第一歩として「パターン認識」が大切だ。
パターン認識を向上させるためにはバックグランドとして専門分野(アカウント)を単一にしぼるべきだ。
情報で店を構えたいのなら材料の仕入れ段階から骨身を惜しまずに走り回り、意地でも「分かりませんとは言わない」という看板を張り通すことだ。
やせ我慢がなければ苦難に耐えられない。



これから先は沈黙を書く。
沈黙とは書くものではなく、一切が虚偽にしかならない。
ただ、 私は書く。

私は小泉純一郎という人が何を見ているのかを知りたいと思った。

2004年5月22日のあの日から――



自我を隠す暗闇から、それだけを見つめる。



Sometimes I've seen what people think they've seen.

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sanctuary lost THE ORIGIN III.外交

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/diplomacy.html
 我々は学んだ。広大な海が、もはや我々を新たな時代の危機から守ってくれないことを。政府は、どこで発生したものであれ、テロの脅威に対峙する責任がある。だからこそ我々は、アメリカの敵との戦いに打って出るのだ。

――ジョージ・W・ブッシュ大統領 初代国土安全保障長官トム・リッジの就任式典にて 2003年1月24日


小泉総理への批判に多いのは、
 ・歴史への見識の低さ
 ・戦略なき低姿勢な外交姿勢
 ・ヴィジョンを示したことがない

意味不明なものになると、
  ・小泉総理はノーベル平和賞を貰いたがっている
  ・金正日に弱みを握られている
  ・北朝鮮への朝貢外交だ
  ・拉致被害者とその家族に対して冷淡だ

外交交渉には感傷などの入り込む余地はまったくない。

内閣総理大臣の座。
自衛隊最高指揮監督権。




自衛隊法第七条
内閣総理大臣の指揮監督権

内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。





 「最高司令官は、陸軍参謀総長を介して戦略、戦術、作戦に関連する指揮を行うということをはっきり確認したい」

―― フランクリン・ルーズヴェルト大統領、スチムソン陸軍大臣宛の手紙 1942年2月




クラウゼヴィッツ『戦争論』 ▼

第一部 戦争の性質について

第三章 軍事的天才

 およそ異常な事業というものは、それがかなりの熟練度をもって遂行されるためには、それ相当の非凡な理性と情意との素質を必要とするものである。この素質がひときわ目立ち、異常な業績をなし遂げたとき、このような素質を持ち合わせている人を天才と名づける。
(中略)

天才をもって、ある事業をなし遂げるために発揮される極めて高度な精神力という意味に理解しておいてよいだろう。
(中略)

われわれは、ひたすら軍事行動に向けられた精神力の複合的傾向性を考察し、この傾向性こそ天才性と考えてみようと思う。
(中略)

なぜなら戦争とはそもそも不確定なものである中に包まれているといっても過言ではないからである。したがって戦争には緻密で透徹した理性の力が要求され、その判断によって事態の真相が解明される必要があるのである。理性的には凡庸であっても、あるいは偶然によって事態の真相が見出されることもあるだろうし、またあるいは非凡な勇気が理性の凡庸さを補ってあまりある場合もあるだろう。しかし多くの場合、つまり平均的な理性の凡庸さというものはいかんともし難いものなのである。

  戦争とはまた極めて偶然の支配する世界でもある。人間活動の諸分野において、偶然の支配する領域に関しては戦争に勝るものはない。それは戦争が不断に偶然と接触し合っているからである。偶然はあらゆる状況の不確実さを深め、事件の発展を押し止めてしまう。

  あらゆる情報や予想が不確実であり、これらに絶えず偶然が混りこんでくる結果、戦争当事者は常に事態が最初の期待とは異なったものになって行くのを見出すだろう。そしてこの事実は当然彼の作戦や、少なくともその作戦に属する種々の予定に影響を及ぼさないわけにはいかない。この影響があらかじめ予定されていた作戦を中止させるほどに大きなものであれば、言うまでもなく新しい作戦をたてなければならない。だがそのような場合には、往々にして新しい作戦を練り直すための資料が欠けていることがある。なぜなら作戦変更の時にあたっては、状況は大抵速断を要求しているものであって、新しい資料を吟味して作戦を練り直す時間的余裕などあり得ないものだからである。しかし一般的には、予定の事項を修正したり、偶然的要素を考慮に入れておいたりすることは必要であるが、さりとてそのことによって予定の全作戦が根底から崩れてしまうというようなことはあり得ず、ただ若干の動揺が起るというぐらいのことにすぎない。というのはそのようなあらかじめの考慮によって、確かに状況に対する資料は増大するだろうが、そのことは必ずしも洞察の不確実性を減少させるものではなく、かえって増大させるものだからである。けだし、これらの資料は一挙に入手されるものではなく、ぽつりぽつりとしか入手し得ないものである故に、その度ごとにわれわれの決断はぐらつき、常に戦々恐々としていなければならないことを考えれば、それも当然のことであろう。

  さて戦争当事者が、このような予期せざる新事態に直面して、たじろくことなく不断の闘争を続けてゆくためには、二つの性質が是非とも必要になってくる。すなわち、その一つは理性であって、これはいかなる暗闇の中でも常に内的な光を投げかけ、もって真相のいずれにあるかを発き出すものである。その二つは勇気であり、この微弱な内的光に頼ってあえて行動を起そうとするものである。前者はフランス人の表現を借りて比喩的に言えばクー・ディユ〔「眼の一撃」くらいの意味―訳者〕と呼ばれているものであり、後者はいわば決断心である。

  このクー・ディユについて若干考えてみるに、もともと戦争においては戦闘が最も目立ち易いものであり、そして戦闘においては時間と空間が最も重要な要素となる。このことは、騎兵隊が迅速な決戦を絶えず心がけていた時代には一層よくあてはまるものであった。それゆえ、時間や空間についての測定は敏速かつ的確な決断によらざるを得ず、これはまた正確な眼力によってしか目測し得ないものであった。フランス人がクー・ディユと名づけたのはこれである。そしてまた今日まで、多くの兵学理論家はこの語を右に述べたような狭い意義に限って使用してきた。しかし今日では、戦闘を遂行するにあたって下されるべきあらゆる的確な決断が、すべてクー・ディユと呼ばれるに至っているとこは注意しておく必要がある。例えば適切な攻撃点を見定めることなどもこれである。つまり、クー・ディユとは単に肉体的眼力ばかりのことではなく、精神的眼力も指しているのである。もちろんこの語は発生上から見れば戦術の領域に属するものではあったが、戦略においてもしばしば迅速な決断が要求されるものである以上、戦略の領域において使用しても差支えない。この語につきまとっている比喩的で狭量なニュアンスを取り除いてその本質を言うなら、このクー・ディユなる語の意味は、日常的眼力の人にはまったく見えないか、あるいは永い観察と熟慮の末ようやく見得るところの真理を、迅速かつ的確に把握し得る能力のことにほかならない。

  決断心とは個々の場合に発揮される勇気の一形態のことである。そしてそれが人間の性格になれば、決断心もまた精神の一つの習慣となる。ところでここで言う勇気とは、肉体的危険に対する勇気のことではなく、責任に対する勇気、つまりある程度精神上の危険に対する勇気のことである。フランス人の表現によれば、この勇気はしばしばクラージュ・デスプリ〔精神の勇気―訳者〕と呼ばれている。というのは、この勇気は理性から生れるものだからである。とはいえそれは理性の発現されたものと見なすより、情念の発現されたものと見なすべきだろう。もともと純粋の理性が勇気であるはずはなく、最も理性的な人が往々にして決断力を欠くなどということはざらにあることだからである。それゆえ、理性はまず勇気の感情を覚醒させ、これによって自らを維持し、かつまたこれを己れの礎石としなければならない。なぜなら、危機に際しては、思想よりも感情がより強力に人間を支配するものだからである。
  以上によって明らかなごとく、決断心とは、事に臨んで事態の動機を十分に推測できず、そのために疑惑の念にさいなまれ、躊躇のあまり危機に陥らんとするときそれを免れしめるところのものである。
(中略)

  さてこれまでクー・ディユと決断心について論じてきたのであるが、次にわれわれはこれらと極めて密接な関係にある沈着について論じなければならない。戦争のごとく予期し得ない事態の多く起る世界においては、この沈着こそまことに重要な役割を演ずる。というのは、沈着とはそのような予期し得ない事態に、よく対処してゆく能力のことだからである。不意の情報依頼に対して的確に応答したり、突然ふりかかってくる危険に対して敏速にその救済手段を講じたりするのが沈着の働きである。この応答したり、救済手段を講じたりする処置が適切であれば、この場合はそれでよいのであって、あえてそれが非凡である必要はない。というのは、もしそれが熟慮の上でなされたものであればたとえ平凡なものであり、ありふれた処置であっても、理性の敏速な処置として満足さるべきものだからである。つまり沈着という語は、理性がいつも傍にあって敏速に処置に応じられるという精神状態を意味しているのである。
(中略)

  頑強とは、個々の衝突にあたって抵抗の強さの点について見た意志の力のことであり、忍耐とは、個々の衝突にあたって持続期間の長さの点について見た意志の力のことである。この両者は極めて似かよっており、しばしば混同して用いられている。しかし本質的に異なる両者の差異を見落としてはなるまい。つまり個々の強烈な印象に対する反応である頑強は、その基盤を単に感情の強さにもつことにあるのに反して、忍耐は頑強以上に理性の支えを必要とするものなのである。というのは、行動の持続期間が長びけば長びくほど、その行動の計画性もそれだけ必要になってくるものであって、この計画性こそ一部分忍耐の力の源泉となるものであるからである。
(中略)

  そこでわれわれは、激烈な感情の運動のさなかにあってもなおかつ理性に従って行動するいわゆる自制心というものは、感情それ自身のなかにその根拠をもっているのだと考えた方がより真理に近いのではあるまいかと考える。すなわち激烈な感情のさなかにあっても均衡を失わない感情があり、この均衡によって初めて理性がその優位を確立し得るのではあるまいか。とするなら、この均衡感情は人間の品位によってもたらされる感情、つまり人間のもつ最も高貴な矜持にほかなるまい。それはこうも言えるだろう、すなわちその矜持とは明察力と理性を備えた人間として、いかなる場合も品位をたもつように行動しようという内面的精神的な要求にほかならない、と。それゆえ、感情の強固さとは、いかに激烈な感情の動きのなかにあっても常に均衡を失わないような態度を指す、と断言しておきたい。
(中略)

  最後に、かりそめには動じないが一旦感動したとなるとその相が極めて深い人間について見るに、これまでの三種の型の人間との関係はちょうど烈火と焔との関係に似ている。この種の人間こそ、困難な軍事行動にあたって、例えて言えば大岩石をゆり動かす巨人のごとき力を発揮する者である。そして彼らの感情の活動たるや、大きな物体の運動にも似て初めは遅々としているが、動き出した以上何ものをも圧倒せずんばやまない力をもっている。

  しかしながら、この種の人間が前者のように自分の感情に惑わされ、後になって自責の念にさいなまれるようなことはないとしても、彼らが決して均衡状態を失うことはなく、盲目的激情に溺れることもないなどと言おうとすれば、これもまた経験的事実に反することとなろう。彼らとて高貴な自制心が欠けていたり、あるいはこれが十分でなかったりした場合には、すでに述べたような事態がしばしば起こりがちである。われわれはこのような実例を、時として文明程度の低い国民の輩出する英雄について見ることがある。けだし理性の訓練が不十分な彼らにあっては、どうしても激情に翻弄されがちだからである。もっとも文明国民のなかの、とりわけ教養のある階層においてさえ、人間が激烈な感情に捉えられる実例が少なくないのは事実であるが。

  したがって、われわれはここでもう一度次のように言っておきたい。すなわち、感情の強固な人間とは、単に感情の激昂し易い者のことではなく、感情が激昂している時でも均衡状態を失わない者、胸中に渦巻く嵐にもかかわらず、常に洞察と信念とを失わない者のことである、と。それは例えて言えば、嵐にもまれる船舶の羅針盤の針のごとく、常にその進路を見失わないようなものでなければならない。
(中略)

  危険と苦痛とのために身も心もはり裂けんばかりの瞬間には、理性によって得られた信念も容易に感情に打ち負かされてしまうものである。殊にあらゆる事態がぼんやりしていて明確な輪郭が掴み難いときには、それらを深くかつ明瞭に洞察することは極めて困難であって、見解の動揺変更もやむを得ないことがある。およそ戦争は常にただ実情を推測し予感することによって遂行される場合が多い。それゆえ戦争におけるほど各人の見解が多様に分れ、さまざまな印象が流れこんできて自分の信念を押し潰そうとするものはない。このさまざまな印象の圧倒的量は、いかなる鈍重な理性の持主でも容易に対抗し得ないほどのものである。というのは、それらの印象は余りにも強く、また一見余りにも生き生きとしているので、それらが一束となって迫ってくるや感情は一たまりもないからである。

  行動をより高次の見地から導き出そうとする一般的原則と見解だけが、明瞭にして深い洞察を結実させ得る。そしてまた、いわばこのような一般的原則があって初めて、個々の事態に対するわれわれの見解も一貫性を保ち得るのである。だが後から後からと押し寄せてくる見解や現象を眼のあたりにして、なおかつ過去の思弁の結果を固守することはまさに最大の難事である。個々の事象と原則一般との間にはしばしば大きな距離があるものであり、この距離を埋めるためにはある程度の自信も必要となり、その反面懐疑の余地も十分残されることになる。このような自信を保つためには、多くの場合、思弁の外にあって思弁を支配している立法的原則以外のものは役には立たない。それは、いかに疑わしい事態に当面しても、自分の最初の見解を固守し、明瞭な信念によって余儀なくされざる限りこれより逸脱すべきでないと命ずる原則のことである。われわれは、すでによく吟味された原則が一層真理に近いものであることを確信し、一時的な現象がたとえどれほど強烈であろうとも、その真実性は必ずやすでに吟味された確信に優先権を与え、この確信を固守するならば、われわれの行動は、いわゆる性格と呼ばれるあの堅実性と持続性を獲得することになるだろう。

  感情の均衡が性格の強固さに、どれほど大きな影響力をもっているかは容易に理解されるところであろう。それゆえ、感情の強固な人間はまた多くの場合性格も強いものである。

  さて一戦争あるいは一戦役全体の最高司令官と、これに直属する諸司令官とを比べてみると、その間には極めて深い断絶がある。というのは、後者は直接指揮監督されているために、自分独自の精神的活動の領域が非常に狭められているからである。
(中略)

  すでに述べてきたように、下級指揮官にしても、彼が優秀な人材となるためには、優れた精神的能力が必要であるし、それも地位が高まるにつれて、その必要性も大きくなってくるのであるが、これをもって考えてみても軍隊の二流の地位にあって一応の名誉をもっている将官についての世間の見解は、まったく間違っていると言うべきだろう。彼らは一見博学者や文筆家や外交関係の政治家などに比べて単純な人物に見えはするが、だからといって彼らの活動的理性がもっている卓越した性質を見誤ってはなるまい。もちろん時には、下級の地位にあった時に獲得した名声によって身分不相応の高位に進み、そこで無難に務めているので馬脚を露わさずにすんでいるような人物もいるにはいる。このような人物がいるために、その地位にはその地位なりの人格が必要である、ということの理解が一般に妨げられているのである。

  したがって、戦争において卓越した軍功をたてるためには、下位から上位に至るまで、それぞれに非凡な天才が必要となる。しかるに歴史家や後世の人々の言によると、天才とは第一位にある者、つまり最高司令官の地位にあって抜群の軍功をたてた者を指して言っているようである。もちろん、この地位にある者にとって、その精神と理性の高さが要求される度合は、二流の者に比べてはるかに大きいことを考えれば、あながちそのような見方も不当と言えないのは事実であるが。戦争全体、あるいはわれわれが戦役と呼んでいる最大の軍事行動を輝かしい勝利に向けて推進していくためには、高次の国家関係を洞察する大いなる見識が必要である。戦争推進と政治とがここで合体し、最高司令官は同時に政治家であらねばならないこととなる。
(中略)

  すなわち、最高司令官は同時に政治家となるが、それとともに彼は常に軍人であることをやめてはならない、と。なぜなら、最高司令官たる者は、一面で全国際諸関係を把握していなければならないとともに、他面では自分の行使し得る手段でもってなし得る事業の範囲を正確に知っていなければならないからである。

  しかしながらこの場合、諸関係は極めて多様であり、かつその境界も定かではないために、最高司令官にとっては非常に多くの要因を一度に考慮しなければならないことになる。あまつさえこれらの要因の大部分はただ蓋然的にしか知り得ないものであるので、もし最高司令官にしてこれらすべての要因を明晰な精神によって即座に把握するに非ざれば、諸々の考察や反省が紛糾錯綜し、もはやいかなる判断も下せないことになってしまうだろう。
(中略)

  最高司令官にとって必要な精神的能力とは、統一力と判断力とであって、それが発展して驚くべき洞察力ともなり、それが飛翔するに及んで数千の不明瞭な諸観念に触れ、たちまちこれらを解決してしまうものである。これに反して凡俗な理性の持主は、苦労して漸くそれらに照明をあてるのだが、そのために自分の力をすっかり出し尽くしてしまうものである。ところがこれら高次の精神的活動、つまりこの天才的眼力も、これまで述べてきた感情や性格の特性によって支えられているのでなければ、歴史にその名をとどめる事実とはなり得なかったであろう。


  それが単に真理であるというだけでは人間を動かす動機としては極めて弱い。それゆえ認識することと意欲すること、知っているということとできるということの間には大きな隔たりがある。人間の行動に最も強力な誘因となるのは常に感情であり、そして行動を最も強く維持するのは、もしこのような表現が許されるなら、いわば感情と理性の合金である。われわれがこれまで述べてきた決断力・頑強・忍耐・性格の強固さ等はすべてこれに属している。

  だが、これら高次の理性と感情との活動性が最高司令官に備わっていなければならないとしても、それが彼の活動の全体的成果によって立証されず、ただ俗世間的にそのような活動性が最高司令官に備わっているはずだと信じられているにすぎないだけなら、そのような最高司令官はおそらく歴史に名を留めることはできないであろう。

  軍事上の諸事件について世人が熟知していることはと言えば、普通極めて単純なことであり、また互いに類似したものである。それゆえ、もし単なる歴史家の伝えるものだけに頼っていたならば、その間克服されねばならなかった諸困難について知ることはほとんど不可能であるだろう。ただ時として最高司令官あるいはその戦友のメモワールなどのなかに、またある事件についてものされた特殊な歴史的研究の副産物として、全体を織りなしている多くの糸の一部分が明るみに出されていることがある。ところが多少重要な行動を起すにあたって、それに先立ってなされた熟慮煩悶の大部分は、故意に隠されているか、それとも偶然に忘却されているかのどちらかである。というのは、それが政治的利害関係にかかわるからということもあろうし、単に建築物の完成後に取り払わねばならない足場としてしか考えられていないということもあろうからである。

  最後にわれわれは、高次の精神的能力についてこれ以上の分析を試みることなく、ただ通俗的に用いられている区別に従って、いかなる種類の理性が軍事的天才にとって最も役立つかを見ようと思う。理論と経験とに照して、われわれは次のように言うことができるだろう。すなわち、戦争にあたってわれわれが自分の子弟の生命、祖国の名誉と安全を託し得るような人物は、創造的頭脳の持主というよりはむしろ反省的頭脳の持主であり、一途にあるものを追い求めるよりは総括的にものを把握する人物であり、熱血漢というよりは冷静な理性の持主である、と。



第六章 戦争における情報

 そもそも情報とは、敵軍と敵国についてのわれわれの全知識のことであり、したがってまたわれわれの想定と行動の基礎となるものである。今この基礎の性質、つまりその不確実で変化し易い性質に想いをはせるならば、戦争という建築物がどれほど危険なものであり、どれほど崩壊し易いものであり、どれほどまたわれわれをその廃墟の下に埋め尽し易いものであるかを感ぜずにはいられないであろう。――実際、確実な情報でなければ信用してはならないとか、自分を信頼することなく濫りに情報だけを信じてはならないとかということは、どの書物にも見られる言葉であるが、このようなことは所詮は貧弱な書物の上だけでの慰めであり、体系を樹で、概要を書くことを趣味にしているような輩が、自分の蒙昧を押し隠すために吐いた方便の言葉にすぎないのである。

  戦争中に得られた情報の大部分は相互に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、さらにその他のものといえど大部分何らかの意味で不確実ならざるを得ないはずである。そこで将校に要求されるものは、事物と人間に関する知識であり、それらに基づく一定の識別力である。しかも彼はこの識別をただ蓋然性に頼ってのみ遂行しなければならないのである。

机上において、あるいは真の戦場以外において作成される最初の作戦計画のなかで、すでにこの困難さは少なからず感じられるのであるが、情報が相乱れて入ってくる戦争の混乱のさなかにあっては、この困難さは測り知れないほど大きくなってくる。それらの情報が相互に矛盾しながらも、ある均衡を生じ、批判的吟味を要求するような余地があれば、まだしも幸いである。

ところが、多くの情報が相互に袖足し合い助長し合って、イメージを一層鮮明なものに着色し、一気に決断へと急がせるような場合は、批判的吟味が忘れられているだけに、一旦それらすべての情報が虚偽、誇張、誤りなどであったなどとわかるや、今までよく吟味もせずに信じ切っていた者は窮地に陥り、まったく愚か者であらざるを得なくなる。一言でいえば、大抵の情報は間違っていると思って差支えなく、しかも人間の恐怖心がその虚偽の傾向をますます助長させるもととなるのである。けだし一般に誰でも善いことよりも悪いことを信じたがる傾向をもち、その悪いことも必要以上に拡大して信じたがる傾向をもっているからである。

このような仕方で伝えられる危険についての情報は大抵虚偽のものか誇大なものであるが、それはまるで大海の波のように一度は崩れ去っても、何の原因とも知れないまま再び高く盛り上ってくるものである。そこで指揮官は波がぶつかって砕け散る岩のごとく、自己の内的見識を固く信じて事に当らなければならない。彼の任務は決して容易なものではない。生まれつき冷静な素質を備えている者や、戦争の経験に慣れ、判断力を養い得た者などは別として、一般に指揮官は、虚偽の情報に惑わされんとする傾向と闘って徒に恐怖に陥ることなく、自分の内的見識を確信しつつ、事態の希望に満ちた側面を見るように心がけなければならない。彼はそうすることによって初めて均衡を得、正当な判断を下すことができるようになるだろう。

もともと事態の真相を看破することの困難なことは、戦争の諸障害中最大なものの一つであるが、指揮官は一事態にあうごとに、それがかつて考えていたものといかに異なるかを思い知るだろう。そして、一般に感覚から受ける印象は厳密な計算によって作られた観念よりも強力なものなので、多少とも重大な事業を遂行しようとするとき、古来いかなる指揮官もその遂行の当初にあたって常に新しい疑惑と闘わねばならなかったのである。それゆえ、他人の人知恵に左右され易い凡庸な人間は、いよいよ事を遂行するにあたって、事態が当初の想定とは異なるのを見て躊躇してしまうものである。しかも凡庸な人間というものは、もともと他人の入知恵に左石される弊害をもっているだけに、その程度は一層烈しいものとなる。

もっともこのような状況においては、自ら計画を立案した者でも、今や事態を目撃するに及んでは、容易に自分のそれまでの計画に疑念をはさみがちである。したがって、このような状況においてはなおさら指揮官たる者は、堂々と自分の信念に自信をもち、もって目前の幻影を排除しなければならない。この種の恐るべき危険の幻影は、いわば大道具によって描き出された舞台の前景のようなものであって、この物々しい大道具が取りのけられて初めて、視界は忽然として開け、自己の最初の計画も滞りなく展開するものである。

――これが、計画と実行との間にある一大飛躍というものである。



第二部 戦争の理論について

第二章 戦争の理論について

13 これらの諸理論はすべて天才を常軌を逸したものとして度外視してきた

  このように、貧弱な知識による一面的考察をもって理解し得ないものは、すべて学問の埓外にあるものとして放棄され、天才の領分に属するものとして扱われてきた。けだしこの種の論者からみれば、天才とは常軌をもっては律し得ないものなのであるからである。

  たとえ今ここに法則があったとしても、天才の用には供するに足らず、また天分ある者は傲然とこれを無視し、甚しい場合は嘲笑をしか返してもらえないような、そのような法則を甘んじて遵奉しなければならない軍人こそ惨めであろう。しかしまた考えてみるに、天才の軌跡こそ最も優れた法則でなければならないはずである。そして理論とは、天才がいかなる方法で、いかなる理由で天才であるのかを全力を挙げて究明するものであるとさえ言えるだろう。

  精神を無視し、これと対立するような理論もまた惨めである。この矛盾は、その理論がいかように謙虚な態度に出ても掩い隠し得るものではない。いやそれが謙虚であればあるほど、ますますその理論は嘲笑と軽蔑とを受け、現実の活動から追われて行くことになるであろう。

24 第三の特性、諸事実の不確実性

最後に、戦争においてはすべての事実が極めて不確実であるということも、戦争にとって独特な困難さの一つである。ここではすべての行動が、かなり輪郭のかすんだ薄明の境で行われねばならない。それはちょうど、霧のなかや月明りのなかで物を見るようなものである。このように確実性に乏しく完全な洞察をなし得ない事柄は、才能によって推察されるか、偶然的幸運に委ねられねばならない。つまり客観的知識の不足を補うためには、才能か偶然的幸福に頼らざるを得ないこともある、ということである。

26 しかし理論を構成するために道がないわけではない

しかし地位が上昇するにつれて諸困難は徐々に増加してゆき、最高司令官ともなれば、すべてのものが天才に委ねられねばならぬほど困難さは測り知れないものとなる。
(中略)

理論的法則を構成することの困難さは、戦術においてよりも戦略においての方がはるかに著しい、と言うことである。

40 名将たる修業に多くの歳月がいらず、また最高司令官が学者である必要のない理由

  それまで別の仕事をしていた人が一旦戦争になるや忽ち将校となり、さらには最高司令官ともなって登場し、偉大な功績を打ち樹てることがあるのは歴史上しばしば見られる事例であるが、
(中略)

また古来から優れた最高司令官が博識で教育ある将校から生れることなく、たいていの場合その境遇上多くの知識を修得する暇がなかったような人々の間から生れることが多い(以下略)。
それゆえ、未来の最高司令官を育成するために、末端までの詳細な知識が必要であるとか有用であるとか言う輩は常に笑うべき衒学者としてあしらわれてきた。このような知識がかえって害になるだろうことは容易に証明できるだろう。なぜなら人間の精神というものは、己れに授けられた知識と思想によって育成されるものだからである。いやしくも自分に授けられたものを自分に関係ないものとして排斥してしまうのでない限り、人は大いなるものを授けられれば大器となり、小さいものしか授けられなければ小器にとどまる以外にはないことは自然の理と言うものである。

41 従来の矛盾

戦争に欠くべからざる知識はこのように単純なものでこと足りることを従来の人々は理解せず、この知識をことさら末梢的な知識や技能と混同してきた。その結果、理論が一旦現実世界の諸現象と衝突するような事態に当面するや、すべてを天才に委ねてしまい、天才は理論を必要としないだの、理論は天才のために書かれるべきではないだのと説明する以外に手はなかったのである。

42 かくて人々は知識の効用を否定し、一切を天賦の才能に帰してしまった

 常識的にしか物を考えることのできない輩は、偉大な天才と博識な衒学者との間にあまりにも懸隔のありすぎることを感じ、一種の懐疑論に陥ってしまい、ついには理論など何ひとつ信じられないものだと主張し、作戦の能力など天賦の才能によるものであり、才能いかんによって作戦の成功不成功も決まるものだと思いこむに至る。このような放言も、あの末梢的な知識を後生大事にしている輩に比べたら、より真理に近づいていることは否定されるべきではない。

44 戦争の知識は単純であるが、その習得は必ずしも容易ではない

 戦争の知識はその取り扱う対象が少なく、しかも常にただその要点だけを把握すればよいのであるから、甚だ単純であると言うことができるが、その運用は決して容易であるとは言えない。軍事行動がいかに困難なものであるかは、すでに第一部で述べておいた。それらの困難のうち勇気でもって克服し得るものは問題外として、理性に基づく活動に関しては下級にあってなら単純かつ容易であるが、上級に昇るにつれてその困難の度が加わり、最上級つまり最高司令官の地位に至っては凡百の理性が遠く及ばない最も困難なものとなる。

45 いかなる知識が必要であるか

 最高司令官は博識の歴史研究家である必要はないし、また政治評論家である必要もない。彼に必要なことはせいぜい国政の概略に通じ、因襲的諸傾向、互いに交錯する利害関係、現在の諸問題、現在の諸人物等を知っていれば十分である。また彼は冷徹な人間観察家であったり、鋭利な性格分析家であったりする必要もなく、ただ己れの部下の性格、思想、品行、長所などをわきまえていればよいのである。さらにまた彼は車の構造や馬に砲車を引かせる方法等を熟知している必要はなく、その代わりさまざまな状況に応じて一縦隊の行軍に必要な時間を正確に測定することを知らなければならない。およそこれらの知識は学問的公式や体系によって得られるものではなく、事物を観察し世に処するにあたって、適切な判断力が働き、これらの事柄を把握すべき才能が鋭敏に働く時にのみ得られるものである。

 それゆえ、上級軍人に必要な知識は、特殊な才能による考察、つまり研究と熟慮によってのみ獲得することができる。この才能はいわば一種の精神的本能であって、ちょうど蜜蜂が花から蜜を吸い取るように、人生のさまざまな現象からそのエッセンスだけを採り出すのである。またこの知識は研究と熟慮とから得られるばかりでなく、日常生活からも得ることができる。確かに日常生活の豊富な教訓からではニュートンやオイラーのような人物を生み出すわけにはゆかないだろうが、コンデやフリードリッヒのような優れた軍略家を生み出すことはできるものである。

 それゆえ、われわれは軍事行動の精神的威厳を保つために、虚偽の説や愚劣な衒学趣味に足をとられる必要はないのである。古来、偉大な最高司令官にしてその精神の狭量なものはあった例はないが、これに反して下級にある間は目ざましい軍功を立てていても、高級の地位に昇るや、その精神的力量の不足のために凡々として終わってしまった人物の例は枚挙にいとまがない。いや、最高司令官の地位においてすら、その権限の広狭にしたがって精神能力の間に差異が生じてくるのは、おのずから明らかであろう。

46 知識は能力とならればならない

 ここにもう一つ念頭に入れておかねばならない条件がある。この条件は他のいかなる知識にもまして作戦の場合、特に重要なことである。というのは、作戦の知識はまったく精神のなかに同化してしまっていなければならないということであり、いささかでも同化されずに残っているというようなことがあってはならない、ということである。世上幾多の技術や活動を見るに、行為者はかつて学んだことがあるだけで、平生忘れ去ってしまっていた真理を塵を払って取り出しこれを応用することもできる。いや彼が平生手にしている真理ですらも、完全に己れの精神の外に置くこともできるだろう。例えばある建築家がペンをとりアーケードの礎石の抵抗力を算出したとしても、この答えは複雑な数式の結果であって決してこの建築家の精神の表現ではない。彼は苦労の末漸く材料を選び出すや、これを理性の操作に委ねなければならない。ところでこの理性の操作法にしても彼の発見によるものではなく、また操作の過程でこの操作法の必然的であることを意識しているわけでもない。大部分彼はただ機械的熟練に身を委ねているにすぎないのである。しかし戦争にあってはそうではない。ここでは行為者は、精神上の諸反応や諸事物の形態の不断の変化等を処理しなければならないので、その知識の全体をいわば精神的装置として常に自分の内部に保持していなければならないのである。つまり戦争における行為者は、いかなる場合に当面してもとっさの間に己れの能力によって決断を下さなければならないということである。言い換えるならば、戦争における行為者の知識は精神および生活とまったく同化して真の能力とならなければならないのである。このことが一見名将の行動を極めて容易なものに見せ、一切が天賦の才能のしからしめるものであるかのごとくに思わせる所以である。ここで天賦の才能というのは、もちろん研究や熟慮によって育成された才能でないもののことを指しているのは言うまでもない。

  以上の考察によって、われわれは作戦の理論を明らかにし、その解決の方法を指示し得たと信じている。

  われわれは作戦について、これを戦術と戦略に分けたが、すでに述べた通り、このうち戦略に関する理論の方が戦術のそれに比べてはるかに困難であることは疑うべくもない。なぜなら、戦術はその対象の範囲が極めて限られているのに反して、戦略は直接講和をもたらす諸目的の方面に可能性が無限に広がっているからである。そしてまた、この目的を怠りなく追求せねばならぬ者こそ最高司令官であるわけであるから、戦略のなかでも最も困難な問題が常に最高司令官の背にかかっているということになる。

  それゆえに戦略の理論、なかんずくその最高の事業に関するものは、戦術の理論に比べて単に事物の観察に終始し、もって交戦者が事物を洞察する際の手助けをするだけで満足しなければならぬ場合が多い。とはいえこのような洞察が全思考力と融合するなら、彼の動作は以前にもまして軽快かつ確実になり、彼自身己れの精神と何の関連もない単に客観的な事実真理に身を屈することはなくなるであろう。



第八部 作戦計画(草案)

第六章 [戦争と政治]

 これまで、戦争の本質と個々人や社会団体の利害との軋轢を、対立するこの二要素のいずれをも軽視しないよう、その両面から概観してこなければならなかったが、この軋轢はもともと人間自身のうちに根ざすものであって、哲学的知性をもってしても解き難いものなのである。ところで次にわれわれは、実際の活動上、この矛盾する二要素が部分的に相殺され、統一されている面を研究してみようと思う。われわれがこの統一をこれまで問題にしてこなかったのは、その前に上の矛盾を明確に描き出し、種々の要素をばらばらに考察しておく必要があったからである。ところで、この統一とは、戦争が政治的取引の一部にすぎず、したがって、決して独立のものではない、という概念のうちに求められる。

  むろん今日誰しも、戦争が政府や国民の政治的関係によってのみ生ずるということを知っている。しかし普通、人は、戦争とともに政治的関係が中断し、独特の法則に従うまったく別の状態が発生するものと考えている。

  これに対して、われわれは、戦争とは他の手段をまじえて行なう政治的関係の継続以外の何ものでもない、と主張する。ここにわれわれは、他の手段をまじえて行なう、と書いたが、これによって主張せんとしたことは、この政治的関係は戦争そのものによって中断したり、まったく別のものになったりしはしないということ、むしろ、その用いる手段こそ違え、政治的関係は本質的に不変であるということ、そして、継起する軍事的事件を繋ぐ主要な流れは、開戦から講和に至るまで切れ目なく続く政治の姿にすぎないということ、なのである。それ以外に一体何か考えられるというのか。そもそも、外交的文書が途絶えたからといって、その都度、諸国民諸政府の政治的関係も途絶えてしまうものであろうか。戦争とは要するに政治的関係を別種の文書や言葉で表現したものにすぎないのではなかろうか。戦争には確かに独自の方法はある。しかし独白の論理などは決してありはしないのである。

  それ故、戦争は決して政治的関係から切り離し得ないものであり、もしそれを切り離して考えるならば、関係のあらゆる糸は切断され、戦争は意味も目的もないものとならざるを得ないだろう。

  この考え方は、戦争が完全に戦争であり、敵意の剰す所なき発露である場合にも、欠くことのできない原則である。なぜなら、戦争の基礎をなし、その主要な方向を決定する一切の事柄、例えば、彼我の兵力、両国の同盟国、両国民や両国政府の性格等、第一部第一章において述べられたところのものは、すでに政治的性質を有し、全政治関係と不可分に結び付いているからである。―‐さらに、戦争がその概念通りに首尾一貫したものでも、極端にまで力を押し進めるものでもなく、中途半端なもの、自己矛盾を合むものであること、戦争そのものがそれ自体の法則にだけ従うことはあり得ず、ある全体の一部と見なされねばならないこと、そして、この全体がすなわち政治そのもの以外の何ものでもないということを考えれば、右の考え方は二重に不可欠となるはずである。

