2018年02月20日

【XXIII Olympic Winter Games特別企画】Destroying the Remaining Bridge -While Count Down the Day

■Introduction
 今回は、当blog管理人が、Monsiur Joe M氏の監修の元、ある程度情報を再構成した内容でお送りします。
 まず、最初の特別企画について少々触れておきます。
 私は、トランプ大統領の狂人のような側面はあくまで仮面/ペルソナであろう、という印象を持っていましたが、
(トランプ次期大統領についての雑感

http://blue-diver.seesaa.net/article/443808218.html
その本質がペシミストという分析は、読者の方々はどう捉えたでしょうか?
狂人としてのペルソナは、我々にある狂気を映す鏡として機能するのでしょうか。
その鏡に最も反応しているのが金正恩であるとするなら、既にトランプ・マジックの術中ということですが…
「面をかけるとき、演者は自分の姿を鏡にうつして見ている。自分を客体として眺めている。」とは観世流シテ方・観世寿夫氏の言葉だったと思います。

 現状、2月の攻撃ウィンドウは通過したようです。

北朝鮮型核抑止モデル since20170911

http://blue-diver.seesaa.net/article/453374907.html

上記は2017年9月に、私管理人が今回の事態に対応させて書き起こした新規の戦略ですが、現状はいくつかの段階をスキップしている状況です。
このピースを埋める情報が2018年2月15日に発表されました。



トランプ政権「北へのサイバー攻撃準備」
http://www.yomiuri.co.jp/world/20180218-OYT1T50044.html
米誌フォーリン・ポリシー(電子版)は15日、トランプ米政権が核・ミサイル開発を続ける北朝鮮に先制攻撃をする場合、巡航ミサイルなどによる物理的攻撃よりも先に、サイバー攻撃を行う可能性が高いと報じた。
トランプ政権の軍事的措置の準備状況を知る複数の元米情報機関当局者らの話として伝えた。


トランプ政権は、私が予見した戦略の、現状は空白となっているピースを埋めるステップを踏むのかもしれません。
北のサイバーテロ組織は極めて危険な存在です。
これを排除することは、人類史とその後に続くAIと築く歴史においても重要な意味を持ってくるでしょう。

それでは、日本の連日のメダルラッシュに湧く、平昌冬季オリンピックの前半戦までの北朝鮮情勢に迫ります。



■限定攻撃の「窓」は閉じ始めている?
 私がM. Joe M氏に「何をもって限定とするのでしょうか」と尋ねたことがあります。

Monsieur Joe M:
 『何を「限定」と定義するかが実は大事なポイントだと思いますが、ブラディ・ノーズは軽く鼻面を一発殴ることですよね。管理人様が想定されている限定攻撃による「橋を落とす」案は、かなり良い線だったのではと思います。それにしても、攻撃はない、などと夢想に走る日本のメディアも含め、ようやく「限定」=軽い攻撃を語り始めました。
 ですが、私はもうその窓は、実はすでに閉じ始めているのでは、と思い始めています。トランプ大統領にとって、「軽い一発」の時期は過ぎようとしているのではないか、ということです。つまり、トランプ大統領にとって、「限定」という言葉は意味をなさなくなり始めており、未だ「限定」部分が残っているか分からない。「限定」でも実態は「大規模攻撃になってしまう」可能性が出始めていると危惧します。ある意味で「限定的に徹底攻撃する」ということになりかねない、「窓」がさらに閉じていけばそうなると考えます。』


■核態勢の見直し(NPR)の意味
 「トランプ政権内での強硬派とティラーソン氏との意見対立は、ティラーソン氏周辺が核を使用したくないからなのか、限定的攻撃をも忌避しているのか」について質問しました。

Monsieur Joe M:
 『トランプ大統領の頭の中には「核」は間違いなくありますが、マティス国防長官とその周辺は、それを「限定」に織り込むことだけは認めないと思います。先日の「核使用」についての新たな戦略を出したあたりに、逆に、核を使った攻撃を取りにくい選択肢においたように思えてなりません。
 五輪開会式に臨んだペンス副大統領の動き、そして金永南と金与正、2月8日の軍創建70年のパレードが非常に重要でした。ペンス副大統領について一言足せば、彼は「北朝鮮の核保有破棄は譲らないが接触は取り得る」と述べて、一部のメディアが「トランプ政権の「対話路線」へのスタンス変更だ」とデタラメを書きましたが、ペンス氏が言いたいのは「A)核保有を停止するという実質的な行動がない限りB)接触はない。ただ、A)B)同時に行うしか時間がないかもしれない」というある意味深刻な話であると言えます。』


■五輪開幕での米朝の鍔迫り合いと「落とされた橋」
 「橋を落とす」という私の提唱している戦略に合わせて、次のような話も伺いました。

Monsieur Joe M:
 『アメリカ側が「この開会式からの流れの中で、北朝鮮側と会うつもりはない」と言えば、北朝鮮側も(初めて思いついたように)「開会式は、お祝いが目的で出席するのでアメリカ側などとは話し合わない」と言いました。つまり、双方がいきなり橋を落とした訳です。
 米朝の特使たちは、上空から偵察衛星が見、あらゆる盗聴、傍聴装置がついた、韓国という空間の中で3日間を過ごしました。こと、この3人(ペンス副大統領、金永南と金与正)についてはアメリカ、ロシア、中国がそれぞれ、それこそ一秒単位で、一挙手一投足を追跡したであろうことは、容易に想像がつきます』


■新月という尺度
 月齢を一つの時間的単位で計ることは、この情勢をみる上での要素の一つです。隠密性を要求される軍事ミッションに新月が絡むことは考慮に入れるべき要素で、数百億円単位の兵器と貴重なパイロットの命を可能な限りリスクから遠ざけるためにも、新月が一つのヤマ場としてみる視点は必要であろうと感じています。これは、私もM. Joe. M氏も一致した意見です。


■デッドラインは夏?
 現在産経新聞の記事などで「6月危機」が唱えられていたりしますが、M. Joe. M氏の元には「夏」というデッドラインが届いているようです。

Monsieur Joe M:
 『こちらの方は「夏」という単語は流れて来ています。もし「6月危機だ」というなら、正確には「6月の新月明け」という意味ではと理解します。他方、国務省や、共和党の攻撃反対派は、本当に「衝突」を回避するために、最後の努力をしています。ただ、衝突なしの方向へ持ち込める可能性はいま現在は数%とと思います。』

上記の情報を総合すると、限定空爆の機会はあと6−7回というところになるかもしれません。

3月17日(土)22:12
4月16日(月)10:58
5月15日(火)20:49
6月14日(木)4:44
7月13日(金)11:49
8月11日(土)18:58

3月17日は、パラリンピック閉会式後の2日後(訂正:閉会式の前日)に当たります。

この夏までの時機を過ぎれば、北の核戦力完成がもたらすであろう脅威はかなり高まっていることになります。
これまでの傾向を見れば、米国の情報機関の予測を上回るペースで核開発を進めており、この機会というのはさらに少なくなる可能性も孕んでいます。

以上、管理人がお届けしました。
オリンピック後半戦の期間の情勢を総括する企画も、こちらの状況が整うことが前提ですが、お届けできればと考えております。
今後の情勢分析の一助となれば幸いです。
posted by     at 21:59| Comment(0) | Monsieur Joe M | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月07日

【St. Valentine's Day特別企画】analysis: Donald John Trump

ヴァレンタインデー特別企画と題しまして、国際関係筋のMonsieur Joe M氏の意見を紹介させて頂きます。
それでは、お楽しみ下さい。

■Introduction
Monsieur Joe M:
 お招きありがとうございました。
 これからお話させて頂く上で、二点ほど約束事がございます。
 一点目は、非常に微妙な話は、バックグラウンド(背景説明)・ルールで一部マスクさせて頂きますことをご了承下さい。
 二点目は、情報というものは、起こっている出来事が大きいほど、どんどん局面が変化して行きますので、日々、深まるごとに、見立てるのが非常に難しい局面に入り始めており、この時点で、すでに動きが変わっていることがあり得えます。
 それでは、ご要望された、主に北朝鮮情勢とトランプ大統領についてお話いたします。

■「第一の剣ヶ峰」だった2017年11月のトランプのアジア歴訪
Monsieur Joe M:
 ホワイトハウスのNSCのある戦略官(名前は伏せます)が、2017年1月から、米、中、露の3カ国を中心に、関係国(日本やフィリピンが入ります)が絡んだ金正恩政権崩壊後の北朝鮮の青図を考えて、外交的にはそれを元にアメリカ政府は動いていますが、現時点でもなかなかうまく行ってはいません。2017年10月のアジア歴訪では、最大のポイントは、中国とこの「崩壊後」の話に決着をつけることでした。欧州諸国もこの件は人ごとでないと思っています。
 米政府は後半の国際会議の場でプーチンと緊急に話すアイデアも実現させようと動きました。これもまず米、中、露で一回半島情勢の未来を整える、という地政学的な考え方が今回のアジア歴訪に明確に存在していたからで、結果、APECの場での正式な米露首脳会談はできませんでしたが、立ち話という形で、歩きながらの会談にはこぎつけ、中身は「北朝鮮問題を含む話」ということしか分かりませんでしたが、議論をする機会を持つという目標は達成されました。ただ、プーチン大統領は手強い、との感触も得たようです。これが「第一の山場」でした。
 「第二の山場は、平昌冬季オリンピックに絡んでトランプ大統領が送り出したペンス副大統領の動きです。ここヨーロッパから見ていますと、ペンス副大統領の動きは、最初のトランプ大統領による「第一の山場」を経て、米政府内での突っ込んだ現状分析を背負って行われています。この「第二の山場」は、大変な緊張感の中で展開しますが、この冬季オリンピックの場を利用した山場の中で物事が前に動かなければ、負のスパイラルが最後まで行くのを止めるのは相当に困難でしょう。
 アメリカ政府は全てを後ろから逆算して考えている、というところがポイントです。

■トランプ大統領の物の考え方
Monsieur Joe M:
(1)まず、注目点としてトランプ大統領の物の考え方から、この北朝鮮攻撃があるか、ないかについて、触れます。トランプ大統領の生涯で最も好きな歌が何か、これはトランプ大統領の考えをフォローする大事なポイントと思います。この点はとても大事と思っています。トランプ大統領が一番好きな歌はペギー・リーが1960年代に歌った”Is that all there is?”だと米メディア(N.Y.Times等)も報じていました。この歌をトランプが好きな理由はいくつかあると思いますが、2つ挙げるなら、トランプは本当に「たったこれだけのこと?」と考えるペシミズムが発想の根底にあると思います。それと、父親のフレッド・トランプがドイツ系であることも絡んでいる可能性があります。つまり、この”Is that all there is?”という歌は、ドイツが誇る大文豪のトーマス・マンが書いた短編「幻滅」の内容を咀嚼して歌詞にしているからです。
 省略して申し上げますが、この歌を聞く限り、トランプにとって核兵器で平壌を潰すことはIs that all there is?でしかないと思います。金正恩委員長はどこかファナティックなところがありますが、トランプはファナティックなのではない、ペシミストなのだと思われ、彼のこの性格は核ボタンや、爆撃機への攻撃指示を出すだけの腹があると思っております。

(参考:「Is that all there is? 和訳 ペギー・リー」にて検索を→https://www.google.com/

■攻撃のタイミング
Monsieur Joe M:
(2)攻撃は、もうタイミングを決めたと思います。その根拠として、国務省やホワイトハウスのスタッフが抜け始めていることに、深い意味があると思っています。表面上は全て、別の理由がついていますが(1)の攻撃をする関係者になるかどうか、は、大変な精神的なストレスだと見ています。この話は危ない話ですので、これ以上は申せません。