  戦争が政治の手段として用いられると、戦争の本質に由来する一切の必然的な結果は回避され、終局的な可能性は軽視されて手近な蓋然性だけが問題となる。こうして全行動は極めて不確実となり、戦争は一種の遊戯と化する。かくて各国政府はこの遊戯における老桧さと明察力とでもって敵を凌駕することに誇りを感ずるに至るのである。

  それ故、政治は戦争から一切の苛烈な要素を剥奪して、これを単なる手段と化してしまう。会戦は本来、両手で満身の力をこめて振り上げられ、一度限りに打ち下される恐ろしい巨剣であるべきはずであるが、それが政治の手にかかると、突き、洋撃、ひっぱずし等を行ない得る軽便自在の細剣となり、時には稽古用試合刀ともなってしまう。 激烈な戦争の本性と天性臆病な人間の本性との矛盾は、もしそれを解決と呼び得るとするならば、このようにして解決されているのである。

  戦争が政治に所属する場合には、政治の性格を受け入れることになる。政治が大規模かつ強力になれば、戦争もまたそのようになり、遂にはその絶対的形態に達するほどになることもある。

  したがって、上述のような考え方をしたからといって、戦争の絶対的形態を無視する必要はなく、むしろ、この姿を絶えず背景に思い浮べておく必要があるといった方がよいであろう。

  このような考え方を通してのみ戦争は再び統一性をとりもどし、一切の戦争は単一種類のものとなり、判断には正しく精確な立場と視点とが与えられてくるのであって、大計画はそうしか立場や視点から企画され判断されねばならない。

  むろん、政治的要素は戦争の些末事にまで深く漫透しているわけではなく、例えば、騎馬哨兵の配置や斥候の派遣が政治的配慮に基づいてなされるわけではない。しかし、全戦争、一戦役、そしてしばしば一会戦に対してさえも、政治的要素の影響力は決定的なものがあるものである。

  個々の問題を論ずる場合には、この視点はあまり役に立たなかったであろうし、かえって、注意を散漫にする怖れさえあったであろう。これ、われわれがこの視点を最初から直ちに提示し得なかった理由でもある。だが、戦争計画や戦役計画を論じる際にはこの視点は必要不可欠のものとなる。

  そもそも人生において最も重要なことは、ものを把握し判断するのに必要な立場を正確に突きとめ、それを厳守することである。なぜなら、一つの視点を得ることによってのみ多様な現象は統一的に把握されるものであるし、視点の単一性のみが矛盾の発生を防ぎ得るからである。

  同様に、作戦計画の作成にあたっても、あるいは兵士の眼で、あるいは行政官の眼で、あるいは政治家の眼でものを見るといった多くの視点からの観察などは許され難いことである。とするならば、およそ一切の他の立場を支配する視点は必然的に政治の立場であろうか、という問が生じてくる。

  政治は内政上の一切の利害、また個人生活の利害や哲学的に考えられる利害をも統一し、調和させるものであるということ、これがわれわれの前提である。なぜなら、政治はそれだけでは意味のないものであり、これら一切の利害の代弁者として他の国家に相対するものにすぎないものだからである。政治が誤った方向をとり、名誉心、私的利害、政務官の虚栄心の道具となる場合もないではないが、ここではそれらを考えないことにする。なぜなら、兵術の書が政治に訓戒を垂れるなどということはもってのほかのことであり、ここでは政治を全社会の一切の利害の代弁者と考えるほかはないからである。

  すると残る問題は、作戦計画立案の際に、政治的立場は純粋に軍事的な立場(そういうものが考えられるとして)に道を譲るべきか、つまり、その前にまったく消滅してしまったり、それに従属してしまったりすべきものであるのか、それとも、政治的立場があくまでも支配的であり、軍事的立場こそがそれに従属すべきものであるのか、という問題だけである。

  戦争とともに政治的視点が完全に消滅するといったようなことは、戦争が敵意にのみ由来する生死の闘争である場合にしか考えられることではない。だが、ありのままの戦争を見れば、それは、すでに述べたごとく、政治そのものの表現にほかならないことがわかるであろう。政治が戦争を生み出す以上、政治的視点が軍事的視点に従属するなどということは矛盾も甚だしい。政治は頭脳であり、戦争は単なるその手段であって、その逆ではない。したがって、軍事的視点が政治的視点に従属する場合しか考え得ようがないのである。

  現実の戦争の性質を考え、本部第三章において述べておいたこと、すなわち、あらゆる戦争を理解するには、何よりもまず、政治的な諸力や諸関係によって与えられるその性格や主要な輪郭を推測しなければならないということ、そして、しばしば、いや今日では、ほとんどの場合、戦争は一つの有機的全体であり、個々の部分は全体から切り離しては考えられないということ、したがって、あらゆる個別活動は全体に合流し、全体の理念によってのみ規定されるべきであるということ、これらのことを想い起せば、戦争を指導し、戦争の基本線を規定する最高の視点が政治のそれ以外にはあり得ないことは、完全に確実かつ明瞭になることと思う。

  このような立場に立つとき、作戦計画は完全なものとなり、史上のそれに対する理解と判断とは一層容易かつ自然となり、確信はいよいよ強固となり、動機は言切満足すべきものとなり、かくて歴史は一層理解し易いものとなる。

  またこのような立場に立つとき、政治的利害と軍事的利害との衝突は少なくとも本質的には存在しなくなり、したがって、それが生ずれば、洞察が不完全なためにのみ生じたものと見なされることになる。政治が容易に成就できない要求を戦争に課すようなことがあれば、それは、政治はそもそも己れの利用し得る手段の範囲を知っているはずだ、という当然すぎるほど当然なわれわれの立論の基礎となっている前提に反することとなる。ところで政治が軍事的諸条件の経過を正しく評価している場合には、戦争の目標に適しか事件や方針を決定するのはまったく政治の任務であり、また政治のみの任務でもあることになる。

  一言にして言えば、兵術は、最も高い立場に立ってこれをみるとき、政治となる。ただし、外交文書を交す代りに会戦を交すところの政治となるということである。

  この見解からすれば、大軍事事件やそれに対する作戦については純粋に軍事的な判断が可能である、といった主張は許されないばかりでなく、有害でさえあると言えよう。実際、戦争計画立案の際に軍人に諮問し、内閣の行なうべきことについて純粋軍事的に批評を求めようとするのは、不合理なやり方である。しかも、既存の戦争手段を最高司令官に委託し、この手段に応じて戦争あるいは戦役の作戦が純粋軍事的にたてられるべきであるとする理論家諸氏の要求に至ってはその不合理さを評すべき言葉がない。一般の経験からしても明らかなごとく、今日のごとく複雑にして発展した戦争にあっても、戦争の基本線は常に内閣によって、専門的に言うなら、軍事当局ではなく、政務当局によって決定されるべきものである。

  右のことは完全にものの道理にかなっているというべきである。けだし戦争のための主要な作戦計画のどれ一つとして、政治的関係の洞察なしに立案され得るようなものはありはしないからである。したがって、政治が戦争の遂行に有害な影響を及ぼすなどという非難はその言い方を誤っている。もし非難されるべき事態があるとすれば、それは政治そのものなのである。政治が正しくその目標にかなっていれば、それは必ずや戦争に有益な影響を及ぼさずにはいない。この影響が目標から外れていれば、その原因は政治の不正のうちにこそ求めらるべきなのである。

  ただ、政治がある軍事的手段および処置に対して、誤った、その性質に合致しない効果を期待する場合だけは、この規定づけによって戦争に有害な影響を及ぼし得る。外国語に習然していない者は時に正しい考えを抱いていながら、それをうまく表現できないことがあるが、それと同様に、政治もしばしばその本来の意図に合致しない処置をとることもあるのである。

  実際このような事例は枚挙にいとまがなく、これを見ても、政治的関係の運用には軍事についてのある程度の理解が是非とも必要なことがわかる。

  しかし、論述を進めるに先立って、容易に起り得る誤解を防止しておかねばならない。われわれは、君主が直接に政治を執っていない場合には、文書に埋まった陸軍大臣、学識ある軍事技術者、あるいは戦争に優れた才能を発揮する軍人などの人々こそが、最上の首相たり得るなどと考えているわけではない。一言で言えば、軍事に対する洞察などは首相にとっての主要な特質ではなく、視野の広い卓抜な頭脳、強固な性格こそ彼のもたねばならぬ主要特質なのである。軍事に対する洞察などは何らかの方法によって十分補うことができるものである。ペルイスル兄弟およびショアズール公爵はともに優秀な軍人であったが、それにもかかわらず、彼らの治下におけるフランスほど軍事的政治的行動が拙劣であったことはなかったではないか。

  戦争は政治の意図に完全に合致すべきであり、政治はその手段たる戦争に無理な要求を押しつけるようなことがあってはならないとすれば、政治家と軍人とが同一人のうちに体現されていない限り、とるべき手段はただ一つしかない。すなわち、最高司令官を内閣の一員として、主要な評議や決議に参加させることである。だが、これもまた、内閣、すなわち政府自体が戦場の近くにあって、事柄を遅滞なく処理し得る場合にのみ可能なことである。

  これは一八〇九年にオーストリア皇帝が試み、一八一三年、一八一四年、一八一五年に連合軍の君主連が試みたことであって、その効果は完全に立証されている。

  最高司令官以外の軍人が内閣に影響を及ぼすのは極めて危険なことである。それが健全で有用な行動を生み出すことは滅多にない。一七九三年、一七九四年、一七九五年にカルノーがパリにあって諸軍の軍事行動を指揮したような例は徹頭徹尾非難されねばならない。というのは、テロリズムは革命政府だけがなし得ることだからである。(中略)

  それ故、ここで、戦争は政治の手段であるということを繰り返して言っておきたい。戦争は必然的に政治の性格を担わねばならず、その規模は政治の尺度で測られねばならない。したがって、戦争の遂行はその大筋において政治そのものである。政治はその際ペンの代わりに剣を用いるが、それだからと言って、政治はそれ独自の法則に従って考えることを止めはしないのである。





プロイセンと現代日本とをそのまま重ねることは出来ないけれど、それでもいくつかの示唆をクラウゼヴィッツは与えてくれる。
首相にとっての主要な特質は、視野の広い卓抜な頭脳、強固な性格、である。




ジョン・H・アーノルド『歴史』▼

・歴史とは、過去に関する真実の物語から構成された、ひとつのプロセスであり、議論である。

・現代の歴史家が行なうべき三つの徳目とは、批判力に富むこと、疑い深いこと、妥当な推測を行なうことである。

・歴史家が過去におけるすべての事件を語ることは不可能であり、その中のほんの一部を語ることができるにすぎない。

・何について語ることが可能であり、あるいは何について語らねばならないのか、歴史家は決定を求められる。

・「歴史」(歴史家が過去について語る真実の物語)は、関心をとらえ、現代においてふたたび語ろうと決めたことだけからできている。

・歴史家が真実の歴史を選びだす際の理由づけは時代によって変化する。

・過去をそのままのかたちで提示するだけではなく、解釈する必要がある。

・物語のコンテクストを見つけだす作業は、「何か起こったか」を述べるだけでなく、何を意味するかを述べようとする試みである。

・歴史家は、みずからの関心、道徳、倫理、さまざまの信念、世界の働きや人びとがある行為をなす理由をめぐる自分自身の考え方にしばられている。

・「推測」という言葉は、歴史記述のプロセスがある程度の不確実性を含んでいることを示唆している。

・歴史家はつねに「過ち」を犯す。完全に「正しい」ことなどありえない。あらゆる歴史の説明は空白部分や問題点、矛盾や不確実性を抱えている。つねに他人と同じ意見をもつわけでないという理由からも「過ち」を犯す。他の意見をもつ人からみれば「過ち」を犯しているのだ(ときに歴史家がある事柄の解釈についてグループを形成することもある)。

・過ちを犯しつつも、歴史家はつねに自分の記述を「正しい」ものにしようと試みている。史料が実際に示しているものに忠実であろうとするし、何が起こったかを完全に理解しようとして、利用可能な資料をすべて見つけだそうと努力する。

・歴史は史料を取り扱い、それを提示し、説明を行なうにあたって想像力を用いる作業である。

・歴史家にとって重要なことは、実際に何か起こったかであり、そしてそれが何を意味するのかということである。

・疑念は「歴史」が存在するためには不可欠である。

・歴史が「真実」であると言えるのは、それが基づいている事実つまり史料と矛盾していないときで、そうでない場合には、なぜ「事実」が間違っており、修正する必要があるかを示さねばならない。

・読者を(さらには自分自身を)説得する作業を行なうという意味において、歴史とは「物語」である。

・過去それ自体は語りの形式をなしてはいない。全体とすれば、それは人生そのもののように、まとまりを持だない混沌とした複雑な存在である。

・過去が現在にふたたび割りこんでくるとき、それは強力な位置を占める。

・「歴史」について考えるとは、歴史とは何のために――あるいは誰のために――あるのかを考えることである。

・歴史そのものを「歴史化する」ために、歴史は何に源を発し、どこから始まり、どのように変化したのか、さまざまな時と場所においてそれが何のために用いられてきたのかを考えるために、過去をふり返る。

・ 過去の歴史記述を、現在行なわれていることと対比するために、そして学問対象としての歴史が時代につれて変化してきた以上、それが将来ふたたび変化することもありうることを肝に銘じておくために用いる。

・すべての歴史は何らかのかたちでそれ自身の現在について何かを言おうとしている。

・戦争・国務・統治の適切な運営術に関して社会を教化するにあたっては、歴史が不可欠である。

・歴史は大きな力をもっている。その時代に歴史はひとつの役割を果たし、歴史は人びとにアイデンティティを与える。

・歴史家のセミナーでは、若い学生たちはそこで名の知れた学者を囲み、一次史料を直接扱うことを通して技法を学ぶ。教育予算が許すかぎり、このモデルが若い歴史家の職業教育の基礎をなしている。

・目の前にある資料が偽造ではないことを確かめなければならない。

・「偏向」(著者の偏見とそれがもたらす記述の歪み)を探しだす作業は、「偏向のない」立場の存在を暗に主張することにつながりかねない。かりに「偏向」とは個人のもつ独特の考え方を含む概念だと考えるとすると(現にそういうものであるはずだが)、「偏向をもたない」文書など存在しないことになる。

・発見された「偏向」が「捨て去られる」べきものではなく、逆に利用できるものだということであり、「偏向」は探しだして根絶やしにすべき何かではない、追いかけて大切にすべきものである。

・文書が示してくれるもの、示してくれないものについても考えてみる必要がある。それが何を言っているかを考えるのと同様に、何を言っていないかをも考えなければならない。

・資料が示すものと、沈黙している部分と、湧きあがってきた関心を組み合わせることによって、探究の方向―出発点から進んでゆく道筋―を決める。

・利用可能なすべての文献を使って自分の目的に合致する箇所を探す退屈でつらい作業が、歴史家がやっていることの一端である。歴史の研究という作業のひじょうに多くの部分が退屈であり、歴史家の能力のひとつはその退屈にもめげずに作業をつづけ、ごく稀な発見の瞬間を待ち望むことである。戦争とは、瞬間的な熱狂がときおりめぐってくる長い退屈な時間であると言われることがあるが、歴史研究も似たようなものである。

・ほとんどの歴史家は史料館にあるオリジナルの文章資料と同様に、出版された資料集も利用する。たいていの場合、オリジナルの文章を見るのが最良であるのは確かだが、それはしばしば時間と忍耐と研究助成金の枠を越えた願いである。ともあれ出版された版を見ることにもそれなりの見返りはある、誰かほかの人が退屈でつらい仕事の大部分を肩代わりしてくれ、みずみずしい果実を素引からもぎとってもよいということだから。

・資料は馬鹿正直に分かりやすく書かれたものではない。それは特定の状況において、特定の読み手のために書かれたものである。

・ある時点で資料は語ることを止める。そこからは歴史家が推測を始めなければならない、それが文書の解釈である。

・それらを補強するものとして史料を利用することができるのは確かだが、橋を作った役割を否定してはならない。歴史家はそうした小さな橋を作る必要がある、しかしそこに橋をかけだのが誰であり、なぜそうしたのかを忘れてしまったり、それぞれの橋でわずかながらも通行料が要求されるという事実を無視することは不可能であるし、無視すべきでもない。それを支払うことによって、望みどおりの道筋を歩きつづけるかわりに、それ以外の道を閉ざしてしまったり通行不可能にしてしまったりする可能性もある。

・最終的には選択を行なわなければならず、進むべきひとつの道を、足元のしっかりしたひとつの推測を決めるしかない。

・推測は推測でしかない。あまりに多くの仮定を積みかさねすぎると、道に迷ってしまう。

・資料が「おのずから語る」わけではない。資料は他者に代わって、この世を永遠に去ってしまった者に代わって語る。

・資料がさまざまの声をもつこともありうる―複数の声というところに注意してほしい―それは進むべき方向のヒントを与え、考えるべき問題に気づかせてくれたり、さらなる資料へ導いてくれたりする。しかし、資料がみずからの意志を持っているわけではない。歴史家がそこに生命を吹きこむ。

・資料は出発地点のひとつにすぎないが、歴史家はその手前から存在し、みすがらの技能を使い、選択を行ないながらその先へと進んでゆく。なぜこの文献であって、他のものではないのか。なぜこれらの証書であり、他の証書ではないのか。さらには、なぜ裁判記録ではなく、証書を調べるのか。日記ではなく、政府文書を調査するのはなぜなのか。どの問題を追いかけるのか、どの道筋をたどるのか。そこで、他の例はないかと探し始めることになる。このようにして新たな物語が始まる。出発点が、資料のさまざまな声と歴史家の関心の間にあるどこかにできあがる。

・歴史家は単に「史料館から報告を行なう」わけではない。そのようなことをすれば、まったくの嘘ではないとしても、真偽のあやふやな混乱した話を繰り返すのが関の山だろう。資料は馬鹿正直ではない、その声は特定の目的、特定の効果をねらって語られている。それらは過去の現実を映す鏡ではない、それ自体が事件である。

・つねに新たな疑問が湧きあがってくる。一番の理由は、そこに空白、省略、沈黙があることである。資料は語ってくれないし、すべてを教えてくれるわけでもない。あるフランスの歴史家が最近言ったように、それこそが歴史の不可能性であり、可能性でもある。つまり、歴史は完全な真実を求めるのだが、無数の不明点が必ず残されてしまうために、決してそこにたどり着くことはない(真実の物語がありうるのみである)。しかしその問題こそが、過去を自明の真実とするかわりに、研究すべき対象とすることを可能にするのであり、より正確には研究することを要求しさえする。

・歴史の出発点のひとつは資料であるが、資料のなかの空白、あるいは資料と資料の間の空白にも出発点はある。

・ものごとは脅威にさらされることによってより明確に見えてくることがある。

・歴史が可能となるためには、資料を必要としているが、同じく沈黙をも必要としている。

・総合という作業はつねに何かを沈黙させてしまう。総合は有用であるし、不可避でもある―しかし、それはあくまでも「真実の物語」なのであって、真実のすべてではない。

・すべての歴史は暫定的である。それは手に負えないほどの複雑さを前にして何かを述べようとする試みである。

・歴史家はみすがらの解釈が物語を語る唯一の方法であると絶対に主張してはならない。あれこれの歴史が不完全であるからといって、それを軽視してはならず、歴史に許された真実の物語として受け止めねばならない。

・歴史とは、みずからは選択できない環境の下にある人びとによって作りだされる。彼らは、それぞれが営む人生を通じて環境に影響を与える。「環境」、「歴史」、「人びと」は別々の存在ではない。それらは共に進んでゆき、ひとつのバターンを取り出してくれる歴史家を待っている。

・すべてがとは言わないまでも、ほとんどすべての出来事は、結果を見通せないままに、ある目的を達成しようとする人びとの行為の結果として起こる。

・人はみすがらの現在と結びついた理由から、みすがらの現在と結びついた環境のなかで行為を行なう。しかし人がなすことは、さざ波をたてながら、今という瞬間を超えて、他の無数の人生から放たれたさざ波と出会う。そして、それらのぶつかりあう波によって作られた模様のどこかに、歴史が生まれる。

・歴史家は過去の言語がもっているニュアンスに敏感でなければならない。

・時代の言葉は特定の集団の言葉なのであり、権力をめぐる争いと絡み合っている。

・異なる歴史物語を沈黙させる行為は2000年以上にもわたって実際に行なわれてきた。

・異なった考え方や心性を理解するためには原資料を注意深く用いなければならない。そのためには、それを書いた人物が意図しなかったようなやり方で、彼らが考えもしなかったような意味を読みとることが必要となる。そのような方法は現代の歴史家から「木目に逆らって読む」と呼ばれている。「木目」とは資料が要求する方向性と、そこに含まれる主張のことである。

・最終的には、歴史家には分からないが、事実と意味が反対の極に存在するというような主張はできないということ。いかなる「事実」も「真実」も、意味、解釈、判断という文脈を離れては語ることができない。真実とは合意に追するためのプロセスであるということ。「真実」(「真実の物語」として受け入れられるもの)は、他の人びとが、絶対にではないにしても、ともかく一般的に受け入れてくれなければ成立しない。

・歴史家は資料によって許容される範囲に忠実であり、その限界を受け入れなければならない。存在しない記述をでっち上げたり、みずからの語りと矛盾する史料を隠匿したりしてはならない。それらの規則に従っているだけでは過去が残しか謎を解き、出来事に関して一貫した明解な説明を生みだすことはできない。「真実」は人間の生活や行為の外側では起こらないということを受け入れたときにこそ、真実を―あるいは複数の真実を―その偶然がらみの複雑さを残したままで提示する試みを始めることができる。それに満たないすべての試みは、歴史家白身を、そして過去の声をともに失望させる。

・歴史とはひとつの議論であり、その議論がいくつもあることが変化の機会を与えてくれる。「これこそが唯一取りうる道である」とか、「物事はつねにこうだった」などと言う独断的な人に出会ったとき、歴史を引いて抗弁することができる。これまでにも行為の方向性はつねにさまざまあったし、さまざまな存在のしかたがあった、と歴史は異議を唱える手段を与えてくれる。





WWIIに関係した歴史に対する発言について

目的:中国の主張を無力化する
 中国は、力には屈するが道理には屈しない。
 中国は変化に乏しい。
 日本の強大化に対しては、中国は歴史問題のカードを切り続けることで対応する。
 中国は米国の覇権に挑戦しようとしている国であり、日本が完全に優位に立つことは可能性としてはあるだろうが、いつになるかは不明である。

目標:米英を日本側の主張に取り込む
 そのためには米英にとって不可欠な国家であること。

この問題は戦勝国である米英にとって微妙な問題である。




1999年11月(*8)
ブッシュ大統領(当時候補)が大統領選挙へ向けて行った外交演説の結び部分
「われわれは日本を打ち破った国である。その後食糧を配り、憲法を起草し、労働組合を奨励し、女性に参政権を与えた。日本人が受けとったものは報復でなく慈悲だった」

米英を刺激して中国側の歴史認識に立つことのないように、発言には注意を払うこと。
日本は敗戦国であり、戦勝国側に立つ中国に対して最初から劣勢であったという事実と、中国がこれまで歴史問題のカードを有効に使用し、優勢に立っていたことを認識する。



2005年5月7日
  ブッシュ大統領は7日、リガ市内で演説。ヤルタ会談を批判。
 (読売)

2005年5月16日
  小泉総理、予算委員会。
  「日本は戦後60年間、戦争に巻き込まれず、戦争もしていない。戦没者全般に敬意と感謝の誠をささげるのがけしからんというのは理由が分からない。軍国主義の美化ととらえるのは心外だ」
  (朝日)
「中国側は『戦争の反省』を行動に示せというが、日本は戦後60年間、国際社会と協調し、二度と戦争をしないという、その言葉通りの行動によって、戦争の反省を示してきた」
  「いつ行くか、適切に判断する」
  (共同)

2005年5月26日
  アーミテージ前国務副長官
  「日本人は歴史に向き合い、戦後60年間、世界の人々にとって模範的な市民だった」
 (毎日)


小泉総理の姿勢は防御的であるが、日本は現在のところ孤軍ではない。
日本はイラク戦争において米英を支持した。

防御は攻撃よりも容易であり、究極的には小泉総理の強固な姿勢の維持でこと足りる。


状況誤認からであれ、恐怖からであれ、怠慢からであれ、攻撃者がとるありとあらゆる躊躇的行動はすべてそのまま防御者の利益になる。
防御者が迅速かつ剛胆な力をもって防御から猛烈な反撃に転ずる時、これが防御の最も光を放つときである。
この問題は、小泉総理には秘策はない。戦略的に正しい。
敵のもっている諸手段を粉砕しあるいは略奪するのはただ攻撃行動によって可能であると思い込み、防御をもって錯乱弱劣を極めたものと見なすような浅薄な見解は排除してかまわない。
(参考:クラウゼヴィッツ『戦争論』 第六部 防御の項)

事象の包括的な観察は難しいが、可能な限り視野を広く保つ。
歴史に対する発言と最高意思決定者としての能力とを直接結び付けるのは誤りだ。

「笑うべき衒学者」「虚偽の説や愚劣な衒学趣味」「末梢的な知識を後生大事にしている輩」といった"歴史至上主義者"へのクラウゼヴィッツの言葉は、絶えることなく現在までを貫く。



 抗日宣伝に対して日本の政治の宣伝下手なぞ攻撃している一部のインテリゲンチャより、民衆の黙々たる鼻の方が、宣伝というものの性格について、もっと深く知っていると僕は思っている。この鼻は宣伝の巧い拙いなどを批評しないだろう。併し恐らく事変に関する政府の宣伝の拙いのは、この事変の抽象的な方針は明らかだとしても具体的な見通しについては、いろいろ曖昧たらざるを得ない結果であろう、と、この鼻は嗅ぎつけているかも知れないのである。又恐らく宣伝の拙さも一種の消極的な宣伝であり、政治家は沈黙すら宣伝に使う者であるくらいの事も、この鼻は口には言わぬが心得ているかも知れないのである。

昭和十二年―――― 一九三七 小林秀雄「宣伝について」



2004年5月22日。
この日から一つの沈黙が事態を支配している。
2004年5月22日を語る前に、最も関わりの深い2001年9月11日とそれに関連する事象について触れる。




2000年10月11日(*6)
アメリカ国防大学 国家戦略研究所(INSS)特別リポート「合衆国と日本:成熟したパートナーシップへ向けての前進」
  (通称「アーミテージ・リポート」)、公表。

総論
  アジアは、政治・経済・安全保障などさまざまな面で、アメリカにとってますます重要な地域となっている。日本、オーストラリア、韓国などはデモクラシーを実現しているが、中国は巨大な社会・経済変動の只中にあり、その行く先は不透明である。
  もはやヨーロッパでは大きな軍事紛争の可能性は少ないが、アメリカを巻き込んだ紛争は、朝鮮半島ならびに台湾海峡でいつおきても不思議ではない。
  インドとパキスタンの衝突も心配される。いずれの場合も、核兵器使用の可能性がある。
  第二次大戦後、日本は民主国家(デモクラシー)として地域の安定を形作り、信頼を醸成することに大きく貢献してきた。そして、日本との関係は、今かつてないほど重要になってきた。我々は、継続する米日関係のために六つの提言を行う。

漂流の時代から活性化の時代へ
  冷戦時代、米日の二国は、自由主義陣営のパートナーとして重要な役割を果たし、冷戦の勝利を勝ち取った。
  しかし、冷戦勝利の後に、米日関係は眼前の闘うべき相手を失ったためか、緊張感を失い、漂流し始めた。そして、90年代は経済問題を中心に米日関係は衝突を繰り返した。
  北朝鮮のミサイル実験によって、また台湾海峡の緊張により、米日は両国関係の重要性に目覚めた。しかし、米国は対中関係に重点を置いていた。米日対話は安保分野においては、北朝鮮に関するものだけだった。
  漂流の時代から、いまや米日同盟関係を活性化する時がやってきた。アメリカ人は、日本を無視・軽視せずに、日本の潜在力を高く評価する必要がある。

日本の若手政治家への期待
  日本では、自民党の力は過去十年衰え続けているが、野党もこれに代わる力をつけることはできなかった。
  財政官の「鉄の三角関係」の結束も拡散してきた。
  今の日本の指導層が本格的改革に取り組むとは考えられない。しかし、若い世代は経済力だけで自国の未来は切り開けないと考えており、彼らは国家主権への新たな尊厳に目覚めようとしている。
  日本におけるこれら若い世代の政治家の登場によって、米日関係を活性化するチャンスが生まれてきた。

強力な米日安全保障の構築
  21世紀に向けて、米日両国は早急に安全保障上の協力関係を構築しなければなれない。強力な米日同盟こそがアジアにおける紛争を未然に防ぐことができる。
  日本の集団的自衛権の否定は、米日同盟関係の重要な制限となっている。集団的自衛権の行使により、緊密で効果的な協力関係は可能となる。しかし、それを決定できるのは、あくまで日本国民だけである。
  米日両国は、大西洋における特別な同盟関係である米英関係をモデルにすべきである。そのために、次の七点が考慮されなければならないと思われる。

米国は「尖閣列島を含む日本防衛に強い責務を持つ」ことを明確にし、日本も対等な立場での同盟国となる。
安保条約を実質的に機能させるために、日本は「ガイドライン法案」に沿って国内制度を整備する。
米日両国の軍隊は緊密で具体的な協力関係を築かねばならない。国際テロや国際犯罪にも対応できるようにしなければならない。
現行法では、日本が国連維持活動に参加するに際し、あまりに多くの制限を設けている。日本はこの制限を取り払い、平和維持活動や人道的任務に参加するべきである。
危機に対応する機能を維持できるという条件つきで、沖縄を含む在日米軍基地をできるだけ削減すべきである。
米国は防衛関連技術を優先的に日本に提供するようにする。米日の防衛産業が戦略的提携関係を組むことを奨励する。
ミサイル防衛協力を推進する。
米日関係は「バーダン・シェアリング(負担の共有)」から「パワー・シェアリング(権力の共有)」へと前進するべき時がきたのである。

日本が必要としている情報に協力
  NATO諸国と比べた場合、米国は日本への情報共有を怠っている。情報面でも米日は緊密な協力体制を築かねばならない。
  CIA長官も、国家安全保障担当の大統領補佐官もこの点に留意すべきだ。協力関係の対象も拡大して、違法移民、国際犯罪、国際テロに対処しなければならない。
  米国は日本が必要としている情報(スパイ)衛星の開発を援助すべきだ。
  一方、日本は情報管理のための法的整備を行なう必要がある。

日本経済の繁栄は米日関係に不可欠
  経済的に健全な日本であってこそ、米日関係も健全であることができる。全アジアにおけるアメリカの国益は、繁栄する日本経済を通じて増大するのである。日本はアメリカの輸出先として第三位を占めている。
  不孝なことに、この十年は日本経済にとって停滞と不況の十年であった。1992年から99年にかけての年平均成長率はたったの1パーセントでしかなかった。
  市場開放と経済のグローバル化を受け入れてこそ、日本経済の持続的成長は可能になるだろう。規制緩和と貿易障壁の削減が不可欠である。
  日本の景気刺激策は、土木工事を中心とする公共投資に依存してきたが、これでは景気刺激の実効は上がらず、いたずらに財政赤字を拡大する結果となってしまった。
  日本とシンガポールで話し合っている自由貿易協定は、将来韓国やさらにアメリカを含む自由貿易協定のテスト・ケースとして歓迎する。

日本外交は独自性を追及せよ
  アメリカは日本外交を単なる「小切手外交」と見なすのを止めるべきである。日本も「小切手外交」から脱皮して、リスクを覚悟の上で指導力を発揮すべき時がやってきた。
  アメリカは、日本が国連・安全保障理事会の常任理事国になることを支持する。
  しかし、日本は同時に、集団安全保障には明確な義務を伴うことを認識すべきである。
  日本外交の独自性の追及は、決してアメリカの国益に反したことではない。米日両国の追及すべき外交目標は、大部分共通のものである。



2001年1月20日(*3)
  ブッシュ大統領、就任。

2001年1月21日(*2)
  ブッシュ大統領就任演説
  「米国は自由を守るため、力の均衡をとりながら、世界の問題に関与し続ける。同盟国とわれわれの利益を守る」と国際政治に「関与」していく方針を確認。
  統合参謀本部議長は、QDR2001の準備作業の一部を米国防大学国家戦略研究所(NDU・INSS)に依頼。
  INSSは1999年9月に5つの作業部会を設置し、そこで研究作業を行い、その結果を『QDR2001』(ミッシェル・フローノイ委員長)として公表。
  INSS報告では、
   「米国が国益をどう定義するのか」
   「米国の国益にとっての最大の脅威とその対処」
   「基本的な国家安全保障の目的」
   「次の10〜20年間で米軍が抑止し、必要であれば戦って勝利する戦争とは何か」
  といった、次期大統領が国防計画を策定する際の課題を12項目あげたうえで、戦略A〜Dの4つの戦略的選択肢を列挙。

「戦略A:戦略環境形成(Shape)、対応(Respond)、現在は準備(Prepare)」
「戦略B:関与はより選択的に行い変革を急ぐ」
「戦略C:関与はより選択的に行い戦闘能力を高める」
「戦略D:関与を今行うことによって明日の紛争を抑止する」
 第1は、「戦略B」と「戦略C」が米軍の「選択的な関与」を行うことを強調。
 第2は、米国の国家戦略の基礎となる「脅威」として、現在の「2MTW(大規模地域紛争)」を想定する計画が「戦略A」と「戦略C」であるのに対して、「戦略B」と「戦略D」は「1MTW+SSC(小規模紛争)」を想定。

エリオット・コーエンの分析
「2MTWは現状に合致せず、防衛予算の大幅増強なしに現在の米軍の規模を維持することは不可能である」
「MTWは湾岸戦争の事例を基盤とし、大規模な艦隊と戦闘機に支援された装甲部隊の展開を想定しているが、現在考えられるイラクによる侵略、北朝鮮の韓国に対する侵略などは、MTWで想定している規模の兵力は必要ない」

ラムズフェルド、2001年1月12日の上院軍事委員会での国防長官への就任のための公聴会

大量破壊兵器の拡散に対応し得る防衛力の構築、
多様な脅威に迅速かつ柔軟に対応し得る軍事力の維持、
指揮・統制・通信能力及び情報収集能力の強化、
現在の安全保障環境に見合った装備品調達の効率化・迅速化、
国防総省の組織機構の改革、
従来の「大規模紛争」ではなく、「多様な脅威」の強調。
2001年2月13日(*2)
  ブッシュ大統領、ノーフォーク海軍基地で演説。
  ラムズフェルド国務長官に包括的国防計画や兵力構成の見直し指示。
  ラムズフェルドは国防見直し(Defense Review)で
   中東と朝鮮半島で同時に起きる大規模地域紛争への対処を想定した「2正面戦略(2MTWs)」の放棄、
   米軍全体規模削減(国内外の基地縮小)、
   機動力の向上、
   ミサイル防衛の強化、
   装備の大幅な変更(新技術を兵器開発に積極的に導入)を中心に検討。

2001年4月26日
  小泉純一郎内閣総理大臣、就任。

2001年5月7日
  小泉総理、内閣総理大臣所信表明演説。

2001年6月30日
  日米首脳会談、キャンプデービットにて。

2001年9月11日(*2)
  アメリカ同時多発テロ
  米本土へのテロ攻撃に関して「21世紀委員の国家安全保障委員会」のPhase IIIレポート“Road Map for National Security” で、「今後四半世以内に米本土に壊滅的被害をもたらす攻撃があり得る」と予測。対策の欠如を警告していたのが現実となる。

2001年9月19日 午後7時30分(*4) 
  小泉総理、緊急記者会見。
  「米国における同時多発テロへの対応に関する我が国の措置について」

安保理決議第一三六八号において「国際の平和及び安全に対する脅威」と認められた本件テロに関連して措置を取る米軍等に対して、医療、輸送・補給等の支援活動を実施する目的で、自衛隊を派遣するため所要の措置を早急に講ずる。
我が国における米軍施設・区域及びわが国重要施設の警備を更に強化するため所要の措置を早急に講ずる。
情報収集のための自衛隊艦艇を速やかに派遣する。
出入国管理等に関し、情報交換等の国際的な協力を更に強化する。
周辺及び関係諸国に対して人道的・経済的その他の必要な支援を行う。その一環として、今回の非常事態に際し、米国に協力するパキスタン及びインドに対して緊急の経済支援を行う。
避難民の発生に応じ、自衛隊による人道支援の可能性を含め、避難民支援を行う。
世界及び日本の経済システムに混乱が生じないよう、各国と協調し、状況の変化に対応し適切な措置を講ずる。
2001年9月27日(*4)
  日本、9.11テロを非難する国会決議、可決。