■エルサレム首都宣言の意味
Monsieur Joe M:
(3)すでに、これだけ、米朝双方が盛り上がってしまっている中で、また、相手の手の内も見えている中で、いきなり総攻撃は無いのではないかと思い始めています。つまり、トランプ政権側(ないしは関係国)が、まず、大きな「張り手」を食らわす。実質的な攻撃はそれから、であると考えています。この「張り手」が何か分かりませんが、北朝鮮側を「はっ」とさせるだけのものであると思います。ということで言うと、先日の首都をエルサレムにした件は、「張り手」かもしれません。もっと別のものかもしれない。どういう意味かと、もう少し詳しくご説明申し上げますと、例えば、金正恩は白頭山にいる自分の笑顔の写真を出さざるを得ないほど、追い詰められているとも言えます。この写真を出す手前で何が起きたか、時系列で見ると、エルサレム首都宣言は「張り手」かもしれないと思う訳です。
 これからは時系列にものを見ていくことが勝負になります。この北朝鮮危機が、どう時系列的に組み上がっていくかは相当に綿密に見ていく必要があるであろうと思っています。

■冬季五輪でも”攻撃”を止められない可能性も
Monsieur Joe M:
 私は平昌五輪の最中でもアメリカ軍の限定的攻撃はあり得ると思って緊張して状況を見ています。トランプ大統領は、目標(北朝鮮の非核化)の達成の際に他に何が起きようが、意に介さない人間だからです。
 目標のための犠牲は仕方がない、と考えるタイプの司令官であり、人間なのだと考えることがトランプ政権のこの問題の出方を考える上で、大切なのではないでしょうか。

///

以上がM. Joe M氏によるトランプ大統領の分析です。
今後の判断材料の一つとしてみて下さい。
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"bloody nose" strike

北朝鮮への限定的先制攻撃ミッションは、現在「ブラッディーノーズ」作戦と呼称されているようです。
私は自分が構築した戦略の終局と、現実におけるその着地点との乖離がどの程度起こるのかを見届けねばなりません。

状況を大まかに振り返ってみましょう。

2015年
 プーチン大統領は、クリミアを併合する際、情勢が不利になった場合に備えて、核兵器の使用に向けた準備を進めるよう指示

2017年10月
 英軍代表団が状況を見定めるため韓国を2週間訪れた。そこで米国の代表団と会い、韓国と北朝鮮の間の非武装地帯を訪問。

2018年1月11日
 B2戦略爆撃機3機を、グアムに派遣

2018年1月21日
 英軍代表団が追加作業のため、10日間の日程で再び韓国を訪問。「米国は真剣だ。私は長らくこれに携わってきたが、これほど懸念を持ったことはない」

2018年1月26日
 航空自衛隊のF35A最新鋭ステルス戦闘機1機が、国内で初めて、空自三沢基地(青森県)に配備

2018年1月26日
 日本とフランス両政府は、4回目となる外務・防衛担当閣僚による会合(2プラス2)を開き、今年2月に自衛隊とフランス軍が共同訓練を行うことなどで合意
 
2018年1月29日
 沖縄・嘉手納に展開中の米軍F-35Aが実弾を搭載。29日から、本物の爆弾やミサイルを使った即応訓練が、4日間の予定で開始。

2018年1月30日
 米原子力空母「カール・ビンソン」が30日、イージス巡洋艦レイクチャンプレン(CG57)1隻とイージス駆逐艦「マイケル・マーフィ(DDG112)」「ウエイン・E・メイア(DDG108)」2隻を随伴し、グアムに到着。出港予定は31日

2018年1月30日
 トランプ政権が検討していた米ジョージタウン大アジア研究部長、ビクター・チャ氏の駐韓国大使への起用を断念。予防的な軍事攻撃に反対のため。

2018年1月30日夜(日本時間31日午前)
 トランプ米大統領、上下両院合同会議で初の一般教書演説「米国を危険に陥れた過去の政権が犯した過ちを繰り返さない」

2018年1月31日
 米国防総省は、企業と協力して急性放射線症候群(ARS)の効果的な治療薬開発に向けて始動。

2018年1月31日
 ハワイで日米共同開発のSM-3ブロック㈼A迎撃ミサイルを、イージス・アショアから発射し、ICBM級の弾道ミサイル標的を迎撃しようとしたところ、失敗。アメリカ国防省は、イージス・アショアによる弾道ミサイルの迎撃試験を実施したこと自体は認めているが、日本時間2月1日正午現在、成否についてはコメントしていない。

2018年2月1日
 トランプ大統領 シリアへの軍事攻撃を検討 化学兵器の使用を抑え込むため

2018年2月1日午後
 沖縄・嘉手納基地にF-35A、F-35B、F-22Aが集結

2018年2月1日
 北朝鮮で武力衝突が発生して多数の難民が日本に押し寄せた場合について、政府が陸上自衛隊の演習場に「難民キャンプ」の設置を検討

2018年2月2日
 トランプ政権が、北朝鮮がアメリカや同盟国への差し迫った脅威となっていて、数カ月でアメリカを核ミサイルで攻撃する能力を得るかもしれないと警告
トランプ大統領「(北朝鮮問題で)われわれは多くの施策を講じている。過去の政権が、もっと前から行動を起こすべきだった」「われわれに残された道はない」
 米国防総省は、中長期の新たな核戦略の指針となる「核態勢の見直し(NPR)」を策定。攻撃を未然に防ぐには、核による抑止力を強める必要があるとして、核戦力全体の近代化を進めるとともに、「低出力核」と呼ばれる威力を抑えた核弾頭を搭載した、SLBM=潜水艦発射弾道ミサイルを導入。報告書は、「ロシアは米国と北大西洋条約機構(NATO)を自国の地政学的な野心に対する主要な脅威とみなしている」と指摘。米国防情報局(DIA)の現在の推計として、ロシアが短距離弾道ミサイルや、中距離爆撃機に搭載可能な無誘導爆弾、爆雷など2000発の「非戦略」核兵器を保有していると指摘。
ロシアの「ステータス6」計画:新たに大陸間の海中を進む核武装した原子力推進の魚雷を開発中。水中発射のドローンタイプの装置で、数千マイルを進み米国沿岸の軍基地や都市を狙う可能性がある。爆発後は広範な地域で核汚染が発生するように設計。

2018年2月2日
 日韓会談で邦人退避の協力要請へ 平昌五輪後の緊迫化備え
 米政権は、米韓合同軍事演習をパラ後に行う構えで、北朝鮮が強く反発すれば軍事衝突に発展する可能性もあるとの見方が日本政府内で出ている。

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Microwave weapon could fry North Korean missile controls, say experts
https://www.nbcnews.com/news/north-korea/microwave-weapon-could-fry-north-korean-missile-controls-say-experts-n825361

私が提唱しているのは、F-35A、F-35B、F-22Aのステルス戦闘機で敵陣深く侵入し、中国遼寧省丹東と北朝鮮を結ぶ鉄橋「中朝友誼橋」を斬って落とす戦術です。
同時にB-2戦略爆撃機からCHAMPを散布することにより、EMP攻撃を北朝鮮の戦略的重要拠点へ展開し、北朝鮮の弾道ミサイル群を事実上無効化します。
現在、F-35Aがそうであるように、恐らくF-35B、そしてF-22Aにも実弾が装填されている状況でしょう。
この作戦を採るとするならば、バックアップとして、北朝鮮上空への核によるEMP攻撃も準備されていると思われます。

北朝鮮の体制を転覆させるためではなく、正恩氏に道理をわきまえさせるために、1カ所の目標に対して限定的な攻撃を行うことが目的です。

問題はその時期ですが、五輪後なのか、それとも五輪「中」なのか、ということが問題になります。

勿論、他の要素も絡みます。
シリアへの攻撃が取り沙汰されているようです。
常識的に考えれば、「平昌五輪後の緊迫化」が定石となるでしょう。
ただ、孫子に「兵は詭道なり」という言葉があります。
相手に攻撃があるかもしれない、というプレッシャーを掛け続けること自体が抑止力として機能することを考えれば、可能性を論じることの意味は十分にあります。
北朝鮮暴発の危険性に対して、日米はその事態に備えて即応体制を整え続けています。
あらゆる事態に備えた、完璧な準備というのはやはり不可能なことでもあるでしょう。

数多くの判断材料がありますが、あくまでその一つとして捉えて下さい。
私は恐らく世界的にみても、最も先鋭化した意見の持ち主の一人です。
私が予見する状況まで、しかも五輪中に事態が進むことは、かなりのレアケースとなるでしょう。

平昌オリンピックが2018年2月9日から2月25日までの17日間、
次の新月は2月16日(金)6:06

直近の攻撃ウィンドウは2月16日前後ということになります。

この可能性を精査するにあたっては、Donald John Trumpがいかなる人物なのかを分析する必要があるのですが、ここで私の知己である国際関係筋のMonsieur Joe M氏の意見を紹介させて頂きます。

M.Joe M氏の身元に関するご質問については受け付けられません。
ただ、情報分野のプロフェッショナルであることは確約いたします。
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2018年01月14日

エドワード・ルトワック氏、北朝鮮核関連施設への先制攻撃による破壊を主張

エドワード・ルトワック氏/Edward Nicolae Luttwak氏は現代を代表する戦略家の一人です。
2018年1月8日に発表された提言では、北朝鮮核関連施設への先制攻撃を主張しています。

It’s Time to Bomb North Korea
http://foreignpolicy.com/2018/01/08/its-time-to-bomb-north-korea/

南北会談で油断するな「アメリカは手遅れになる前に北を空爆せよ」
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/01/post-9271_1.php

私が『小泉総理 最後の戦略 ver.20060705』を書き上げたのが2006年7月8日です。
http://blue-diver.seesaa.net/article/20451095.html

外科手術的攻撃(サージカル・ストライク)戦術を用いた、北朝鮮の核開発能力の喪失のための物理的排除と、拉致被害者奪還のための戦略を、その4ヶ月後からネット上にエントリーを開始しました。

北朝鮮型核廃棄モデル (1) ver.20061107
http://blue-diver.seesaa.net/article/26918409.html

北朝鮮型核廃棄モデル (2) ver.20070123
http://blue-diver.seesaa.net/article/32193858.html

北朝鮮型核廃棄モデル (3) ver.20070210
http://blue-diver.seesaa.net/article/33380633.html

北朝鮮型核廃棄モデル (4) ver.20070319
http://blue-diver.seesaa.net/article/36293305.html

北朝鮮型核廃棄モデル
http://blue-diver.seesaa.net/article/27254385.html

ブッシュ大統領 最後の戦略
http://blue-diver.seesaa.net/article/101895977.html

北朝鮮型核廃棄モデル revival2017
http://blue-diver.seesaa.net/article/449051792.html

北朝鮮型核抑止モデル since20170911
http://blue-diver.seesaa.net/article/453374907.html

2017年9月11日に書いた最新版では、AI新時代の到来を予期して、電子戦、EMP攻撃を組み込んだサージカル・ストライク戦術の提唱へとブラッシュアップさせています。

EMP攻撃についてはCHAMPと呼ばれる新兵器が噂されています。

2017年12月10日
CHAMP
http://blue-diver.seesaa.net/article/455459456.html

EMP攻撃に関しては、動画が挙がっているのでどうなるか見てみるとよいでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=ac5no3S9bx4
北朝鮮の移動式発射台は使えなくなる可能性があります。