2001年10月1日(*2)
  QDR2001で脅威基盤戦略(Threat-Based Strategy)と決別。新たに能力基盤戦略を採用。
  「不確実性」と「非対称脅威」

影響脅威基盤戦略が能力基盤戦略に転換され、それと同時に2正面戦略が見直し。
9.11テロを反映して「本土防衛」が最優先課題として強調され(ホームランド・ディフェンス)、テロ戦争の核となる「非対称戦」の重要性
9.11テロでロシアとの協調関係を進展させたアメリカはMAD体制からの脱却を目指し、ミサイル防衛をより重視した核戦略を推進。
「トライアッド」から「ニュー・トライアッド」へ転換。
米軍のトランスフォーメーション。
 ラムズフェルド国防長官 QDR2001序文
 「伝統的な仮想敵国想定ではなく、奇襲や策略など非対称戦術に頼る敵の攻撃能力を前提にした対応をしなければならない」と
 「脅威を基盤としたモデル」(脅威基盤戦略、Threat-Based Strategy)を見直し、「能力を基盤としたモデル」(能力基盤戦略、Cabapibily-Based Strategy)へとシフト。
 能力基盤戦略とは「“敵”が誰であるか」「どこで“戦争”が起こるか」ということではなく、「“敵”といかに戦うか」

 第1は、単に国家だけではなく、テロ組織などの非政府主体による脅威も含めてあらゆる脅威を対象とする。脅威の対象がいかなるものであれ、米軍はその脅威が持つ能力に対処する。21世紅型の非対称脅威として、テロ、大量破壊兵器拡散、情報、宇宙分野などにおける不確実な様態の脅威に柔軟、迅速、かつ正確に対応することを重視。
 第2は、米軍の能力に応じて戦略をたてる。RMA(軍事革命)により米軍は核戦力、通常戦力、戦略防衛能力で圧倒的に優位に立とうとしている。その米軍の能力に応じて迅速にかつ正確にあらゆる危機に対処することが可能となり、その能力を基盤として戦略を積み上げる。
   同盟・友好国の保証、
   競争相手を思いとどまらせる、
   侵略者の抑止、
   敵の撃破。

 米軍のトランスフォームとは、世界情勢の変化と技術進歩と並行して、米軍の組織・編成・運用等を変革することにより能力・効率向上を行い、軽量化、高速機動、大きな破壊力を持つ米軍に改変すること。

米本土や同盟国などの米軍の作戦上重要な基盤を防護し、大量破壊兵器に打ち勝つ、
情報システムの一体性を確保し、情報攻撃を実施する、
米軍の接近を妨害する手段が用いられる米国から遠方からの戦域に対して米軍を投入し、作戦を継続し、妨害手段を撃破する、
重要な移動および固定目標に対して各種の距離から、そして全天候条件下とあらゆる地形条件下で航空戦能力と地上映能力をお互いに保管しながら組み合わせて用いる方法で、継続的な監視、追尾を行い、大量の精密攻撃により迅速な交戦を行うことで敵の聖域化を拒絶する、
宇宙システムとその支援基盤の能力と生存性を強化する、
情報技術と革新的な概念を用いることにより、相互運用可能な4軍の統合的なC4ISR構成機能と、任務にあわせて変更が可能な統合作戦能力を開発する。
 「リスク管理」は現在から将来への防衛戦略の中心的要因と位置づけ、同盟国や友好国を威圧や侵略の「脅威」から抑止し、必要とあれば敵に勝利をおさめることを保証。
  兵力管理、運用の任務を達成するための兵員のリクルート、維持、準備および兵力の即応性
  運用、短期的な紛争・偶発事故のための軍事的目標達成能力
  将来の挑戦への準備、中長期的な軍事的挑戦を思いとどまらせ、あるいは勝利する新たな能力への投資する能力と新たなオペレーションの概念を作る
  制度、防衛のためのマネイジメント業務開発、リソースの効率的利用、効果的オペレーション能力。
の4つの枠組み。

本土防衛、
前方抑止、
戦闘使命、
小規模紛争対処作戦への転換
の要求。
 脅威基盤戦略から能力基盤戦略へ転換したことに伴い、2正面戦略が変更。
 「主要な同時に起こる大規模地域紛争に敏速に対処し、大統領の選択でいずれか1つの紛争を決定的に勝利する」能力を持つ。
 ポール・ウォルフォウィッツ国防副長官
 「2正面戦略は過去10年間で益々不適当」となり、「兵力規模を基礎とした」戦略から移行する「パラダイム的シフト」が行われた。
 「短期的には2正面戦略は維持すべきだ」としながらも「2正面戦略の同時生起は蓋然性の低い」ものであるので、長期的にみて蓋然性の高い「非対称的な脅威」を戦略の基礎であるべきであることを提言したNDPの助言。
 「Capability-based strategy」を「脅威を基礎(Threat4)ased」として築かれた現在の米軍から、将来の軍隊への架け橋、となる」と位置づけ。「過渡的な戦略」。
戦力規模構成の基礎は脅威基盤戦略から転換。
   米国防衛、
   前方抑止、
   重複する大規模紛争の1つを勝利し、残りを撃破する能力、
   小規模紛争遂行能力、
の4つの目的に合わせて戦力構成する。
 「即時に動員できる前方駐留・前方展開部隊、グローバルに利用できる偵察、攻撃、指揮・統制施設、情報作戦能力、破壊力の大きいしかも持続的作戦遂行も可能な緊急展開部隊の新たな組み合わせ」といった配置再編が必要。
 各軍に対しては、
  陸軍:IBCT(前進配備の暫定旅団戦闘チーム)を導入し、アラビア湾での地上軍戦闘能力強化、
  海軍:西太平洋における空母戦闘群のプレゼンス増強と3〜4の海上戦闘部隊、および誘導巡航ミサイル潜水艦の母港を探す、
  空軍:太平洋、インド洋、アラビア湾で非常時使用基地増加、
  海兵隊:中東での非常事態を想定し、海上事前集積装備の一部を地中海からインド洋とアラビア湾へ移動方法の立案、
 を指示。

 ホームランド・ディフェンス
  2001年9月20日に本土安全保障局(OHS)をホワイトハウスに設置、トム・リッジをその長官に指名し本土安全保障体制を強化。
  米国の国防戦略の中核に本土防衛の強化を据える。
  ラムズフェルド、米本土があらゆる敵からの脅威にさらされていることに言及。
 QDR2001序章
  今日の戦争を「米国が選ぶものでなく、テロという悪の力が米本土に持ち込む破壊と残虐のことだ」と定義し、「本土防衛」を強調。
  「大規模で伝統的な戦いに備えるだけでは十分ではない」と徹底したテロ対策の必要性を強調。
  米国にテロ攻撃やゲリラ戦を仕掛けてくる「非対称な戦争」に備えるため、生物・化学・核兵器の使用を想定した監視体制の確立のほか、テロ活動に対する情報収集の強化を掲げた。
  「すべての敵から国家を守ることである」という政策を米軍の最優先課題とし、
  「国外から仕掛けられる攻撃に対して国内の住民、領土、重要な防衛関連インフラを守るために、十分な軍事力を維持する」
  国防総省には「米国領土でCBRNE(化学、生物、放射能、核、強化高性能爆弾)の結果を管理するための支援義務がある」

2001年10月5日(*3)
  小泉政権、テロ対策特措法を閣議決定。

2001年10月7日(*3)
  米英軍、アフガニスタン攻撃開始。

2001年10月19日(*3)
  米軍、特殊部隊投入。地上戦に突入。

2001年10月29日(*4)
  テロ対策特措法、可決成立。
   米軍など諸外国の軍隊への協力支援活動
   戦闘行為で遭難した戦闘参加者の捜索救助活動
   被災民救済活動

2001年11月9日(*3)
  情報収集のための自衛隊艦艇をインド洋に派遣。

2001年11月13日(*3)
  ブッシュ大統領、プーチン大統領と会談後、核弾頭大幅削減方針発表。

2001年11月14日(*4)
  日米調整委員会
   米国の希望する
    アラビア海での洋上給油
    燃料と物資の購入資金
   を予備費から早急に拠出し、一刻も早く米軍へ無償提供する。

2001年11月16日(*2)
  米軍、カブール制圧。

2001年11月16日
  日本政府、基本計画を安全保障会議と臨時閣議で決定。
  補給:艦船による艦船用燃料等の補給
  輸送:艦船による艦船用燃料等の輸送、航空機による人員及び物品の輸送
  その他:修理及び整備、医療、港湾業務

2001年11月25日(*3)
  海上自衛隊補給艦、掃海母艦、護衛艦が協力支援活動等実施のため出航。

2001年12月2日(*3)
  テロ対策特措法に基づき、海上自衛隊補給艦によるインド洋における米艦船への洋上給油開始。
  航空自衛隊、国外空輸を開始。

2001年12月7日(*2)
  タリバン、本拠地カンダハルを明け渡す。タリバン政権、消滅。

2001年12月13日(*2)
  ABM制限条約を脱退通告。
  「核兵器の一層の削減」
  ロシアは、経済的困難性のために核戦力は長期的にみれば米国と比べて劣性になるのは否定できない状況にあり、このままでは戦略的安定性を維持するのが不可能となる。
  戦略的安定性を確保するために、米国は核戦力をロシアと同等に削減。
  戦略的安定が失われた場合、米ソともファースト・ストライクを行うインセンティブが高まり危機が増加するため。
  脱退は通達から6ヵ月後に成立。 

2001年12月(*5)
  防衛庁電波傍受施設、不審船が使用する周波数帯を朝鮮労働党使用のものと同一と解析。
  米軍事衛星、ナムポから工作船出航を捕捉。

2001年12月21日 未明(*5)
  自衛隊司令部、「北朝鮮工作母船情報アリ」として監視エリア指定、上空からの監視ミッションを第一航空群に命令。

2001年12月21日 夕刻(*5)
  海上自衛隊、鹿屋・第一航空群所属P3-C哨戒機、九州南西海域において北朝鮮の不審船を目視。

2001年12月22日 未明(*5)
  防衛庁、不審船と断定。海上保安庁へ連絡。

2001年12月22日(*5)
  海上保安庁巡視船三隻、北朝鮮工作船を追尾。船体射撃による発砲応酬後、工作船は炎上、自沈。

2001年12月22日(*3)
  アフガニスタン暫定行政機構が発足、ハミド・カルザイが議長に就任。

2002年1月4日(*3)
  米国防省、「弾道ミサイル防衛局」の「ミサイル防衛庁」への改組を発表。

2002年1月8日(*3)
  米国防省、「核態勢の見直し」(NPR)を議会に提出。

2002年1月29日(*4) 
  ブッシュ大統領、一般教書演説でブッシュ・ドクトリンの基本路線を発表。
  「我々の第2の目標は、テロ支援国家が米国やその友好・同盟諸国を大量破壊兵器で脅威を与えるのを阻止することである」
  北朝鮮とイランに加え、イラクを「悪の枢軸」と名づけ、テロを支援していると強く非難。北朝鮮とイランへの言及がそれぞれ一センテンスだけなのに比べ、イラクには一段落(四センテンス)が割かれる。

2002年2月4日(*2)
  予算教書
  国防費の総額3、790億ドル(対前年比13.7%増)のうち対テロ戦争のための本土防衛予算として377億ドルが計上。本土防衛予算のうち、警察・消防・救急医療技師の教育訓練費35億ドル、国家安全保障対策費110億ドル、生物テロ対策費60億ドル、航空安全対策費50億ドル、諜報システム10億ドルなどにあてられる。

2004年2月4日
 小泉内閣総理大臣施政方針演説。第154回国会において。
 有事法制制定の方針を宣言。

2002年2月18日(*4) 
  ブッシュ大統領、日本の国会での演説。
  対アフガニスタン戦争における日本の貢献と日米同盟の固い結束を賞賛。
  小泉首相との首脳会談、イラクへの攻撃の意思を明らかにする。両首脳以外では、高野紀元外務審議官とコンドリーザ・ライス大統領補佐官しか同席していなかった少人数の会合で、ブッシュ大統領が「われわれはイラクを攻撃する。間違いなくやる」と明言。会談の四ヵ月後に明らかにされた。

小泉首相
「テロとの戦いで日本は常に米国とともにある」と伝える。米側は将来のイラク攻撃に対して日本の了解を取り付けたと理解。

  この時期に、米国側のイラク攻撃の意思と、日本側の基本的支持の方針が、日米両首脳間ではすでに確認。

2002年4月(*2)
  ブッシュ大統領、北方軍創設に署名。

2002年5月1日(*2)
  ブッシュ大統領、「国防大学演説」
  “MAD(相互確証破壊)体制の終焉”を宣言。“新しい枠組み”への移行を述べる。
  「冷戦時代の遺物」であるABM制限条約の撤廃とミサイル防衛の推進を訴え、MAD体制からの脱却を目指す。
  「冷戦時代とは異なる脅威に対処するためにミサイル防衛網を構築」
  「ABM制限条約の束縛を乗り越えなければならない」

 核戦略
  第1にMAD体制から脱却し、
  第2にテロや「ならず者国家」に対する「新たな枠組み」の構築を優先課題とする。ミサイルはすでに拡散しており、懲罰的抑止だけではこれらによる大量破壊兵器搭載ミサイル攻撃を抑止できない。「攻撃力と防衛力の双方に基づいた抑止」という新たな概念。
 冷戦時代の脅威基盤型から能力基盤型へ核戦力を変質させるため、戦略核に依存する抑止戦略(MAD体制)からの脱却をより明確に宣言。

 「新しい枠組み」
  能力基盤戦略に基づく多層的ミサイル防衛網の構築。
  多層的ミサイル防衛網とは、クリントン政権で進められてきたTMD(機械ミサイル防衛)、NMD(米本土ミサイル防衛)を統合し、全世界規模で、いかなる場所から発射されたいかなる射程の弾道ミサイルに対してもミサイル防衛(MD)による防衛網を構築するという構想。弾道ミサイルの発射直後から宇宙空間の飛翔段階、大気圏に再突入して目標に向かって弾頭が落下していく最端段階までの全飛翔段階において幾重にも各種の防衛システム配備を想定。従来TMD用とされてきた海上のイージス艦(巡洋艦と駆逐艦)から弾道弾迎撃ミサイルを発射するシステムも、多層的ミサイル防衛における海上配備型システムとされ、戦域・戦術弾道ミサイル、戦略弾道ミサイルの区別なく弾道ミサイル迎撃を行う構想に改正。
  NPR2002はロシアとのMAD体制の終焉を宣言しているが、完全にMAD体制を終焉させるまでにロシアの将来の情勢の変化を見極めながら慎重に行う。

 ミサイル、・ディフェンス(MD)に関する重要性は高まる。冷戦後は「ならず者国家」やテロリストのWMD搭載ミサイルにより攻撃される可能性が高まった戦略環境になる。ロシアが敵ではなくなりMAD体制の前提が消滅した現在、MDに比重を移す。
 2002年度のMD予算としてクリントン政権を6割以上上回る過去最高の83億ドルを要求。
 2002年1月の議会予算局レポート
 地上配備中間段階迎撃、海上配備中間段階迎撃、宇宙配備運動レーザーを独自に展開した場合、それぞれ600億ドル以上が必要。
 航空機搭載レーザーやイージス艦搭載の推進段階迎撃体系を展開した場合はさらに経費は増額されることが指摘。
 世界初のレーザー戦闘機、ABLの開発

 *ABL:発射された弾道ミサイルが上昇中に大出力レーザーを照射し破壊。
  ミサイル本体は勿論、核弾頭が積まれていれば、必然的に、その核弾頭が発射した国へ落とされる。発射そのものが自殺行為となる。(FNN)

2002年5月31日(*4) 
  福田康夫官房長官
 「憲法にも見直し議論がある時代だから、国際情勢が変われば非核三原則が変わるかもしれない」

2002年6月1日(*2)
  ブッシュ大統領、ウエスト・ポイント演説
 「テロに対する戦いは防衛のみでは勝利できない。我々は敵に対して戦いを挑まねばならず、敵の計画を分裂させ、最悪の脅威が現実のものとなる前に直面せねばならない。そういった世界に我々は入ったのであり、安全への唯一の道は行動以外にはない」
 「テロに対する戦いは防衛のみでは勝利できない」
 「敵に対して戦いを挑まねばならない」

2002年6月6日(*2)
  国土安全保障省設置演説「防衛のみではなく、敵に対して戦いを挑む」
  先制攻撃の可能性を示唆。

「アメリカの国土を護るための最初にやるべき、また最良の方法は敵が隠れ、計画を練っている場所を叩くことにある」

 ブッシュ大統領、「21世紀の新たな脅威に効果的により対処するために」国土安全保障省(DHS)の創設案を議会に提出。
  沿岸警備隊、運輸省、税関、移民局、連邦危機管理局(FEMA)などの幾多もの政府機関が本土の国土安全保障にあたっていたがこれを改め、一つの機関に統合するというもの。
  DHSは100以上にもまたがる連邦政府省庁を再編し、約17万人の職員を抱える予定。
  任務は、
   国境および運輸の安全、
   緊急準備および対応、
   対化学・生物・放射線・核対策、
   情報分析およびインフラ防衛
  の4つ。

2002年7月16日(*2)
  米国、 「本土防衛のための安全保障戦略」を公表し、連邦議会へ送付。
   テロ関連情報収集と警戒情報の発令、
   国内テロ防止活動強化、
   幹線道路、産業基盤、コンピューター網やデータベース等国家インフラ基盤の保護、
   緊急事態への備えと再強化、
  など6つの重点目標分野を設定。
  具体的な脅威として、核・放射能・生物・化学兵器による攻撃から通常型のテロ攻撃までを想定し、対策として国境や空港での危険物資の監視体制強化、船舶貨物に対する検査強化、生物テロに備えた新ワクチンや解毒剤の開発促進、国境警備、インフラ保護、対テロ活動の調整、テロ情報の分析強化などを進める。
  テロ予告に関する情報を情報公開法の適用外として政府が情報統制を行う方針も含む。
  「国防総省は国土安全保障、国土防衛、文民支援を明確に定義し、省内での指揮系統の役割と任務を特定」し、「国土安全保障省と協力し合う能力を高めねばならない」として、軍事支援に重点を置く統一戦闘司令官のポスト新設を提案。
  統合軍の組織変革。従来の統合軍は、欧州軍、太平洋軍、統合軍、南方軍、中央軍、宇宙軍、戦略軍。
  本土防衛はそれまで、北米航空宇宙防衛司令部がカナダとアメリカ本土の防空を担当し、統合軍司令部が大量破壊兵器によって攻撃された場合に各州や自治体との調整を行い、国防総省が軍隊の災害派遣を管轄。
  新たに北方軍を新設して本土防衛にあたらせるとともに、宇宙軍と戦略軍を統合する計画を発表。北方軍の守備範囲は米本土、カナダ、メキシコ、カリブ海の一部、米本土から500マイル以内の大西洋と太平洋上。
  国防総省は9.11テロヘの対応策としてペンタゴン保護庁(Pentagon Forces Protection Agency)の設置を行い、ワシントンDCにある国防総省を防衛する機能を付加。

2002年8月15日(*2)
  「国防報告」
  「米国の防衛には予防的措置と同時に時には先制攻撃が必要である」と述べ、敵を殲滅するためには「あらゆる手段をとる」。

2002年9月11日(*3)
  奄美大島沖にて不審船引き上げ、船倉内で小型艇発見。

2002年9月12日(*4) 
  ブッシュ大統領、国連総会において、イラクに関する国連演説。
  「総会出席の代表者の皆さん、われわれは我慢に我慢を重ねた。経済制裁も試みた。食糧・石油交換プログラムというアメも、連合国による武力行使というムチも試みた。しかし、サダム・フセインはこれらの努力をすべて無視し、大量破壊兵器の開発を続けた」
  と語ったあと、もう一度、国連決議案を提出し、国際的な協調を求める意思を表明。
  同時に「米国の目的に疑いIを持たれるようなことがあってはならない。安保理決議が執行され、平和と安全のための正当な要求が満たされない場合は、行動は避けられない」と、米国が提出する決議案が履行されない場合は武力行動をとるという決意を表明。

2002年9月13日(*4) 
  日米首脳会談、ニューヨークにて。

小泉総理、国際協調推進を望む日本政府の意図を伝える。
「ブッシュ大統領の国連演説を聞き、世界の人々は大変強い感銘を受けたと思う……この問題の解決に当たっては国際協調のための一段の努力が行われることが望ましい。米国民が憤慨されることは分かるが、ここは耐えがたきを耐え、さらに一段の国際協調をとることが望ましい」

ブッシュ大統領、小泉首相の説得に理解は示しながらも、武力行使をする意思を明確に伝える。
「外交努力は行うが、これが成功しなければ、他の方途を考えざるを得なくなる」

2002年9月17日
  第一次小泉訪朝。
  日朝首脳会談後、金正日が拉致を認め謝罪。

2002年9月20日(*2)
  ブッシュ・ドクトリン
  ブッシュ大統領、テロに対する戦争宣言。上下両院合同会議において。
  「単独で、もし必要であれば自衛権に基づき先制攻撃を行う」ことを「米国の国家安全保障戦略」(NSS2002)で明言。
  「自由と全体主義」の20世紀の対立軸、自由と民主主義の勝利に終わったことを指摘。
  事実上のアメリカの覇権確立の宣言。
  予防防御
  「危機が起こりドラスティックな救済を必要とする前に、危機の進展を先回りして防止するもの」
  「放置しておけばその事態あるいは国が脅威となる前に、予防する目的で軍事力を行使する」

 NPR2002「ニュー・トライアッド」戦略
  MAD体制の終焉を宣言。核使用の敷居を下げ一方的に確証破壊するUAD(Unilateral Assured Destruction)への転換を示唆。
  非戦略面でも先制攻撃を行う際の論理的裏付け。
  冷戦時代の
   ICBM、
   SLBM、
   戦略爆撃機の核攻撃手段
  によるトライアッド(核の3本柱)を改め、
   攻撃(核および非核)、
   防御(アクティブとパッシブ)、
   即応できるインフラストラクチャー
  とし、さらに指揮、統制、情報システムの促進とともに構成した戦略。
  自国の安全保障を最優先させるための国防戦略。国土安全保障省(DHS)とミサイル防衛(MD)。
   第1の柱である「攻撃」核および非核。
    「核」は従来のトライアッド(ICBM、SLBM、戦略爆撃機)としてニュー・トライアッドのなかに位置づけ。
    「非核」とは通常兵器の攻撃システム。
   第2の柱である「防御」
    能動的・受動的防衛の促進が必要。
    「能動的」防御は従来の攻撃能力に基づく懲罰的抑止であり、
    「受動的」防御はミサイル・ディフェンスによる拒否的抑止である。
    この懲罰的抑止と拒否的抑止とが表裏一体となり21世紀の戦略環境に対応できる。
  クラウチ国防次官補、懲罰的抑止から拒否的抑止へと段階的に比重を移す意思を示唆。
  「米国は攻撃的核兵器に大きく依存していたが、もはやそうはならない」。
   第3の柱である「即応できるインフラストラクチャー」
    新たに登場した脅威に対して短時間に対抗能力を生み出せる防衛基盤の再生。
    「攻撃」をニュー・トライアッドの頂点に置き、ブッシュ大統領が非核あるいは核による先制攻撃を行う際の理論的バックボーン。
    あくまでも従来の「ならず者国家」に対して懲罰的抑止に加えて拒否的抑止で「抑止力」の向上を第一義的にはかることにある。
    「抑止」が敗れた場合には「撃破」する。
 
米国の政策決定者が、
  第1に「どの国(あるいは脅威)」を、  
  第2に「どの時点」で、
  第3に「どのような攻撃兵器」で敵を撃破するのかの問題。

   第1の「どの国(あるいは脅威)」
   ブッシュ政権は「テロ」との戦いを継続するとともに、テロを支援する「ならず者国家」との第2段階の戦いに入る。
   核攻撃能力を策定するにあたり、
    第1は「直近型危機」、
    第2は「潜在的危機」、
    第3は「不測の危機」
   の3つの範躊に分けて考察。
    第1の「直近型危機」
    十分に認識され、差し迫りすぐに紛争に結びつく危機。イラクのイスラエル攻撃、北朝鮮の韓国攻撃、台湾をめぐる軍事的緊張。
    第2の「潜在的危機」
    起こりそうだが差し迫った危機ではないもの。
    米国に対して敵意をもつ、WMDとその運搬手段を保有する軍事連合が新たに出現することにより、米国の国防計画(核戦力計画を含む)に
    重大な影響をもたらすような潜在的な危機。
    第3の「不測の危機」
    キューバ危機のような突然で不測な安全保障上のチャレンジ。
    突然、ある国の政治体制が転換して現有する核兵器工場が新たな敵意を待つグループの手に渡ったり、WMD能力を備えた敵が
    突然出現したりするような事態。
   3つの危機に当てはまる国として北朝鮮、イラク、イラン、リビアをあげる。
   QDR2001でも、米国務省がテロ支援国家と規定する7カ国の国のうち5カ国(イラン、イラク、シリア、リビア、北朝鮮)が弾道ミサイルを保有し開発装備計画を進めているとして、弾道ミサイルの拡散によりテロ攻撃手段へ利用される懸念を指摘。
   これらの国は、長期にわたり米国に対して敵意を待ち、テロリストを支援・隠蔽し、WMDを保有しかつミサイル・プログラムを待つ。北朝鮮とイラクには軍事的な根強い懸念を待つ。
   中国に関して、未だに戦略的目標を持ち、核・非核戦力の近代化を推進しているので「直近の危機」もしくは「潜在的な危機」になりうる。
   ロシアに関して、イデオロギー上の対立は消滅し、協調的な関係にあるものの、ロシアには不安定要素が残り懸念が残る。

  第2の「どの時点」
   「危機が発生する以前」に何らかの予防防衛もしくは予防攻撃を行う。
   テロや大量破壊兵器の脅威が現実のものとなる前に先手を打つ「先制攻撃」は、「大量報復による抑止」「政策を通じた封じ込め」に代わるもの。
   「危機が起こり大規模な救済を必要とする前に、危機の進展を先回りして防止するもの」という予防防衛の考え、もしくは、「放置しておけばその事態あるいは国が脅威となる前に予防する目的で軍事力を行使する」予防的軍事力行使という概念の範疇に入る。
   1981年のイスラエルのイラク施設への攻撃。
   1991年の「砂漠の嵐」作戦で米国を中心とした多国語軍のイラク内にある非通常型兵器施設へ対して攻撃。
   軍事力行使にあたり保障、抑制、抑止、撃破の4つのステップ。最終段階の撃破までいく可能性もあり、そうした場合には新たな政権を樹立する国家創造活動が行われる。

  第3の「どのような兵器で」
   「非核」と「核」
   「非核」の攻撃力に問しては、地域紛争において「使いやすい軍事力」の精密攻撃戦力を中心としたもの、「核」の攻撃力が同列。
   単に脅威を抑止するだけでなく、紛争を戦って勝利することを前面に押し出したもの。
    核戦力の運用問題
     戦術核レベル
     地中の軍事施設を破壊する小型核兵器の開発。
     地中貫徹兵器の核爆弾B61Mod11を開発し、1997年に50発を実戦配備したが地中貫微力が9mと限られた能力しかない。

1998年6月の「国防科学委員会の地下施設タスクフォース」の調査
現在、世界の70カ国以上が地下の軍事施設を使用、その数は1万を超え、そのうち約1、100の地下施設が戦略的目的(WMD、弾道ミサイル基地、指揮中枢)施設だとしている。現在、米国はこのような戦略施設を適切に扱う手段に欠いていると指摘。米国の現有するB61Mod11312では地中にある強固な戦略施設を破壊できないため、より効果的な地中貫徹兵器の必要性を述べる。

最大の特色
  新たな非核戦略能力を核戦争計画に統合。ハイテク兵器と小型核兵器が一体化。新たな能力は地中深層強固目標(HDBT)、稼動・再設置可能目標を探し出し撃破し、化学・生物兵器のエージェントを撃破し、精密さを改善し、限定された損害にとどめる。新型核兵器の開発には、研究・生産のインフラ整備・強化が不可欠となる。

2002年10月1日(*2) 
  米軍の北方軍、始動。

2002年10月15日
  拉致被害者5人が帰国、24年ぶりに家族と再会。

2002年10月16日(*3)
  米政府、北朝鮮がケリー国務次官補訪朝時、核兵器用ウラン濃縮計画を認めたと声明を発表。

2002年11月8日(*4) 
  安保理、全会一致で決議1441号を採択。
  安保理の決定第一項
  湾岸戦争の停戦決議となった687号を含めた一連の国連安保理決議、とくに国連とIAEAの査察に対する協力義務に対して、イラクが「重大な違反」を続けていると結論。
   第二項
   これまでの決議に示された武装解除の義務を遂行する「最後の機会」をイラクに与えることが決定。
    30日以内に大量破壊兵器の開発プログラムに関する「最新で正確かつ、全面的、完全な報告書」を国連に提出する義務国連査察団を即時、無条件、無制限に、すべての場所において受け入れる義務がイラクに課せられる。
    これらの義務の不履行が続けば、その結果として「重大な結果(serious consequences)」に直面すると、安保理が繰り返し警告してきたことを再確認。
    過去に安保理が一連の決議を通じて繰り返し警告を行い、イラクがそれらを遵守しなかったことに対して武力行使が行われている。
    その事実を再確認しつつ、「重大な結果」を招くと警告。
    イラクが大量破壊兵器を持たないと主張するならば、イラクの義務であることが確認される。
 
  国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)のハンス・ブリクス委員長
  「深刻な結果」は「武力行使を婉曲的に述べたもの」

 成立過程で、決議違反が自動的に武力行使の引き金を引くことになるのを懸念したロシアとフランスの抵抗に遭い、査察に問題があった場合には再度安保理が対応を協議するという項目を入れる妥協案が採られる。
  大量破壊兵器開発計画の全資料提出と国連査察団に対する全面協力、その後の武装解除をイラクに対して義務付けており、裏返せばイラクがその義務をすべて履行しない場合の米国の武力行使に対して、国連安保理は道を開く。

2002年12月7日(*4) 
  30日間の期限寸前にイラク政権は大量破壊兵器開発に開する申告書を提出。
  「最新」の情報を含んだ申告書が要求されたにもかかわらず、その内容は大量破壊兵器が存在しないという、それまでの主張を繰り返すだけのものであり、要求された大量破壊兵器の廃棄を証明する内容は存在せず。

国連による生物化学兵器と弾道ミサイルの査察を担当したブリクス委員長
「イラク側はこの申告書を、私が期待を込めて提言したような『再出発』の契機としてはとらえていなかった」

  イラクの申告書が1441号で要求された水準を満たしておらず、イラク側の義務不履行だという認識は安保理の中で共有。
  ブッシュ大統領、イラクに対して完全武装解除を要求。
  フセイン政権が「過去11年間の態度を変えたかどうかという観点でのみ、判断する」

2002年12月17日(*3)
  米ミサイル防衛配備を発表。

2002年12月31日(*3)
  IAEA査察官、北朝鮮出国。

2002年12月(*4)
  米軍、12月までにイラク周辺に約6万人の地上部隊を駐留させる。1月20日には翌月にさらに5万人増派する計画を発表し、イラクにさらなる圧力を加える。

2003年1月10日(*3)
  北朝鮮、核拡散防止条約(NPT)より脱退を宣言。

2003年1月20日(*4)
  米軍、イラク周辺に2月にさらに5万人増派する計画を発表。

2003年1月28日(*4) 
  一般教書演説
  国連に対してイラクの武装解除を要求してきたがいつまでも経過を見守るつもりはないことを主張。

「米国の目的は過程をフォローすることだけではない。文明社会に対する脅威を排除するという結果を生み出すことだ」

国際協調
「わが国の進路は他国の決定によって決まるものではない。どのような行動がいかなるときに必要となろうが、私は米国国民の自由と安全を守る」

 国連安保理の承認が得られなくとも攻撃する意思を明確化。

2003年2月5日(*4)
  パウエル国務長官が米国の諜報情報をあえて公開して、イラク側の兵器秘匿を訴える。

2003年2月6日(*4)
  パウエル国務長官の国連報告を受けての、ブッシュ大統領の記者会見。時間切れを宣言。
  「間違いなく彼(サダム・フセイン)は最後まで偏すためのゲームを続けるだろうが、ゲームは終わった」

2003年2月(*4)
  米国政府、イラク周辺の正規部隊をさらに増派、中旬までに15万人にする計画を進める。

2003年3月2日(*3)
  北朝鮮のMig-29等の戦闘機4機、日本海で米RC-135電子偵察機に接近、追跡。北朝鮮領内に強制着陸を試みる。

2003年3月10日(*4)
  麻生太郎自民党政調会長、政府与党連絡会議で、「大量破壊兵器の開発阻止」という共通の目的を持って、イラクと北朝鮮の情勢を切り離さず協議していく与党体制をつくることを提案。
  山崎拓自民党幹事長、同日、党役員会で承認を得た後、与党三幹事長で話し合い、同協議会の設置を決定。

2003年3月16日(*4) 
  米英スペイン共同宣言「イラクの未来に問する宣言」。ポルトガル領アゾレス諸島において。
  イラクが国連への全面的な協力を拒むなら、「一連の決議が予測していた深刻な結果を招くことになる」と、仏独などに対する外交交渉打ち切りの事実上の最後通告を発表。

2003年3月17日(*4) 
  米英両国、イラクに関する安保理修正決議案の採択を断念。
  ブッシュ大統領、テレビ演説。
  フセイン大統領に対して「四八時間以内に国外退去せよ。拒否は武力行使という結果を招く」と、最後通牒を突きつける。
  「米国は平和解決を望み、この脅威に対処するため国連と協力してきた」と語り、今も効力を持つ国連安保理決議678号、687号を法的根拠として、イラクを攻撃することを明らかにする。
  全面的な武装解除を求めた1441号決議に言及し、「今日に至っても、イラクが武装解除したと主張できる国はないだろう……国連安保理がその責任を果たさないなら、われわれが自らの責任を果たす」と、国連主導のイラク武装解除が成功しなかった点を批判し、武力行使の正当性を主張。
  フセイン大統領、国外退去せず。
  一連の国連決議によって武力行使を行うことを明言。
  米国の対イラク武力行使に対する日本政府の支持、「日米同盟」の枠組み重視だけでなく、「国際協調」の、少なくとも形式を維持することが可能になる。

米国務省の日本担当者
「米国が国連に対して決議による攻撃を行う手続きを行ったのには日本政府による説得が大きかった」

外務省北米局の政策担当者
「日本が米国を説得するうちに初めは消極的だった英国も一緒に説得してくれるようになった。この件については、英国外務省は日本のイニシアチブのおかげだと評価してくれている」





「ヨーロッパとアメリカが共通の世界観を持っているというふりをするのはそろそろやめるべきだ。同じ世界に住んでいるというふりすらするべきではない」
( ロバート・ケーガン 2003年『ネオコンの論理』)





2003年3月18日(*4) 
  小泉総理、米英両国の支持を表明。自らの言葉で米国の武力行使支持を世界各国に比べいち早く発表。
  「今までブッシュ大統領も国際協調を得ることができるようにさまざまな努力を行ってきたと思います。そういう中でのやむを得ない決断だったと思い、私は、米国の方針を支持します」

2003年3月19日 夜(*2)
  米英両国、対イラク軍事行動「イラクの自由作戦」、開始。
  ウェストファリア体制の崩壊。

    ウェストファリア体制
     民族、主権、領土という3つの要素がかねあわされた主権国家。
     内政への不可侵性。侵略された側は抗議をし、時には戦争の準備を進めて対処する。
     国内と対外政策のあいだには厳然として境界が存在し、その境界は広く認識されていた。