ルトワック氏と私の戦略が類似している点は、
・イスラエルによるサージカル・ストライク・ミッションに言及している点(ルトワック氏は軍事史研究の大家らしく、1981年に行われたイラクへの攻撃も言及していますが、それとともに2007年におけるシリアの核関連施設の爆撃について触れています。)
・韓国の自国防衛に関する不作為は、韓国の責任として切り離し、米国は関知しない点
です。

トランプ大統領が2018年1月10日に、「向こう数週間から数カ月は何が起きるか様子を見る」としています。

2018年1月11日のロイターによれば、

https://jp.reuters.com/article/northkorea-missiles-usa-idJPKBN1F10L5
ここ数日のメディア報道によれば、正恩氏の考えを改めさせるため、戦争に発展するリスクがあっても、北朝鮮に対する限定的な先制攻撃を検討したいとの考えをトランプ大統領が抱いていることを複数の政府関係者が明らかにしている。

だが、米政権内部で意見は割れている。

マクマスター大統領補佐官(国家安全保障担当)は大統領側近の中で最も声高に、より積極的な軍事的アプローチを主張。一方、ティラーソン国務長官やマティス国防長官、米軍指導部は、慎重に外交選択肢を尽くすべきだとの立場をとっている。政府高官5人が明らかにした。

ホワイトハウスの米国家安全保障会議(NSC)担当者は、トランプ政権が「軍事面と非軍事面の双方で、常にさまざまな選択肢を検討している」と述べたが、側近間の意見相違については発言を避けた。

米国防総省は内部の議論についてコメントを避けたものの、広報担当者は、マティス長官が公の場で、北朝鮮危機への対応は外交主導だと発言したことを指摘。国務省は、軍事的選択肢の後ろ盾を持ちつつ外交を追求する必要がある、とのティラーソン氏の発言に言及した。

強硬派のシナリオによれば、北朝鮮の体制を転覆させるためではなく、正恩氏に道理をわきまえさせるために、1カ所の目標に対して限定的な攻撃を行うことが可能だという。政権転覆には、北朝鮮の唯一最大の同盟国である中国の同意が得られないという。

「トランプ大統領は、金正恩氏が唯一理解し尊重するのは、顔面へのパンチ一発だと確信しており、過去の米政権は、それを実行する勇気に欠けていたと考えている」と米政府高官は語った。

「少なくとも、先制攻撃について中国に事前警告すれば、中国政府は正恩氏に米国を脅かすプログラムの停止を強制しようとするだろうと考えている」と、同高官は述べた。


「強硬派のシナリオによれば、北朝鮮の体制を転覆させるためではなく、正恩氏に道理をわきまえさせるために、1カ所の目標に対して限定的な攻撃を行うことが可能だという。」

2017年11月24日
RDY Lightning Raptor
http://blue-diver.seesaa.net/article/455107829.html

その目標は、もし私が米国に進言するとするならば、中国遼寧省丹東と北朝鮮を結ぶ鉄橋「中朝友誼橋」です。

2017年12月13日
トランプ・エルサレム・イスラエル
http://blue-diver.seesaa.net/article/455507363.html
「中朝友誼橋」が封鎖されている影響が北朝鮮経済に与えている影響というのも、評価の対象になるだろう(正確な情報が出て来るかどうかは別にして)。

この封鎖に関するレポートが、米国中枢に挙がっている可能性があります。

「戦略の提唱者であることは、人から好かれるか嫌われるか、非常に極端な形で表れる。
それまで出会った誰よりも深遠な思想家か、それまで聞いた中で一番ナンセンスなたわ言を吐く軽薄な人物、そのどちらかに見なされる。」

11年前には、「それまで聞いた中で一番ナンセンスなたわ言を吐く軽薄な人物」でした。

私の願いは、「自らを鍛え、情報の戦いに耐えうる断片に、可能ならばなりたい」というものでありました。

sanctuary lost THE ORIGIN VI.沈黙
http://blue-diver.seesaa.net/article/455523142.html

敗戦により戦略や戦術とは縁遠くなってしまった国に住まう、無名の人間が独学で行った試みです。

現代最高とも謳われる戦略家が、11年前の私と同じ見解に至ったことで、一つの無謀な試みがここに実証されました。
私はある時点で、戦略家とカテゴライズされる存在になっていたのでしょう(あくまでアマチュアですが)。
私のindividual intelligence warfare/個人の情報戦は、ここに一足早く一つの終わりを迎えたようです。

結末がどうなるのかは分かりません。
ただ、おそらく2018年中に、この11年以上書き続けた戦略は終局へと到達します。
この戦略が有効に機能するのは、北朝鮮の核戦力完成がその期限となります。
時計の針を進めたい中国またはロシアが、北朝鮮に現物に近いものを手渡すことがあれば、この戦略はその時点でピリオドを打つことになります。
その時は、私はどうやら戦略の構築に関するノウハウは持ち合わせているようですので、また新しい戦略を構想することになるのでしょう。
よりベターな着想を得ることができればよいのですが。

私の目的は、
・拉致被害者の方々の帰還
・日本の安全保障
の2つです。
さらに広範な目標を加えるならば、世界を核戦争や核テロ、生物・化学兵器などの大量破壊兵器による破壊から防護することも含まれるでしょう。

これらが為されない限り、私は戦略を構想することを継続しなければなりません。


このエントリーの最後となりますが、我が師と仰ぐ方々、小泉総理、故・浜田幸一氏、松本方哉氏、名も無きネットの人々に感謝いたします。

そして150年前、一つの戦略が選択肢から除外されました。
それは明治維新と世界の歴史を変えうる特異点といってよいでしょう。
小栗忠順公は150年前、旧暦の1月13日に最後の献策を行い、1月15日その任を解かれました。

 「実は、私は、ここ権田村に私学校をつくり、若者たちに数学、外国語、海外事情などを教えたい。ついては、あなた方の村からも、その志がある若者がいたら、推薦してもらいたい。私はここで官軍と争ったりして事をおこすつもりは全くない。平和な前朝の頑民として、教育に専念したいのだ」
――小栗忠順


僭越ながら、小栗忠順公の遺志は、150年の時を経て、ここに小泉総理の新世紀維新として一つの形となったと、この2018年の電脳空間の片隅にて宣言させて頂きたいと存じます。
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2018年01月01日

2018年の新年のご挨拶

新年、明けましておめでとうございます。
今年はどんな一年になるでしょうか。

一応準備をしていることはありますが、情報を管理する上で、お蔵入りするものもあります。
急に事態が動くことも今後あるでしょう。

目的をしっかり定めて、それを阻害する要素は排していくこと。
目的は個々人で違いますので、どこかでそれは行動の違いとして現れることもあるでしょう。

私の目的は、
・拉致被害者の方々の帰還
・日本の安全保障
の2つです。

北朝鮮有事は本命の今年にまで越年しました。
また、今年のある時期(北朝鮮の核戦力完成)を過ぎれば、これまで続いてきた対中国−露西亜の冷戦構造に朝鮮半島が加わる、ということも想定しなければならないでしょう。
まだICBMを含めたトータルな運用は先のようですが、石油密輸を含め、技術的なバックに中国と露西亜がいる以上、いつかは到達するというのは自明の理です。

どのような行動を取るのか、守らねばならないことの優先順位を決めて行動を選択して下さい。

なにぶん本業ではないので、片手落ちになることも多く、不完全なものしかできません。
どうか他のより多くの情報源や信頼できる方で補完してください。

もちろん、私という個人ができる限りのことはやっていくつもりです。
自分の限界が来たら、信頼できる方を繋いで、より大きな力を紡いでください。

テロ、恐怖と猜疑心に相対するためには、日本の強みとしては、社会が育む和と信頼です。

また来年、このブログでご挨拶できることを祈念しまして、新年の挨拶とさせて頂きます。
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2017年12月13日

sanctuary lost THE ORIGIN VII.冷光

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/silence.html
luminescence   ━ 【名】
  【U】 〔理〕 (熱を伴わない)発光, 冷光


 私はこの1年間でいくつかの経験をした。
  何かの参考になるかどうかは分からないけれど、ここに書きとめようと思う。



 一通の返信

小泉総理大臣あてにメールをお送りいただきありがとうございました。いただいたご意見等は、今後の政策立案や執務上の参考とさせていただきます。

 皆様から非常にたくさんのメールをいただいておりますが、内閣官房の職員がご意見等を整理し、総理大臣に報告します。あわせて外務省、外務省、内閣官房安全保障危機管理担当、内閣官房拉致被害者・家族支援室へも送付します。

 今後とも、メールを送信される場合は官邸ホームページの「ご意見募集」からお願いします。

                   内閣官房  官邸メール担当 2004/5/26/09:05



これは、「IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見」の報道のあと、私が官邸にメールした時にいただいた返信だけれど、おかしな点が一つある。

「あわせて外務省、外務省、」

官邸には思えば幼稚なメールを何通も送ったのだけれど、メール担当者の方のこのようなミスは初めてだった。

送った内容は、

・核拡散の危機から世界を守って欲しいこと。
・拉致被害者家族を分断から守って欲しいこと。
・自衛隊、米軍が協力して拉致被害者を救って欲しいこと。

ただのミスなのか、それとも動揺させるような内容だったのか。





「IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見」、この報道を見てから、私は謎解きの鍵を探し始めていた。

"過去へ行くべきだ"

私はそう思い至った。



2004年6月、辿り着いた先。

第百五十一回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説 平成十三年五月七日
(ttp://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2001/0507syosin.html)



私は新世紀維新のヴィジョンを知った。
いや、忘れていたといった方がいいだろう。



小泉総理の就任時、今でもよく覚えている。
田舎の居酒屋に総理のポスターが大きく張り出してあって、その人気の高さを感じ取れた。
私の第一印象は、「この人はやる」という漠然とした直感だけだった。

何をやるのか。
どうやら維新をやるらしい。
その通り、総理。
維新をやらなければ日本は終わりだ。

その時はそれ以上深く考えることもなかった。

その年に、私の中に巣食う病魔は再び活動を活発化させた。
社会的な死というのはすぐ傍にあるものだということを、私は知っている。

敗北の味とは苦いものだ。
病というものは激烈でもなくて稀少すぎると、社会のシステムに居場所を求めようにも、医学的にも手のうちようもなく、何ともやりようがない。

私はこれから何かを手に入れることはないだろう。
手に入れたとしてもそれを維持できなければ意味がない。

あとはこの身体を引きずってどう生きるかということだけれど。

しかれども小栗はあえて不可的(インポシブル)の詞を吐きたる事なく、病の癒ゆべかざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず、国亡び身斃るるまでは公事に鞅掌するこそ真の武士なれといいて屈せず撓まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以って進みて己が負担となせり。



小栗忠順はこう言ったというから、私もこう生きよう。

それが長いものになるのか、案外短いものになるのか、よく分からないけれど。



 浜田幸一氏のこと 

「一つだけ言っておくと(中略)、マスコミなんて(安倍)留任なんて書いているマスコミはみんなバカなんだよコノヤロー。オレが言ってんのに何だよ。オレがTVタックルで言っていることはだよ、オレが本人に確認しなきゃ絶対言わない男だから。何言ってんだよ。」
(TV朝日 『TVタックル』、9/13放送「9/10ハマコー総理官邸へ!小泉総理と何を話したのか!?」<ハマコーは知っていた 安倍幹事長辞任>)



浜田幸一氏、 通称ハマコー氏。
小泉総理に最も近い人物の一人。
ひょっとすると、小泉総理はこの人の声を使って、重要な情報を流しているかもしれない。

もちろんご本人と何かの面識があるわけはない。
ただ、少しばかりの奇妙な縁はある。




投稿日:2004/09/17(Fri) 03:28
・ブッシュ大統領は小泉総理と、金正日の「処理」について頻繁に相談しあっている。



2004年10月4日
「みんなね、本当に国会議員であるならば、いかにしてあの分からず屋のトップを、ここで何とか処理するのかということを、もっと真剣に考えないといけない、これは。」
(TV朝日 たけしのTVタックル、10/4放送<北の独裁体制をどうやって倒すのか?>)



他にもギクリとするような発言があったことがあるけれど、これが一番近かったように思う。

ハマコー氏と私はネットを介して繋がっていたのだろうか。
小泉総理の声と私の声が、この人から発せられていたなら――私には確かめる術もなく、予断にすぎない。



この人は勝海舟のような人に思える。



 インテリンク

2ch 東アジアnews+
 中韓のニュースの把握に最適。外国ニュースならここ。

2ch ハングル板
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  「ですが」で検索できるエクセレントなスレがある。

2ch 議員・選挙板
  小泉総理関係では、通称運スレと実力スレがある。

FNN News JAPAN
  外交の松本方哉 キャスター
  政治の和田 圭 解説委員
  社会の箕輪幸人 解説委員
  文化・福祉の滝川クリステル キャスター
  生活の一部。

日高義樹のワシントンリポート
  米国の考え方を知ることができる。



 情報の光学

 さて戦争当事者が、このような予期せざる新事態に直面して、たじろくことなく不断の闘争を続けてゆくためには、二つの性質が是非とも必要になってくる。すなわち、その一つは理性であって、これはいかなる暗闇の中でも常に内的な光を投げかけ、もって真相のいずれにあるかを発き出すものである。その二つは勇気であり、この微弱な内的光に頼ってあえて行動を起そうとするものである。前者はフランス人の表現を借りて比喩的に言えばクー・ディユ〔「眼の一撃」くらいの意味―訳者〕と呼ばれているものであり、後者はいわば決断心である。

  このクー・ディユについて若干考えてみるに、もともと戦争においては戦闘が最も目立ち易いものであり、そして戦闘においては時間と空間が最も重要な要素となる。このことは、騎兵隊が迅速な決戦を絶えず心がけていた時代には一層よくあてはまるものであった。それゆえ、時間や空間についての測定は敏速かつ的確な決断によらざるを得ず、これはまた正確な眼力によってしか目測し得ないものであった。フランス人がクー・ディユと名づけたのはこれである。そしてまた今日まで、多くの兵学理論家はこの語を右に述べたような狭い意義に限って使用してきた。しかし今日では、戦闘を遂行するにあたって下されるべきあらゆる的確な決断が、すべてクー・ディユと呼ばれるに至っていることは注意しておく必要がある。例えば適切な攻撃点を見定めることなどもこれである。つまり、クー・ディユとは単に肉体的眼力ばかりのことではなく、精神的眼力も指しているのである。もちろんこの語は発生上から見れば戦術の領域に属するものではあったが、戦略においてもしばしば迅速な決断が要求されるものである以上、戦略の領域において使用しても差支えない。この語につきまとっている比喩的で狭量なニュアンスを取り除いてその本質を言うなら、このクー・ディユなる語の意味は、日常的眼力の人にはまったく見えないか、あるいは永い観察と熟慮の末ようやく見得るところの真理を、迅速かつ的確に把握し得る能力のことにほかならない。
  (クラウゼヴィッツ『戦争論』)

予見とは実際には寧ろ遅疑なく現在に処そうと覚悟した人々だけに訪れる光の如きものである。
 ( 小林秀雄  戦争について 昭和十二年――1937年 )

・ブッシュ政権は韓国の姿勢、特に若者層の反米運動に激怒している。韓国は中国よりもロシアよりもイラクよりも悪い。
・米国は金王朝崩壊後の民主国家としてのリーダーとして機能するような人材を探している。
・ブッシュ政権は反米国家である韓国や中国に崩壊後の北朝鮮を任せたいとは思っていない。
・手詰まりとなった六者協議を打開するため、食糧支援を6月に視野に入れており、小泉首相は大変苦しい立場に追い込まれるだろう。
・食糧支援とともに部隊を入れて核査察するという条件を加え、北朝鮮が拒否した場合は西太平洋の米軍に命令を発することになる。

この話を講演会で聴いてあと、情報を整理している途中に、自分の中に冷たいものが存在していた。
様々な情報がフラットに感じられ、熱を失っていく奇妙な感覚。

情報にはある程度の物理法則に似た法則が当てはまるような気もする。
情報が持つ密度、熱、速度。
密度は高く、冷たく、速い。
こういった属性の情報は、強さを持つように思う。
一次の情報源が持っていた相対的な零度に近づけば近づくほど、情報は暴れることを止める。

クー・ディユ:
理性。いかなる暗闇の中でも常に内的な光を投げかけ、もって真相のいずれにあるかを発き出すもの。微弱な内的光。
(クラウゼヴィッツ)

密度は薄く、熱く、昏い。
逆にこういう情報は弱い。

人のエネルギーが注がれたものは熱い。
情報は加熱する。

光は熱を持つものだけれど、クラウゼヴィッツのいう微弱で内的な光とは、熱血漢というより「冷静」「沈着」などを尊重しているように、熱は持たない方が良い。
内的な冷たい光はいかにして手に入れることができるか。

屈折した体験と心情がない者は世の中の表面しか分からない。
(大森義夫 著 『「インテリジェンス」を一匙 情報と情報組織への招待』)

とすると、心の闇を持つことも条件に入る。

心の闇が深い人間の、わずかしかない内的な光を集めるには鏡がいる。
鏡となるのは他者であり、他者の厳しい眼に晒される必要がある。
自己の斫断を繰り返し、無意味なものを削ぎ落とし、自己の限界を知る。
微弱な内的光を頼って「composeされた」情報は熱を失っていく。


(後は小泉内閣が退陣するまでの間、いくつか書いていきます)
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sanctuary lost THE ORIGIN VI.沈黙

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/silence.html
 千里眼たるべし、千里眼となるべし、と僕は言うのだ。詩人は、あらゆる感覚の、永い、限りない、合理的な乱用によって、千里眼になる。恋愛や苦悩や狂気の一切の形式、つまり一切の毒物を、自分で探って自分の裡で汲み尽し、ただそれらの精髄だけを保存するのだ。言うに言われぬ苦しみの中で、彼は、凡ての信仰を、人間業を超えた力を必要とし、又、それ故に、誰にも増して偉大な病者、罪人、呪われた人――或は又最上の賢者になる。彼は、未知のものに達するからである。彼は、既に豊穣な自分の魂を、誰よりもよく耕した。彼は、未知のものに達する。そして、狂って、遂には自分の見るものを理解することができなくなろうとも、彼はまさしく見たものは見たのである。彼が、数多の前代未聞の物事に跳ね飛ばされて、くたばろうとも、他の恐ろしい労働者達が、代わりにやって来るだろう。彼等は、前者が斃れた処から又仕事を始めるだろう

――アルチュール・ランボオ 1871年5月15日付 ドムニイ宛 "見者の手紙"




維新に必要なものを3つ挙げるとすれば、

・外部からの衝撃

・国益に殉ずることのできる、確かな時勢眼を備えた指導者

・新時代の設計図



幕末維新の扉を開けたのは、ペリー提督率いる米国海軍だった。

新世紀維新の扉を開け放つことが可能なのは、おそらく米国海軍以外にはない。



聖域なき構造改革の聖域に入る前に、もう一つの聖域を発こう。

日米関係の原初へと還る。

それが最後の聖域への鍵になる。





 維新の聖域

いよいよ出来の上は、旗号に熨斗を染出すも、なお土蔵付きの売家の栄誉を残すべし

――小栗忠順



小栗忠順は、武士階級がその終焉を迎える時に送り出した幕末の俊英であり、米海軍第七艦隊の母港となる軍港・横須賀の礎を築いた。



小栗が興し、計画した事業
・横須賀製鉄所・艦船製造所(横須賀ドック)の建造。
「軍艦を有する以上は、破損は有中の事なれば、これを修復するの所なかるべからず」
・横須賀製鉄所の運営には必然的に近代的なマネージメントが要求された。小栗は、製鉄所首長のフランス人青年ヴェルニーとともに、組織、職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、自然保護、流通機構などの近代経営方法を導入したという。そのため、「近代的マネージメントシステムの父」とも呼ばれた。
・「六備艦隊」構想。後の連合艦隊に連なる構想で、日本を六つの地区に分け、江戸湾に東海艦隊、函館に東北艦隊、能登に北海艦隊、下関に西北海艦隊、長崎に西南艦隊、大阪に南海艦隊を置く。
・軍制(歩兵・騎兵・砲兵の確立)の充実。歩兵・騎兵・砲兵の三兵隊編成と陸軍教育は非常に優れたもので、桂小五郎(木戸孝允)も「関東の政令一新し、兵馬の制頗る見るべきものあり」と、幕府の軍制を高く評価したと言われる。
・日本最初の株式会社「兵庫商社」や諸色会所(商工会議所の前身)の設立。
「外国人と取引致し候には、何れも外国交易の商社(西名コンペニー)の法に基き申さず候ては、とても盛大の貿易と御国の利益に相申すまじくと存じ奉り候」
(小栗の建白書)
・横浜フランス語伝習場(フランス語専門学校)開設。
・滝野川反射炉及び火薬製造所、小石川大砲製造所の建設。
・湯島鋳造所の改造。貨幣の鋳造所。
・中央銀行設立の計画。
・新聞発行の計画。
・書伝箱(郵便)・電信事業の建議。鉄道建設(江戸・横浜間)の建議。
・ガス灯設置の建議。郡県制度(私案として大統領制も視野に入れての)建議。後の廃藩置県に連なる。
(濤川栄太 著『小泉純一郎を読み解く15章』文芸社 参考)



小栗は1860年1月18日、米海軍艦ポーハタン号に乗り込み太平洋を越える。

これが米海軍と日本との初の共同作業であろう。

小栗はこの時一本のねじを持ち帰っている。



▼赤塚行雄 著『君はトミー・ポルカを聴いたか――小栗上野介と立石斧次郎の幕末』

 慶応二年(1866)、小栗は、小野友五郎に密令を与え、アメリカ海軍と接触させる。南北戦争が終わり、軍艦放出の可能性が高いことに着目しているわけだ。
  小野友五郎は、数学者で、軍艦操練所の教授をつとめ、咸臨丸アメリカ派遣の際には、士官として乗り込んで航海測量を担当した。だから軍艦購入委員長としての渡米は、彼にとっては二回目の渡米になるわけで、帰国後は勘定奉行並に昇進している。維新後は、後でふれる小栗の友人、長井昌信と同じく工部省に出仕し、鉄道建設に従事している。なお、著書としては『尋常小学児童洋算初歩』四巻などが残されている。
  小野友五郎らの一行は、三月十八日、国務長官スワードを公式訪問、四月一日にホワイトハウスでアンドルー・ジョンソン大統領に謁見する。ジョンソン大統領は、万延元年の遣米使節のことにふれ、日本海軍の強化に全面的に協力すると約束する。
  小栗が蒔いた種が実り、ジョンスキン准将やポーター中将が親身になって意見を交換してくれ、装鉄艦ストーンウォールの購入が決まる。これは、当時の世界最強の戦艦で、この一艦で、敵の全艦隊を撃破することができるといわれていた。