2003年3月20日(*4)
  小泉内閣、全閣僚を集めた安全保障会議を開催。
  「緊急対策方針」
   イラク周辺における邦人の安全確保
   国内警戒態勢の強化
   関係船舶航行の安全確保
   世界と日本の経済安定
   被災民に対する緊急人道支援

2003年5月1日(*3)
  ブッシュ大統領、イラクにおける主要な戦闘の終結を宣言。

2003年5月21日(*4)
  小泉総理、イラク人道復興支援特措法へ初言及。米国訪問へ向かう政府専用機内において。

2003年5月23日
  日米首脳会談。テキサス州クロフォードの大統領私邸において。
  会談にはCIA同席。

小泉総理
「安保理決議1483が採択され、国際協調が再構築されたことはよかった」
「日本の国力を踏まえ、日本としてふさわしい貢献をしていきたい」

2003年5月31日(*2)
  ブッシュ大統領、拡散に対する拡散安全保障イニシアティブ(PSI)を初提唱。

2003年6月6日(*3)
  武力攻撃事態対処関連三法、可決成立。

2003年6月13日(*3)
  イラク人道復興支援特措法、閣議決定。

2003年7月26日(*3)
  イラク人道復興支援特措法、参院本会議で可決成立。

2003年8月1日(*4)
  イラク特措法施行。内閣官房に時限政策室のひとつとして、「イラク復興支援推進室」が設置。

2003年10月2日(*3)
  北朝鮮外務省、使用済燃料棒の再処理完了を発表。

2003年10月(*4)
  ブッシュ大統領訪日。
  「国連の安保理決議1511の全会一致での採択を実現する上での日本の役割は賞賛に値する」

2003年11月29日(*3)
  イラク、ティクリート近郊において米軍主催のイラク復興支援会議に向かっていた二人の日本人外交官、奥克彦参事官と井ノ上正盛三等書記官が銃撃を受け、殉職。

2003年12月9日(*4)
  臨時閣議でイラク人道復興支援特措法に基づく基本計画を閣議決定。
  小泉総理
  「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」

2003年12月19日
  リビアが大量破壊兵器の破棄を表明。
  アメリカ、六フッ化ウランをリビアから回収することになる。

2003年12月18日(*3)(*4)
  防衛庁長官、自衛隊の任務や活動区域をより詳細に示す「実施要項」を作成。小泉総理に報告。
 
  日本政府、弾道ミサイル防衛システムの導入を安全保障会議及び閣議において決定。

2003年12月19日(*4)
  小泉総理、実施要項を承認、自衛隊のイラク派遣命令を下す。

2003年12月26日(*3)
  航空自衛隊先遣隊、出発。

2004年1月4日(*3)
  アフガニスタンにおいて憲法ロヤ・ジルガ(国民大会議)において新憲法を採択。

2004年1月9日(*3)
  小泉総理、陸上自衛隊先遣隊・航空自衛隊本隊に派遣命令。

2004年1月19日(*4) 
  小泉首相は自身三度目となる施政方針演説。
  イラク復興支援には資金協力と人的貢献を「車の両輪」として取り組む

「イラクが必ずしも安全とは言えない状況にあるため、日ごろから訓練をつみ、厳しい環境においても十分に活動し、危険を回避する能力を持っている自衛隊を派遣することとしました。武力行使は致しません」
「平和は唱えるだけでは実現できません。国際社会が力を合わせて築き上げるものであります。世界の平和と安定の中に我が国の安全と繁栄があることを考えるならば、日本も行動によって国際社会の一員としての責任を果たさなければなりません」

2004年3月12日(*3)
  金正日、中国を非公式訪問。

2004年3月29日
  日本政府、内閣情報調査室の強化を指示。2006年度を目途。
  陸自に特殊部隊発足。対テロ、海外邦人救出のため。

2004年4月19日(*3)
  北朝鮮北西部・竜川駅で列車爆発事故。

2004年4月20日(*3)
  日本政府、「安全保障と防衛力に関する懇談会」設置。

2004年4月27日(*3)
  リビアの最高指導者カダフィ大佐、ベルギーのEU本部を訪問。

2004年4月28日(*3)
  国連安保理、大量破壊兵器の不拡散決議1540号を全会一致で採択。

2004年5月22日
  第2次小泉訪朝。
  日朝首脳会談。
  拉致被害者の家族5人が帰国。

「北朝鮮が核を廃棄することによって世界が安全になるのみならず、国際社会から評価され、北朝鮮にとって最も利益になるのが核の完全破棄だ。」
「北朝鮮が検証可能な核の完全破棄をすれば、国際社会は、喜んで国際社会の一員として迎えいれる。そうしたチャンスを逃してはならない。六者会合を活用し、北朝鮮側がしっかりとしたメッセージを出すべきだ。」

「ご批判は甘んじて受けます。全ての責任は、私にあります。」

以上が2004年5月22日までの流れ。



戦争の知識は単純であるが、その習得は必ずしも容易ではない。/ 理性に基づく活動に関しては上級に昇るにつれてその困難の度が加わり、最上級つまり最高司令官の地位に至っては凡百の理性が遠く及ばない最も困難なものとなる。/およそこれらの知識は学問的公式や体系によって得られるものではなく、事物を観察し世に処するにあたって、適切な判断力が働き、これらの事柄を把握すべき才能が鋭敏に働く時にのみ得られるものである。/ 必要な知識は、特殊な才能による考察、つまり研究と熟慮によってのみ獲得することができる。この才能はいわば一種の精神的本能であって、ちょうど蜜蜂が花から蜜を吸い取るように、人生のさまざまな現象からそのエッセンスだけを採り出すのである。



2001年6月30日
  日米首脳会談、キャンプデービットにて。

2002年2月18日
  日米首脳会談。ブッシュ大統領、小泉首相との首脳会談においてイラクへの攻撃の意思を明らかにする。
  ブッシュ大統領
  「われわれはイラクを攻撃する。間違いなくやる」と明言。
  小泉首相
  「テロとの戦いで日本は常に米国とともにある」と伝える。米側は将来のイラク攻撃に対して日本の了解を取り付けたと理解。
  この時期に、米国側のイラク攻撃の意思と、日本側の基本的支持の方針が、日米両首脳間ではすでに確認。



日米首脳会談から1年1ヶ月後。



2003年3月19日 夜
  米英両国、対イラク軍事行動「イラクの自由作戦」、開始。


 ピラミッドの底辺に行けば行くほど情報戦が難しくなる。
 感性を養う。情報交流のため、文学、芸術、音楽などの芸術的素養を養う。



つまり、
  ピラミッドの頂点に行けば行くほど、情報活動は易しい。
  文化や芸術に造詣が深く、人心を掴む呼吸を心得ている。

小泉総理はこの2点の条件に合致している。
文献に埋もれた過去の歴史ではなく、リアルタイムの情報を戦略的情報と呼ぶことにする。
戦略的情報の質という点において、小泉総理に比肩するような人物は日本にいない。
情報に関する法律、組織が未整備な状況においては、個の能力で打開する他はない。



2003年5月23日
  日米首脳会談。テキサス州クロフォードの大統領私邸において。
  会談にはCIA同席。
 

この会談は、2004年5月22日にとって重要な会談であった可能性が高い。
この会談をクロフォード会談と呼ぶことにする。


日米首脳会談における北朝鮮関連に関するやり取りの概要

1 総理より
a 拉致問題等の解決なくして国交正常化はない。国交正常化は拉致のみならず、核、ミサイル、過去の問題を包括 的に解決してから行うとの日朝平壌宣言の立場は変わらない
b 全てのオプションをテーブルにおくという点を理解する。ただしイラクと北朝鮮では対応振りが違う
c 平和的な解決が重要。
d 日米韓が協調することが重要
e (マルチの協議に)日本が参加することは不可欠
f 平和的な解決のためには対話と圧力が必要。
g 北朝鮮の違法行為の規制・取締まりを一層強化する。
h 拉致問題被害者が訪米した際の米国の対応に感謝する。
2 大統領より
a 北朝鮮の脅迫には屈しない
b 中国が責任ある行動をとり始めたことには意味がある
c 日韓の参加を得た5カ国協議を開催して北朝鮮を説得することが重要
d 問題を平和的に解決できると確信しており、そのためにも強い行動が必要
e 北朝鮮からの核や麻薬の拡散は絶対に容認できない
f 拉致は忌むべき行為、拉致された日本国民の行方が一人残らず分かるまで日本を完全に支持する。北朝鮮の拉致に対して強く抗議をしたい(総理より謝意を表明)
(ttp://www.kantei.go.jp/jp/singi/rati/ugoki/030523nitibei.pdf)

クロフォード会談から1年後。

2004年5月22日
  第2次小泉訪朝。
  日朝首脳会談。
  拉致被害者の家族5人が帰国。



諜報三大対象と呼ばれる、

兵員と輸送手段の集合
艦船の異様な動き
陸上の航空基地での航空機の集合
    を現認して確認をとる。



現在では、これらの情報は報道によってある程度知ることができる。

2004年5月23日
  The New York Times、報道。
  IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見。



小泉第2次訪朝の翌日に報道されたこの情報の意味するものとは何か。

北朝鮮による核拡散疑惑。

これは米国が安全保障上看過しない危険な領域に、北朝鮮が踏み込んだ可能性を示唆している。

核のテロリストへの譲渡。

これは米国の考える最悪のシナリオであり、米国の安全保障上重大な脅威である。
安全保障に関心のあるアメリカ国民はこれを許容しない。
北朝鮮は、大量破壊兵器の拡散を防ぐ以外には、米国にとって撃破する価値を見出すことの難しい国家だった。
崩壊のデメリットよりも金正日体制の存続のデメリットが上回るのならば、米国はあらゆる選択肢を排除しない。


湾岸戦争で多国籍軍の航空作戦を指揮したチャールス“チャック”ホーナー司令官(*10) 
「我々は死傷者の発生を防ぐことを軍事的効果よりも優先させた。それが道義的に正しいことだからだ。アメリカ国民は息子や娘の戦死に際して、それが正義のためとなれば、信じられないほどの寛容さを見せてくれる。しかし、もし命が無駄に浪費されたと感じれば、その寛容さは大統領も将軍も予測できぬほど急速に失われる。犠牲者の発生に対する一般国民の寛容さがどの程度かが、危機における我々の政治的、軍事的意思決定を左右する。」



アメリカの正義とは何か。
自由と民主主義、それに自国の国益であり、国益の最たるものは安全保障である。
ここで歴史を振り返る。




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sanctuary lost THE ORIGIN II.戦略

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/strategy.html

 大英帝国には永遠の友も永遠の敵もない。存在するのは永遠の国益だけである

――英国首相 パーマストン


 歴史とは、それをみる立場や目的により初めて歴史が生まれる

――アーノルド・トインビー


 国家の運命は悠久で永遠である

――英国外交官 ジェームス・ブライス


 力というのは静的な所有物ではなく関係の一種である



情報を利用する時には、ステレオタイプ化した人種観、人種差別、文化的誤解、偏見を捨てる。
収集した情報を適切に分析・評価するためには専門知識・専門的素養・専門家の見識を必要とする。
他の情報源と比べて相対的優位性を持つ。
相手が秘密にしておきたい情報を得ることと、公になっている情報が作り出す表面的なものの下にある真実を見通し、
相手がこちら側を誘導しようとしているか、あるいは重要な情報を隠しているかなどを判断する。
センセーショナルな説や陰謀論は、政策決定者は常に事態をコントロールしているのだという幻想を抱かせ、安心させる側面を持っている。
政策立案者は必ずと言っていいほど、一見理にかなった先入観の虜になっている。



 情報という武器を手に取ったならば、それを扱えるように訓練をする必要がある。
 戦略という思考方法を身に付ける修練の方法として、戦略の流れを追うことでいくつかの型が自己の内部に朧げながら形成されると考えたのだけれど、それが正しいのかは解らない。
 教材はある。ただ教師はというと、幾人かの戦略家が遺した著作だ。

 以下はあくまで戦略の一例を辿ったものであって、その説は数多く存在している。
 歴史としての精確さを保証するものではない。
 日本を完膚なきまでに破壊した米国は、人類史上最強の国家に上り詰めた。
 その戦略は良き手本であり、また米国を最良のパートナーとするこの国として、その思考を理解することは有用であろう。


 

 戦争の技術を協力者なしに単独で学び研究した人々は、ほぼ確実に、独自の戦争概念をつくりあげ、原理の異なった教義を生み出すに違いない。
 しかし、教義に関する意見交換の場を持たない人々で構成される集団が、一つの軍団や艦隊を指揮したとすれば、そこで起きるのは、絶対的な混乱と絶望的な力の分散である。このことを読者は容易に理解できるであろう。

――米国海軍少佐ダドレー・W・ノックス「海軍学会会報」1915年3月・4月号


 

 この言葉を戒めとして、戦略を辿ってみようと思う。



 ○戦略例

 ▲1945年8月15日以前



 外国の危険に対して備えることは、市民社会の主要な目的のひとつである。それは、“アメリカ・ユニオン”が標榜する基本的な目的なのである。安全のためにどういう手段を採用するかは、相手側の攻撃手段や危険度に対応して決めなければならない。実際、危機への対応策はこのようにして決定されてきたし、今後もそうであろう。

――1788年、マジソン『フェデラリスト』



1790年代(*1)
  米国の商船、世界で2位の規模に。年間30隻の米国の商船が中国に寄港。

1800年(*1)
  米海軍戦艦エセックス、西太平洋を巡航。

1821年(*1)
  米海軍、東太平洋に艦隊の基地を確保。

1835年(*1)
  米海軍、西太平洋東インドに寄港地を確保。

1853年(*1)
 アメリカのペリー提督、日本に来航。アメリカ海軍の太平洋進出の一環。
  国務長官の指示
  「日本国沿岸の一港若しくは少なくとも近海に散在する無人島の一つに貯炭所を設置する権利を得ること」

1876年8月(*1)
 アメリカ海軍ウィリアム・レイノルド提督、中部太平洋のミッドウェーを占領。

1875年(*1)
 アメリカ、ハワイを占領。

1885年(*1)
 米国海軍長官
 「インド洋と南シナ海における海車力維持の目的は、中国とインドとの貿易と捕鯨であり、基地は兵力と艦艇の整備を行い
  米海軍の効率を高めるものである」

1890年(*1)
 アメリカの海洋戦略家アルフレッド・マハン、『歴史に及ぼした海軍の影響力:1660-1783年』刊行。

1898年(*1)
 アメリカ、スペイン戦争の勃発。
 アメリカ軍はマニラ海戦でスペイン海軍を撃破。8月、アメリカ陸軍がマニラを占領。
 フィリピンとグアム島を手に入れ、次いでハワイを併合。



 日英同盟

19世紀末(*5)
  イギリス、ドイツに海車力・工業力で急迫される。
  ロシアの南進、シベリア鉄道の開通。

1884年(*1)
  アメリカ、パールハーバーに海軍の根拠地を構築する権利を獲得。

1882年
  独墺伊三国同盟の締結。

1891年(*5)
 露仏同盟の調印。
 イギリス、「名誉ある孤立」の限界。
 イギリスにとって、欧州におけるロシアの牽制が可能な国:フランス・ドイツ
 フランス、普仏戦争でドイツにアルザス・ロレーヌを奪われたため反独感情が強く、ドイツを牽制するために露仏同盟を締結、協調不能。
 チェンバレン植民地相、露独米の三国に接近し協定の可能性を探る。

1900年10月(*5)
 イギリス、清国の領土保全と機会均等を規定した英独協定を締結。
 調印後、ドイツはロシアの満州進出を誘導、ドイツ東部国境のロシアの圧力軽減を狙う。

1902年(*5)
 ドイツ、日露両国を戦わせるため、カイザーの密命を受けた駐英ドイツ大使館参事官エッカルトシュタインの働きにより日英同盟を締結させる。

石井菊次郎
「当時、カイザーはツアーに日露戦争を焚き付けていた。ツアーもその気になって満州への南下政策を進めていたが、日本が慎重でロシアの強い要求にも動かない。さらに、日本がロシアと提携しようという動きさえ出てきている。もし日露間に協定が結ばれると、ロシアの圧力がヨーロッパに向けられ、ドイツ本国のみならず、ドイツが進出しようとしているバルカンでも対立することになる。ロシアの圧力を極東に向けるために、慎重な日本を戦争に駆り立てる国、日本を後押しする国が必要である。その国とは日本と共通の利害があるイギリスにほかならない。しかし、大国のイギリスが「黄色い猿」と同盟することは、イギリス人の誇りが許さないであろう。そこで、同じ白色人種のドイツが、日本と同盟する素振りを示してイギリスを誘い込み、日英が交渉を開始して後に引けない状況になった時点で、身を引いてしまうというカイザー一流の策略であった。」

 ドイツ、バルカンやアフリカヘ進出してロシアやフランスと対立。東部国境のロシアの圧力を軽減するため、ヨーロッパに黄禍論を流布。
 ニコライ皇帝に日本との戦争をけしかける。



 日露戦争

1903年(*3)
  アメリカ、陸海軍委員会を設立。

1904年2月6日
  日本軍、作戦行動開始。

1904年2月8日
  日本艦隊、旅順港外のロシア艦隊泊地を攻撃。日露戦争の勃発。

1904年4月(*3)
  アメリカ陸軍参謀総長アドナ・チャーフィー中将、アジアでの勢力のバランスが崩れつつあることを察知。
  アメリカの権益を守るため委員会に「陸海軍統合の色別計画」といわれる一連の戦争計画を作成することを提案。
  「国家の暗号名」に相当する色別、例えば、「赤」はイギリス、「黒」はドイツ、「緑」はメキシコ、「オレンジ」は日本、と、
  それぞれ敵性国家に対して色彩で表現。
  対英戦争計画は「赤作戦」、対日戦争計画は「オレンジ作戦」。

1905年1月1日
  旅順攻略。

1905年3月10日
  奉天会戦に勝利。

1905年5月28日
  日本海海戦に勝利。

1906年(*4)
 セオドア・ルーズベルト大統領、日本との将来の対決を予想し、対日戦争計画「オレンジ」の準備を命じる。
 日露戦争前の極東では、清国の義和団の乱が収まると同時にロシアの満州支配が強まる。
 ロシアが満州をロシアだけの市場にしようと図ったことに対し、1899年の門戸開放宣言以来、中国市場参入を狙ってきた米国は強く反発。
 1904年の日露戦争開戦を聞き、米国は強まるロシアの力を抑止するため日本を応援。

ロバート・ファレル
「(セオドア)ルーズベルトは日本の勝利によって満州への通商の道が開かれることを期待した。つまり、日本がドアボーイのような役割を演じると考えたわけだ。ところが、日本が勝ってみると一級の軍事大国へと変身し、むしろアメリカ領であるフィリピンヘの大きな脅威となっていた」
「マシュー・ペリー提督が黒船で日本の門戸を開いて以来、軍事援助やアナポリス(海軍士官学校)への留学生受け入れでナイーブにも米国自らが日本を海軍大国に仕立て上げてしまった」

1908年(*1)
 アメリカ、パールハーバーに基地の設置を決定。
 太平洋沿岸全体に対するバッファーゾーンとし、太平洋に展開する米海軍の優勢な基礎となる。

1909年3月
 ホーマー・リー『日米必戦論』出版。



 第一次世界大戦

1914年
  パナマ運河の開通。

1914年6月28日(*5)
  第一次世界大戦の勃発。

 在米ドイツ人やドイツ系アメリカ人は、従来の人種差別論者などと呼応して反日世論を強め、日本の参戦を阻止するとともに、黄色人種の日本と同盟しているイギリスヘの反感を高めようと大キャンペーンを行う。当時はドイツ系移民の比率も多く、反目論は中立国アメリカの世論を二分するまでに高まりをみせる。ドイツが日英同盟を分断するために利用した黄禍論は、日米共通の敵がなくなるとアメリカ、カナダやオーストラリアで再燃し、1924年のアメリカにおける排日移民制限法案となる。この黄禍論が1930年代の日本を西欧社会から疎外させる大きな要因となる。黄禍論は、ポーツマス講和会議に出席したロシア代表ウィッテが、アメリカの世論を反露から反日に変えようと利用したこともあり、黄禍論から生まれた反日論は恐日論へと変質し、人種問題が日米関係のアキレス腱となる。

 大戦後のアメリカの対日外交政策は、国際世論の非難を日本に向け、日本を外交的に孤立させて日本に政策転換を促すことを狙い、伝統的な門戸開放政策を旗印に、戦時中に日本が確立した中国大陸の既成事実を覆すことにあった。

 米国軍部、対英戦争において、大西洋側からイギリス海軍、太平洋側からは日本海軍の攻撃を受けることを想定した「対英日戦争計画」(Red and Orange War Plan)を作成。

1917年
 ロシア革命。

1918年
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、退位。
 第一次世界大戦の休戦。

1919年(*5)
 パリ講和会議においてヴェルサイユ条約を締結。

チャーチル首相 『第二次大戦回顧録』 日英同盟について
「ヴェルサイユ条約のドイツに対する経済条項は有害愚劣なもので、ドイツは滅法な賠償支払いを宣言された。一方、日本に対しては、アメリカが、日本がきちんと守っていた日英同盟の継続が、英米関係の障害になるということをイギリスに対して明らかにした。その結果、この同盟は消滅せざるをえなかった。同盟破棄は日本に深刻な印象を植え付け、西洋によるアジアの国の排斥とみなされた。多くの結び付きがばらばらになったが、それらは後になって平和に対する決定的価値を発揮するはずのものであった。しかも日本は、ワシントン条約によって英米より海軍軍備を低い比率に規定されてしまう。かくてヨーロッパでもアジアでも、平和の名において戦争再発の道を切り拓く条件が、戦勝の連合国によって急速に作られたのであった。」

 戦勝国側、ヴェルサイユ条約によりドイツに天文学的な賠償金を請求。
 ドイツ、国家・民族としての破滅的危機に直面。



 持てる国(英仏)が持たざる国(ドイツ)にあのとき(第一次世界大戦後)に与えていたら、ナチズムもこの戦争もなかっただろう

――アン・リンドバーグ


   

 日英の同盟関係の空洞化
  共通の敵であるロシア、ドイツが消滅。
  第二次改訂で、アメリカに対して同盟条約の義務を発動する意志のないことを明言。
  日本、国際的孤立を回避するため同盟の継続を希望し、現行の日英同盟にアメリカを加えた協調体制の構想を練る。
  イギリス、日英同盟を廃止した場合には、日本がオーストラリアやニュージランドなどの自治領への脅威となることを恐れる「同盟ビンの蓋論」から、
  また、中国における利害の対立を調整する外交チャンネルとして、日英同盟を評価し継続を希望。
  アメリカ、世界第一位のイギリス海軍と第三位の日本海軍に、大西洋と太平洋から挟撃される可能性を脅威と見る。
  アメリカ、イギリスに対し、「日英同盟は相互の特殊利益を認め合う排他的条約であり、日本の侵略的政策にイギリスが加担せざるをえない立場に
  追い込まれ、英米の共同歩調が不可能になる」と通知し継続に反対。

ジェームス・ブライス
「イギリスはどんなことがあってもアメリカと戦争をしないと国策で決まっている」

1921年7月11日(*5)
  ハーディング米国大統領、イギリスに会議の主導権を取られることを恐れ、ワシントン会議を主催。
 日英の密着を阻止するためにフランスを加え、太平洋における島嶼や領地に関して、日英米仏四ヶ国の権利の相互尊重と、
 紛争が生起した場合祀は会議を開いて協議する「太平洋に関する四ケ国条約」が成立。

 四カ国条約調印。
 日英同盟の解消。
 日本代表たちの顔面は緊張したままだった。一部のイギリス代表は不愉快な顔をした。アメリカと中国の代表は大きく微笑んだ

――モーニング・ポスト紙 


 イギリス海軍を教師としてきた海軍の国内政治上の地位が低下。
 1930年代にはドイツを教師としてきた陸軍の発言力を高める。
 日英同盟の解消による日本海軍とイギリス海軍との疎遠。
 日本海軍と皇室との関係の希薄化。

在米日本大使館顧問 フレドリック・ムーア
「米国が英国を強要して日本との同盟を廃止させたのは米国外交の失策だった。……日本側は同盟廃止によって大衝撃を受けた。英国が大した議論もせずに、さっさと米国の望みどおりにやってしまったので、英国に対する日本側の考えが変わった。これが始まりで、以後日本は起こり得る戦争に備える独自の行動へと方向を転換した。ドイツが軍事力を回復した時、それと協力しようとする道が気持ちのうえで開けたのである。日本海軍はこの時まで国民の間に強い勢力を持っていたが、日英同盟の破棄によって弱化し陸軍に支配的な威信を譲り渡してしまった。もしも、日英同盟が存在していたならば、文官と海軍の勢力によって、陸軍に十分な抑止力を加え続け、陸軍が中国へ進出することを防止しただろうということさえあり得たかもしれないと私は考える。……日英同盟を廃止させたことは、アメリカ国民と政府の失策であったと確信する。」

駐日武官 ピゴット少将
「日本人は同盟を永久に続く結婚とみなしていたので、戦後こんなに早く日本側に不信行為がないのに同盟を解消することは……事実これは離婚である……日本人に対しとりかえしのつかない大きな屈辱を与えることになるであろう。それだけでなく、日英同盟の解消は日本人が最悪の罪とする忘恩と解されるだろう。今後、どのような影響があるのかを非常に心配する」



 満州事変

1931年9月18日
 日本軍、中国北部の奉天(瀋陽)郊外にある柳条湖の鉄道爆破。南満州鉄道沿線制圧。

1932年
 錦州、ハルビン占領

1932年1月(*4)
 スティムソン・ドクトリン
 満州事変を米国は侵略行為と非難。
 ヘンリー・スティムソン国務長官、中国の主権尊重をうたう九カ国条約違反を盾に、
 「(侵略による)領土の変更を認めない」というドクトリン(原則)を発表。

スティムソン
「軍事行為によって既成事実を作る方法が罷り通れば、(第一次大戦後)誕生したばかりの国際新秩序は計り知れない打撃を受ける。だが、今回の軍事行動は日本の首相さえ了解していない、いわば反乱行為だ。ならば、穏健派の幣原(外相、幣原喜重郎)に事態収拾を図らせるべきだと思った。その間、軍部を剌激しないよう慎重に対応したつもりだ。だが、その後も日本軍は占領など既成事実を作るばかりだった。日本は信用できないのだ」

 スティムソン・ドクトリンにより「力の外交」へ
 米国、宥和政策・海外紛争不介入・中立外交を転換。

フーバー大統領
「スティムソンは(32年)10月の段階で日本の侵略行為を阻止するための二つの案を提示した。一つは国際社会による経済制裁。もう一つは外交と国際世論による説得だった。私はもちろん後者を望んだ。だが、国務長官は外交官というよりも戦士のようであり、制裁で解決できると信じていた。国務長官は制裁が戦争につながると考えなかったようだが、第一次世界大戦の経験に照らせば大国に対する経済制裁は実質的な戦争を意味していた」
「いかなる国も経済を破壊され、国民が飢えるような制裁に素直に応じるとは思えない。制裁は銃撃を伴わない戦争行為である。制裁の脅しだけで相手国に救いがたい憎悪と感情の高ぶりを生じさせるだろう。しかも、英国、フランスをこの制裁に協調させることはできない。二国とも中国に権益を持ち、日本にはむしろ仲間意識を抱いているからだ」
「開戦すればフィリピンが占領されるし、英国抜きで戦うには五年の戦争準備が必要だ。戦争は問題外だ」

1933年1月9日(*4)
 ルーズヴェルト、スティムソンの考えを全面的に支持。
 「もっと早く(経済制裁を)スタートさせるべきだ」
 「日本はいずれ屈服するだろう」

レイモンド・モーレイ 初期ニューディール政策の中心人物
「(ルーズヴェルトは)いわゆる侵略による領土の変更を認めないという(前政権の)原則を受け継ぐことを明らかにした。“侵略国”という曖昧な定義だけで国際紛争における中立の立場を捨て、一方の国に制裁を加えるという誤った政策を意味している。極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じことだ。いずれ米英が日本に対し戦争を仕掛けることになるかもしれない」

レックスフォード・ダグウェル 初期ニューディール政策の中心人物の一人
タグウェル「このままでは日本と戦争になる」
ルーズヴェルト「日本の好戦性を考えれば、戦争は避けられないかもしれない。ならば、後回しにするより今、戦ったほうがいいのではないか」
タグウェル「ですが、日本は人口増と急激な工業化で新たな市場を必要としている。日本の帝国主義が英国に比べてひどいとは思えない」
ルーズヴェルト「私の先祖は中国貿易に従事したことがある。だからいつも中国人には親しみがある。そんな私が日本をやっつけようというスティムソンに同意しないわけがないではないか」
(ルーズヴェルトの母方の家系であるデラノ家の祖父、叔父が香港を中心にアヘン貿易で巨万の富を築く。先祖の中国貿易とはアヘン貿易のこと。)

1934年
 アドルフ・ヒトラー、ナチスを率いて総統となる。



 第二次世界大戦

1937年
 日中戦争の勃発。
 日本、中国へ侵攻。

1938年2月(*3)
 アメリカの統合幕僚長会議は参謀総長クレーグ大将の新計画の勧告を受け容れて、「新オレンジ作戦計画」を決定。
「対日戦争が起こったら、アメリカはまず攻勢作戦の準備を整える。海軍は南洋の日本の委任統治領に対して直接攻撃を加えた上、太平洋を順次西進し、対日攻撃に踏み切る。これには海上封鎖のような経済的圧迫を結合して日本を敗北へと持っていき、極東の平和を保障し、アメリカの権益を擁護する」

1939年4月(*3)
 レインボー5(対数ヵ国戦争計画)
 目的:アメリカと西半球を防衛すること。
 アメリカ単独で当たる場合と、諸国家の連合によって協力して戦争する場合を想定。
 陸軍側は、太平洋、大西洋の両洋を同時に防衛することはできないから重要度の大きい大西洋とカリブ海の防衛に力を入れ、
 フィリピンやグアムの喪失はアメリカの根本的利益を害しないので、東太平洋で防衛体制を取るべきであると主張。
 海軍側は、日本が南進することだけがアメリカを戦争に巻き込む危険を持っている、という見方から太平洋戦略の具体的計画を進め、
 太平洋に対し最も積極的な作戦を行う。

1939年9月1日(*2)
  ドイツ軍、ポーランド侵攻。第二次世界大戦の勃発。
  ルーズヴェルト政権の陸海軍省と国務省の指導者たちは、ナチス・ドイツ軍が欧州戦争で勝利を収めた場合、
  米国の安全保障に脅威となるだろうとの点で意見が一致。

1940年6月
  スティムソン、ルーズヴェルト政権の陸軍長官に就任。

1940年12月(*4)
 中国国民政府主席 蒋介石、中国機を装い米軍機による空爆を提案。
 陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルと海軍作戦部長ハロルド・スターク、この案を拒絶。

1940年2月23日
 米国海軍情報部(ONI)極東課長アーサー・H・マッカラム海軍少佐、最初の諜報報告をホワイトハウスに送付。

1940年5月
 ルーズヴェルトはコーデル・ハル国務長官とフランク・ノックス海軍長官に会い、米艦隊がハワイを恒久的に基地とする件について話し合う。

1940年9月
 日独伊三国同盟締結。
 第三項
 三国いずれかが攻撃を受けた場合、相互支援する。

1940年9月初め(*2)
 ルーズヴェルト、戦時体制の4つの政策を決定。

アメリカで初めての平和時徴兵法案を議会に提出。男子に兵役を課し、民間の工場を防衛用兵器の生産に利用する権限を求める。
全国の州兵を現役に召集。
イギリスが持つバーミューダ、バハマ諸島、ジャマイカ、セント・ルチア、トリニダード及びギニアの基地利用許可と引き換えに、米国の中古駆逐艦五十隻をイギリスに貸与。
五十億ドルの予算を認可し(大西、太平)両洋海軍創設に着手。両洋海軍は終局的には空母百隻を保有。
1940年9月下旬から10月第1週(*2)
 米国陸海軍暗号解読班が日本政府の主要な暗号システムである外交暗号のパープル・コードと海軍暗号の一部を解読。
 (パープルとはシカゴのACCO社製の紫色のバインダーに米海軍のパープル・コードの解が入っていたことに由来。)

1940年10月7日(*2)
 マッカラム海軍少佐、日本に対する「戦争挑発行動八項目覚書」“マッカラム覚書”をルーズヴェルトが最も信頼していた二人の軍事顧問、ウオルター・S・アンダーソン海軍大佐とダドリ・W・ノックス海軍大佐に送付。
 マッカラム覚書は、ヨーロッパを侵略しつつあったドイツ軍に対抗していたイギリス軍に、気のすすまないアメリカを動員加担させる状況を作り出す計画。
 八項目の行動計画は実際上、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊ならびに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本に攻撃させるよう要求。
 1940年夏の世論調査、米国民の大半が欧州戦争介入に反対。当時の世論調査では欧州戦争以上の騒ぎがないかぎり、アメリカ政府は日本に対し宣戦布告することはできないと信じられていた。

 マッカラム、日独伊三国同盟に着目。
 日本をして米国に対して明らかな戦争行為をとるよう挑発することができたなら、三国同盟の相互援助条項の発動を誘導し得る。
 ドイツとイタリアは日本側に立つ結果、直接アメリカを欧州戦争にまき込むことになる。
 ドイツがイギリスを打倒した場合にはドミノ現象が起きる。
 カナダ及び中南米とカリブ海域のイギリス領土は、ある程度ナチス・ドイツの支配を受ける。 
 米国にとって戦略的に危険なのは、日本ではなくドイツである。
 米国にとって第一の問題は、大衆を動員して枢軸国に対する宣戦布告を支援することである。
 議会がアメリカの軍隊を欧州に派遣する見込みはほぼない。
 
  政治的行き詰まりを解決するためのマッカラムの策
  日本が米国に対して明らかな戦争行為に訴えるよう挑発するため提案された8項目の行動をとり、その結果、三国同盟の他の二つの締約国から、次々に軍事的反応を起こさせる。
  日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合のよい時に日本を挑発して明らかな戦争行為をとらせ、欧州戦争へ介入する裏口からの名分を得る。

A 太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。
B 蘭領東インド〔現在のインドネシア〕内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。
C 中国の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供
D 遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールヘ派遣すること。
E 潜水戦隊二隊の東洋派遣。
F 現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。
G 日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張。
H 英帝国が日本に対して押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。

作成した八項目覚書の提案を推進するうえで、次の六つの軍事的要素を引用。

欧州大陸の全域は独伊枢軸国の軍事的支配下におかれていた。
枢軸国の増大する世界支配に積極的に対抗しているのは、英帝国だけであった。
枢軸側の宣伝が成功して、欧州戦に対する米国の無関心を増進させた。
西半球における米国の安全保障は、中南米諸国の革貪吏扇動する枢軸により、脅かされている。
英国が敗北すると、米国はドイツから直接攻撃を受けるだろう。
英海軍の艦船は、英国が敗北すると枢軸側の支配下に入るだろう。
要約

アメリカ合衆国は大西洋と太平洋で連合敵国に挟まれている。
英海軍が大西洋の制海権を握り、アメリカ合衆国への敵対行為を防いでいる。
日本の増大する敵対行為は、インド洋で英国の海上交通線を攻撃することにより、日本と地中海域との間の海上交通線を開かんとする企図の前兆である。
欧州における英国の抵抗が依然として効果を有するためには、日本は牽制されなければならない。
現在、太平洋海域にいる米海軍部隊は、日本の独伊に対する援助を中止させるために、日本を牽制し、悩ませることができる。
日本に対し機敏かつ攻撃的行動をとることにより可及的速かに太平洋における日本の脅威を取り除くことが、米国の国益にかなう。
米国には政治的攻勢(手段)をとる能力が欠けているので、海軍の追加部隊を東洋に派遣し、かつ、東南アジアにおける日本の侵略を効果的に阻止するのに有効と思われる協定を、オランダ及び英国と結ぶべきである。
ノックス海軍大佐、マッカラムの八項目覚書に賛成し、アンダーソン部長に送付。
「本職は貴官の行動方針に同意する。われわれは両洋(太平洋と大西洋)で用意を整え、多分、両洋の問題を処理するのに足る程、強力でなければならない」
 ルーズヴェルト大統領の関与を得て、マッカラムの八項目提案は翌日から組織的実施に移行。