小栗は当時最高の知米派と言えるだろう。

小栗は1868年1月13日に最後の献策を行い、1月15日その任を解かれた。




/////

▼司馬遼太郎 著 『竜馬がゆく』

少年時代の小栗には逸話が多い。

 その一例をあげると、十四歳のときに母親の実家の播州林田一万石の領主建部内匠頭の江戸屋敷に父の代理に行った。そのとき藩生や家老をむこうにまわして物おじするどころかいかにも高慢づらで応答し、しかもすでにたばこをくゆらし、たばこ盆をたたく間合までが堂々としていた。なみいるひとびとはこの少年は将来どれはどの巨人になるだろうと舌をまいたという。

 長じて、乗馬、剣にたくみで、幕府役人にとりたてられてからは、上司の無智や惰弱がゆるせないところがあり、しばしば衝突した点、勝に似ている。



十四歳の時、小栗は播磨の大名である建部家を訪れ、藩主に対して臆することなく、「今後の日本は積極的に船をつくり、海外に進出すべきだ」と論じたという。
 (NHK その時歴史が動いた)
その人となり精悍敏捷にして多智多弁、加うるに俗吏を罵嘲して閣老参政に及べるがゆえに、満廷の人に忌まれ、常に誹毀の衝に立てり。小栗が修身十分の地位に登るを得ざりしはけだしこのゆえなり。
  (福地桜痴 著 『幕末政治家』)

/////

ダグラスは父を理想の人格として生涯を通じて尊敬しており、その勇気、指導力、行政能力をそっくり引きついだといわれる。しかし彼は同時に父の資質に含まれていた二つの欠点も引きついでいた。それは、「自分の領域とみなしているところへ文官が口をさしはさむことに対する軽蔑と侮蔑、そして自分の管轄権を越えた問題に対して遠慮ない発言を行なうこと」であった。この父にしてこの子あり。二人を知るものは親子を貫く強烈な個性についてこうもいう――「わたしはアーサー・マッカーサーほど、とほうもなく自我意識の強い人物はないと考えていた――とにかくその息子に会うまではね」(ジョン・ガンサー)
 (袖井林二郎 『マッカーサーの二千日』)

マッカーサーの複雑な人間性を理解しようと大いに努力し、「冷酷で、見栄っ張り、無節操で自意識が強いが、すごい素質、生き生きとした想像力、過去の事例からすぐ学び取る能力を持ち、指導者になるべき人物だ」
  (リチャード・オルドリッチ 著 『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』)

/////

孤高という言葉こそ、いまの小泉首相を表現するに最もふさわしいだろう。「孤独で高傲」とは、まさに小泉首相の立場そのままである。
 (「三十年河東 十年河西」)

/////

改革者はこういった人格に限るようだ。



 小栗は、無口な実行家で、文章もほとんどのこしませんでした。遣米使節のひとびとは多くの記録、随想のたぐいを残していますが、小栗はそういう意味でも沈黙しています。不気味なほどというか、いっそ沈黙がかれの人格表現というか。
  (司馬遼太郎 著 『明治という国家』)





小栗の頭脳は、明治国家の聖域となる。

永遠の沈黙とともに――






▼赤塚行雄 著『君はトミー・ポルカを聴いたか――小栗上野介と立石斧次郎の幕末』

  小栗忠順は、慶応三年元旦から慶応四年四月二日までの一年四ヵ月の間の日記を残している。
  それ以前の日記もあったにちがいないとは思うけれど、この最後の一年四ヵ月の日記が発見されたのでさえ、僥倖といわねばならない。東山道総督府軍は、小栗家にあるものは大砲小銃刀剣から、馬、書画骨董、懐中時計の類まで、目ぼしいものを没収した。没収というより略奪といってよい。その竜巻が荒れ狂ったようなあとに残ったものの中から、当時、東山道総督府軍のお雇いだった男が拾い上げて保管していたのが、この一年四ヵ月間の日記と量入制出簿だったのである。

/////

 元治元年(一八六四)に岩永に生まれ、幼い時、父に連れられて小栗上州公の悲運の最後を見た塚越停春楼(本名芳太郎)は、後に徳富蘇峰の民友社に入り、「国民新聞」の記者となった。その「小栗上野介末路事蹟」、「小栗上野介末路事蹟補正」によれば、この三月四日の夜、川浦、岩永、水沼、三ノ倉の村役人に、次のような意味のことを語ったという。
  「実は、私は、ここ権田村に私学校をつくり、若者たちに数学、外国語、海外事情などを教えたい。ついては、あなた方の村からも、その志がある若者がいたら、推薦してもらいたい。私はここで官軍と争ったりして事をおこすつもりは全くない。平和な前朝の頑民として、教育に専念したいのだ」



▼司馬遼太郎 著 『明治という国家』

 この場合の小栗の心事は、明快でした。武士として説くべきことを説いた。容れられなかった以上は、わが事が畢ったわけで、それ以上のことはしません。政権が消滅した以上、仕えるべき主もありませんから、江戸を去り、上州の権田村(群馬県費渕村権田)というかれの知行地にひきこもりました。

  のち、関東平野に入った新政府軍は、右の権田村において小栗をとらえ、打首にしています。ばかなことをしたものです。新政府は、徳川家とその家臣団に対し、いっさいこれを罪にする、という革命裁判をやっておらず、やらなかったところが新政府のよさですが、小栗に対してだけは例外で、小栗の言い分もきかず、また切腹の名誉も与えず、ただ殺してしまいました。小栗が、おそろしかったのです。小栗の人物は過大に西のほうにつたわっていて、これを野に放っておけばどうなるかわからない、という恐怖が、新政府側にあったのでしょう。このあたり、やることの気品という点では、徳川の遺臣にくらべ、新政府のほうがガラが悪かったようです。

(中略)

 小栗は、福沢諭吉のいうところの「瘠我慢」をつらぬいて死にました。明治政府は、小栗の功も名も、いっさい黙殺しました。





「お静かに――」

これが彼の最後の言葉となった。

1868年4月6日、小栗上野介忠順、斬首。

享年42。



ここに明治という国家の限界がある。

明治維新の設計図を描いたその根源と、そしてアメリカとの最良のパイプ役を、智への畏れから斬り捨ててしまった。



因果は東京裁判に巡ってくる。




▼平間洋一 著 『日英同盟』

 パワー・ポリティックスを支え、同盟条約締結を促進する要素として軍事力が大きな比重を占めるものである。
(中略)

  また、日本は艦艇だけではなく、それを支える後方支援施設なども整備していた。欧米諸国は極東に艦艇を派遣していたが、アジア・太平洋地域で軍艦を整備できる施設や技術、特に乾ドックは日本の横須賀や呉の海軍工廠にしかなかった。
(中略)

  イギリスが日本の後方支援能力に期待していたことは、日英同盟条約の交換公文に「一方ノ軍艦ガ他ノ一方ノ港内二於テ入渠スルコト、及ビ海軍貯炭所ノ使用トソノ安全ト活動ニ関スル事項ニツイテ、相互二便宜ヲ与フベシ」との条項がイギリスの要求によって加えられたことからも理解できるであろう。



▼赤塚行雄 著『君はトミー・ポルカを聴いたか――小栗上野介と立石斧次郎の幕末』

 明治四十五年の夏、小栗貞雄と息子の久一が、連合艦隊司令長官だった元帥東郷平八郎から丁重な招待状を受け取った。
  日露戦争が終結して七年目に当たる年だった。
  (中略)

 「自分が連合艦隊司令長官としてバルチック艦隊に勝つことができたのは、軍事的には、小栗上州公が横須賀造船所をつくってくれたからで、改めて、あなた方にこのことを申し上げたくて、今日お招きしたのです。振り返ってみて、つくづくとそう思うのです。小栗公の先見力と実行力には、本当に頭がさがります」
  そう語り、今日の記念に、自分の書を進呈したいと申し出た。
  貞雄は、その厚意を深く感謝して、折角揮毫していただくのならば、その為書きは、息子の又一の名にしていただきたいと注文した。
  「仁義禮智信 壬子(明治四十五年)の夏 爲小栗又一君 東郷書」
  東郷平八郎は一気に、そう書き上げた。
  (中略)

  驚くなかれ、一九九〇年代に入ってからも、小栗がヴェルニーに依頼して設置したスチール・ハンマーは威力を発揮しており、なんとアメリカの原子力空母インデペンデンスのボイラーを補修するのにも、この機械をつかっているのである。



▼NHK その時歴史が動いた

マザーマシンの設置
  神奈川県横須賀市には、いまも小栗が計画した造船所がその面影をとどめている。そこには、江戸時代に描かれた造船所の設計図もある。
  図面のなかほど、ちょうど敷地の中央にある製鉄所が、最初に建設がはじめられた施設である。そして、その製鉄所のなかに最初に設置された機械がスチームハンマーであった。
  愛称をマザーマシンという。母なる機械と呼ばれたこのハンマーは、造船所を建設するための資材や部品を生み出すためのものであった。元治二年(一八六五)に設置されたこのマザーマシンは、以来平成九年まで、約一三○年にわたって稼動した。その間、さまざまな資材や部品を生み出し続けて、文字どおり日本近代化の母となったのである。

マザーマシン
 幕府はオランダ・ロッテルダム製の〇・五〜三トンまで六基のスチームハンマーを輸入。そのなかで最大の三トンハンマーが、工具や部品をつくるための工作機械を生み出すことからマザーマシンと呼ばれた。





 横須賀ドックは日英同盟締結、日露戦争の勝利、戦後の日米同盟、そして現在に至るまで、日本という国家の防衛の要として、その中心的な役割を果たし続けている。



 政治・政治家ということばは、あたらしい。
 明治後、ヨーロッパ語の訳として定着した日本語である。
 この新鮮な日本語に該当する幕末人の一人は、小栗上野介忠順(一八二七〜六八)であったにちがいない。
(司馬遼太郎 著 『街道をゆく 三浦半島記』 「小栗のこと」)





小栗の死から一世紀の時を経て、横須賀は一人の政治家を送り出す。





最後の聖域へとゆこう。

喧騒を突き放した静寂の向こう側に、小泉総理のヴィジョンと戦略がある。






 維新への戦略



維新に必要な3つの要素



・外部からの衝撃

・国益に殉ずることのできる、確かな時勢眼を備えた指導者

・新時代の設計図





新世紀維新の黒船――

2002年9月17日

この国に衝撃をもたらした、第一次小泉訪朝。



その日から、この国は明確に変化した。
この日から個としての私自身にも変化が始まっていた。




▼司馬遼太郎 著 『明治という国家』

 明治維新の最大の功績者は、まず徳川将軍慶喜だったでしょう。かれは幕末、外国文書では"日本国皇帝"でした。それが、鳥羽・伏見における小さな敗北のあと、巨きな江戸期日本そのものを投げだして、みずからは水戸にしりぞき、歴史のかなたに自分を消してしまったのです。退くにあたって、勝海舟に全権をわたし、徳川家の葬式をさせました。となると、明治維新最大の功績者は、徳川慶喜と勝海舟だったことになります。

  この功績からみると、薩摩や長州は、単に力にすぎません。また、この瞬間の二人にくらべれば、西郷隆盛や木戸孝允は小さくみえますね。





2004年5月22日

第2次小泉訪朝。

敗北に見えたこの訪朝劇は、恐ろしく不可解な事件だった。

不可解過ぎた、という方が私の個人的感想だった。

この事件は、私に巨大な疑問を衝き付けた。

翌日、2004年5月23日

「IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見」の一報が世界を駆け巡る。

私はもともと2chの[東アジアnews+]の住人だったので、幸運にもあるスレッドの流れを読むことができた。





当時の空気を伝えるために、ここに抽出していたものを載せる。

あくまで2004年5月23日から数日の間に行われた議論であることをお断りしておく。





▼小泉総理訪朝の7つの謎

IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見 

訪朝の翌日、平壌宣言を死文化する情報がアメリカからリークされた。これはとあるスレッドを集約した、あくまで推論の集合に過ぎない。だが、北朝鮮による核拡散情報の確度によっては、北朝鮮問題の大きな分岐点になり得る。

・何故小泉総理は訪朝を急いだのか

・何故一国の宰相としてのプライドを捨てた行動に出たのか

・何故日本側から食糧援助を切り出したのか

・何故小泉総理は平壌宣言に固執したのか

・何故ジェンキンス氏への説得に時間を割いたのか

・何故在日朝鮮人への差別をしないようにする、とのコメントを出したのか

・何故政府は日テレの米支援25万トン報道に過剰反応したのか

国交正常化すべきでない」という意見が11%しかない状況の中、小泉総理のとった不可解な行動の裏には、米国大統領選挙と北朝鮮空爆へのシナリオが見え隠れする。



・アメリカ当局、韓国駐留米軍の撤退・削減などを発表(北は、これを非難)
・アメリカ、グアムの基地へステルスなど配備ほぼ完了との情報
・ラムズフェルド 小型核バンカーバスター発言

・米エネルギー省は、ネバダ州の地下核実験場で25日に核爆発を伴わない臨界前核実験を実施。

もう問題は、日朝なんてレベルをはるかに超えている。
人道支援 ⇒ 新たな核疑惑(現在) ⇒ IAEAの核査察 ⇒ 北が拒否(平壌宣言違反)
⇒ 核疑惑を根拠にWFPが支援物資の凍結(日本の古米&薬はWFP経由で送られる)
⇒ 北が核査察を受け入れないことに日本の世論が沸騰⇒ 安部氏あたりが制裁可能と神発言
⇒ 6ヶ国協議に持ち込む⇒ 主要各国の支持を得た上で『経済制裁』

4/1に平沢・山崎訪中「半年後には分かる」
4月+半年 = 10月

7月1日 イラク新政権へ主権移譲完了
アメリカ大統領選挙日程 11月7日 :投票日

イラク戦争からリビアの屈服。そして北朝鮮の核問題まで発展。

北朝鮮からリビアに核物質が渡っていたなら、テロリストにすでに渡っているだろう。だから94年に北朝鮮を崩壊させるべきだった。クリントンは、また歴史に名を残すのだろうか?テロ国家を放置した史上最大の無能大統領として。

北朝鮮攻撃は、イラク戦争の正当性と民主党の瑕疵を同時に訴え得る。

イラク空爆をいち早く支持した日本政府の判断は正しかった。今世紀の重要な国際的懸案「テロリストとの戦い」において、日本は米英とともに指導的役割を果たしたとも言える。それも武力行使すらせずに。

「Xデー」は10月?



リビア・カダフィの全面協力によりもたらされた情報は、世界に衝撃を与えた。

ttp://news.ft.com/servlet/ContentServer?pagename=FT.com/WireFeed/WireFeed&c=WireFeed&cid=1084193682183
The paper said the classified evidence had touched off a race among the world's
intelligence services to explore whether North Korea has made similar clandestine
sales to other nations or perhaps even to terror groups seeking atomic weapons.

北朝鮮による6弗化ウランのリビアへの販売がわかったおかげで、世界中の諜報機関が北朝鮮が他の国にもウランを販売していないか、またテロリスト・グループにはどうかなどを捜査する競争が一斉に起こっている。(フィナンシャルタイムズ、NYT記事の引用記事)

この記事は、NYTだけでなくロイター、AP、AFPなどが報じているので、世界中の主要な新聞にはだいたい掲載されている。もう北朝鮮は核を完全廃棄するか、戦争するかのどちからしかない。

1) リビアが北朝鮮からウラン買ってたことが明るみに出た
2) 日朝会談で、北朝鮮から「核は自衛のため」という言質を採ってあったので、「自衛はウソ」というカードが取れた
3) リビアはヨーロッパ向けテロの輸出国なので、これまで極東核問題に無関心だったヨーロッパが、北朝鮮に対する態度を変える可能性が出た
4) WFP(人道支援をやっているところ)に、核問題を理由にヨーロッパが圧力を掛けると、25万tの米も11億の医療支援も、日本がWFPに送っても、WFPが北朝鮮に対してストップする可能性が出てきた。
5) 日本の人道支援は、あくまでWFPの要請に応えるものなので、米をWFPに送った後、WFPが北朝鮮に送らなくても、日本は約束を履行したことになる。

このニュースの最も重要な点は、北が他の国にも核を売った可能性があるどころか、テロリストにも売った可能性があるということで。
そして、ここが肝心なんだが、テロリストに対しては「核抑止力」が機能しない。テロリストが核を持ったが最後、世界のどの都市でいつ核爆発が起きるかわからんわけだ。これはアメリカのみならず他の国も絶対容認できない。徹底した核査察の要求は必ず行われる。そして、拒否すれば金政権は経済制裁ないし爆撃によって確実に潰される。

核の運搬手段(ミサイル)を持つ国はそう多くない。テロリストが持てばヨーロッパでの使用のほうが簡単。今回の件は中国を拒否出来ない状況に追い込める。
核拡散で一番打撃を受けるのが陸続きのためいくらでも簡単に輸送・移動出来る大陸国、具体的にはEU・ロシアと、ちょっと影響は小さいけど中国。
で、実際にEUが必死になってテロネットワークに流れてないか情報機関を総動員して確認中なんだけど、IAEAの段階で「三大陸八ヶ国に拡散」、かなり危険な状況。
おそらく今週の核拡散防止国際会議で発狂状態のEUからIAEAに「北朝鮮核の絶対阻止」が要求されると思われ、IAEAもかなり瀬戸際なんでそのまま北朝鮮に査察要求となる可能性大。
ここで、現在進行形で中共がEUを口説いている流れがある、ハイテク禁輸を解除させたい状況でEUを激怒させるのは下策中の下策なのに既にそれに嵌ってる、今後北朝鮮を容認すればそれは確実にEUと絶縁を意味する。
外交と、軍事的に中国自身も核テロの悪夢と無縁でない現実があるときに北を擁護なんてあり得んよ。

結局奴等の生き死には日本が握ってるんだよ。これって、北朝鮮がIAEAに加盟していた時の事件だよね。とすれば、かなり重大な掟破りになる。それに世界中がこれだけテロに過敏になっている時期にこの事実の裏付けが取れたなら、もう北朝鮮包囲網をひくしかない。
そして、北寄りの韓国からも資本が大量に引き上げられるだろう。アメリカという世界一執念深いアングロサクソンの国が、裏切りを見過ごすとは思えない。

北朝鮮から濃縮ウランが輸出されたとを、もっとも心配しているのはアメリカとヨーロッパ・ロシア・中国であると思う。

これらの国々ではすでに、テロが発生している。爆薬から核に変わったとしたらどうなるか。

日本と違いこれらの国は対策立案し実行するだろう。テロリストにとって、濃縮型の核は製造の技術レベルのハードルは低い。難しいのはウランを濃縮すること。輸出先を叩くのが一番効果が高い。

しかし既に8個製造済みて・・・
そのうち何個流出したんだろう・・・
マジでヤヴァイって。



・なぜ小泉総理は訪朝を急いだのか

敵を騙すにはまず味方から、を結果的に実践してみせた

今回の訪朝がどうしても解せなかった。

世論を読むのに長けてる小泉(飯島)が、世論が猛反発するのが必至な経済援助&制裁発動無しを、簡単に宣言してしまったのが。いくら年金問題を逸らすためとはいえ、もっと窮地に陥ることは、素人でもわかる援助の確約をどうして容認したのか。
アンチに言わせれば小泉がバカだから、飯島も年金問題でパニくって正常な判断ができなかった、とかいうだろうけど、その程度でパニくるようじゃ政治家なんてやってられないだろ。それに総理にもなる人物でこれまで多くの難問をクリアしてきたのに。

年金問題をもみ消すための訪朝って風潮が、結果的に隠れ蓑になった。金正日に自らの政治生命延命のためと思わせる。経済援助を餌に、家族の奪還と平壌宣言の確認と遵守を取り付けることに成功。

六ヶ国協議、G8サミットを睨んだら土曜の訪朝しか時間がなかった。
この情報が公開される前に会談を終わらせて、被害者を日本に連れ戻さなきゃならない。
実際土曜日の時点で、会談の内容以外に気になってたのはなぜ、その場で被害者を連れ戻したかだ。
単に返すという約束をして、後から迎えに行くのではなく首相と同時に即帰国させたか。
次の日には状況が一変していることを知っていたとすればすべて納得できる。

このニュースが出る前になんとしても訪朝して、空約束しないといけなかったからじゃないかと疑ってみる。
たしか、安保理に既に北非難決議案は提出されてる。
六者協議の経過を見る為に保留という記憶があるんで、一旦再開すればかなり早く決まると思われ。
日本向けはほぼ確実にデコイ。今から日本向けを作るかもしれんがね、もう手遅れだろう。
現時点で、確実ではないが可能性が高いこと。
1. 次回六カ国協議は核問題に絞り、断固とした査察要求が行われる。

または六カ国協議はもう開かれず、一気に国連安保理に提出される。
2. アメリカが開戦した場合、日本は参戦はしなくとも有事に対処できる体制を整えている。

現時点で、どうなるかまだ不明のこと。
1. 国連安保理で北朝鮮問題が提出された場合、中国・ロシアが拒否権を発動するか。

この両国以外は北朝鮮制裁でほぼ同意するだろう。
2. アメリカ開戦前に、北朝鮮への経済制裁のワンクッションが置かれるかどうか。

現時点で確実と思われること。
1. アメリカは、テロリストにまで核を渡していかねない北朝鮮を絶対に放置しない。これはアメリカだけでなく、世界の危機になりかねないから。そして、今度はEUも放置しない。査察要求は必ず行われる。
2. 北朝鮮は査察を受け入れない。受け入れたら最期だから。
3. アメリカとEUは北朝鮮の核を止めるため強硬手段に出る。
4. アメリカは既に、命令があり次第北朝鮮を空爆する準備を整えている。
以上のデータから、近々北朝鮮への攻撃が行われる可能性は高いと結論できる。

状況的には、これで北朝鮮の主張していた「自国内の」「平和的な」核利用が双方とも否定されたわけだから米国の完全非核化に軍配が上がる、北朝鮮的にはそれは絶対に承認出来ないだろうから六者協議は破談確定。
んで、同様にNPT復帰・IAEA核査察も拒否するだろうから国際規約に従うことを明記した平壌宣言もアウト、今回の合意も破談。
ついでに、安保理に提出されてる北朝鮮非難決議案も、中露の拒否権発動はなくなるわけだから多数決で通るだろうし、大統領選挙が近い米国としては武力行使するもよし、経済制裁で国連との関係修復を図るもよし。

山拓へのインタビューで「6月だと思っていた」という主旨のコメントを言っており、6月訪朝で進んでいたのが早まった。
外務省でも訪朝前の準備に実務協議があと2,3回予定していた。しかし、それを飛び越し今回の訪朝になった。
外務省のほうはTVのNEWSで聞いたが、真実なら小泉首相主導で今回の訪朝が決定したと思われる。