1940年10月8日(*2)
 日本と極東に関係する、二つの重要な決定。

国務省が米国人に対して極東から可及的速かに立ち去るよう通告。
大統領執務室で合衆国艦隊司令長官ジェームズ・O・リチャードソン大将及び前海軍作戦部長でルーズベルトの腹心ウィリアム・D・リーヒ大将と時間を延長した午餐会を開いた席上、大統領はマッカラム覚書のF項目、ハワイ海域を基地とする合衆国艦隊を維持する件を議題にのせた。
 リチャードソン大将、合衆国艦隊を危険に晒すルーズヴェルト計画を承認せず。以下の2点に抗議。

ルーズヴェルトが「日本の錯誤」と呼んでいる行為を挑発するために、米海軍の軍艦一隻を喜んで犠牲にしようとしている点。
ルーズヴェルトが「遅かれ早かれ、日本は米国に対し明白な行為をとるだろう。そして米国民は喜んで参戦することだろう」と言明した点。
1941年2月1日(*2)
  リチャードソン海軍大将を解任。

1941年3月から7月(*2)
 D項目 日本の領海内または領海付近に米艦を故意に配備する
 ルーズヴェルト、この挑発行動を「ポップアップ(飛び出し)」と呼び、作戦を主導。
  太平洋艦隊司令長官のハズバンド・キンメルは「ポップアップ」巡洋艦に反対。
  「もしわれわれがこうした行動をとるなら、それは思慮のない行動で、その結果として戦争を招く結果となろう」
 ルーズヴェルト、国際法を無視。ある任務部隊を、ポップアップ巡洋艦三隻として日本海域に派遣。
  最も挑発的な行動の一つは、瀬戸内海への主要接近水路である豊後水道への出撃。豊後水道は九州と四国との間に横たわり、1941年には日本帝国海軍の主要な行動海域。
 日本海軍省、東京駐在のジョセフ・グルー米国大使に抗議。
 「7月31日の夜(豊後水道)宿毛湾に錨泊中の日本艦艇は、東方から豊後水道に接近するプロペラ音を捕えた。日本海軍の当直駆逐艦が探索して、船体を黒く塗装した二隻の巡洋艦を発見した。二隻の巡洋艦は日本海軍の当直駆逐艦が向かっていくと、煙幕に隠れて南方寄りの方向に見えなくなった」
  「日本海軍将校は、それらの船がアメリカ合衆国巡洋艦であったと信じている」

 日本を挑発するため、マッカラム提案のすべてを実施。

1941年4月15日(*6)
  英政府内で枢軸国の立場で戦略を練っていた特別作業班、枢軸側計画部の描いた「日本の将来の戦略」
  「米国は不確定要素である……現在の英米による経済圧力は今後強まりそうであり、そのために日本の戦争遂行能力は漸次衰えていく……日本が戦争の危険も伴う対応策をとることが必要だと感じれば、むしろ日本としては早めにそれを行う傾向が出てこざるを得ないだろう」

1941年7月(*4)
  ダグラス・マッカーサー、太平洋の緊張とともに現役に復帰

1941年7月中旬から12月7日(*3)
  アメリカ、日米交渉に関する日本側の外交暗号文全217通を傍受解読。
  (暗号を解読することを「マジック」といい、その解読文を“マジック情報”と呼んでいた。)

コーデル・ハル国務長官
「この日本暗号の解読情報は日米交渉の初めのうちはたいして役に立たなかったが、後の方では実に大きな役割を演じた。これによって、われわれは日本の外務大臣が野村駐米大使やその他の代表に送っていた訓令の多くを知ることができ、野村大使が私との会談について東京に送っている報告も残らず知ることができた。そして、これらの電報は日本政府がわれわれと、一方では〈平和〉会談を行いながら、もう一方では侵略計画を進めていることがよく分かった。もちろん、私がこういう特別な情報を握っているということを野村大使に知られないように気を配らなければならなかった」

1941年7月25日
 米国内の日本資産の凍結。

1941年8月1日(*2)
 H項目 英帝国が日本に対して押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁止
 全面的禁輸措置の発動。石油製品の輸出停止。
 両洋艦隊法案と予算支出法案の議会の通過。
 米国各地の造船所で軍艦の建設が開始。
 米国海上兵力整備の第一段階が完成するのは早くて2年後の1943年。
 意図的に戦うには十分だが勝利を収めるには足りない燃料を保有させる対日戦実施の時刻表。
 1941年、日本は平時の使用量として年間350万トンの石油が必要。海軍200万トン、陸軍50万トン、民間100万トン。
 1943年、日本の石油備蓄量が底をつく時、アメリカの軍需生産は本格的に稼動しており、アメリカは攻撃作戦をとることが可能。

1941年8月9日(*6)(*4)
  米英、大西洋会談

チャーチル
「(会談で両国が合意した)大西洋憲章の中で特に重要だったのは、中立国であるはずの米国が交戦国である英国とともに“ナチス・ドイツの最終破壊に向かう”という条項を盛り込んだことだ。これは明らかに米国の参戦を意味している。しかも米国は最終条項で、戦後もわれわれと一緒に世界の警察官の役割を担うことさえ明確にした」
 
  第三項 民族自決権
  第四項 自由貿易

反植民地主義
 基本となる信託統治の概念を戦後世界全体に広げ、戦後世界の自由を維持するのは「世界四大警察官」である米国、中国、英国、ソ連で、これらの国は国連の枠組みの中で活動。ルーズヴェルトは信託統治という考え方が、主要な問題点を乗り越えるのに必要な柔軟性を与えると見ていた。大統領は、信託統治を大英帝国だけでなく、フランスやオランダ、さらに敗北する枢軸国側の植民地にも運用しようと考えていた。

国際情勢安定化の問題
 ルーズヴェルト大統領は植民地主義に世界を大戦に引きずり込んだ責任の大半があり、枢軸国が比較的簡単に東南アジアの例のように広大な地域へと侵攻していくことができた原因と見ていた。植民地主義を根絶しなければ、将来戦争を引き起こす。対日戦争はその明らかな例で、原因は1931年以来の中国沿岸部をめぐる帝国主義競争だと見ていた。植民地化された地域は、枢軸側の前に驚くほどの弱さを露呈した。住民は圧政に虐げられていたため、41年に日本軍が来ると簡単に征服された。

イデオロギー
 インドシナ半島でのフランスの支配の実態等への、「重大な道義的疑問」。
 大西洋憲章の考え方は人類すべてに適用。「四つの自由(言論の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由)」。信託統治や国連と切り離すことはできないと強調。

経済
  米国の自由貿易への関心と関連し、戦争が進むに連れ、米政府は、原材料資源があり、現在あるいは将来の大きな市場となるこの地域の通商上の重要性に目覚めた。植民地解放による英仏の衰退、「自由貿易の覇者」として米国の登場。
植民地帝国の時代遅れの非民主的な制度と対比させて、現代的、進歩的、理想的なものとして提示できる能力を米国は保持。
欧州諸国の行動が人種的な背景を持つ汎アジア主義を引き起こす。日本は、単に反ヨーロッパというだけでなく、反白人というかたちで、アジアの土着の民族主義を支援。中国や将来独立するとみられたインドとの関係を気遣う米国は、欧州同盟国のやり方とは一線を画す。他の「敵である植民地主義者」と一緒にされるのを恐れた。汎アジア主義は、「自由貿易」とアジアを「文化的・道義的拡張の領域」にするという、戦後アジアに向けて米国がはぐくんできた野心的な計画にとって深刻な脅威となった。

ルーズヴェルト
「ドゴールは(日本とドイツが敗北すれば)仏領植民地をすべてフランスに返還すべきだと求めた。ばかげたことだ。日本車が東南アジアの仏領インドシナ(現ベトナムなど)をうまく占領できたのは、厳しいフランス支配よりはましだと住民が考えたからだ。太平洋で日本軍と戦う米海軍や海兵隊員らはフランスや英国、オランダの植民地を奪還するために死んでいるわけではないのだ」
「そもそも誰がフランス領と決めたのだ。植民地をこのままにすれば、また戦争になる」

1941年9月11日(*4)
 戦争への基本戦略「米国総合生産必要物に関する陸海軍統合局予想書」 戦略書第三部「日本戦略政策」
 「日本の目標は大東亜共栄圈の樹立にある。究極的には東シベリア、中国東部、仏領インドシナ、タイ、マレー半島、蘭印、フィリピン、そしてビルマを包含することだ。目標の完遂は日本の国力にとって荷が重すぎる。日本は装備と原料に不足しているから、同時に北方と南方とに努力を企図できそうもない」
  日本が米国に向かってくるとすれば、「中部および東部太平洋において襲撃艦艇と潜水艦を使った米海軍への攻撃を図るだろう」

1941年9月12日(*4)
  “空飛ぶ要塞”B17爆撃機、フィリピンへ配置
 マッカーサー提案の本格的な先制空爆計画。

スティムソン陸軍長官
「フィリピンは長い間、お荷物のように扱われてきたが、B17とマッカーサーの登場で攻撃拠点へと発想が逆転した」

1941年10月6日(*4)

スティムソン、コーデル・ハルへ
「こちらの準備ができるのに3ヶ月必要だ」

1941年10月21日(*4)
 スティムソンと参謀総長ジョージ・マーシャル、日本空爆案を提出
 米国の戦略的転換

「過去二十年の米国の戦略思考は革命的に変化しました。航続距離のあるB17の登場で、フィリピンと(ソ連の)ウラジオストクから日本の軍事施設を爆撃することが可能になったからです。アジア戦略は根本的な見直しを迫られています」

1941年11月15日(*2)(*4)

陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将
「アメリカは現在、日本との戦争の瀬戸際に立っている」
「われわれは彼らが何を知っているかを知っているが、われわれがそのことを知っていることを知らない」
日米戦争は「12月の最初の十日間」に開始されるだろう
「今や日本と開戦寸前だ。このため米軍は夜間を利用して極秘奥にフィリピンを増強している。日本側はわれわれが防衛準備に入っていると思っているようだが、実は日本への攻撃を狙っている。すでに三十五機の空飛ぶ要塞(B17)があり、これだけですでに世界最大規模だ。もし戦争になれば日本を徹底的に破壊する」

1941年11月24日
 ルーズヴェルト大統領、チャーチル首相への電報

「私としては、日米間の今後の見通しは余り望みをかけていない。われわれはたぶん近いうちに起こるであろう本物の戦争に対処する準備をしなければならないと覚悟している」

1941年11月25日(*4)(*3)
  日本、交渉期限を11月29日に延ばす。

コーデル・ハル国務長官
「それから後の事態は自動的に起こることになる」 
「われわれの頭上にたれ下がっていたダモクレスの剣には時限装置までついていた。その後は戦争しかない」

  正午、ホワイトハウスで戦争会議の開催。
  出席者は大統領、国務長官、陸・海軍長官、陸軍参謀総長、海軍作戦部長の6名。
  議題は日本からの切迫した危険に対処する問題。
 
ハル国務長官
「日米会談の続行はもはや絶望的だ。日本は突如として牙をむいて取っ掛かってくるかもしれない。もちろん、国家の防衛に当たるのは陸軍と海軍だが、私は日本が奇襲という戦略を使うかもしれないと思う」
「もともと日本は警告をしないで奇襲をかけることで悪名が高いのだからひょっとすると次の月曜日(十二月一日)頃に攻撃を仕掛けてくる可能性が高い」

スティムソン陸軍長官「日本が今からとろうとしている行動は、既に8月17日の大統領の対日警告の現実的な侵犯であると決め付ければよい」
ハル国務長官「アメリカが対日戦に入ることは日本のアジアにおける侵略を理由とするものではなく、日本がヒトラーと同盟を結び、ヒトラーの世界侵略政策を実行しつつあるという点、もっと広い事実を理由として正当化すべきだ」

スティムソン陸軍長官
「問題は、その場合、アメリカは余り大きな危険にさらされることなく、どうやって日本側に最初の攻撃の大差を切らせるように日本を追い込むか、ということであった。しかし、日本側に最初の一弾を撃たせることは危険この上ないが、アメリカ国民の完全な支持を得るためには日本車に最初に攻撃をさせておいて、アメリカと日本のどちらが侵略者であるか、について、誰もが疑う余地のないようにすることが望ましい。この会議で、われわれが討議したことは、日本側からの突然の攻撃で、急に開戦しなければならなくなった場合もアメリカ国民とそして全世界に向かって、アメリカの〈正義〉の立場を最も明快に説明できる基本方針についてであった」

1941年11月26日(*3)(*4)
 「合衆国及ビ日本国間協定ノ総括的基礎提案」 通称“ハル・ノート”

内容はイギリスのチャーチル首相を暫く絶句させる。
「それはイギリスとアメリカが日本に要求していたこれまでのどんなものよりも激しく厳しいものだった」

  十ケ条

日本が主張している「大東亜共栄圈」を否定すること。
三国同盟(日本、ドイツ、イタリア) の完全な骨抜き。
中国、仏印から日本軍を全面的に撤退させること。
 それまでの日本の政策と行動を一変させることを厳しく要求。
 
東郷外相 
「これは日本に対して「全面的屈伏」か「開戦」か、の〈二者択一〉を迫る〈最後通牒〉にも等しい」

ソ連、スノー(雪)作戦
 ハリー・デクスター・ホワイト米国財務省高官へのリクルート工作

KGB工作員ビターリ・グリゴリエッチ・パブロフ、米国内情報網担当イサク・アフメーロフ
「ソ連の国益は日本の判断を複雑にすることにあり、北方(シベリア)への膨張を阻止することだ」
  
   以下は最終案からは破棄。
   日本に対し二十億ドルの低金利(二%)借款を認める。
   貿易における最恵国待遇さえ与える。
   その見返りに、日本は仏領インドシナ(現ベトナムなど)および中国、満州から撤退する。
   日本の海軍艦船を中心に軍備の四分の三までを米国に売り払わなければならない。
   米国は市場の二割増し価格で買い取る。

「(平和的な)解決はこれ以外になく、日本が受け入れないなら、(戦争)準備を強めなければならない」
「幾つかの重要不可欠な譲歩を(日本から)得られないならば提案は成立しない。将来、日本が再び脅威となるからだ。最小限必要なものとは日本が中国大陸から完全撤退し、軍備をわれわれに売り渡すことだ。そうでない限り単なる宥和に陥ってしまうだろう」

ビターリ・パブロフ
「作戦は見事に成功し、日本に突きつけられた厳しい対日要求、ハル・ノートがその成果だった。」

国務省職員、ランドレス・ハリソンのメモ
「(コーデル・ハル)長官はその日、突然、大統領に呼ばれてホワイトハウスの緊急会議に出かけた。その後、えらい剣幕で帰ってきたが、“あそこの連中は何もわかっていない。プライドが高く、力もある民族に、最後通牒を与えてはいけない。日本が攻撃してくるのは当然じゃないか”などと、繰り返しつぶやいた」

コーデル・ハル長官
「財務長官(モーゲンソ―)は閣僚としては私の下なのに、まるでそれ以上のように振る舞い、外交分野にまで口出しする。ハリー・ホワイトという有能な官僚が指導する財務省は組織として優れているが、知りもせぬ外交分野に乗り出すことが多々ある。時には外国政府との交渉にまで乗り出す始末だ)
「暫定案に付帯させる十項目提案(ハル・ノート)について検討を重ねていると、モーゲンソー長官は財務省で作成したという草案(ホワイト案)を送ってきた。これこそ財務長官が第二国務長官たろうとする証拠なのだが、持ってきた草案には見るべきものが幾つかあったので最終案に採用した」
 1995年、米議会は米国家安全保障局(NSA)のKGB暗号解読文「VENONA」の段階的公開を決議
 ハリー・デクスター・ホワイト、ソ連のスパイの一人であることが判明。
 
ジョン・ヘインズ ソ連・コミンテルンと米共産党の関係を長年追いかけてきた歴史家
「ハリー・デクスター・ホワイトがソ運の指示でハル・ノート原案を作ったことはご存じだろうか。ルーズベルト大統領は対日戦争を早くから決定しており、ホワイトは導火線の役割を果たしただけなので、その役割は歴史的にはあまり意味がなかったとは思うが……」

ハミルトン・フィッシュ共和党議員 孤立主義の指導者
「仮りに日本が満州を放棄して、資源の豊かな同地を長らく羨望していたソ適に明け渡していたなら、それは日本にとって国家的な自殺行為となっただろう。しかしこれこそが共産主義擁護者H・D・ホワイト(ハル・ノートの原案起草者)の欲していたところであった」

1941年11月27日 朝(*3)(*4)

ハル国務長官、スティムソン陸軍長官に電話
「私は問題をすっかりご破算にした。私はもう日米交渉から手を引いた。いまや君とノックス君、つまり君たち陸・海軍の出る幕だ」

英国情報部員、本国に打電
「(対日)交渉終了。二週間以内に行動(戦争)」

1941年11月28日午後2時40分(*2)

海軍作戦部長ハロルド・スターク大将
「日本との交渉は合意に達することなく中断した模様で 日本政府が交渉の継続を提案している可能性はわずかとなった 日本の今後の動きは予測不可能だが いつ何時武力行使に出るかもしれない 戦闘行動を避けることができない 繰り返す できない のであれば 合衆国は日本が最初に明白な行為をとることを希望する この政策は貴隊の防衛力を危険に陥れるかもしれない行動方針をとるよう貴官を制限していると解釈されるべきではない 繰り返す 解釈されるべきではない 日本の武力行使に先立って貴官が必要と思う偵察及びその他の手段をとるよう貴官は指示されているが しかしこれらの手段は市民に警戒心を与えたり もしくは意図を明かさないよう 繰り返す 警戒心を与えたり もしくは意図を明かさないよう 実施されるべきである 実施した手段を報告せよ 第九軍団地区にはアメリカ国内での破壊活動に関して別電が送られている 敵対行動が発生した場合はレインポー(計画)第五号に定められている貴隊の任務は 日本に関するものに限り遂行するものとする この極秘情報の配付を、この情報を是非必要としている 最小限の将校のみに限定すべし」

ダグラス・マッカーサー将軍の返電
「防衛を成功させるための行動はすべて準備完了している」

1941年12月2日午前1時30分(*2)
  ハワイ H局 ジョゼフ・クリスティ・ハワード 傍受
  「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」
 
暗号解読者 RK
「これは、戦端を開く日時を連絡するために前もって定められていた合図であることは間違いない。しかし、この文言の意味は、それ自体興味があり、その関係できわめて適切に使用されている。ニイタカヤマは日本帝国で最も高い山である。そのニイタカヤマに登るということは、最大の偉業の一つを遂行することである。換言すれば〔割り当てられた作戦を実施するため〕その任務を実行するということである。一二〇八という数字は日本時間で十二月八日ということである」

1941年12月6日(*4)
  アメリカ、国交断絶と開戦通告を伝える電報に先立って送られた「予告電報」を傍受・解読
  日本の戦争理由を述べる長文の電報では、アメリカが日本の経済政策を邪魔し、支那事変では蒋介石側に味方して、この戦争を長びかせようとしていると非難。

「万邦をして各其の所を得しめんとする帝国の根本政策と全然背馳するものにして、帝国政府の断じて容認する能はざる所なり」

1941年12月6日午後9時45分
  ルーズヴェルト、解読電報を読了。



これは戦争を意味する

――ルーズヴェルト、ホプキンズ大統領顧問に対して




1941年12月8日午前7時49分(*3)
  真珠湾奇襲攻撃

「真珠湾が空襲されている。これは訓練ではない」

スティムソン陸軍長官
「……この日、午後二時、大統領から突然、電話口に呼び出され、“日本軍は真珠湾をいきなり攻撃してきた“と口早に告げられた……今や日本人は真珠湾でわれわれを攻撃することにより、問題全部を一挙に解決してくれた。私の最初の感じは正直ホッとしたということであり、またわがアメリカ国民を一致結束させるような方法で危機がやってきたというものだった。こうなれば、もう国民を団結させる上で心配すべきものは何もない。今まで非愛国的な連中が示していた冷淡さと分裂ぶりは非常に憂慮すべきものがあったが、もうそれらも跡形もなく消し飛んでしまった……」

 午後3時、真珠湾が奇襲攻撃を受けた1時間半後、大統領の司会で戦争会議の開催。
 
ホプキンズ大統領顧問
「当日の雰囲気はあまり緊張したものではなかった。なぜなら私の思うには、われわれはすべて、結局のところ敵はドイツのヒトラーだということと、武力なしには決して彼を打ち破ることはできないこと、早かれ遅かれ、アメリカは参戦しなければならないこと、そして何よりも日本がわれわれにその機会を与えてくれることを信じていたからである」

11時間後、米軍、フィリピンの航空部隊の主力を失う。





「三千年のあいだで一度も他国に征服されたことのない国を、とうとう仲間にしたぞ」

――ヒトラー総統、ナチ党の友人、ヴァルダー・ヘイデルに対して






1941年12月(*4)

ルーズヴェルト
「今回の戦争で、植民地主義は消える運命にある。植民地主義を打破し、新しい時代を生むためには、日本は必要悪だったのかもしれない。もちろん、(先駆の役割を果たしたのが)日本だったことは恥ずべきことで、欧州にはそれがわからなかった。私は日本人に少し偏見があるようだ。祖父、デラノは中国貿易に従事し、中国人が好きになったが、その反面、日本人が大嫌いだったから」

エドガー・スノー 中国報道の権威
「真珠湾は国家規模の無知のなせる業だ。日本が米国の力に無知だったように、われわれも日本のことに無知だった。日本に帝国主義を教えたのは西欧であり、植民地主義を教えたのも西欧だ。ほぼ二百年の間、西欧はアジアで力による支配を続けてきた。日本を“帝国の自殺”ともいうべき絶望的な戦いへと追い込んだのは西欧の罪のあがないのように思えたからだ。大統領も同じ意見を持っているようだった」

ジョン・マグルーダー准将
「中国人は見たいことしか見ようとしない。冷厳な事実よりも、勝手な話を作り上げてそれを信じようとする。中国軍は連日、日本軍と戦い、勝利したと発表しているが、そんな事実は存在しない」

1942年6月(*2)
  米国海軍、日本海軍暗号29種のうちの一つ、D暗号を破り、ミッドウェー海戦に勝利。







 戦争は盲目的な激情の行為ではなく、政治的な目的を達成するためになされるものである。したがって、その政治的な目的が持っている価値によって、その達成のために払う犠牲の大きさを、その量だけでなく期間についても、決めなければならない。そして、戦力の消耗が政治的な目的の価値を上回るとき、その目的を断念しなければならない……

――カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』






1943年4月13日
  アリューシャン米軍基地、連合艦隊司令長官、山本五十六のスケジュールについての暗号文を傍受。

1943年4月14日午前8時2分
  太平洋艦隊司令長官ミニッツ、情報将校エドウィン・レイトンより解読文を受け取る。

1943年4月16日(*4)
  海軍長官ノックスの暗殺命令書。
  “いかなる犠牲を払っても遂行せよ”

1943年4月18日
  山本五十六連合艦隊司令長官、墜死。

1943年4月(*8)
  日本、敗戦を予想し、米英の大西洋憲章に着目した重光葵構想を元に、「自存自衛」と認識されてきた戦争目的に「アジア解放」という理念を導入。
  戦争後半に至って、日本が国家および民族存亡の瀬戸際に直面しているという不安が底流し始め、日本は戦後のアジアに生きるために、アジアの解放と独立という投資を行う。
 
バー・モウ
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」

1943年11月(*4)
  カイロ会談
  ルーズヴェルト、日本の無条件降伏を要求
  米ヘラルド・トリビューン紙
  「ヒロヒト(昭和天皇)の一九四一年における平和への呼びかけは彼を救うかもしれない―連合軍は彼を皇位にとどめるか」という論説記事を掲載。
  国務省の公開外交文書の中に、日本の真珠湾攻撃のほぼニカ月前に天皇が陸海軍に対し米英への攻撃を禁じたことを記した文書が含まれていたことを報じる。

1943年11月(*1)
  ルーズヴェルト大統領、統合参謀本部(JCS)に「全世界における米国の戦後の空軍基地所用」を研究し、報告するよう準備を指示。
  この戦後計画は米国のアジア太平洋地域における米軍のプレゼンスの構造を決める基礎となる。

1943年11月末(*1)
  統合参謀本部(JCS)、米国が戦後に必要と考えられる空軍基地の一覧表を作成し大統領に提出。
  JCSは大西洋、ラテン・アメリカ、カナダ、グリーンランド、アイスランドに33個の基地、太平洋、アジア沿岸地域に39個の基地がそれぞれ必要であると報告。
  大統領、JCSの研究成果を承認。

1944年1月7日(*1)
  ルーズヴェルト大統領、コードル・ハル国務長官に「全世界における米国の戦後の空軍基地所用」を送付し、「最高の優先順位」で必要な政府と永久または長期間、基地、施設、所要権限の取得に関して「出来るだけ早急に」交渉を開始するよう指示。この指示は、戦争遂行を含む更に大きな優先順位のため積極的には実行されず。

1944年4月(*4)(*6)
  イギリス、ソ連に対抗する勢力としてドイツと日本を再建することを目的とした長期的戦略委員会を発足。

1945年3、4月の太平洋の各司令部視察から戻った英国の海軍情報局長
「今後数十年にわたって米国と敵対するかもしれないロシアに対する防波堤としての日本を再建することを視野に入れて、英米が日本との講和条件を検討しているといった、すごい話も含めて超一級の極秘情報の概要」を手に入れたと報告。

無条件降伏とクラウゼビッツの戦争概念の終焉。

コーデル・ハル国務長官
「ドイツなど枢軸国は冷静な判断力をなくして絶望的な戦いを繰り広げ、結果として破壊され尽くした敵国は自ら復興できなくなり、最終的に米国がその責任を負わなくてはならない」

1944年3月、4月(*4)
  米戦時情報局(OWI)極東部主任 オーウェン・ラティモア日本の戦後問題についての講演『アジアにおける解決』
  OWIは42年6月、海外向け戦時宣伝を目的に発足した機関。
  ラティモアは43年から44年1月までサンフランシスコにある極東部主任。出版は1945年2月。

第二章 
「日本に民主主義を導入するには結局のところ天皇神聖化に風穴をあけるしかないだろう」

最終章
「米国の対アジア政策要綱」
「ドイツと同様、日本も侵略能力を剥奪されるべきである。幸いドイツと異なり、日本は本土に資源を持たず、日本の工業はドイツと違って自給不可能でバランスが取れていない。技術にも偏りがある。(中略)われわれにとって日本人ほど憎むべき敵はいない。だが、幾百万の者を飢えて死なせるほどではない。自動車、航空機のエンジン製造を禁じ、軍工場、軍艦の造船所を取り壊すべきだが、残余の工業は生かしてもよい。残しておいても市場競争に生き残れるかは別問題だし、日本は資源がないので原材料の輸入を監視できるからだ」

1944年9月27日(*1)
 統合計画部(JPS: Joint Staff Planners)はJCSに戦後の時期における米国が必要とする軍事基地地域及び基地権限に関する報告を提出。
 マーシャル元師はJPSからのこの報告を検討した後、第1に各基地の置かれている状況を区分すれば、各基地の戦略上の重要性を示していると誤解される危険性があり、第2に戦略的に重要な地域は財政・政治上の理由から、米国の平時の軍事活動がほとんどなければ注意を引かない可能性があることを指摘。 用語の修正を提案。
 1944年10月19日、琉球を第1部門に置くことを承認。
 JCSは、JPS報告の修正に合意し、1945年10月23日にJCS-570/40として承認。JCS-570/2は以降、「基地のバイブル」と呼ばれる。

近代空軍と海軍力の技術的発展のため海はもはや安全保障上のバリアーになりえない、
軍事戦略だけが基地計画を決定するものではなく経済的要求がある。
1945年4月30日
  アドルフ・ヒトラー、自殺

1945年5月5日(*6)
  OSS〔戦略事務局、CIAの前身〕初代局長のウィリアム・O・ドノヴァン将軍、トルーマン大統領にソ連の危険を概説した秘密報告を提出。
第二次世界大戦は勝利で決着したが、その直後に「アメリカは潜在的に従来のものよりずっと危険な状況に直面するであろう」
ソ運は「既知のものよりはるかに恐ろしい脅威になるかもしれない」

1945年5月12日(*4)

米国在ソ連大使 ハリマン
「ソ連の日本への参戦はそれほど必要なことなのだろうか。そもそもわれわれの対日戦争の目的は何なのか。日本の完全破壊か、それとも日本を残すべきなのか」

1945年5月(*4)

国務長官代行ジョセフ・グルー
「この戦争は米国に関する限り、ひとえにドイツと日本の侵略から身を守るのを目的としてきた。自衛のために戦わなければならなかったのである。だが、“二度と戦争を起こさないための戦争”とはなりえず、ただ全体主義独裁を枢軸国(日独)から単にソ連に移し替えただけのことではないのか。(中略)ひとたびロシアが日本に参戦すれば、モンゴル、満州、さらに朝鮮半島がロシアの手に落ちるだろう。そして、いずれは中国や日本も同じ運命をたどる」

1945年7月(*4)

佐藤尚武モスクワ大使
「ソ連をわれわれの側につけ、考え通りにしようというのは不可能というほかない。(中略)あなたもご存じのようにソ連当局の考え方は現実主義そのものです。抽象的な言葉や美しい言葉を並べ立てても無駄です。もしわが国が本当に停戦を望んでいるなら、それを明確にするほかない。国際関係には慈悲は存在しない。現実を直視しなければならない」

1945年8月14日(*4)

米陸軍参謀本部作戦室 ディーン・ラスク大佐
「われわれは韓国のことをよく知らなかったし、研究する時間もなく焦っていた。ただ何となくソウルは米国側だと考えた。そこで最初はソウルのすぐ北に都合のいい地理的ラインを探したのだが、そうしたものがなく、結局、北緯三八度線が手っ取り早いと考えて一気に線を書き入れた」
「実はあとで、38度線が20世紀初頭に日本とロシアが朝鮮半島の勢力圏を区切る線に引いたのと同じだったことを知った。そうならば別の線にすべきだったと後悔した」

1945年8月15日
  日本、敗戦。

 



▼1945年8月15日以後



 戦争抑止力の真髄は、すべての潜在的な侵略者の心に恐怖の疑惑を起こさせ、敗北のリスクを冒してまで戦いをいどんでも、思わしい成果は得られないと思わせることである

――イギリス海軍元帥、ヒル・ノートン侯




1945年8月(*1)
  統合参謀本部(JCS)、米国の戦後軍事政策に開する声明を提出。
  JCSはソ連を「脅威」として、「アメリカ合衆国の軍事政策の現状」と題する報告書を陸軍および海軍両長官へ1945年8月30日に提出。
  米国の利益ならびに世界の平和および安全保障に対する「脅威.」としてソ連の動向を一番最初に認識。

「米国の安全保障及び領土を保全するため、潜在敵国に対する可能な限り相対的地位及び海外での軍事行動が必要な場合の準備態勢の維持」
 
  ソ連の侵略に対抗する意図、海外基地の維持を含んだ安全保障上の要求。
  軍事的なソ連の「脅威」の認識とそれに対抗する軍事戦略の要求。

1945年10月(*1)
  JCS-570/40
  JCSの米国陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元師によって開始、10月23日にJCS-570/40として終了。
  統合参謀本部(JCS)は戦後の基地計画であるJCS-570/40を発表。

米国が敵国と戦争するために必要とされる基地、
世界安全保障機構へ加盟しその一員として平和維持活動に参加する場合に必要とする基地に関する調査、基地所要に応じた優先順位をつけるよう要請。
「米国の安全保障及び領土を保全するため、潜在敵国に対する可能な限り相対的地位及び海外での軍事行動が必要な場合の準備態勢の維持」

  主要な国家政策としてソ連の侵略に対抗する意図、海外基地の維持を含んだ安全保障上の要求。

1945年12月
  統合戦争計画委員会(JWPC)はソ連を対象とした戦争計画の基礎作業を開始。

1946年4月(*1)
  統合戦争計画委員会(JWPC)、「PINCHER」とする統合基礎戦争計画大綱を提出。
  ソ連の「脅威」の認識。政治・軍事面からの「対ソ封じ込め」の整備。
  JCSは国家戦略の対象としての「脅威」をソ連に置き、その一環として海外基地の必要性を決定。







「共産主義とつき合う最良の方法は、直接対決するのではなく、その拡張を封じることである。そして、マルクス・レーニン主義に内在する矛盾が共産主義を内部から破壊するままにしておくのだ。封じ込め政策は長期的に成功するであろう」

――外交官ケナン 1946年にソ連から送った「長い電信」






1947年(*11)

 「外国の危険に対して備えることは、市民社会の主要な目的のひとつである。それは、“アメリカ・ユニオン”が標榜する基本的な目的なのである。安全のためにどういう手段を採用するかは、相手側の攻撃手段や危険度に対応して決めなければならない。実際、危機への対応策はこのようにして決定されてきたし、今後もそうであろう」

 アメリカの軍事政策の基底にあるのは、この思想である。これらの考え方は合衆国憲法に組み込まれた。
「一九四七年国家安全保障法」の修正法制定。 この法律は、合衆国軍隊の使命として次の四項目を挙げている。

・国内外のすべての敵から合衆国憲法を守り、支える。
・時宜を得た効果的な軍事行動によって、合衆国の安全、財産、および合衆国の利益にとって重要な地域の安全を確保する。
・合衆国の国家政策および国益を支え、促進する。
・合衆国国内の安全を守る。

1949年(*1)
  毛沢東の共産主義が中国を支配。

1949年後半(*1)
  米国、新たな脅威に対して太平洋艦隊の増強。

1950年1月(*1)
  ディーン・アチソン国務長官、ナショナル・プレスクラブでの演説
  極東での米国の防衛線

「アリューシャン列島から日本列島、さらに琉球諸島を経てフィリピンにいたる……太平洋の他の地域の軍事安全保障に関して懸念されたが、軍事攻撃に対しては保障できるものではないのは明白である……また、このような攻撃は起こったとしても……攻撃を受けた国民が自ら解決せねばならない」

アジア大陸における直接的な関与を避ける。
島嶼防衛に重点を置く戦略「不後退防衛戦概念」

1950年6月25日
  朝鮮戦争、勃発。

1951年5月(*6)
  ドノヴァン提出の世界勢力圏に関する調査報告書「米国の政策の問題と目標」

「ロシアはいずれこの戦争後、ヨーロッパとアジアにおける最強の国として頭角を現すだろう。米国が傍観するならば、ヨーロッパを支配し、同時にアジアに覇権を築くに十分な強大な国となろう」。
「そうした観点から、米国は英国、フランス、オランダといった植民地国家が継続されることが国益にかなうことを理解すべきである。ソ連が植民地の反乱を煽動しながら影響力を広げるのを抑えるため、われわれはこれらの植民地体制を維持するためにこそ、その体制を改革するよう促さなければならない。現在のところ、これらの植民地国家を弱体化したり解体したり、信託統治を推し進めて不安を引き起こし、結果として植民地を消滅させたり、同時にソ連に拮抗するために必要なヨーロッパ諸国とわれわれの間の関係を疎遠にすることに利益は見出せない」。


 太平洋における米国の「帝国」形成と米統合参謀本部の期待、ヨーロッパ植民地主義についての米国の従来の政策の大幅な見直し。
  米国は太平洋では、「東ヨーロッパにおけるロシアと似た地位」とし、「その気になれば、われわれは手にしたものを所有できる」。

1964年8月2日(*1)
  トンキン湾事件
  米国防総省、米駆逐艦マドックスがトンキン湾の公海上で国籍不明の魚雷艦3隻から魚雷攻撃をうけ、米空母からの発進した米機も加わった反撃で2隻を撃破、1隻を撃沈したと発表。