・なぜ一国の宰相としてのプライドを無視した行動に出たのか

会談が終わった後の金豚を見送るときの小泉の顔を見た?お前も最後だなと言う余韻があった。

そういや会談後、金正日が「また会いましょう」って言ったのに対して、小泉が無言だったと報道で聞いたんだが。これって…
馬鹿ではないようだから、その意味するところを理解したはず。
アメリカが、まともに交渉する気などなかったということを(北もそんな気はなかっただろうが)。

グアムでの準備、イラクでのくぎり、韓国への失望と見切り。そのための時間稼ぎにしか過ぎなかったということを。
そういえば2002年の会談直後に金豚と握手をしているときの小泉の顔と同じものを感じたよ。

なんか、あらゆるところに罠が仕込んであるのかもしれないと勘ぐれてしまう。
たとえば今回の訪朝、金正日はものすごく居丈高だったらしいじゃない。ほとんど小泉を下僕扱いしていたという。
これすら、わざと相手に居丈高な振る舞いをさせたとしたら?
近い将来、どうしても金正日の方から小泉にお願いしたいことがあっても、金正日は低い態度を取れないことになってしまった。
以前に威張って下僕扱いした同じ相手に頭を下げたら、金正日自身の権威の失墜を示すわけだろ。
権威で生きてる金正日の権威が失墜したら、政権終わり。

今回の件で年金問題を隠れ蓑にしつつ会談を実行し、キムを釣ったばかりでなく、実際に年金問題も同時にうやむやにできた。一石二鳥どころか今回の行動は幾つもの効果を生みそうだ。

金「複雑な事情の中、良くきてくれた」(選挙の票稼ぎご苦労さん)
小泉 (よし、つかみはOK、まんまとつれたぞ)

小泉「米と医療品を人道支援します」
金「(うほほ)人質帰りたければ帰ればいい」
        ↓
    家族連れ帰る
        ↓
北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見、IAEA
(The New York Times: 5/23)   報道
        ↓
小泉「あなた方は平壌宣言破りましたな。人道支援停止&経済制裁を行います」
金「人質すべて返しますので許してくれ」
小泉「帰したければ帰すがいい・・・でも制裁はする」

訪朝もリビアのこと知っていて、早くしたのなら、5人取り返しただけでも成果。「批判は甘んじて」といっているのを見て、小泉批判=>アンチ北朝鮮世論沸騰の転化まで考えているなら策士だな。国内の敵(菅・小沢)もつぶしておいて訪朝、5人の奪還、リビアが発覚で1日にして訪朝批判を沈静化させ、10人問題が残ってアンチ北世論は沸騰、安倍も岡田も制裁。

週末あれだけ批判していた平沼が今日になってぴたりと批判を止めた。それはこのニュースが原因か。それともリークした問題が原因か。それとも世論調査が原因か。西岡氏は昼間のザ・ワイドで「反省します」とまで言ってたらしい。

それはつまり、小泉側から大盤振る舞いをしたときに「小泉必死だな(w)と金正日に思い込ませるためだったと。
普通だったら逆に、「何で自分からこんな大盤振る舞いする?おかしいぞ、何か裏がある」と勘ぐられそうだからな。

年金問題は小泉が訪朝を早めた理由にみせかけるためのだろう。
金豚はすっかりこれにだまされ、小泉は点数かせぎに必死でおれに逢いにくる、うんと援助をむしりとってやれ、と油断させたのだろう。

核放棄「リビアとは違う」=金総書記が小泉首相に

 小泉純一郎首相は24日午後、首相官邸で開いた政府・与党連絡会議で、22日の平壌
での日朝首脳会談の内容を報告した。この中で首相は金正日総書記に核放棄を説得した
際、大量破壊兵器の開発計画を放棄したリビアの事例を引き合いに出したが、金総書記は
「北朝鮮はリビアと違う」と反論したことを明らかにした。 

#どうちがうんだよ>金豚

現在「リビア型で」と米も言ってますね



・なぜ日本側から食糧援助を切り出したのか

被害者の会の副会長が認めたね。勘違いだったと。政府から渡された報告書にはこうあったそうだ。
−平壌宣言及び日朝首脳会談の合意事項が遵守される限り、経済封鎖その他の制裁は行わない−
この日朝首脳会談の合意事項には拉致事件も含まれている。
小泉は最強のカードを切ったわけではなかったんだよ。

北朝鮮への食糧支援はトウモロコシ中心で なるだけ安く[05/25]

トウモロコシでは軍部を宥められない。転売もできない。むしろ庶民に放出される可能盛大。
小泉が口先でどう言おうと金正日を忌み嫌ってる証拠。

厚生・大蔵族の小泉だからできることだな。
農水族の影響が強い議員だと、喜んで国産米を買ってたろう。

食糧支援、文書化しない方針 日朝首脳会議
ttp://www.asahi.com/politics/update/0520/003.html
>日本側が「国際機関を通じた支援であり、政府間で文書化するのはそぐわない」などの理由で拒否していたことが分かった。

「どのような問題についても批判はあろうかと思いますが、私どもとしては国際機関の要請を踏まえて人道支援を行うと。しかも国際機関を通じて行うわけでありますので、見返りとは言えない。米国も人道支援を行っております。韓国も行っております。人道上の支援、日本としても国際社会の応分の責任を果たしていきたいと思っております。」と言っている。
「国際機関の要請を踏まえて」「国際機関を通じて行う」「国際社会の応分の責任」と言ってる。
つまり、言い換えれば「国際社会の動きに応じて」の援助であって、「国際社会が制裁賛成に回れば方向を変える」とも読めるんだよ。
さらに、「見返りとは言えない」、つまりこの援助は拉致被害者返還の代償ではなく、それとは別に行うものだと言ってる。そのまま読めば、ただでくれてやるという意味に取れるが、もしも国際世論が制裁賛成に回ったら「国際社会の要請に応じて、食糧援助は止めます。え?家族を返したのにそれはないって?おかしいですね、この援助はもともと拉致の代償じゃなく別物という話だったでしょ?」と言えるわけだ。
恐ろしく深読みが可能な内容だ。・・・馬の鼻先に人参より悪質だ。小泉、鬼だな。

世界食糧計画(WFP)が支援する北朝鮮住民100万人に対する食糧配給が今年5月から中断されたと伝えられた。
24日、WFPの週間報告書によれば、WFPは国際社会の食糧支援不足により、5月初めから北朝鮮の中核支援対象100万人以上に対する食糧配給を中断している。
 また、追加の寄付の約束がない場合、今年10月からは380万人余の中核支援対象全員に対する配給も中断される見通しだと、WFPは懸念した。

>ならないの。
>小泉が約束した身代金は平壌宣言とは切り離した約束なんです。

その通り、日本は人道支援を行う。止めるのはWFP。

WFPはIAEAと同じく国連の機関。日本が支援してもWFPが止めたら届かない
WFPがどういう決定をするかは・・・・


・なぜジェンキンス氏の説得に自ら当たったのか

アメリカがすんなり恩赦とかすると、何か有ると思われるから米は、あえて強行発言を行ない、日本も第三国(中国とか)で、面会(出国)する形をとった。同時に、10人やその他の関しても、全てを急がせると怪しまれるので、1ヶ月ぐらい後に、生存者が帰国するように持ていっている。タイムリミットは、大統領選の11月の3〜4ヶ月前の7〜8月。最初の訪朝予定はもっと遅かったんだろ?確か6月とか何とか・・・平沢は8人帰国の情報は得ていた。しかし、5人帰国とは想定外。安倍氏も平沢と同程度の情報を得ていたんだろう。口では首相をかばっていたが、批判したいのは見え見え。平沼ら拉致議連は小泉首相を批判。会談後、小泉がリストをチェックしたのは連れて帰れる人数=空爆を回避させられる人数をチェックしていたと・・・


家族会の批判を甘んじて受けると言った、小泉の心中も如何ばかりのものだったろうか…
もし、小泉がこれを本当に知って居たんだとしたら、金が去った直後の厳しい顔みると、なんか、苦しいな・・・。
この言葉の意味が、やっとわかってきた・・・・
「甘んじて」
ここ重要だな
人間小泉として、家族救出。政治家小泉として、残った家族や被害者は生死すら黙殺。
400人にものぼるという拉致被害疑惑者すら、戦争ということで切って捨てた可能性もあり得る
という点では、政治家として国益尊重したという点で、既に十分怖いと思う。とても運任せでやったこととは思えないし。

核拡散は御旗としては最上級ですから。

ジェンキンスさんたちを説得しているときの総理の心境は、
ユリウスよロシアを出ろと言ったユスーポフ候の如きものであったのだな…
…間に合うといいけど。


・なぜ小泉総理は平壌宣言に固執したのか

首相官邸のページに小泉の会見があるから見てご覧。
ttp://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2004/05/22press.html
なぜか、くどいくらいに「平壌宣言の重要性」を強調している。
匂わないか?



Q.制裁は出来るの?国際条約上の「確認」は法的拘束力がないって本当?
A.英文ではconfirm 法学的には条約・協定などの「承認」を意味するので、拘束力がありますがなにか?

Q.リビアにウランを提供したのが2001年なら平壌宣言の前になるけど・・?
A.平壌宣言に国際規約(NPT復帰・IAEA核査察)に従うことを明記してあるので、北が『核査察を拒否すれば』平壌宣言を破ることになります。

Q.でも米は送るんだよね?
A.日本は約束通りWFPを通して支援します。人道支援ですからね。ただし国際機関であるWFPが核疑惑を根拠に支援を凍結するかもしれません。その場合でも日本は約束を果たしたことになります。

Q.リビアが核を持つとどうなるの?
A.リビアはヨーロッパ向けテロの輸出国だったので、これまで極東核問題に無関心だったヨーロッパが北朝鮮およびロシアに圧力をかけてくると思われます。また核拡散を絶対に許さないアメリカが強行な手段をとるかもしれません。

Q.小泉首相はIAEAの調査を知ってたの?
A.スレ的には「知っていた派」が多いようです

Q.これから先、どうなっちゃうの?
A.IAEAが核査察を要求し、北朝鮮がそれを拒否することは間違いないでしょう。その結果は6カ国協議に持ち込まれると予想されます。ここで協議が破談になれば舞台は安保理に移り、北朝鮮非難決議案が焦点になります。拒否権を持つロシアと中国がどう動くかは分かりません。





・なぜ在日朝鮮人への差別をしないようにする、とのコメントを出したのか

北が日本の朝鮮総連への課税や万景峰号の検査に対し緩和を迫る論拠を獲得
ttp://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040522i113.htm
今後の日朝正常化交渉、総連幹部参加へ 北朝鮮が決定
ttp://www.asahi.com/politics/update/0523/003.html

これって来るべき第二次朝鮮戦争に今までどっちつかずだった朝鮮総連を、北の出先機関であることを彼ら自身に認めさせる事で戦後の処分決定の事実のひとつにするための布石か?
総連は今まで自分たちが置かれた状況によって立場を使い分けてきたわけだ。
拉致が明らかになると「私たちは北朝鮮とは関係ない」。

で、課税されそうになると「施設は北朝鮮との実質的な外交使節云々・・・」。
で、日本国内で総連主導で日朝の友好を促進するっていう条文を盛り込ませたって事は
「総連は、今後北朝鮮からの意向を受けて在日の環境を整えていきます」

って、政府は総連にこう言わせたかったんじゃないかな?
ぶっちゃけていうと、「私たち(総連)は、北朝鮮と密接につながっている機関ですよ」と

マンギョンボンが遠心分離機部品を密輸したこと、その密輸会社が総連幹部のだと
いうことは立件済み。
そして今回の「朝鮮総連は今後の国交交渉に正式窓口として立ち会う」。