1964年8月3日(*1)
  ジョンソン大統領、同海域の米海空軍倍増と、「米軍に武力攻撃を加えるものはいかなるものでも駆逐、撃破せよ」との命令を発表し、その後ベトナム側と小競り合いが頻発。

1964年8月7日(*1)
  米議会、「トンキン湾決議」でジョンソン大統領に米軍展開権限を与える。

1965年2月7日
  北爆の開始。

1965年4月(*1)
  リンドン・ジョンソン大統領、米海兵隊を戦闘へ投入し、ベトナム戦争を「米国の戦争」とする決定。

1964年(*1)
  中国、核兵器を獲得。

1969年7月25日(*1)
  ニクソン大統領、グアム島において

「アジア諸国の国防の問題はアジア諸国民白身によって処理されるようになっていくことを期待する権利かあり、それをアジア同盟諸国に力説したい」という「グアム・ドクトリン」(ニクソン・ドクトリンの原型)を発表。

ロバート・オズグット
「ニクソンの戦略は、米国の役割に関して政治的に関係を保ちながら軍事的なつながりを縮小するということだと思われる。それは、ベトナム戦争の挫折に鑑み、もし攻撃を受けた国が米国の経済的、軍事的援助で守れなければ米国としても救援できない―それは米国が許容し得る犠牲の限度を超える―という立場をとることである」

 ニクソン・ドクトリン
  ベトナム戦争と東南アジアからの撤退を表明。
  米国の東南アジアからの撤退により生じる力の真空を当該地域の同盟諸国の力で埋め合わせ。事実上米軍のアジアからの削減宣言。
  発表と同時に国防総省はベトナム戦争終結後救カ月で米軍の総兵力を345万人からベトナム介入以前の水準である260万人にまで引き下げると発表。

1969年8月(*1)
  レアード国防長官、ベトナム戦争の主力をベトナム軍に移す、ベトナム戦争の「ベトナム化」の方針を表明。

1969年11月3日(*1)
  ニクソン大統領演説でニクソン・ドクトリンを発表。

1970年2月(*1)
  『1970年度国防報告』でニクソン大統領は「ニクソン・ドクトリン」を公式化。同時に軍事戦略を転換。

1970年2月18日(*1)
  大統領外交教書「1970年代のアメリカ外交一平和のための新戦略」

1971年2月25日(*1)
  外交教書「1970年代のアメリカ外交政策一平和のための建設」
  ケネディ政権時のロバート・マクナマラ国防長官で採用されていた「2つの主要緊急事態と、1つの小規模緊急事態ならびに“海での戦い”に同時に対処する」従来の「2と2分の1戦略」から「欧州もしくはアジアのどちらかへの共産主義の攻撃に対応し、同時に、アジアにおける中国の脅威に対して同盟国を支援し、さらに、いずれの地域における偶発事件にも対応できる」という「1と2分の1戦略」へ転換。

 国防戦略
   同盟国に核の傘を提供し、通常兵力面では米国の公約が関与する事態が起こったときに同盟国とともに柔軟に対応する。
  特に米軍兵力が削減された地域において同盟国に援助を行う。
  マクナマラ理論を再検討して「戦略的十分性」の概念を採り入れる。
  「十分性」とは、
   軍事的には攻撃を思いとどまらせるに足る、十分な水準の損害を潜在的侵略国に与えることのできる戦力、
   政治的には米国と同盟諸国が敵国から威圧されることを防ぐに足る戦力の維持。

  「ニクソン・ドクトリン」はベトナム撤退と米中接近を目的とする。
  「1と2分の1戦略」によってアジアの戦力を大幅に削減。

キッシンジャー
「1と2分の1戦略」の採用は「中国を主たる脅威とは見なしてはいないことを知らせる信号」

 米軍のアジアにおける前方展開兵力の削減は、ニクソン政権が中国へ接近するためのシグナル、証として一翼を担う。
  在韓米軍の撤退。韓国から兵力を削減し、米中関係改善へのシグナル。
  アレクサンダー・ヘイグ国務長官は1個師団の撤収を最終回答。
  NSDM-48(National Security Decision Memorandum:国家安全保障決定覚書)が作成。第7歩兵師団が撤収。
  撤退計画は、1971年3月27日に完了。軍事技術の発展により戦闘形態が変化。部隊の輸送、展開が迅速化。

1973年1月7日(*1)
  ニクソン大統領、ベトナム和平協定の調印を行いベトナム戦争を終結させる。
  米軍、タイとフィリピン両国から撤退。最も後方に位置する日本にまで前方展開兵力を後退。

1974年8月(*1)
  ニクソン大統領辞任、副大統領のジェラルド・フォードが後継。
  フォード政権、一般教書で強力な軍事力を背景とする外交・防衛政策の推進を表明。

1974年11月(*1)
  フォード大統領、現職の大統領として初めて訪日し、日本重視を打ち出す。
  韓国を訪問し、米韓の同盟関係は見直され、在韓米軍削減に歯止め。

1975年4月17日(*1)
  カンボジア、共産化。

1975年4月30日(*1)
  南ベトナムのサイゴン、陥落。

1975年5月12日(*1)
  マヤグエス号事件。
  米国籍コンテナ船マヤグエス号を武力によりカンボジア政府より奪回。

1975年12月7日(*1)
  フォード大統領、「新太平洋ドクトリン」を発表。
  インドシナでの敗北、それを受けてのタイとフィリピンからの米軍撤退後の「力の真空」へ対処するため、アジアヘの関与を継続して行うという「米国が孤立主義とアジアからの撤退へ方向転換しようとするのに先手をうつ」。「アジア諸国の政府との関係について、米国内にあるいらだちをできるだけ静める」。「米国の友好国は米国がこの地域の問題に積極的に関与し続けることを望んでいるとわかった」

1976年6月(*1)
  タイ政府の強い要請でタイの駐留米軍はすべて撤収。

1977年(*1)
  フォード政権ドナルド・ラムズフェルド国防長官
  国防報告
   米国は核戦争を制限し、力の安定した均衡を維持し、戦争の抑止と国際的安定を維持確保する責任があると国防政策の基本を表明。
  フォード大統領の外交目的
   ニクソン・ショックを受けた同盟国との関係改善、アジア各国との友好関係の再構築。

1977年1月(*1)
  ジミー・カーター政権、国防戦略は「1と2分の1戦略」を採用。
  2正面で同時期に大規模紛争が勃発した際には、1正面で勝利し、その戦力を振り向けるまでもう1正面ではホールド(Win-Hold Win Strategy)する「スウィング戦略」。

1977年5月22日(*1)
  カーター大統領、ノートルダム演説
  「米国民の団結を促すソ連との紛争の脅威は薄らいできている」「ソ連との緊張緩和を信じている」
  人権問題を外交問題の優先事項に据える。

1978年(*1)
  カーター大統領、一般教書
  NATO重視の政策を強調、アジア軽視との非難を受け、同年4月に在韓米軍地上兵力の撤退計画の一部変更。
  核軍縮の推進、環境資源の保護、人権尊重。
  国防費削減と在韓米軍の撤退を推進。
  人権外交、同盟諸国や友好国との関係を悪化。アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、エルサルバドル、グアテマラ、チリ諸国の人権を問題としたため、それぞれ米国の軍事援助や経済援助を返上。ブラジル、米国との相互防衛条約の破棄を通告。

対ソデタント政策
  対ソ協調路線
  ソ連は西側の石油ルートを押さえる地政学上のチョーク・ポイントであるアフリカの角、エチオピアのメンギスツ友翼革命政権と接近。
  アンゴラに軍事支援を行いザイールのモブツ打倒をめざす反政府軍を支援。

1978年(*1)
  南イエメンに親ソ政権を樹立。
  シリアに接近して中東・アフリカで積極的に勢力を伸張。アジアではソ越条約を締結してベトナムやインドに接近。
  カーター大統領、次第に対ソ強硬路線へ転換

1978年6月(*1)
  アナポリスの海軍兵学校での演説でソ連を非難。ソ連は反発、攻勢へ。

1979年(*1)
  ソ連、中米でグラナダとニカラグアに共産主義政権を誕生させる。

1979年1月(*1)
  米中国交正常化。ソ連を牽制。
  ソ連に対するチャイナ・カードの有効活用。
  在韓米軍の撤退構想。中国への接近。
  アジアでの戦争に再び巻き込まれたくない「ベトナム戦争の教訓」
   韓国政府による政治的抑圧への反発
   ソ連の脅威に直面する欧州戦線を強化する必要性
   経費節約

1979年12月(*1)
  ソ連、アフガニスタンヘ侵攻、親ソ政権を樹立。
  インド洋への進出を狙った戦略的攻勢に加え、ソ連の南端に位置するアフガニスタンの政治的安定を狙った戦略的守勢によるもの。

1980年1月(*1)
  カーター大統領、一般教書
 「中東・ペルシャ湾地域を支配しようとする外部勢力のいかなる試みも、軍事力を含むあらゆる手段で撃退する」とソ連に対して警告。
 第7艦隊の主力と沖縄の第3海兵師団の一部兵力をインド洋・アラビア海方面へ派遣。
  対ソ制裁を実行、モスクワ・オリンピックをボイコット。
  国防費、1981年度会計では対前年度比12%増を要求。1982年度は1,800億ドルを議会に送付。

1979年10月(*1)
  朴大統領の暗殺。

1979年(*1)
  ソ連、空母ミンスクを極東に配備。

1980年3月(*1)
  緊急展開部隊(RDF: Rapid Deployment Force)を創設。1979年ソ連のアフガニスタン侵攻による中東ペルシャ湾地域情勢の緊迫とソ連の同時多方面介入能力の確保に備える。通常戦略の中核的兵力として整備。

1981年1月(*1)
  ロナルド・レーガン、大統領に就任
  カーター政権初期のデタント政策はソ連の軍拡とその勢力拡大を招いたとみなし、当初からソ連の膨張政策を阻止するため軍事力強化を中心とした対ソ優位政策を打ち出す。
  米軍はソ連軍との交戦を仮定して訓練・装備。欧州ではWTO(ワルシャワ条約機構)との全面戦争に備えて防衛体制をとる。

1981年2月(*1)
  レーガン政権、82〜86年度にかけての5年間に総額1,400億ドルに上る国防費増額を提案。
  「対ソ抑止力が崩れた場合にも、なお生き残るだけの軍事力を保有する」必要性を訴え、5年間に平均7%の国防費増大が望ましいと試算。この結果、その後5ヵ年間の国防支出は合計1兆5、000億ドルに到達。82年度分として、総額200億ドルを越す史上最高の国防予算を提出し議会で可決。

1981年10月(*1)
  戦略核戦力増強計画を発表。MXミサイル100基配備、トライデント型原子力潜水艦の建造、トライデント2型SLBMの開発、核弾頭数の大幅増加、B-1爆撃機やステルス爆撃機の開発等を行う。
  長期核戦争に生き残ることを目標に指揮通信能力の脆弱性を改善し、カーター政権で中止されたB-1爆撃機や中性子爆弾開発を復活。

1981年10月(*1)
  緊急展開部隊(RDF: Rapid Deployment Force)、緊急展開統合任務部隊(RDJTF: Rapid Deployment Joint Task Force)となり、統合参謀本部(JCS)を通じて、国家指揮機関(NCA)直属となる。

1981年11月(*1)
  ソ連がSS20を放棄すれば西側のユーロミサイルの配備を中止するとする「ゼロ・オプション」を提案。同月、中距離核ミサイル(INF: Intermediate-range Nuclear Force)交渉の開始。

1982年2月(*1)
  通常戦略に高い優先順位を置き、それまでの「1と2分の1戦略」から3大戦争を遂行する「多正面柔軟対応戦略」への意向を発表。
  ワインバーガー国防長官、『84年国防報告』で、従来の短期戦を前提とした「1と2/1戦略」から多くの戦線で最終戦を戦い抜くための多正面柔軟対応戦略へ発展的に移行すると発表。

1982年6月15日(*1)
  カールリッチ国防副長官、下院軍事委員会において、当面3大戦争を遂行できる軍事力整備を目標とすると述べる。

1982年7月(*1)
  国家宇宙計画を発表。

1982年2月8日(*1)
  海軍戦略の重視
  ジョン・レーマン海軍長官
  『83年度軍事態勢報告』で、ソ連の西太平洋配備の艦隊は常時攻撃可能な態勢にあり、第7艦隊をNATO防衛の予備艦隊とする戦略はとれないとして、スウィング戦略の当分の放棄を表明。1982年2月8日の83年度軍事態勢報告で、海軍戦略の基本と建艦5ヵ年計画を発表し、90年初めまでに600隻海軍を建設し、主要海洋における海軍力の優位回復を強調。

1982年(*1)
  ソ連海空戦力増強に呼応して、83年最新の原子力空母カールビンソンと戦艦ニュージャージーを太平洋へ配備する等、北東アジアと西太平洋方面強化へ移行。

1982年(*1)
  レーガン大統領、ユーレカ大学の演説
  これまでの軍縮・軍備管理交渉である戦略兵器制限交渉(SALT: Strategic Arms Limitation Talks)から大陸間弾道弾(ICBM: Inter-Continental Ballistic Missile)の大幅削減をめざす戦略兵器削減交渉(START: Strategic Arms Reduction Talks)の交渉の開始をソ連に呼びかけ。

1982年6月(*1)
  ジュネーブでSTART交渉開始。

1983年1月(*1)
  ワインバーガー国防長官
  『84年度国防報告』
  米国の戦略は防衛的性格、抑止、平和の回復を基本3原則とする。補完実行するため集団防衛、前方展開、柔軟な戦力構成を基本に対応する。
  陸空戦力は欧州、韓国と日本に、空母機動部隊と両用戦力は西太平洋、地中海およびインド洋に前方展開させ、有事の際には米軍戦力は同盟国と連合、投入。
  海軍力は柔軟に運用し、スウィング戦略に代わって「柔軟作戦」を採用。
 柔軟作戦
 地中海と太平洋の空母機動部隊の配備は従来どおり。
  インド洋の1・5空母群配備を1個機動部隊に削減。他に2個空母群を全世界的規模で訓練しつつ移動。
  空母群の行動の少なかったカリブ海、日本海、北西太平洋海域にもプレゼンスさせ、部隊の行動が事前に予知され難くするとともに、紛争発生地域への進出を容易にするため、兵力運用に柔軟性をもたせる。

1983年1月(*1)
  緊急展開統合任務部隊(RDJTF: Rapid Deployment Joint Task Force)、南西アジアを対象とする統合軍に昇格。
  司令官は米中央最高指揮官(CINCCENT)となる。
  司令部は統一南西アジア中央司令部(CENTCOM)と改称。
  フロリダ州マクディル空軍基地内に設置。
  守備範囲は、東はパキスタンから西はエジプトに至るイラン、イラク、ペルシャ湾岸地域諸国、アフリカの角など19カ国。
  『84年度国防報告』
  RDFは南西アジアヘのソ連の侵略を抑止し、同地域の米国の利益を守る。
  第三世界での低強度紛争(LIC: Low Intensity Conflict)への介入能力の向上をめざし、あらゆる分野で対ソ優位にたつような軍拡路線を敷く。
  第三世界地域へのソ連の影響力増大に歯止めをかけ、欧州での侵略を抑止。
  アフガニスタン、アンゴラ、カンボジア、リビア、ニカラグアなどの第三世界での紛争に対する米国の関与は、親ソ政権の転覆をもくろむ反共ゲリラに対して隠密裏に援助。

 シュルツ国防長官
  レーガン・ドクトリンの究極の目的は、第三世界でのソ進の「代理」を打倒し、世界的な「力関係」を米国に有利なように変更することだった。

1983年3月(*1)
  ソ連の核ミサイルを宇宙空問で撃破する「戦略防衛構想(SDI: Strategic Defense Initiative)」の研究着手を命じる。
  宇宙兵器分野でも米国の軍事力優位の確立を目的としたSDI計画を貫徹は、抑止戦略の転換と同時にソ連とのさらなる軍拡競争を意味。
  レーガン政権第1期の国防費は1兆ドルを超える。
  キャスパー・ワインバーガー国防長官、87年の国防報告
  米国の国防政策は一貫して侵略の抑止戦略を基本として、強力な力を背景とした抑止力の維持が国防政策の要であることを発表。
  今後とも抑止力を効果的なものとするため、残存性、信頼性、明確性、安全性の観点から、

核抑止力とSDI、
通常戦力、
軍備管理、
競争の戦略
  の4本柱を推進することを発表。

1983年9月(*1)
  ソ連の戦闘機による民間の大韓航空機撃墜事件

1983年11月(*1)
  英国への巡航ミサイルの配備を手始めにユーロミサイルの欧州配備が開始。
  INF交渉とSTART交渉、打ち切り。

1983年11月(*1)
  ペルシャ湾配備の駆逐艦(ラサール)へ前進洋上司令部を設置。
  ラサール司令部は要員20名で、地域内友好国および米軍との連絡、演習計画と支援、安全保障援助計画遂行の支援などを担当。

1984年(*1)
  ソ連、オホーツク海、カムチャッカ方面への新たな兵力展開。84年以後のソ連の水上艦艇は毎年3.5隻、4万トン平均で増え続ける。
  空母ノボロシスク配備。

1984年(*1)
  米国、ソ連海軍の著しい増強と進出に対して、第7艦隊の戦力と在日米軍海軍基地を拡充強化。
  横須賀に駆逐艦オーデンドーフを、佐世保に潜水艦ダーターを配備し、佐世保の米海軍艦船修理部を復活。

1985年1月(*1)
  レーガン政権、二期目に入る。
  ソ連、チェルネンコ書記長が急死。

1985年3月(*1)
  ミハエル・ゴルバチョフ書記長に就任

1985年11月(*1)
 米ソ首脳会談。

1985年12月(*1)
  レーガン大統領、ゴルバチョフのソ連書記長就任で米ソ間にデタントの兆しを見る。
  「85年均衡予算・緊急赤字抑制法(グラム・ラドマン・ホーリング法)」(85年12月)、「国防調達改善法」や「国防総省改編法」など一連の立法を行い、国防費削減と効率的な運用を実施。

1985年(*1)
  ソ連、原子カミサイル巡洋艦フルンゼを配備。

1985年(*1)
  在日米軍、ドック型揚陸艦デビュークと潜水艦バーベルを配備。

1986年1月(*1)
  ワトキンズ米海軍作戦部長論文『海上戦略』
  米国の新たな海上戦略の確立と600隻海軍の早期完成の必要性を打ち出す。

1986年2月(*1)
  ワトキンズ米海軍作戦部長、米下院で、ソ連が戦争を仕掛けてきたら第7艦隊はオホーツク海のソ連の潜水艦(SSN)を先制攻撃すると証言。

1986年2月(*1)
  レーマン海軍長官
  『87年度米海軍態勢報告』を発表。
  北太平洋重視の戦略体制へ移行する海上戦略重視の姿勢を強調。

1986年6月(*1)
  ソロモン米国務省政策企画局長、米海軍大学で、欧州でソ連と戦争となったら、対ソ戦略上、アジアで第2戦線を開く用意がなければならないとする「第2戦線論」を打ち出す。

1986年7月(*1)
  ゴルバチョフ書記長、ウラジオストーク演説
  アジアでの兵力と通常兵力の削減を提案。さらにアフガニスタンからの6個連隊を撤退表明。

 頂上レベルでの雪解けムードと局地的緊張。

1986年10月(*1)
  レイキャビックでのレーガン・ゴルバチョフ首脳会談。INF削減交渉が進展。

1986年10月(*1)
  2010年までを見越した長期安全保障戦略の再構築を米大統領長期統合委員会に命じる。

1986年11月(*1)
  米国、東太平洋担当の第3艦隊が第7艦隊担当の西太平洋方面まで行動できるようにする担当海域の変更と、ハワイの陸上にあった第3艦隊司令部をグロティウスの旗艦に移し、北太平洋海域を主に行動できる体制に移行。

1986年(*1)
  ソ連、ミサイル駆逐艦ウダロイ級とソブレメンヌイ級を配備。

1986年(*1)
  在日米軍、戦車揚陸艦サンバーディノを配備。

1986年(*1)
  「ゴールドウォーター・ニコラス国防組織再編法」制定
  1984年のグレナダ侵攻を教訓に立法化。陸海空軍および海兵隊の「統合」の重変性の強調。統合参謀本部を中心に概念、任務、運用、実験の始まり。

1987年12月(*1)
  レーガン・ゴルバチョフ首脳、3度目の会談。
  INF全廃条約が調印。

1987年(*1)
  在日米軍、海難救助艦ビューフォートを配備

1988年1月(*1)
  米大統領長期統合委員会『選択的抑止』を発表。
  『選択的抑止』は、冷戦後を視野にいれた米国の長期国家戦略として国防政策の見直しを求めた初めての公式検討文書。
  従来の「ソ連封じ込め」戦略を維持しつつ、日本、中国といった将来の新たな軍事大国の出現をも念頭に置いた「多様な危機に選択的に対応する」ことを新しい戦略として打ち出す。
  日本と中国の軍事大国化
  軍事技術の急激な近代化
  高度兵器の世界的拡散
  第三世界での低強度紛争(LIC: Low Intensity Conflict)

1988年1月 レーガン大統領(*11)
「将来的には、戦略防衛構想は、……戦争抑止力を高めるであろう。核防御能力を高めていれば、ソ連が核攻撃を企てたとしても、先制第一撃で軍事目的を達成するために必要な戦力はどの程度なのか、その計算が困難になるからだ」
1989年5月(*1)
  ゴルバチョフ書記長、中国訪問時
  「今後2ヵ年で兵力12万人、師団12個、航空連隊11個、艦艇16隻の一方的戦力削減をする」と発表。
  極東ソ進軍(陸海空)の量的縮小。縮小は旧式装備を中心に行われ、その一方で近代兵器の配備が高いペースで行われる。

1989年2月(*1)
  ソ連軍がアフガニスタンから完全撤退。

1989年5月(*1)
  ハンガリー、オーストリア国境の鉄条網が撤去。

1989年5月(*1)
  ブッシュ大統領、「NSD23(国家安全保障指令第23号)」に基づき、テキサスA&M大学で「封じ込め政策を超えて動くときである」と、対ソ「封じ込め戦略」を放棄し、事実上の冷戦の終焉を宣言。

1989年6月(*1)
  ポーランドで自由選挙が行われ、「連帯」が勝利し、7月、ゴルバチョフ大統領はブレジネフ・ドクトリンを否定。

1989年10月(*1)
  ハンガリーで複数政党制が採択され、東ドイツでホーネッカー政権が退陣。

1989年11月(*1)
  「ベルリンの壁」、除去。
  チェコスロバキアでは共産党幹部が退陣。
  ブルガリアではジコフが退陣。

1989年12月(*1)
  ルーマニアでチャウシェスク政権、瓦解。
  米ソ関係、新時代へと突入。

1989年12月(*1)
  米ソ首脳会談がマルタで開催。
  「冷戦終了」を宣言。STARTと欧州通常戦力(CFE: Conventional Forces in Europe)交渉の90年代合意と東欧の民主化とドイツの再統一に合意。

1989年12月(*1)
  ロバート・マクナマラとローレンス・コーブ元国防長官
  「軍事支出を5年間で半減しても安全である」と上院予算委員会で証言。
  ジム・セザール上院予算委員会議長、ジョン・ワーナー上院議員もそれと同様な見解を述べる。
  国防削減反対派は、唯一、リチャード・チェイニー国防長官のみ。国防力の現状維持を訴える。
  「ソ連と戦い勝利する」ために存在していた国防総省と軍産複合体は、冷戦が終了によりレゾンデートルが脅かされる。
  米軍指導部は計り知れない衝撃を受け、深刻な「アイデンティティ・クライシス」に陥る。
  「平和の配当」を求める国民の声が強まり、国防予算削減はやむなしという雰囲気が一気に醸成。
  コリン・パウエル統合参謀本部議長、統合参謀本部J-5(戦略計画および政策)部会のジョージ・バトラー将軍に、米国の安全を脅かすソ連以外の脅威に焦点を当てて、大規模な軍備の温存を考慮した新たな軍事体制のあり方の研究を命じる。

1990年1月(*1)
  ソ連軍、カムラン湾からMIG-23、TU-16の撤退を完了。

1990年3月(*1)

サム・ナン上院議員
「予算策定の根拠となる国家的安全保障に対する全般的脅威の基本的評価は過去のもので、上院の予算案承認のために国防総省は将来の安全保障上のリスクについて、より現実的な評価をして“脅威の空白”を埋めねばならない」と警告。

それ以降、軍の立案者達は具体的な“敵”を考える必要に迫られる。

1990年3月(*1)
  米国安全保障戦略(Nationa1 Security Strategy: NSS1990)発表。
  米国の「脅威」を「ソ連」から「第三世界」へと転換。 NSS1990は、米国の目標は「封じ込め」を乗り越え、ソ連を建設的パートナーとして国際社会システムに組み入れることにあるとし、米国が軍事力を行使するのはソ連ではなく第三世界を対象とする。米国の軍事戦略は「全面核戦争型」から「地域通常戦争型」へと重心を移し、米軍は「より小規模」の軍事力となるが、軍事拠点への前方展開戦力は維持され、同時に「より地球規模」でのパワー・プロジェクションが可能な機動性を持つ編成となり、足らないところは同盟国の分担により補われる。

1990年5月(*1)
  地域的防衛戦略
  パウエル統合参謀本部議長からチェイニー国防長官に提出
  「ソ連から第三世界への脅威の転換」をより明確化。

1990年4月(*1)
  東アジア戦略構想I(EASI-I)
  『東アジア戦略構想(East Asia Strategic Initiative: EASI-I)』が公表。
  アジア太平洋地域における米国の新たな戦略的枠組みであり、アジアにおける同盟国を地域の安定のためにどのように参画させるか、また、東アジアにおける米軍のプレゼンスをいかに削減し再構築しうるかについての報告書。
  ソ連の脅威の減退、アジアのナショナリズム高揚による米軍プレゼンスヘの反発拡大、脅威認識の後退と財政赤字拡大に対する懸念の増大という国民意識の変化を認識。極東ロシアと北朝鮮という2つの冷戦型脅威が残存。「地域の安定の維持」が米国の国益。

米軍を支える3つの柱、「前方展開兵力」、「海外基地」「2国間安全保障体制」。
米軍のアクセス拡大、「ソ連は、カムラン湾から撤退し東南アジアの軍事姿勢は和らいだ」
米軍は日本まで後退。アジア太平洋の同盟国と友好国との関係を深め、海軍の寄港回数の増加で補う。

1990年
  東西ドイツ、統一。

1990年6月(*1)
  ワシントンの米ソ首脳会談ですでに基本合意が成立していたSTARTIが91年7月、モスクワで調印。

1990年8月2日(*1)
  イラク、クウェートに侵攻。

  同日、地域的防衛戦略、ブッシュ大統領によりアスペン演説で発表。
  「ソ連から第三世界への脅威の転換」、フセインのクウェート侵攻により実証。

1990年8月6日(*1)

ブッシュ大統領
「イラクの侵略を排除し、クウェートの独立と平和を回復することは冷戦後の新国際秩序構築にとり最初の試金石となる」

 米国のサウジアラビア派兵を決定。
 国連で即時無条件撤退を求める安全保障理事会の決議がなされた後、対イラク全面経済制裁決議が成立。

1990年8月13日(*1)
  米国がイラクの海上封鎖を開始。
  イラクとクウェートの資産を凍結して貿易を停止したうえ、部隊と装備を湾岸地区に展開すると同時に、国連を中心としてイラク包囲網をつくりあげる。

1990年11月29日(*1)
  イラクの撤退期限を1991年1月15日とする最後通告。

1991年1月17日(*1)
  湾岸戦争、勃発。

1991年1月24日(*1)
  湾岸戦争、地上戦に突入。

1991年1月28日(*1)
  多国籍軍の圧倒的勝利、湾岸戦争の停戦。

1991年7月(*1)
  フィリピンのクラーク空軍基地撤退

1991年7月(*1)
  ワルシャワ条約機構(WTO)、解体。
  コメコン(経済相互援助会議)、解体。

1991年8月(*1)
  ソ連で保守派によるクーデター未遂。
  復権したゴルバチョフ、共産党とKGB(国家保安委員会)を解体。

1991年9月(*1)
  ソ連共和国のリトアニア、ラトビア、エストニアが独立し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどがこれに続く。

1991年12月(*1)
  グルジアを除く11共和国の「独立国家共同体」(CIS: Commonwealth of Independent States)が成立、ソ連崩壊。

1992年7月(*1)
  東アジア戦略構想(East Asia Strategic Initiative: EASI-II)
  アジア太平洋での米軍プレゼンスは米国の地球規模での軍事態勢にとり不可欠な要素の一つ。
  当該地域での前方展開戦力の役割を
   危機に対して急速かつ迅速に対応できる能力を確実なものとする、
   当該地域の安定に貢献する、
   当該地域に覇権が芽生えることを抑制する、
   当該地域でのさまざまな重大紛争に対して影響力を行使できる米国の能力を高める、
   米国の戦力規模縮小で生じる戦力を効率性で補う、
   太平洋の広さによって生じる時間と距離の不利な条件を克服する、
   米国の友好国、同盟国、潜在敵国のすべてに対して、当該地域全体の安全保障に米国が利害関係を有していることを明確かつ目に見える形で示す。

「米海軍の各国への寄港回数を増やし、太平洋全域の艦船の修理・物資補給施設の使用は拡大する」

1992年11月(*1)
  フィリピンのスービック海軍基地撤退。

1993年1月(*1)
  地域的防衛戦略、『地域的防衛戦略-90年代の国防戦略』として正式に公表。
  ソ連の脅威から大規模地域紛争への対処。米軍は公式に冷戦後の国防戦略を策定する基礎を得る。
  12陸軍師団、12空母戦闘群、15戦術戦闘機航空団、3海兵師団、さらに戦力投入部隊として海兵隊の水陸両用戦闘群、陸軍の空挺部隊、その他戦場に米国の戦力を役人するための機動部隊を設置。

地球規模の脅威と、注目すべき敵対的同盟は存在しなくなったとして「ソ遠封じ込め」を「地域的防衛戦略」に転換。「ソ遠の脅威の抑止」から「地域紛争の未然防止およびこれが発生した場合の紛争処理」へと戦略を移し、従来の西側同盟機構を「平和のゾーン」と位置づけ、これを東欧や旧ソ遠国家群などに拡大していく。
その戦略転換に基づき約100万人を削減。朝鮮半島以来の最低規模、GNP比の国防支出割合は真珠湾攻撃以来の最低水準。
国防費削減で低下した危機対処能力を補うために防衛調整システムを強化、拡大する。地域的な防衛戦略の強化、集団防衛システムにより同盟・友好国と協力して米国の安全保障上の利益を擁護し、防衛費と不必要な軍事競争を最小限に押さえる。日本に対してより大きな責任を担うように促し、米国の前方展開戦略への財政支援をより多く負担するよう求め続けるべきであるとし、海上防衛についての日本の貢献を求める。
1993年3月(*1)
  ロード国務次官補、アジア太平洋重視の政策を述べる。上院外交委員会において
  「米国にとってアジア太平洋以上に重要な地域はない」
1993年9月(*1)
  『ボトム・アップ・レビュー(Bottom up Review: BUR)』
  欧州とアジア太平洋地域への前方展開兵力をそれぞれ10万人とする目安が策定。
  レス・アスピン下院軍事委員長(後の国防長官)は、ブッシュ政権の『地域的防衛戦略』はソ連の脅威の復活を念頭に置いたものであり、その戦力が膨大すぎるために、一層の削減が必要であると指摘。冷戦時代の戦力構成から差し引くのではなく、まず「新しい安全保障環境を定義したうえで、所要の戦力を下から積み上げる形で構築すべきである」と提案。アスピンは国防長官に就任した後、その考えに沿い「ボトム・アッブ(下から積み上げた)」の戦力規模をBURとして発表。
  湾岸戦争の「砂漠の嵐作戦」規模の戦争を1単位とした「2つの戦争の脅威」を基礎とする国防費の算定規準を新たに設けた。
  国防計画においては「脅威」に基づいて予算や軍隊の規模などが画定されるのでソ連の脅威に代わる規準が定められた意義は大きかった。
同時に2つの大規模地域紛争がほぼ同時に発生しても(イラクによるクウェート・サウジアラビア侵攻と北朝鮮による韓国侵攻をシナリオとする)それに対処し勝利する。

「ほぼ同時に起こる2つの紛争に勝利し得る兵力」
米国はアジア太平洋地域には10万人の兵力のプレゼンスを維持。
第1に、「脅威」の認識
  ・核兵器および大量破壊兵器による危機、
  ・地域的な危機、
  ・民主主義と自由への危機、
  ・経済的な危機
 の「4つの危機」
第2に、戦力規模をレーガン政権時のピークと比べて3分の2の約140万人の兵員規模に。
イラクによるクウェート・サウジアラビア侵攻と北朝鮮による韓国侵攻を想定した2つの大規模地域紛争(MRCs: Major Regional Conflicts)がほぼ同時に発生してもそれに対処し、勝利する。
第3に、米国の戦闘作戦を4段階に定め、各段階の合同戦闘作戦の遂行上の必要戦力を策定。
  地域紛争の抑止に失敗した場合の第1段階の目的は「侵略の早期停止」。紛争の初期段階においては米軍を緊急展開するまでの間、地上作戦部隊と特殊作戦部隊で守り、制空権と海洋権を握る。
  第2段階の目的は「戦域で米軍戦闘部隊を増強し、敵部隊を減殺する」。第1段階で侵略を停止させた後、敵地上軍を孤立・敗退させ、敵の航空・海洋戦力を打ち破り、補給物質を破壊し、敵後背地の軍事関連目標への攻撃を拡大する。
  第3段階は「敵の敗北」で、奪取された領土での敵地上軍との交戦、包囲、捕捉、壊滅である。
  第4段階は「戦争終結後の安定回復」であり、敵の敗北後に小規模の合同戦力が当該戦域にとどまる。

1994年3月(*1)
 「軍の任務と役割に関する委員会」(CORM)
 国防授権法の規定に基づいて国防総省から独立した「軍の任務と役割に関する委員会」(CORM)が設置。 CORMは、各軍間の任務と役割の見直しを行い、以後そのような検討を行う際の概念的な枠組みの構築を任務とする。

戦略策定段階の2つの問題。

予定外の緊急展開問題。1994年のソマリア、ハイチ、クウェートなどへ米軍部隊の予定外の緊急展開を行った際、必要な資金を訓練等の経費から転用、軍全体の即応性の低下が懸念。軍の規模の編小に反比例して任務が増えたため、技術的優位の維持と並んでBURでも重要視された即応性が低下するという深刻な問題。
国防予算削減問題。財政赤字削減に伴う国防予算削減から、作戦、訓練等経費と研究開発・調達経費をそれぞれ必要分を確保することが困難となった。その結果、国防総省は、各軍の任務と役割の見直しも含めて、一層の業務の効率化に迫られる。
1994年7月(*1)
  『関与と拡大の国家安全保障戦略』を公表。
  米軍の海外プレゼンスの概念が、
   ・恒常的に駐留する兵力、
   ・事前集積装備、前進配備や他国との合同演習、
   ・親善などを目的とする空港や港湾への一時的な訪問、
   ・軍の交流行事
 に拡大。

1994年(*1)
  『NPR1994』(1994年の核態勢報告)
  陸上(地中)、空中、海中に配備された戦略核抑止のトライアッド(3本柱)維持の必要性が再確認され、緊急前進配備可能な戦域・戦術核戦力による拡大抑止も同盟国を守るために維持されなければならないと報告。

1995年2月(*1)
  東アジア戦略報告I(EASR−I)
  ジョセフ・ナイ国防次官補
  『東アジア太平洋に対する米国安全保障戦略(East Asia Strategic Review: 以下、EASR-I)』、俗称「ナイ・イニシャチブ」
  「当該地域の安定と繁栄のためには、地政学的なバランスを提供し、不確実性に対する保障を与えるオネスト・ブローカー(正直な仲介者)として米軍の存在  が必要であり、そのために10万の既存の兵力をアジア太平洋からこれ以上削減しない」と当該地域へのコミットメントを表明。

当該地域における米国の不変的国益。
  ・安全の確保、
  ・経済の発展、
  ・自由、人権、民主主義の助長、
  ・同盟国、友好国との紐帯の強化。
同盟国との紐帯の緊密化(engagementの戦略)は、米国は当該地域の安全を維持するため、同盟国と友好国との間に米国が結んでいる6つの2国間関係(日米、米韓、米・豪・ニュージーランド、米比、米タイ、米・自由連合国家)を強化。
中、露、越との関係の拡大(enlargementの戦略)である。この3カ国のなかでも特に中国に対しては、敵視したり封じ込めたりすることはせず、各分野での慟きかけを行い、中国の国際社会への建設的な取り組みを支援し、防衛政策および軍事活動の透明度を高める。
新しい多国間安全保障の意義を推進させることである。 ASEAN地域フォーラム(ARF:ASEANRegiona1 Forum)のような多国間の安全保障に関する対話の場が将来重要な役割を果たすと考え、同盟国や友好国以外の諸国との関係も拡大させる。
地域の諸問題(北朝鮮、南沙諸島、台湾など)である。北朝鮮については、北朝鮮の核疑惑問題を解決するため日米韓中心の枠組みを重視する。北朝鮮を潜在的危機と捉えて、韓国への脅威は減少しておらず、今後とも韓国への米国の軍事的コミットメントを維持する。
大量破壊兵器拡散問題であるが、これは同盟国と友好国にとって脅威を与える問題である。したがって、その拡散を防止し、同時にその脅威へ対応する効率的な抑止すなわち戦域ミサイル防衛(TMD)システムを関発し、配備することが不可欠である。
 「日米関係は米国の太平洋安全保障政策とグローバルな戦略の基礎」であり、「日米同盟は米国のアジア安全保障政策の要(リンチ・ピン)である」と最重要視。

 「米国の前方展開兵力は、太平洋地域で適時に柔軟な世界規模の有事即応能力を保し」、と太平洋の前方展開兵力に「世界規模」の危機に対応する能力を期待。

アジア太平洋の前方展開兵力は、ハワイや西海岸から中東湾岸へ兵力を派遣でき芯体制を維持し、
域内の米軍基地や同盟国の基地および施設は中東地域への人員、艦船、航空機の移動を容易にし、
域内の同盟国は、戦闘部隊(オーストラリア)、海軍戦力や財政援助等を含むその他の支援(日本、韓国)を提供する。
 当該地域での前方展開の成功例として「砂漠の盾」と「砂漠の嵐」の両作戦の例を出し、その期間中、「アジアにおける米軍戦力がアジア地域の地域的な脅威への抑止力を提供できたので、ハワイ、カリフォルニア等に配備した戦力を中東に送り込めた」と評価。

 米軍のアクセスを認める友好国との諸協定の収要性を強調。

1995年3月(*1)
  国家軍事戦略1995
  ジョン・シャリカッシユヅィリ統合参謀本部議長が中心となり『国家軍事戦略1995』(A National Military Strategy: NMS1995)が統合参謀本部から発表。

「柔軟かつ選択的な地球規模の関与」の戦略思想を中心としてBURで定められた兵力を国家安全保障戦略に基づく行使。

 国家の軍事目的は、地域の協調や建設的な交流を通じて安定を促進し、信頼に足る抑止力と強大な戦争遂行能力による侵略の鎮圧。
 目標達成のため、「前方展開兵力」と「パワー・プロジェクション(兵力を特定地域へ役人する能力)」を特に重要な概念として掲げる。
 前方展開兵力は世界規模の多様な脅威に即応する能力を示し、米国の利益や同盟国を守るための目に見えるコミットメントの証として、安定を促進し紛争を 予防することに貢献すると説明。
  軍事的には、米軍の前方展開が、重要な軍事インフラを常時使用可能な即応態勢のもとに置き、危機に際して増援部隊を受け入れるのに死活的な基地機能や支援システムを維持する役割を果たしている。
 前方展開が冷戦後削減傾向にあるが、その役割は重要であり、パワー・プロジェクション能力を向上させる
  ・航空輸送能力、
  ・洋上と陸上における重量装備の事前集積、
  ・海上輸送能力、
  ・予備役の即応能力、
の4つの「戦略的機動性」を重点的に強化。

軍事戦略を遂行するうえでの3つの柱
  第1「平時における関与」、
  第2「抑止と戦争予防」、
  第3「撃破」(抑止が破れた場合)−を持つ前方展開兵力が重要な役割を果たす。

 第1「平時における関与」には、非戦闘活動として、軍事交流、人道救援、災害救助、平和維持活動などに前方展開中の兵力の一部が常時従事。
 第2「抑止と戦争予防」の面で冷戦後重要なものには核抑止があり、同盟国への拡大抑止もその任務として存在。
 第2「抑止と紛争予防」と第3「撃破」との間に、小規模紛争への緊急対処があるが、初期段階では、同盟国や洋上の前方展開兵力が「即応」する。
 その紛争が第3段階の大規模紛争(例えば、湾岸戦争)に発展した場合、米本土から投入される増援兵力を受け入れる「橋頭堡」となる。前方展開兵力が同盟国を支援しながら敵の侵略を食い止め、増援兵力のための基盤を作りつつ、米本土および他の戦誠に展開する陸海空軍の主力部隊を投入して前方展開兵力を増強。その際、米軍は、同盟国やその時の連携相手国との合同、「統合作戦」を行う。

 第1に同盟国との「合同作戦」を強調。米軍は「地域の同盟国と友好国と連携しながら戦う」と述べ、例えば、湾岸戦争、コソボ空爆、アフガニスタン攻撃のような大規模戦争を遂行する際には、「合同作戦」を行う機会が増える。パナマ侵攻(1983年)、グレナダ侵攻(89年)のような戦術攻撃や戦闘レベルでは単独行動を行う。
 第2に強調するのは、「統合戦闘能力」である。陸海空軍および海兵隊の統合戦闘能力向上のため、特に、
   ・航空輸送、海上輸送、装備の事前集積などの「戦略機動」、
   ・戦場監視、
   ・通信システム、
   ・火力
 の4点の強化を指摘。

1995年5月(*1)
  CORMは国防総省に「国防の指針(Direction of Defense)」を提出。
  統合作戦実施の円滑化、民間委託の拡大等による後方支援経費の削減と並んで、BURのような国防計画の見直しを4年毎に行い、4年間、この戦略に基づいて国防計画および予算編成を行うことで、事業の一層の効率化を図るべきであると提案。

1995年9月(*1)
  「軍隊の戦力構成見直し法(Military Force Structure Review Act of 1996)」が発効。
国防長官国から5月16日までに『4年毎の国防計画の見直し』(QDR: Quadrennial Defense Review)を米議会に提出。
QDRの作業は、CORMが「国|防の指針」で勧告した枠組みに従ってこれまで検討してきたことを、新たに制定された「軍隊の戦力見直し法」の下で実質的に継続。





 1.“三位一体”の戦争を忘れるな

 2.核による戦争抑止力を強めよ

 3.海外の核防壁を維持せよ

 4.通常兵器こそがカギである

 5.敵をおびえさせよ

 6.自国の力を錯覚するな

 7.技術の罠に陥るな

 8.軍隊は平和維持活動地域の周辺を固めよ

 9.軍事政策の方向性を設定せよ

10.何よりも、戦闘拡大能力の優位性を維持せよ

(*11)



1997年(*1)
  「4年毎の国防計画の見直し(1997年)」(QDR1997)
  CORM委員長であったホワイトが国防副長官としてQDR1997のとりまとめを行った。「戦力構成見直し法」に基づき、コーエン米国防長官は2015年までを見通した「国防戦略、戦力構成、軍の近代化計画等の要素についての包括的検討」を行い、QDRを97年5月に発表。
   兵力削減、
   2正面戦略の維持、
   アジア、欧州での前方展開兵力(各々10万人)維持、
   兵力近代化の継続
  などを盛り込んだBURを全般的にほぼ踏襲。
 2015年までの安全保障環境が米国に圧倒的に優位であるとの認識に立ち、政治・経済・軍事的に世界に関与し続ける
   「地域的危機」
   「大量破壊兵器(WMD)と関連技術の拡散」
   「テロや麻薬」
   「米本土への危機」
  の4つのタイプの「脅威」を設定。
  第1に「防衛戦略」に関しては、
   米国は不確実性に対応する軍の体制を整備し世界的規縦で関与を行い2正面戦略を維持する、
   地域的脅威は現在の「予測できない脅威」(イラン、イラク、北朝鮮)と2015年以降の「潜在的脅威」(ロシア、中国)があり、
   戦略環境の整備(shaping)、あらゆる脅威への対処(responding)、将来の危機に対する準備(preparing)が必要とされ、
   戦略環境整備のためWMDの拡散防止、民主主義と市場経済の拡大、軍事交流促進、
   脅威への対処のための抑止、小規模紛争(SSC)作戦遂行、大規模戦域戦争(MTW: Major Theater War)の勝利、
   準備のために軍の近代化、軍事革命(RMA: Revolution in Military Affairs)、業務革命の活用、技術優位の維特
  等である。
  第2に「選択すべき防衛体制」は、
   現在の脅威と将来の脅威への対応について「現在と不確実な将来のバランスをとる路線」
   BURと同様、2正面戦略(イラクと北朝鮮などの地域侵略仮想敵国への戦略。
   中東と朝鮮半島で生起する大規模紛争に同時に対処し勝利を収めるWin-Win Strategyのこと)を遂行するために必要な米軍能力の維持。 
 米国の国防費が削減され、米国国防予算は95年度の4,000億ドルから97年度の2,500億ドルまで削減。
  一方では兵力を縮小しながら、他方では作戦能力を維持。クリントン大統領の至上命題が国内政策を対外政策よりも優先させたために国防費が犠牲になったことに起因。冷戦終結時と比べて36%の兵力レベルを落とす一方、世界情勢は朝鮮半島など不安定要因があり、米国の力を低下させるわけにはいかず、その両方を満足させるための工夫や優先的選択の結果がQDRの骨子となった。
   RMAで補い従来の戦力を維持。
   即応体制を維持する機動力、打撃力の達成・維持。
   次期主力戦闘機の配備、NMDの開発、海外兵力の維持。
  2正面戦略は、中東と朝鮮半島といった離れた2地域で、はぽ同時に大規模な紛争が起こってもこれに対応し、勝利できる能力を維持しようという米国のBURの戦略を踏襲。
  米議会は9人の元政府高官、退役将官、民間有識者により構成される「国防要員会(NDP: Nationa1 Defense Panel)」を設置。NDPは、軍需産業界の大物フィリップ・オウディーンを委員長に、陸海空軍海兵隊それぞれから退役大将1名ずつ、さらにリチャード・アーミテイジ元国防次官補、アンドリュー・クレパノヴィッチ戦略予算評価センター所長ら代表的な国防改革論者を集めて作られた。QDR1997の結論を代替案や個別的評価で批判。特に、2正面戦略の妥当性に疑問が提起。NDPは、異なった将来展望を基礎に複数の代替的防衛コンセプトや戦力構造について助言を提示するのと同時に、米国が直面する長期的な安全保障の課題について検討。

1997年12月(*1)
  NDP、『変貌する防衛-21世紀の国家安全保障』と題する報告書を発表。
  QDR1997が2010年までの安全保障環境に対する米国の戦略を想定していたのに対し、NDP報告では2010年から2020年までの安全保障環境とそれに対応する戦略を提言。21世紀の安全保障の課題は冷戦期とは質的・量的に異なるとし、2020年までに米国の国家安全保障機構、軍事戦略、国防体制の根本的変革を求めた。
  2020年の安全保障環境のなかで米国が直面する課題
   米国の介入コストを高め、可能なら阻止することを狙いとした米軍と一般市民に多くの死傷を強いる軍事作戦、
   前方展開基地や港湾、装備の事前集積所を無力化し、また米国と同盟国の市民に多くの死傷を強いることを狙った、大量破壊兵器、弾道ミサイル、巡航ミサイルの使用、
   米国の情報システムに対する攻撃、
   主要海峡、沿岸への大量の機雷敷設、ミサイル攻撃による米国の海上優勢への挑戦、
   超音速兵器と大量の対空システムによる米国の航空優勢への挑戦、
   米国の軍事作戦を支える物心両面の支援組織に対する攻撃、
   米国と同盟国の意志をくじき、死活的な施設、インフラ、市民を防護するために資源を分散させることを狙った、テロ戦術の活用
   情報技術進展に伴う軍事戦略、運用構想、戦術などの変化が重要な役割をになうなかで、将来起こる可能性が高い非対称的な脅威を含む紛争などで軍事的優位を確保するため、情報技術分野における優位と先端技術の活用を重視するよう提言。
  BURが想定する湾岸戦争モデルとは異なる非対称的な脅威が2020年の安全保障環境において蓋然性の高いものであるとすれば、2正面戦略の妥当性について、NDP報告では短期的には現在の方針を維持。
  2010〜20年という長期的視点からは、米国が今後必要とする能力を整備していくうえで特に財政および人的資源の面から見た場合、2正面戦略は急速に抑制要因になりつつあると指摘。
  国防資源の配分の優先順位を、2正面戦略の同時生起という蓋然性の低い計画から長期的な安全保障環境への対処に移すべきことを提言。

1998年11月(*1)
  米国防省、『東アジア戦略報告(EASR-II)』を米議会に提出。
  海外のプレゼンスの維持は国家安全保障の要石であり、「形成、対処、準備」という米国軍事政策の鍵。
  前方展開は地域情勢の平和と安全を促進しているとしがなら、それ以外の外交関係がもたらす米国の「関与」をすべて含めた「包括的関与」、すなわち「プレゼンス・プラス」として述べた。
  米軍のアジアでの軍事プレゼンス
   抑止機能、
   安全保障環境形成、
   即応能力、
   同盟国・友好国との「連合作戦」の強化
   駐留経費負担の軽減
  アジア太平洋地域への米軍の「10万人」駐留という数字が一人歩きすることをおそれ、「軍事能力」という新たな戦力評価基準を導入。技術革新や地域の戦略環境の変化などにより兵員数の増減がありうることを想定、朝鮮半島の和平プロセスや中国の強大化など不確定要素も加味し、柔軟に対応。
  米軍プレゼンスによる軍事能力を強化する要因
   日米防衛指針等2国間防衛協定の強化、
   同盟国との共同訓練の高度化、
   米軍の技術革新等

1999年7月〜8月(*10)
  「アジア2025」
  アンドリュー・マーシャル 国防総省戦力相対評価室室長 
  アジアには今後、非連続的な構造的変化が、しかも急速にやってくる可能性がある。いわゆる破局的(カタストロフィ)な変化の可能性がある。
  パキスタン、インドネシアの両国が国家崩壊の危機に直面するかもしれない。
  中国が近代化に成功し、強い国になった場合、彼らのいう「戦略国境論」を実践に移す。日本に日米安保破棄、中国の属国化(衛星国化)を迫る。
  中国が近代化に失敗した場合、経済停滞から20世紀前半の中国大陸のように軍閥割拠時代がくる。そして軍事的冒険主義に走り、米・露と衝突する。
  核兵器を保有する大国としてインドが台頭する。アメリカはインドとの関係強化を模索するべきだ。
  アメリカはある程度の核拡散を黙認せざるを得ないかもしれない。台湾の核武装もありうるかもしれない。
  中国とインドが接近し、アジアにおけるアメリカの力が衰退した場合は、中国、インドによるアジア分割支配体制が出現するかもしれない。
  この場合、中国がマラッカ海峡の東、インドがマラッカ海峡の西を自らの勢力圏とするだろう。
  中国は強国となっても弱体化しても、いずれにしろ米国の競争相手となる。
  日本の未来への選択肢は三つあり、しかもこの三つしかない。
   ・アメリカとの同盟関係の強化
   ・アメリカとの同盟関係を解消し、孤立した軍事大国化の道を歩む
   ・中国の覇権を受容し、その属国化する

1999年10月(*1)
  統合軍司令部がノートフォークの大西洋軍司令部に併設。各戦域軍司令官に対して将来の戦闘で鍵を握る統合作戦分野での研究、実験、提案を行う。

2001年9月11日(*1)
  アメリカ同時多発テロ
  米国は脅威の対象を「ならず者国家」から「テロ」へと位置づけ。

2001年10月(*1)
  「4年毎の国防計画の見直し」(QDR2001)で脅威坊盤戦略(Threat -Based Strategy)と決別。
  新たに能力基盤戦略(Capability-Based Strategy)を採用。冷戦後の国防計画の基礎を根底から覆す。
  米国、「テロ対応」を最重要目標に掲げる。軍事革命(RMA)の発展。世界規模での米軍の前方展開兵力の再編が開始。
  ラムズフェルド国防長官が主導権をとり冷戦時代に整備された「重厚長大型」の拠点を、小回りが利く「ハイテク・機動力型」に転換。
  さらに、QDR2001では「ベンガル湾から日本へ至る束アジア沿海地域」が特に注意すべき地域であると、アジア重視を鮮明に。





 われわれが歴史を概観したのは、各時代の戦争の原理を導き出すためではない。ただ単に、各時代にはその時代特有の戦争があり、その時代特有の制約条件があり、その時代特有の環境があったことを証明するためである。……したがって、各時代の現象は、その時代における特殊性を考慮しなければならない

――カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』



 ○伝統的戦略理論

日本は海洋覇権を握る米英のアングロサクソン民族の海洋国との同盟で繁栄、そして大陸国との同盟で荒廃を招いた。

アメリカの海洋戦略家アルフレッド・マハン『歴史に及ぼした海軍の影響力:1660-1783年』1890年刊行
「国家繁栄の基礎は貿易であり、そのために強力な海軍と海軍基地を確立することが重要」
「商船隊や漁船隊、それを擁護する海軍と、その活動を支える港や造船所などをシー・パワー(海上権力)と規定し、シー・パワーが国家に繁栄と富をもたらし、世界の歴史をコントロールする」
「第1に海の支配力の歴史は通商的利害の衝突の歴史であり、第2に国益にかかわる問題は仲裁裁判では解決できず、必要ならば海車力を含む武力に訴えても擁護されねばならないものである」
遠く公海に出動し「敵を攻撃し以て敵の死活的権益に打撃を加えうる」に足る強力な海軍を建設せねばならない」 
「海の支配こそが国家盛衰の最も有力な要素であり、米国の国家戦略は、大海軍を建造して全世界に通商を拡大することである」
「カリブ海およびアジアの未開拓の市場が提供する果実を刈り獲るためには、海洋を支配することのできる強力な海軍の艦隊が必要である」

海洋国家
  海洋という天然の要害。第三国の領土を経由することなく比較的自由に外国と交易、必要な物資や文化を導入。
  開放的で自由主義的傾向。議会民主主義。
  船を操るには特別の知識と体験を必要とするところから、兵制は志願兵制度を取り海軍を重視。
  海上交通路を維持し制海権を握っていれば、貿易によって国家の発展生存に必要な資源を取得可能。
  国際関係は相互に立場を認め、平等視する水平的な関係が多い。
  安価大量の輸送力であり、海洋の存在する所は、どこへでも自由に安価に多量の物資を運搬可能。
  国際貿易や国際分業化の促進。相互依存関係。
  世界的な協調体制や同盟関係を構築。
  古来「海洋国は同盟国とともに戦う」といわれてきた。

大陸国家
  常に国境を挟んで隣国と臨戦態勢を維持し、侵略を受ければ長大な国境線に、多量の兵員を動員して防衛する必要。
  専制的で閉鎖的。兵制は概して徴兵制度を取る国が多く、陸軍重視。
  有事に大量動員する必要性から、その制度は中央集権的で軍国主義的。
  外国に対する狭疑心が強く、近隣諸国への不信感からワルシャワ体制のように、隣国を影響下に隷属させる垂直的な国際関係となることが多く、対等平等な国際関係や同盟関係は少ない

国家と大陸国家との価値観・政治体制などの比較

 海洋国家  大陸国家
代表的国家  米・英・NATO ロシア・中国(仏・独)
政冶体制  開放的で民主主義   閉鎖的で専制主義
国防体制  海軍重視(専門化・志願兵) 陸軍重視(大量動員・徴兵)
世界観 共存共栄 華夷体制
国際関係観 平等な国際関係 隷属的国際関係
貿易・資源観 自由競争 国家管理・計画経済


レーベンスラウム思想
  第二次大戦前のナチス・ドイツ
  「国家は生きた組織体であり、必要なエネルギーを与え続けなければ死滅する。国家が生存発展に必要な資源を支配下に入れるのは、成長する国家の正当な権利である」という、ハウスフォハーの「生存圈(レーベンスラウムーLebensraum)」思想によりポーランドなどを占領し、ソ連に侵入。
  現在の中国もレーベンスラウムの思想に極めて酷似した理論を適用。
  チベットを併合し新疆ウイグルを支配下に置き、南沙群島を占領し台湾の併合、尖閣諸島の領有を主張するなど、大清帝国の版図を再現する姿勢を示す。

マッキンダー
  ヨーロッパ中央を支配すれば世界を支配することができるとのハートランド理論
  内側三日月地帯(クレセント):ユーラシア大陸とその沿岸部(スパイクスマンはリムランドと呼称)
  外側三日月地帯(クレセント):ユーラシア大陸の島嶼地帯



「ソ連封じ込め政策」
安価大量の物資を運び得る海洋国家、経済的には有無相通ずる国際分業と、国際的自由貿易による相互依存関係で結び付く、効率的な海洋国家群に対し、大陸国家ソ連は、その地理的制約や専制的大陸的な国家体制が災いして経済的に破綻。ソ連や東欧圏の崩壊はデモクラシー国家の勝利であり、経済的には自由経済体制の勝利であり、地政学的には海洋国家の大陸国家に対する勝利。



○日本の弱点

#01 一国家一言語一民族のため情報力に欠け、戦略的思考が苦手である。

#02 島国という地理的環境から、蒙古襲来以来、外国から侵略された体験がなく、明治に入るまで他国と軍事同盟を締結し、勢力均衡を図るという同盟政策を必要としてこなかったため、経験上からも理論上からも同盟政策について西欧諸国と比べて遅れている。



汪兆銘
「日本人の一番わるいところは、「上下不貫徹、前後不接連、左右不連携」、こんな態勢ではなにもできない。」

チャンドラ・ボーズ
「日本という国が偉いことは認める。良い兵隊がいるし、いい技術者もいて、万事結構である。ただし日本には、良き政治家がいない。これは致命的かもしれぬ」

スカルノ
「私は占領地域における日本のやり方を知っている。それでもいいさ。私は彼ら(日本軍)がわが人民のためになにができるか、を冷静に考えなくてはならん。われわれは日本人に感謝しなけりゃならんよ。われわれは彼らを利用できるんだ」

張景恵
「日本人ほど便利な民族はいないではないか。権威さえ与えておけば、安月給で夜中まで働く」
「日本の軍隊は世界一強いが、日本の軍人は戦争の意義を知らない。戦争は、国と国との取りひきのひとつの手段に過ぎないものだ。だから敗けいくさを五分か七分で食い止めるのも戦争上手なわけだが、日本の軍人は戦争と個人の果し合いを混同して、どちらかが息の根を止めるまで戦おうとする」



○同盟

#01 国家としての理想が一致し、世界に通じる価値観を有する道義的な国家、世界的視野から戦略的思考ができ、
   世界の思想や価値観をリードする大国を同盟国とする。

#02 同盟を結ぶ目的は、国家の安全保障であり国益である。

#03 同盟国選定
   第一要件 パワー・ポリティックス、
   第二要件 パワー・ポリティックスを支える軍事力、
   第三要件 強大な軍事力を支える経済力

#04 同盟の原点は、ともに血を流すことである。

#05 パワー・ポリティックスを支え、同盟条約締結を促進する要素として軍事力が大きな比重を占める

#06 センチメンタルなナショナリズムや感情論に左右されない。

#07 日本の対外政策はまず日本の国家理想と国益を決定し、それを実施するための政策を進めるというのではなく、まず、国際情勢の動向を察知してその流れに乗りながら、その流れの限られた範囲内で国家理想の実現を追求し、あるいは国益の伸張を図る。

#08 歴史には善悪とか是非というものはない。各国家や国民が必死になって生きて流れを作って、その流れのなかで平和も生ずるし戦争も生ずるので、何がいい悪いということはない。歴史に善悪はなくても、どこでどう間違えたのか、戦略の是非、外交の巧拙はある。

海幕防衛課幹部(*7)
「日米同盟はその実、海洋同盟である」

海上自衛隊元海将(*7)
「弱肉強食の国際政治の現実の中で、日本が生きのびるためには、スーパーパワーであるアメリカにつくしかない。国家として長い将来を考えると、長いものには巻かれなければならぬ時代もあるということだ。アメリカは恐ろしい国だ。日本のDNAを残すためには、今は取り入るしかないんだ・・・・・・。百年か二百年かたって、相手(アメリカ)が仮に弱ってくれば、その時には別の選択肢を考えればよい」



文献(*+number)

1,川上高司 著 『米軍の前方展開と日米同盟』 同文舘出版株式会社
pp15-102
2.ロバート・B・スティネット 著 『真珠湾の真実 ルーズベルト 欺瞞の日々』 妹尾作太男 監訳 荒井稔/丸田知美 共訳 文藝春秋
3.三根生久大 著 『日本の敗北 アメリカ対日戦略100年の深謀』 徳間書店
4.産経新聞社「ルーズベルト秘録」取材班 キャップ 前田徹 『ルーズベルト秘録(上・下)』 扶桑社文庫
5.平間洋一 著 『日英同盟』 PHP新書
○伝統的戦略理論 ○弱点#01,02 ○同盟#01,02,03,04,05,06 
6.リチャード・オルドリッチ 著 『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』 会田弘継 訳 光文社
7.NHK報道局「自衛隊」取材班 『海上自衛隊はこうして生まれた 「Y文書」が明かす創設の秘密』 NHK出版
○同盟
8.深田祐介 著 『大東亜会議の真実 アジアの解放と独立を目指して』 PHP新書
○弱点
9.岡崎久彦 著 『日本外交の情報戦略』 PHP新書
○同盟#07,08
10.藤井厳喜 著 『ジョージ・ブッシュと日米新時代』 早稲田出版
11.ハリー・G・サマーズJr. 著 『アメリカの戦争の仕方』 杉之尾宜生 久保博司 訳 講談社
12.太田文雄 著 『「情報」と国家戦略』 芙蓉書房出版
13.ジョン・ヒューズ=ウイルソン 著 『戦争にみる情報学研究 なぜ、正しく伝わらないのか』 柿本学佳 訳 ビジネス社


○中国の戦略

 ダグラス・マッカーサー元帥が後に上院委員会で証言したように、日米開戦の最大の要因の一つとして日本のエネルギー問題があった。東シナ海のガス田問題により緊張をもたらしたことは、中国の最大の戦略的失敗になるだろう。結果、日本は国内に対して、日米同盟の強化を加速させるに十分な論拠を得、2005年の日米安全保障協議委員会(2プラス2)において、中国への脅威への日米共同対処を明確にさせた。
  中国の弱点は、言論統制により思考の裾野が狭いことにあるだろう。人口が増えれば増えるほど、問題は大きく、複雑になり、煩瑣なものが増える。下位(人民)の思考は制限され、中国国内の問題解決能力は低下している。上位(中国共産党)の思考はというと、中国の戦略は確かに古典的ではあるけれど、決して洗練されてはいない。その姿勢は粗雑で古めかしく、変化というものから遠い。



ライス国務長官 「中国の軍拡」について(*12)
「日米同盟を強化することが最善策。何せアメリカ軍はSecond to None(どこの国にも劣らない)なのだから」
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sanctuary lost THE ORIGIN I.情報

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/intellics.html
  

人生は短く、術の道は永遠である。機会は逸しやすく、試みは失敗することが多く、判断は難しい。

                                                          
 ――ヒッポクラテス


国家間の情報戦は絶え間無く行なわれている。
好むと好まざるに関わらず、国民は情報の戦闘に巻き込まれている。
この戦いに意志を持って関わるために、ここでは情報を扱う。




総合

  彼を知りて己れを知れば、百戦殆うからず。彼を知らずして己れを知れば一勝一負す。彼を知らず己れを知らざれば、戦いごとに必らず殆うし

                                                                                        
――孫子


孫子の箴言は時を超えて、あらゆる軍事の書に刻まれ続ける。
孫子を生んだ中国。
中共の脅威は、孫子への理解とその忠実な実行にある。




自分の任務は何か。
敵は何をしているか。
自分がしていることを敵に悟らせないためにはどうするか。また別のことをしていると思わせるにはどうしたらよいか。
自分の弱点は何か。それを敵は知っているか。
敵の弱点は何か。どのように味方の損失を最小限に抑え、敵の弱点をつくか。
――フレデリック・M・フランクス司令官 米陸軍訓練教義司令部


#01 情報の目的は意思決定に資するものでなければならない。

#02 情報活動の本旨は、意思決定者が真に必要とする適切な情報を、意思決定者の持つ権限に見合う内容で迅速・適時に提供する。

#03 適切な情報とは、正確で良質であり、かつ判断に資するに十分な量を兼ね備えたものである。

#04 情報活動の矛盾は、量が多いと正確でない情報が混在し、時間がかかる。
   よい情報には時間と労力と金が必要であり、それを惜しまずに情報活動に努める者が、良質の情報にアクセスできる。

#05 情報活動には一般的に、

情報の収集、
収集された情報の評価・分析、
評価・分析の結果を伝達・報告・配布する
という総合活動が含まれる。

#06 いかにしてより多くの情報を集めるかではなく、獲得した情報をどのように利用するかが重要である。
   問題は処理と伝送能力であり、多量に流れ込む情報を、適切な時間内に処理しなければならない。

#07 大量の情報の中で価値あるものを選別する。それに基づく説得力や信頼性を獲得し、情報優位を確立する。

#08 情報時代に優勢を握ることは、同時にまた脆弱性を背負う。

#09 情報を収集、処理、応用、拡散する能力を持つ。

#10 通常から、情報を一定のフォーマットに従って照合する、統合された全情報源のデータベースを構築する

#11 分析・評価の結果として得られた情報を適切に報告・通報・通知・伝達しなければ情報は死ぬ。
    一般に情報関係者は情報を出したがらない。価値ある機微な情報ほど共有されずに封印されて、結局のところ利用されない。
    情報は活用されて初めて生きる。
    情報はタイムリーに提供されなければ意味がない。
    時宜を失した情報の提供は、いくら綺麗に製本され、清書されていようが、価値はゼロに近い。

#12 インフォメーションとは、一般的には新聞報道や政府広報のような、公知の事実を言う。
   インフォメーションとは評価されていない素材、事象である。

#13 インテリジェンスとは、表に出ていない機微に渡る内容を含んだもののことを指す。
   インテリジェンスとは数多くのインフォメーションを収集・加工し、総合分析し評価解釈を施した上で生まれてくる結果である。
   インテリジェンスには、大別して人的情報とハイテク情報とがある。

   ハイテク情報には、
    通信傍受情報(シグナル・インテリジェンス、略称シギント)、
    画像情報収集活動(イメジャリー・インテリジェンス、略称イメント)、
    通信情報収集活動(コミュニティ・インテリジェンス。略称コミント)、などがある。
    シギントは、通信情報(コミント)つまり理解可能な言語による傍受、および電子情報(エリント)、
    つまりレーダーのような装置で相手の信号を傍受することの双方を含む。

OSINT( Open‐Source Intelligence:公開情報)
HUMINT( Human Intelligence: 人的情報収集活動)
SIGINT( Signals Intelligence: 通信傍受情報収集活動)
COMINT( Communication Intelligence: 通信情報収集活動)
ELINT( Electro Intelligence : 電子情報収集活動、レーダー・テレメトリー情報)
IMINT( Imagery Intelligence: 画像情報収集活動)
MASINT( Measurement and Signature Intelligence:計測情報収集活動)
大きさ、熱、化学組成、振動、形状といった計測可能な情報。この概念は1970年代に米情報コミュニティーで創り出され1986年に承認。
GEOINT( Geospatial Intelligence: 地理・空間情報)
アメリカ国家地理・空間情報庁(National Geospatial-Intelligence Agency :NGA)の長官であるクラッパー退役空軍中将がGEOINTという新しい構想を推進。

GEOINT
「全ての事象は、ある地理・空間において生起していることから、地理・空間を基盤としてデータ・ベースを構築し、そこに他の情報収集手段から得られた情報を全て融合させ、いつでもどこでもコンピューターから、関連情報を引き出してシミュレーションをして作戦に即役立たせる」という構想。GEOINTが全ての情報活動の基盤となる、という考え方。

#14 情報を利用する時には、ステレオタイプ化した人種観、人種差別、文化的誤解、偏見を捨てる。

#15 慎重に時機を選ぶ。

#16 リアルタイムの情報から、細部にわたって洞察を得る。

#17 世界の勢力バランスは、時として驚異的な速度で変化する。

#18 既得権益とそれに伴う愚かな政治を、軍事的判断と切り離す。

#19 分析や諜報の成果がすでに存在するのであれば、分析者たちがそのデータにアクセスする場に情報を置く。

#20 「情報の時代」の到来によって、新しい情報源を多く持つことができるようになったが、対外政策や国家安全保障政策に関連する情報を
   すべて独占することはできないし、独占しようと考えるべきではない。

#21 現代の通信能力は様々な通信手段が多様化するとともに急速に拡大し、世界中の人々はほとんど同時に同じ情報にアクセスできる。
    一つの情報源が膨大な数のニュースの発信源となる。

#22 生の情報源は減少するが、逆に情報源といえるものは増え続ける。
   情報の流れをコントロールする方法が増加し、情報を収集する者は、進んだ情報伝達方法を駆使してコミュニケーションをはかることが
   可能である。

#23 トータルな情報活動の範囲を広く設定する。

#24 倦むことなく観察を続け、常に二十年先、三十年先を考える。

#25 秘密スパイエ作が不可能ならば、日常的でオープンな情報収集に徹する。

#26 直感的、思考的、演鐸的、高踏的、超然的、論理的、分析的な姿勢は、情報を扱う上で優位であることがある。

#27 感性を養う。情報交流のため、文学、芸術、音楽などの芸術的素養を養う。

#28 政策立案者は必ずと言っていいほど、一見理にかなった先入観の虜になっている。

#29 「インテリジェンスとは政策決定者のニーズに合致するように収集、精査されたインフォメーション」 であるが、
   単に「政策決定者」のニーズだけに限らない。 「カスタマー(顧客)のニーズ」に応えること。

#30 「全てのインテリジェンスはインフォメーションであるが、インフォメーションは必ずしも全てインテリジェンスとは限らない」

#31 一度立ち止まって「今カスタマーが欲しがっているのは一体何か」について振り返る。
   逆にカスタマーが情報について多大な関心があり、鋭い質問を浴びせるとインテリジェンス組織はそれに応じるごとく育つ。

  ラムズフェルド米国防長官
  「カスタマーが鋭い質問をすることによって情報組織は鍛えられていくのだ」

#32 良きインテリジェンスは四つの質を備えている。

  第一にタイムリー、
  第二にテイラード(顧客のニーズによく仕立てあげられていること)、
  第三にダイジェスト(重要なポイントだけを手短に)、
  第四に判っていることと判っていないことを明確にしていること

#33 正確な情報を得るためのダブル・チェック、トリプル・チェックを怠らない。

#34 インテリジェンス・サイドはオペレーター・サイドの圧力に屈してはならない。

#35 Need to know
   「知る必要がある人以外には知らせない」というのが秘密保全の鉄則である。

#36 インテリジェンスとは、広い意味で「知力」である。

#37 非常に複雑なシステムは、別の時代のためにつくられたツールでは管理できない。

#38 どんな指導者でも、それなりに適切な運営ができるのは最初の四年から六年で、多くの国で指導者の任期が定められている。

#39 真の知性とは、二つの逆の考え方を同時に受け入れ、違いを認めながらそれぞれの意味を理解できる能力である。

#40 「情報」によって何をしなければならないのか。「敵が何をしようとしているのか」、「意図」を見抜くことである。
   「意図」は、単に情報量だけでは決して見抜くことはできない。
   多種多様なたくさんの情報を整理分析し、さらにはその先にある真意を見抜く想像力が必要である。

#41 軍情報部「インテリジェンス・サイクル」
  「一般情報」を「価値あるシステム」に転換する単純なシステム。
  情報とは、単なる情報とは異なり、組織的かつ専門的な処理と分析を経た情報のことである。
  「意志決定者がいつ行動を起してもいいようにするための、正確で十分に処理された情報」

方向づけ
  司令官は欲しい情報や問題を明確に示す。

情報収集
  指導者が必要としている情報を細分化して、収集計画に基づいてスタッフに課す。
  なくてはならない極秘情報は隔離される(区分化)

情報照合
  アクセス可能なさまざまな出所からの情報をすべて照合する。

解釈
  単純な問いでふるいにかけられる。
   ・それは真実なのか
   ・信頼できる他の情報源によって裏付けられるのか
   ・誰なのか
   ・何が起きているのか
   ・それは何を意味するのか
  勘や熟練度、経験や直観といった人的要素が大きい。

配付
  書面や緊急信号、または通信の情報要約。緊急の場合、指導者への□頭報告などもある。
  冷徹なまでに正直に、そして客観的に行う。

#42 最近の情報業務の趨勢としては、この要求、収集、処理、解析、配布というサイクル・モデルは1980年代のものであり、
   今日ではむしろ情報量に富む生データを情報に携わる人々すべてが、それぞれの立場から観察・判断することが大切になっている。
   近年ではナビゲーションや地形慣熟の観点から映像情報に対する情報要求が増大している。
   また、撮影時には敵が存在していなかったけれども、敵が潜伏している可能性のある建物を攻撃目標のデータ・ベースに加えるという所要も出てくる。
   こうした情報要求は同時並行的に生起するもので、収集・処理・解析・配布といった直列のモデルでは対応できない。

#43 経験は貴重な武器である。だが、経験以上に有効な武器は知性と感性である。経験は大切だ。経験はモノを言う。
   だが、ベテランに勝利が保証されているわけではない。常に新しい局面が現れる。時代の変化は既成概念を、すぐに超える。

#44 情報はヒューリスティック(heuristic)に、つまり自分で検証を重ねながら経験学習し、知識を身につける以外に方法がない。

#45 インテリジェンスにのめりこむ前にインフォーを軽視してはならない。

#46 高度のインテリジェンス戦には踏み込めない、しかしインフォメーションの上を行きたい、のであれば
   機密性の高いクラシファイド(Classified)インフォメーションを追求することになる。

各種語学に通じ、リアル政治の分析ができる約百名の精鋭スタッフ、
世界中の公開情報の丹念なピックアップ、
インターネットによる情報収集

世界の要衝に発信源を扶植できるならインターネットの双方向性が威力を発揮する。
情報ニーズの徹底と内容のダメ押しが瞬時に、かつ繰り返し行える。

#47 インテリジェンスは国益に立って、国民と社会を守るために国際的に秘密情報を収集する、その反射的な機能として国内でも限定的に機能する。

#48 情報管理は組織の強さのバロメーターであり、チームワークである。

#49 情報はテーラーメイドであり緊密さと信頼が出来上がりに影響する。

#50 現実はまず与えられた条件を疑うことから始まる。

#51 「外交はサイレントにやる」
  オープンな論議はオープンに行い、サイレントな交渉はサイレントに行う。
   そこはかとなく「伝えたいこと」を伝えあうのが外交であるとすれば、伝えたくない内面を探るのがインテリジェンスである。
   外務省は外交の範囲で情報活動を行い、リスキーな部分はインテリジェンスにアウトソースする。
   実質の外交は各省、民間企業、NGO、各級議員などによって幅広く分担されている時代である。

#52 個人の努力を超えて日本の情報浸透能力では友好国に依存する間接情報の枠を出られない。
   現状では情報能力の限界を知った方がよい。情報戦で劣勢にあることの認識なきままに国際舞台で行動することは危険である。

#53 社会事象では
  「真実」は当事者の数だけ存在する
  「真実」は常に複雑系である
  「真実」は時とともに変化する

#54 独自の根拠なしに情報の仕事をやらない。

#55 犯罪がない場合は捜査を担当する警察力を発動すべきでない。本来インテリジェンスの分野である。
   また警察は法の執行機関だから活動は厳格に法の枠に限定される。
   他方インテリジェンスのとる手段は「合法と明確な違法の間のグレーな空間」を広く用いる。
   その手段と範囲は国際的な水準に拠って自ずから合理的な枠組みが設定される。

#56 情報商売はそのポストに就いて、背水の陣をしくことから始まる。

#57 1.いかなる行動を採るか、
   2.方針決定のために右か左かの決断を行う、
   3.そのための必要性から情報ニーズを設定する、
   4.結果を検証する、つまり動機づけと成果の評価がない限り情報能力は鍛えられない。
     情報を見分ける感性を養う。感性を養うために旅、詩歌、音楽、映画に触れる

#58 「正直は一番安全な嘘である」

#59 情報は与える側の意図的操作であることが間々ある。色のついていない情報というのは存在しない。
   常に合目的的であり、政治的なのが生きた情報である。
   情報の背後にある政治的意図を忖度する
   全く別の角度から仮説を立てる
   作られた「世論」に流されない、つまり「やわ」でない懐の深さが必要。

#60 実務上の「真実」という場合、できる限りのことしか出来ないという制約が付随する。
   大切なことはこの機会に現代社会で「情報」がもつ正と負の特性をしっかり認識しておく。

#61 「現在の課題」が一番難しい。

#62 人は起こしたことで非難されるのでなく、起こしたことにどう対応したかによって非難される。

#63 適格な人物は、誠実さと分別を、思いやりと決断力を兼ね備えていなければならない。


 

収集

人々に理解してもらいたいのは、「我々が隠している魅惑の箱などありはしない」ということだ。

――ウィリアム・F・ドーソン 最高情報責任者代理 米国インテリジェンスコミュニティ






インテリジェンスの90%は公開情報から得られる。残りの10%の秘密活動の方がより劇的ではあるが、本物のインテリジェンスの英雄はシャーロック・ホームズであって、ジェームス・ボンドではない

――米国防情報庁長官 ウイルソン退役陸軍中将


 

#01 情報活動は効率的な情報収集活動の成否で決まる。情報収集は費用対効果という評価基準が介在する。

#02 一次情報の捕捉の遅速よりも、正確な情勢判断を行うことを優先する。

#03 一次情報は同時に全部伝達する。

#04 一次情報は即時共有、その分析と判断を複数情報として補完し合う。

#05 機密扱いでない情報をすべて集めれば、機密に値する情報になることもある。

#06 情報機関において公開された情報の活用によって仕事をしている部分が九割以上と言われる。
   公開された情報から、価値ある事実を見つける。

#07 諜報三大対象と呼ばれる、

兵員と輸送手段の集合
艦船の異様な動き
陸上の航空基地での航空機の集合
を現認して確認をとる。

#08 人的情報は必要なところから取ること、狙って取ることを基本とする。

#09 今の情報化社会においては、目の前を通りすぎる大量の情報のなかから、秘密を探し出さなければならない。
   情報が文字通り滝のように流れているなかから、必要で重要な情報を見つけ出し、それを取り出すのは一筋縄ではいかない。

#10 情報活動の専門家は「必須情報を素早く見つけだし、政策決定者が使いやすいようにたぐり寄せておかなければならない」

#11 リソースが限られているならば、思い切って重点(コアビジネス)を絞る。
  国際的には米国と中国を両にらみで見ておく。
  米国の動静を知るためにはワシントンは勿論であるがイスラエルから目を離さない。
  同様に日本国内では沖縄を常に視野に入れておくように努める。
  あとは北東アジア。
  世界のエネルギー、特に石油あるいは天然ガスのルートがポイント。
  アフガニスタンもこの範躊に入る。
  カネの流れ、できれば地下水脈マネーの流れをウオッチする。

#12 インターネット検索による情報量の圧倒的な威力
   英語力の有用性
  インターネット上の情報は8割が英語(日本語は0.1%)
  本当に差がつくような情報は英語サイトにある。

#13 第一に情報集約において混乱を恐れない。
   企業における戦略会議、国における総理官邸は情報最終集約の場だから対立あるいは激論等あるのが自然である。
   混乱なき決定こそ恐れるべきである。
   第二に交渉事項の場合、担当局長が極秘奥に情報を独占することは当然である。
   問題は、ある時点から関係者による情報共有(インテリジェンス・シェアリング)が行われ、
   情報内容の多角的検証が行われるシステムが存在するか否かである。



児玉源太郎参謀次長
「ロシアの主要都市に外国人(非ロシア人)の情報提供者を二名ずつ配置せよ。その理由は、二つの情報を比較することによって、より客観的に事実を見極めることができるからだ。それゆえ、適任者を雇う場合、お互いに他の一名がだれであるかわからないようにすることが肝心だ」





分析

 戦争中に相手を徹頭徹尾こきおろすことはたやすいが、敵が人生をどんなふうに見ているかということを、敵自身の眼を通して見ることははるかにむずかしい仕事である。

――ルース・ベネディクト


 

#01 分析とはインフォメーションをインテリジェンスに昇華させる機能である。秘密の情報を集め、
   相手が隠している事実、核心にせまる内容を掴む。
   事実、あるいは表に現れた断片的な知識であっても、これらをつなぎ合わせたり、類推したり、解釈を加えたりする。
   それによって、今まで見えなかった価値ある事実を引き出す。

#02 収集した情報を適切に分析・評価するためには専門知識・専門的素養・専門家の見識を必要とする。

#03 今日、どうしても知る必要かあるのは、地上に隠されているものではなく、人の心の中に隠されている。

#04 大局的判断のなかに、隠された一次情報があることを推定する。

#05 他の情報源と比べて相対的優位性を持つ。
   相手が秘密にしておきたい情報を得ることと、公になっている情報が作り出す表面的なものの下にある真実を見通し、
   相手がこちら側を誘導しようとしているか、あるいは重要な情報を隠しているかなどを判断する。

#06 素材処理とは、収集した情報に関し、十分な分析をして次にどんな情報を収集するかを決めることである。

#07 「あらゆる可能性があり、どんなことでも起こりうる」と、この種の大胆な未来予想をしていれば時代遅れにならないことはたしかだが、
   だからと言って正しい方向に向かう、あるいは時流の先を行くということにはならない。
   世界が混沌として予測のできない場所であると語りながら、安全保障上の惨劇を「情報部門の失敗」と非難してはいけない。

#08 すべてが常に自分のつくった基本計画に沿って、収まるべきところに収まると思い込んでしまう危険がある。

#09 危険の一つは、いつも最悪の可能性を検討しているせいで、たとえ好ましい結果が出ても単なる幸運と片づけ、
   一方で、否定的な結果をすべて当然の流れと提えてしまうことである。
   不具合が本当に起きたほうが自分の正当性を確認できるし、重要で役に立つという気分に浸れる。

#10 同じ地方に生まれた人々は、時代が変わろうとも、同じような気質をもちつづけるものである。

#11 情報組織というものは、苦労の末手に入れた秘密の方を貴重だと考え、簡単に手に入る情報を信用しない傾向がある。

#12 偏見に捕らわれないための高度な批評眼が必要である。

#13 真実を語ることは、時として出世の妨げになる。

#14 かつて見積もりをした結果を、一定の時間が経過してから見直す機会がある。
   この際「前回の見積もりと大した変化はない」として大きな修正をしない傾向がある。
   これを「前道続行」と言い、情報関係者の陥りやすい落とし穴の一つである。

#15 原因の解明は「何を称して失敗と呼ぶのか」であり、その前に「技術の本質」、「失敗の本質」に迫ることである。
  情報の失敗は情報の論理と生理を正確にトレースすることによって初めて次の成功へと再生される。

#16 情報マンはリスクをとらなくてはならない。「真実」は常に変化するのだから、時には罵声を浴びても自らの前言を修正しなくてはならない。

#17 イマジネーションと仮説の積み重ね、それは実験室における化学者の営みに似ており失敗の涯に大発見があるのかも知れない。

#18 何事にも前兆がある、と語るのは情報屋の思い上がりである。自然科学と同じで全く突然に且つ一回限りで起きる社会事象もある(Einmarichkeit)。

#19 情報を読む決め手は経験と執念である

#20 情報分析とは直感力を頼りに多元方程式をいっぺんに解こうとするようなアート(芸ないし芸術)の要素がある(弁証法的思考)。
  この多元方程式は全ての変数が与えられているのではないので不確実な問題から不確実な回答を引き出す決断を伴うのが宿命である。
  不確実の中の確実性を高めるツールとして経験あるいは失敗の集積、雑多な知識(ナレッジ)が役立つ。
  その繰り返しからエキスパティーズ(専門技能)が育ってくる。
  情報を読むためには第一歩として「パターン認識」が大切だ。
   これは赤ちゃんが最初にお母さんを認識することから始まって、例えば医師が患者の容態を見て病状を粗つかみする能力である。
  パターン認識を向上させるためにはバックグランドとして専門分野(アカウント)を単一にしぼるべきだ。
  情報で店を構えたいのなら材料の仕入れ段階から骨身を惜しまずに走り回り、意地でも「分かりませんとは言わない」という看板を張り通すことだ。
  やせ我慢がなければ苦難に耐えられない。
  「新聞とテレビだけでイラク情勢を論評するな」と言うのは正しいが、「新聞テレビも見ずにイラク情勢を語るな」と言うのも正しい。
  毎日のビジネスをこなしつつ帰宅後机に向かい赤鉛筆を手に新聞雑誌二十種に目を通す勉強家がいる。
  その人たちに伍して情報専家を志すには情報のシャワーから一瞬でも離れてはいけない。

#21 情報は99%は無味乾燥な、しかし厳密な「数学」である。
   雑多なデータに食らいつき咀嚼し尽くさなければ「表現」に到達しない。ひたすら肉体労働である。

#22 当事者に時代の制約を超えよと強いるのは酷なことだ。状況は変化する。情報における時間という要素をカウントに入れる。
   今後どう動くか、を模索するにはスポーツ・トレーニングで用いる手法を借りてイメージを将来に向けて転がしてみるのが有効。
   時代の進展にフィットしないシナリオはどこか絵にならない。

#23 情報は「つくる」ものである。創る、英語では作曲する、構図を決めるという意味のcomposeである。
   何をメインにするか、どの線を伸ばすか、構成がしっかりしていなくてはいけない。構図に合わない素材は大胆に切ることが作品価値を高める。
   また情報は常に部分(パーツ)である。部分を集めて全体を描かなくてはならないが部分をもって全体である、と強弁してはならない。
   ジクソーパズルを解いて行く作業である。この作業には周囲にあまり同調(comform)しないが、
   ときどき閃めく、つまり禅の修行僧のような性格が向いている。

#24 情報の担当者が私心とか期待を込めると情報は歪む。情報マンは十分に禁欲的でなければいけない。
   道徳とか倫理の問題ではなく、私欲が入ると情報が客観性を失うからである。私欲よりも「作品」に殉じたい。
   情報は報われることのないミッションに生きればよい。



情報戦

  情報は戦闘の新しい「女王」であり、しかもこのことを理解している指揮官たちこそ真に未来の戦士たり得る。

――空軍情報局 マイケル・V・ヘイデン少将




  作戦の安全、軍事的欺隔、心理作戦、電子戦、物理的破壊などを統合的に使用して敵の指揮統制への情報を阻止し、
  またはこれに影響を与え、低下させ、破壊すると同時に、味方の指揮統制能力をこれらから防護する。

――1995年 米国海軍報告書「ソナタ」発展的指揮統制(C2)戦ドクトリン「コペルニクス」



危機の緩和に寄与する
対決の期間を短縮し、情報面や、外交的、経済的、軍事的な努力の影響力を強化する
戦闘力使用の必要性を低減もしくは回避することができる
――1996年 陸軍教範「FM100−6情報作戦」




  ―情報戦能力はかつてない精確さで敵の意思決定能力に影響を与える。

  ―情報戦能力を思惑通りに機能させることができれば、それは抑止のための“特効薬”的アプローチになる。

  ―問題なのはテクノロジーそのものではない。技術的には予定通り機能するはずだ。
   むしろ問題は新しいテクノロジーを利用する主体となる組織のあり方だ。
   核技術の時代の初期と同様、情報戦能力は何重もの機密の壁の向こうに隠されている。
   情報戦に関する分野は、アメリカの防衛機構全体のなかでも、 最も専門的に細分化されたコンパートメントの一つとなっている。
   右手は左手が持つ能力についてまったく知らず、まして現在何をやっているかもまったくわかっていない状態だ。

  ―情報操作を行う情報戦能力は、その情報操作の結果を収集するインテリジェンス能力よりも、センシティブかつ綿密に
   (政府によって)管理されなければならない。
   アメリカ政府はこの問題にどんな場合でも効果的に対処するため、何を信じ、何を疑うべきか細心の注意を払う必要がある。

  ―もし二重スパイが情報戦をしかけている国を混乱させれば、その国が相手国のシグナルを解読する能力、
   および相手国がシグナルを送り返す能力に対する判断力は低下する。
   抑止や強制力が機能するためには、相手国が脅威に対して少なくとも何らかの反応を示すことが必要だ。
   もしこちら側が相手国の情報環境を完全に手中に納めるとしたら、相手国は反応を示すのが遥かに困難になるだろう。

――デューク大学政治学部 ピーター・D・フィーヴァー




#01 ピラミッドの底辺に行けば行くほど情報戦が難しくなる。

#02 敵の情報網のなかに一つの「ノード」(結節点)を見つけ出し、それを利用して味方に有利になるような偽情報を敵側に流す。
   敵がそれを受け取ると同時に、味方の側の他の部隊もだまされて、探り出したその偽情報を上層部に報告することが現にあり得る。

#03 間接的情報戦は、敵が観察し、解析する対象としての現象を作り出して敵の持つ情報を変更する。
   敵の状況認識能力を低下させるという意味で電子戦は間接的情報戦になる。

#04 警戒心を煽るような主張に簡単に動揺してしまうのは、情報戦攻勢の結果である。

#05 現代人は二つの人生を同時に生きている。一つは現実の世界、もう一つはデジタルの世界である。

#06 物理空間にはサイバー的な側面があり、サイバー空間には物理的な側面がある。

#07 情報プロセスの汚染が、抑止に及ぼす影響は深刻である。

#08 「OODAループ」と呼ばれる軍の意思決定サイクルは、

オブザベーション(観察)
オリエンテーション(状況判断)
ディスカッション(意思決定)
アクション(行動)
という一連の行動である。

#09 マネーロンダリングが行われている可能性を示す指標

企業の重層化―関連組織や慈善団体の銀行口座間での、明確な目的のない送金 
複数の口座―資金の調達に使用され、その後それらの資金が海外の同じ受取人に送金される 
企業役員の重複―銀行の登録や、住所、身元情報、金融活動に関するその他の類似性を含む 
金融取引に論理的な経済目的が存在しない―貸し手の活動とほかの取引関係者の間に結び付きが存在しない
#10 「いかに戦略・戦術が優れていようとも術科能力が劣っていたら砂上の楼閣にすぎない」。
   逆に「術科・戦術が優れていれば戦略的にも優れている」とは言えない。

#11 軍事力の海外動員には避けられないジレンマがある。
   軍隊というものは、必要がないときは海外に動員できるが、危機が発生して実際に軍事力を必要とするときは、動員できないものである。
   なぜなら動員によって、ますます事態が悪化する恐れがある。

#12 戦争の将来を理解するためには武器製作の技術を把握することが重要である。
   誰がその技術を手に入れる可能性があるかを割り出す。
   その技術を手に入れたがる何者かはターゲットを恐れ、あるいは憎んでいて、危害を加えようとしている。

#13 「味方とは誰か?」と問うこと。
   その答えは、「基本的に自分たちが定める将来の脅威に同意する人々、あるいは自分たちがすでに武器を売っている相手」。
   技術の所有者を追跡し、その何か、あるいは何者かに関する最悪の事態を想定する。

#14 テロリストの代わりはいくらでもいる。テロリストは、ただ捕まえて殺すと、やがて我々の側の暴力が
   ――世界との結びつきを広げているある社会の代理でない場合には――否定され、テロリストが祭り上げられるという事態が起こる。

#15 最大限の効果を狙ったテロ攻撃だけでなく、テロ後の混乱に乗じ、悪質ないたずらに近いやり方で恐怖を増大させることができる。
  この手法で最も伝統的なのは、井戸に毒を投げ込んだ上で特定の少数民族を犯人だと決めつけ、責任の所在を誤った方向に導いて
   暴力を煽るというものである。
  便乗ムードが広がる中、何者かが後続パニックを引き起こそうと試みる。
  (注:また逆に少数のグループが自作自演による被害者を装う場合もある。)

#16 「意図」と「能力」を分離する。戦闘能力の有無と戦闘する意図を分ける。

#17 テロリストとして成功するためには、確固たる信念さえあれば、テロは比較的行いやすい。
   意図こそが、テロリストにとってのすべてである。そしてそれが故に、その結果は計り知れないものになる。
   狂信者が手にした一本のナイフや一丁の統が、歴史を変えてしまうこともある。

#18 テロ行為は、好むと好まざるとにかかわらず、残酷だとはいえ、人類が用いる論争解決法の一つにすぎない。

#19 昨今のテロ行為が特に悪名高くなっているのは、単に、次の三つの要素が現代風に結びついているためである。
   第一に、第二次大戦の終戦以降に、政治的暴力が成功したという実例があること。
   第二に、テロのイメージを伝える現代メディアが高度に発展したこと。
   第三に、新しい科学技術や武器がこれまで思いもしなかった殺傷方法を提供していること
   である。

#20 昨今のテロ行為は、白分たちの犠牲は最小限にしながら、目的を実行してその「大義」を公表するという機会を与えてくれるものである。

#21 テロ行為は、殺傷によってできるだけ多くの人を恐怖に陥れて脅し、その政治上の目標を達成しようという計算ずくの暴力行使に過ぎない。
  その点では、戦争そのものと大差はない。「暴力的手段による政治の継続」を目指して行われる。

#22 ほんとうの観衆だとテロリストが考えるのは、民衆から政府に移っている。



スターリン
「ひとりを殺せば、一万人が恐怖に震える」

レーニン
「テロの目的とは、簡単に言えば、恐怖に陥れることである」



#23 「特務ハ特務ヲ特務ス」
  同業で同じ技術を持った者だけがスパイを発見し対処することが出来る。

#24 「よく戦う者の勝つや、知名もなく勇功もなし」
  名を知られることなく功績を求めない者の集団こそ強い。

#25 情報機関がプロジェクト・ネームをつけるのは工作の存在自体を知られたくないからである。

#26 祖国を裏切る動機は欲望、イデオロギーおよび復讐と大別されている。

#27 情報の世界では究極の忠誠心を如何に表現するか、だけが職業上の存在証明である

#28 国家の情報機能は外交、インテリジェンス、軍事の三つのチャネルで成り立っている。
   防空識別にしろ潜水艦の波形探査にしろ、システムとしての大きさと国際性をおのずから具有しているのが軍事情報の特徴である。

#29 情報担当者としては対決型の状況の方がやりやすい。ソフトな調子を織り交ぜた「和平演変」は対応が厄介である。

#30 情報を求める者はディフェンスを固める。
   情報は入手、分析、伝達そして最終顧客のサティスファクションまで行って初めて完全な商品価値を獲得できる。





宣伝・広報

#01 具体的に世論を形成したり操作したりする方法には、大きく分けて 1.広報 2.宣伝 がある。

#02 広報は、政策意図に対する有害な誤謬と歪曲を是正し、誤った判断を防ぐためのデータと事実を提供することである。
   自国に好意的なイメージを形成したり、相互理解を深めるための文化交流なども、広い意味で広報活動の一環といえる。
   広報は情報の受け手に判断を委ねる。

#03 宣伝は、専ら宣伝者の利益に合致するように相手の態度を変えることにあり、伝達される内容は、
   客観的な事実や情報であるとは限らない。
   宣伝の核心はそれが真理であるかどうかよりも、真理であると信じさせることにある。
   宣伝は受け手の判断に直接影響を与えることを目的とする。

#04 宣伝が効果的となる条件

宣伝が特定の対象にとって主要な、あるいは唯一の情報源である場合、
宣伝の送り手と少なくとも幾分か同じ態度を共有している人々に向けられる場合、
硬直した信条や態度を持つ傾向の低い青年層と無関心層に対する場合
#05 宣伝は、明確な判断や意見形成の脆弱さを利用した手段である。

#06 露骨な宣伝活動は、信憑性の高い情報を求める議会や報道機関の圧力が働くので、むしろ不信と批判の対象となり易い。
   コミュニケーション・メディアの発達によって、宣伝の対象となる大衆に物理的に接近することは容易になった。
   他方で、外部情報の流入を規制することが困難となり、著しく歪められた事実や操作された情報は
   かえって宣伝者の信頼性を失わせることにもなる。

#07 宣伝に客観性が求められており、広報との区別は曖昧である。国家的便宜を動機とする宣伝は、
   かえって国際秩序にとって有害になる場合がある。

#08 宣伝は小さい真実を伝える。

#09 嘘は戦術的に短期的解決にはなるが、長期的戦略の利益になることはまずない。
   情報の重点や流れをある程度操作することはできる。

#10 重要なのは、垂直のショックを水平作のシナリオヘと変えるための媒体である。
   基本的には、媒体の密度が高ければ高いほど伝達はより速く、より深くなる。媒体の密度が高ければ高いほど、伝達力は強くなる。

#11 今後は情報を収集する人物よりは、それを管理する人間が鍵を握ることになる。特に正確な情報を伝達しうる人物が重要になる。

#12 どれだけカネと頭を使って情報を収集したところで、それが使われなければまったく無駄な情報になる。

#13 情報には有効期限も賞味期限もある。

#14 情報の伝達と選択方法には簡単な解決策はない。
   情報の正確さは情報機関の人的能力の高さに比例する。
   情報確度を推定するためには入手経路をプロフェッショナルに検証しなくてはならない。
   トップヘの到達スピードが情報鮮度である。
   常に正しい情報をもたらす情報組織はありえない。

#15 単体のスタンド・アロン型では裾野が広がらない。ペリフェラル(周辺装置)が大切である。





マス・メディア

彼らが目指しているのは権力だ。責任なき権力、時代におもねる売春婦の特権だ。

――スタンレー・ボールドウィン英国首相 当時の新聞工たちについて


#01 ニュースの直接性は、ときとして政治的プロセスをきわめて不健全な方向へもっていくことがある。
   インターネットが情報収集と表現媒体としてさらに一般化していくにつれ、事態は悪化する。

#02 恣意的なメディアの目線は、過熱しがちで永続性はないが、政治を動かす効果を発揮する場合が多い。
   このため、メディアの側はニュース報道を自らの務めとして捉えるのではなく、
   自らが出来事に影響を及ぼす力を持っているのだと思い込んでいる。

#03 リーク源へ対して、情報機関の対応は二つの選択肢に絞られる。

記事のもみ消し工作をはかるか
記者を問題の真っ只中に引きずり込んで、結果を見るか
#04 センセーショナルな説や陰謀論は、政策決定者は常に事態をコントロールしているのだという幻想を抱かせ、安心させる側面を持っている。

#05 新聞も一年間で一つのストーリーになる。



戦略

#01 優れた戦略とは再現可能なものである。問題の核心を誰もが同じようにはっきり理解することにより可能になる。

#02 本物の長期的思考を身につける方法は、スタッフ・ミーティングをできるだけ避けること。
  あらゆる手段を用いてそれまでに与えられた仕事を回避し、実際に何らかの長期計画を作成する活動に加わってみること。
  最も重要な方法は、できるだけ広い範囲の専門家グループと交流して、同じような思考の者ばかりで集まらないようにすること。

#03 戦略の提唱者であることは、人から好かれるか嫌われるか、非常に極端な形で表れる。
   それまで出会った誰よりも深遠な思想家か、それまで聞いた中で一番ナンセンスなたわ言を吐く軽薄な人物、そのどちらかに見なされる。

#04 好奇心と行動力があれば情報力が出る。情報力が出れば戦略思考ができる。あとは専門家としての育成だが、育成する最良の師は「経験」である。

#05 情報を使う者(クライアント)がオーダー(注文)を出すことである。それによって初めて情報の戦略性が打ち出される。



○対米



「われわれは、ベトナム戦争によって、アメリカにおける軍隊と市民の特有な関係を改めて認識させられた。アメリカの軍隊の所有者は国民なのである。そして、国民は、軍隊が関与することに嫉妬深い“主人”の目つきで関心を示す。まさしく、米軍は国民の軍隊なのである。……したがって、軍隊が軽率に行動することは許されない」

――フレッド・C・ウェイヤンド陸軍大将 1976年 米国陸軍参謀総長




#01 アメリカなるものはない。議会、行政府、マスコミ、世論、多種多様の意思がある。
   それが互いのチェック・アンド・バランスを通じて、やがて政府の政策に反映されてくるが、それがいつ変わるかわからない。
   「アメリカ」の意思なるものはどこにもない。多種多様な流れをつねに追って、その帰趨を見極める。
   アメリカ発の情報は決して一つではないし、百人百様の解釈を通して伝わる。

#02 『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントン・ポスト』の社説、そこに掲載された各種論説、『フォーリン・アフェアーズ』等の各種論文を読む。
   専門家、知識層の間の考え方の流れを把握する。

#03 最終的には、政府の立場として公表された文書、つまり大統領、国務長官の演説、国防報告書等が重要である。
   公式文書に眼を通し、前段階として議会における対日政策、対極東政策に関する公聴会の記録を精読する。

#04 得た所見をぶつけてみて反応を知る対話の相手を持つ。見識が成長すればするほど、相手の応答は高度になる。
   情勢判断の能力は分析者の対外的評価と比例する。



○対中

#01 中国人は、世代単位でものごとを考える。時間というものをよく知っている。時間を抱き込み、これを利用する術に長けている。
   中国の政治体制は選挙によって決まるのではなく、国家指導者の死によって交代する。
   国民は継続性と統一性を尊重し、共通の目的意識を持ち、忍耐力に優れている。
   中国が変わるという考えがいかに浅はかであるかは、中国の文化と歴史が示している。
   彼らの計算には政治的打算が大きな比率を占めており、中国人は「力には屈するが道理には屈しない」民族である。
   中国人は、手加減ということをしない。

#02 中国と同盟を継続できた国はない。中国三千年の歴史をみても、中華思想の大国意識に妨げられて、中国と対等な外交関係を
   長続きできた国家はない。
   世論によって国策が大きく影響される民主主義国家であり、短期思考型の政治目標しか設定できない日米両国は、
   中国の最大の国益である日米離反を回避し、長期に渡り対中戦略を書き換え続ける必要がある。



文献

1.クラウゼヴィッツ 著 『戦争論』 清水多吉 訳 中央公論新社
2.『孫子』 町田 三郎 訳 中央公論新社
3.塩野七生 著 『マキアヴェッリ語録』 新潮文庫
分析#10
4.エルネスト・チェ・ゲバラ 著 『ゲリラ戦争 キューバ革命軍の戦略・戦術』 五十間忠行 訳 中央公論新社
宣伝・広報#08
5.防衛大学安全保障学研究会 編著『安全保障学入門』 亜紀書房
総合#09, 宣伝・広報#01,02,03,04,05,06,07
6.ジェイムズ・アダムス 著 『21世紀の戦争 THE NEXT WORLD WAR Computers Are the Weapons and the Front Line is Everywhere』 伊佐木圭 訳 日本経済新聞社
総合#06,07,08,20,21,22,23,24,25 分析#05,06 情報戦#01,02,03,04,07 宣伝・広報#09 マス・メディア#01,02,03 対中#01
7.ダン・ヴァートン 著 『ブラックアイス―サイバーテロの見えない恐怖』 星睦 訳 インプレス
収集#05, 情報戦#05,06,08,09
8.ジェイムズ・バムフォード 著 『すべては傍受されている 米国国家安全保障局の正体』 瀧澤一郎 訳 角川書店
総合#26, 分析#03
9.リチャード・オルドリッチ 著 『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』 会田弘継 訳 光文社
総合#14,15,16,17,18,28 収集#07 マス・メディア#04 対中#01
10.岡崎久彦 著 『日本外交の情報戦略』 PHP新書
総合#19,27 収集#01,02,03,04 分析#04
11.吉野準 著 『情報国家のすすめ』 中央公論新社
総合#12,13,27 収集#06,08 分析#01 対米#01,02,03,04
12.森本敏 著 『森本敏の眼 日本の防衛と安全保障政策』 グラフ社
総合#01,02,03,04,05,,11 収集#01 分析#02
13.平間洋一 著 『日英同盟』 PHP新書
対中#02
14.太田文雄 著 『「情報」と国家戦略』 芙蓉書房出版
総合#11,12,13,29,30,31,32,33,34,35,36,42 分析#14 情報戦#10 マス・メディア#05
15.ハリー・G・サマーズJr. 著 『アメリカの戦争の仕方』 杉之尾宜生 久保博司 訳 講談社
情報戦#11
16.トマス・バーネット 著 『戦争はなぜ必要か』 新崎京助 訳 講談社インターナショナル
総合#37,38,39  分析#07,08,09 情報戦 #12,13,14,15,16 宣伝・広報#10 戦略#01,02,03
17.ジョン・ヒューズ=ウイルソン 著 『なぜ、正しく伝わらないか』 柿本学佳 訳 ビジネス社
総合#10,40,41 収集#09,10 分析#11,12,13 情報戦#16,17,18,19,20,21,22 宣伝・広報#11,12
18.大森義夫 著 『「インテリジェンス」を一匙 情報と情報組織への招待』 選択エージェンシー
総合#43,44,45,46,47,48,49,50,51,52,53,54,55,56,57,58,59,60,61,62,63 収集#12,13 分析#15,16,17,18,19,20,21,22,23,24 情報戦#23,24,25,26,27,28,29,30 
宣伝・広報#13,14,15  戦略#04,05




#01 情報の伝達と意見の主張を峻別する

#02 情報はその伝達と共に、媒介者の温度を伝導する。過熱した情報は冷却され割り引かれる。
   情報に時機を選ぶべき部分を含む時は、逆に熱度を利用する。

#03 情報を手に入れた後には、意思決定が控えている。

#04 死の傍らには「真実」があることが多い。






知識は能力とならねばならない

――カール・フォン・クラウゼヴィッツ

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sanctuary lost THE ORIGIN

sanctuary lost
http://www17.ocn.ne.jp/~kuwairai/index.html
I.情報
II.戦略
III.外交
IV.net
V.聖域
VI.沈黙
VII.冷光










ここは、小泉純一郎内閣総理大臣の戦略とヴィジョンについて省察したwebpageです。

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   ――この極地の混乱よりも尚荒々しい、様々な武勇を忘れ、この常闇の国に倣って口を噤んだ、俺のただ一つの祈願の為に。
    何事を賭しても、どんな姿になろうとも、たとえ形而上学の旅にさまよおうとも。――いや、そうなれば猶更の事だ。

 
――アルチュール・ランボオ 『イリュミナシオン』 献身 / 小林秀雄 訳

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追悼:チャールズ・ジェンキンス氏

2017年12月11日 チャールズ・ジェンキンスさんが死去 77歳
2017年12月12日 増元るみ子さんの母、信子さんが死去 90歳

追悼の意味を込めまして、新企画とは別に、このblogの母体となったウェブサイトの内容を「sanctuary lost THE ORIGIN」としてアップします。
12年前に作成したものです。
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トランプ・エルサレム・イスラエル

2017年12月6日
 トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都に認定する大統領令に署名

このエルサレム首都宣言におけるショックの影響を観察する必要が(私には)あって、米朝衝突は危険度は以前より増しているものの、もともと本命視している2018年に持ち越し、という印象は受ける。
ショック状態にあることを見越して、トランプ大統領は動く可能性もある。

『北朝鮮型核抑止モデル』で想定している流れはまだ出揃ってはいない状況。
「中朝友誼橋」が封鎖されている影響が北朝鮮経済に与えている影響というのも、評価の対象になるだろう(正確な情報が出て来るかどうかは別にして)。

あと、一つ準備していますので、お楽しみに。
それがシリーズ化するかどうかは分かりません。
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