中国は半島が完全自由化される事を危惧しているよ。北と台湾は、中国にとって、アメリカとの緩衝材になってるからな。
アメリカも、中国と直接対峙する環境は好まないだろ。だから、半島を統合することを喜ぶ国はほとんどないのが現状。
南鮮自身が、今統合なんて言われたら、経済的な打撃が大きすぎて持たない。当然、応援は日本に依頼される。
そんなことで、日本経済が重荷を背負う事をアメリカが喜ぶとは思えない。

小泉が金の軍門に下ったと思いこんで色んな所が「評価」してしまったからね。

しかし実際は北への攻撃の準備が着々と進んでいる事を知ることになる。

で、「騙された」と思い込んで、八つ当たり気味の小泉批判。

私怨と言うか逆恨みというか・・・まあ前の状態に戻っただけと言う噂もある。

逆にこれを知ってたから、ここまで焦ってたんだろうね。核問題が表面化してしまったら、拉致家族どころではなくなる。
先に取り返せる人だけ取り返しておいたんだろう。



・なぜ政府は日テレの米支援25万トン報道に過剰反応したのか

訪朝のときに年金未加入の誤報を流したのは飯島秘書官。日テレのスクープに切れて排除しようとしたのも飯島秘書官。
普通は官房長官がすることを何故今まで裏方に徹してきた人間がしゃしゃり出てきたのか?
少なくともこの2つの件で北朝鮮は小泉に圧倒的に優位な条件で会談に臨んだ。

重村先生がテレビで言ってたような。自民党の中に小泉訪朝を阻止したい奴がいて、北朝鮮に働きかけたらしい。
その事を北朝鮮が小泉首相側リークしてきたって。確かそんな内容の事を言っていたと思う。
やっぱ自民党内に小泉政権転覆を狙っている奴がいるんだろう。当然わざともらしたのだろう。
今後日テレの情報に注目だ。
政府(小泉)の意図が表れているかもしれない。やっぱ6月まで待てない緊迫した何かがあったんだろうよ。
小泉レベルでしか手に入らない情報が。6月まで待つと状況が悪化して取り戻せなくなる可能性。

そういや日本の援助スクープしたの日テレだよな。自民党の御用報道機関が何故って思ったんだよな。
情報源が政府なら?茶番なら?
日テレへのリークは自作自演だとしたら「米25万トンが確実にもらえる」って思わせるためか?



・北朝鮮、イラク。アルカイダと朝鮮総連

国際"911以降、危険度最高" 「今夏、大規模テロ」の信頼性高い情報

 政府高官は「テロリストが米国を攻撃して深刻な打撃を与えようとしていると
 警鐘を鳴らす確かな情報がある」と指摘。テロリストが通常爆弾とは比較に
 ならない大きな被害を与える生物・化学兵器や放射性物質を使った兵器を
 使用する可能性を懸念している。

「放射性物質を使った兵器」

ほいでもって、マジで実行されたら・・・
出所はどこよ?ってことになったら・・・

北爆決定だな。米世論はおそらく正常な判断力を絶対に喪失する。

入港禁止法成立へ チャーター船も対象 与党・民主修正合意
ttp://www.sankei.co.jp/news/morning/26iti003.htm

日本側の法整備も進展中

ttp://news.xinhuanet.com/english/2004-05/26/content_1490337.htm
US sends radiation detectors to Athens Olympics

新華社;アメリカはギリシャ・アテネに放射線検知器をプレゼント

アテネを訪問中のアメリカ、エネルギー省のSpencer Abraham長官は、オリンピックに
向けての警戒強化のため、放射線検知器をプレゼントした。これは携帯型の高性能の
放射線検知器で核物質の捜索などに有効とされている。これに関連してギリシャの原
子力エネルギー委員会のLeonidas Kamarinopoulos委員長はギリシャの7つの空港、12
の国際港、13の国境検問所に放射線検知システムを設置すると語った。
タイムリーなプレゼントですこと。

日本で拘束されたアルカイダ4人に関しても
もしかしたらこの壮大な歴史の流れを構成する一部分かも知れないね。
日本国内にいる北朝鮮勢力から武器の横流しを受けていた可能性も
否定できないし・・・

武器だけだといいんだけど、よりによって新潟なんだよね。
マンギョンボン号の核資材密輸事件といい、北朝鮮だけじゃなく朝鮮総連の核テロリストと
しての対処も国際問題に既になってるのか?、とちと不安。

最悪の事態を考慮すると、既に核が日本に持ち込まれ
総連に渡っているという可能性も……。

そういや、新潟だったな
なんで新潟なのか、疑問に思っていたが
なんでアルカイダ関係者が新潟を拠点に・・・・

いや、総連が持ってるってのは「総連が日本国内で核を移動させる」ってことなんで、
高確率に公安含む警察組織が捕捉出来る、そっちの心配はあまり必要じゃない。
ただ、船舶というのはある種の治外法権を持っているのは確かで、つい最近までは
マンギョンボンがそれを悪用していた事実もある、特にマンギョンボンによる核資材密輸で
総連幹部が検挙されてる現実がある。
マンギョンボンで核を日本近海まで輸送、港湾内で闇に乗じて/領海外で監視を逃れて
積み替えて、てのは十分危惧される状況では有る。
あと、足利銀行が北朝鮮への送金窓口として新潟でも有名だったこともやはり洒落に
ならない状況と思われ、マネーロンダリング、それも核マネーに関わってたりすると・・・。(鬱

そうやって一つ一つ検討して行くと、アルカイダが新潟で逮捕されたこと、昨年の核資材
密輸検挙や足利銀行破綻&公的資金導入による公営化、マンギョンボンに北朝鮮が
こだわったことや朝鮮総連捜査に関する疑問と今回の総連引っ張り、様々なことに
全く別の側面が見えて来るわけで。

だからマンギョンボン。
指導船長だっけ?、行ってみれば工作員の提督みたいな立場だから朝鮮総連議長より格上。
また、船舶としての治外法権もある、北朝鮮との物資のやり取りもある。
次点の要素としての足利銀行、日本で殆ど唯一の北朝鮮送金機関。
ここから北朝鮮にパチンコマネーを送ってたのは有名だけど、このやり取りの過程で
マネーロンダリングの要素も噛む可能性大。

マンギョンボン→新潟のアルカイダ→世界各国のアルカイダ→世界同時核テロ
(もちろん日本も含む)簡単に言うとこういうことでつか?

総連とアルカイダの糸が繋がれば、この前のイラク3馬鹿もぁゃιぃ線で繋がりそうだw
捕まった本人達は踊らされただけかもしれんが、それに伴う市民団体の動きとか諸々。
総連・アルカイダ・プロ市民(赤軍派)のトライアングル。…まぁ、話が飛躍しすぎかw

もしこれが事実だったとすると、日本国内での法整備を進めてこなかった事
に対して各国からの非難が集中するって事は考えられないかな?
核資材輸出に関して総連幹部の逮捕はしたが、それ以前に
なぜ防止できなかったかって事に。

それを逆に利用して、国内にいる社民や共産、プロ市民団体など北朝鮮シンパの連中を
根絶やしにするというシナリオに転化させることもできるけども・・

北朝鮮とアルカイダを結ぶ仲介役に日本の極左組織が大きな役割を果たしてたとしたら
それを見過ごしていた責任はやっぱり日本という事になりそうな悪寒…

日本がこのまま自浄作用を発揮しなければ、海外からの責任追及に答える為に
色々な面でかなりの損失を覚悟しなければならない状況に追い込まれるかも。

核テロからアテネ五輪守れ…IAEAが共同行動計画 (読売新聞)

【ウィーン=島崎雅夫】国際原子力機関(IAEA)は25日、今年夏のアテネ五輪を
狙った核のテロの脅威に備えるため、核施設の安全度向上や核関連物質の違法移転の阻
止などを盛り込んだ「共同行動計画」を発表した。

同計画はギリシャ政府からの要請で、IAEAが1年前から五輪組織委員会などと協議
し、策定した。

それによると、IAEAは、ギリシャの首都アテネ近郊にある研究用原子炉の防御施設
の安全性を向上させるとともに、ギリシャ国内6都市の医療、工業用施設で使用されて
いる放射性物質の保管体制を強化した。

また、万一、テロリストが放射性物質を入手した場合は、同物質を通常の爆弾で爆発さ
せる「汚い爆弾」を製造する危険性があるため、IAEAは、国境地帯や主要幹線道路
に放射性物質の感知器を設置、数千人の警備担当者や税関職員には放射性物質の簡易感
知器も配布し、水際で核のテロを防ぐ体制を整備した。

米国やフランスなどIAEA加盟国が感知器や核技術を提供したことから、IAEAの
エルバラダイ事務局長は、その「広範な協力体制」を評価し、「過去に前例のない」共
同行動計画の意義を強調した。 26日14時20分
ttp://news.www.infoseek.co.jp/world/story.html?q=26yomiuri20040526i206&cat=35
どうみても本気にみえる・・

新潟って、テロの巣窟と違うかなあ。
横田めぐみさんをはじめ、曽我さん、蓮池さんなども拉致事件は
あそこで起きてるし、万ピョウ何とかという貨客船はあそこの港に
ヨコずけになるし。
スパイ機関朝鮮総連の活動も活発だし。
アルカイーダも北朝鮮のスパイも皆、水面下では握手してますからね。

そこの有力者が田中フアミリーですよね。
田中真紀子氏、小泉総理訪朝について、もったいぶったコメント
してたけど、どうも臭いなあ。


新潟の闇に包まれた不審なあれこれも、このアルカイーダの幹部逮捕で、
かなり炙り出されて、オモテにでてくるのではないかな。
   ・
   ・
   ・
   ・







金正日を見送る姿――戦後の日本外交史上最も醜く、不気味で恐ろしい場面。

恐らく此処に、日本戦後政治の極点がある。

小泉総理の胸中はいかなるものだったのだろうか。





一つの疑問。

小泉総理はその情報が翌日に出ることを知っていたのか。



 国交正常化を進めようとする日本。一部に小泉総理は国交正常化を急ぎすぎているとの批判があることに対しては――

パウエル国務長官
「小泉首相はとても慎重に対応していると思う。米国としては小泉首相の手法を支持している」
  (2004年8月16日 FNN News JAPAN)



その後のアメリカ政府の小泉総理への対応ぶりがその答えを物語っている。

答えは"yes"といって差し支えないだろう。





次に起こる疑問。

何故訪朝したのか。

何故米国は小泉総理の対北朝鮮外交を評価しているのか。

何故その情報を会談で使うことをしなかったのか。

敵地でむざむざ敗北の姿を晒すために?





単純な事実だが、重要なポイントは二つ。

これら一連の対北朝鮮外交は、2001年9月11日の後に行われていること。

もう一つ、これらの外交を仕掛けたのは小泉総理であること。















何のために?















拉致被害者救出のためだけではない。

北朝鮮の核・ミサイル問題の解決は、日米両国にとっては勿論のこと国際社会をテロから守るためにも行われなければならなかった。



聖域なき構造改革の表の顔が郵政民営化ならば、裏の顔は対北朝鮮外交といっていいだろう。

そしてその真の目的とは、先に述べたように新世紀維新に他ならない。



聖域なき構造改革とはつまり、「維新への」構造改革である。



維新の風をわずか一代で、しかも4−6年の間で興すためには?





▼塩野七生 著 『マキアヴェッリ語録』 

 人は、ほとんど常に、誰かが前に踏みしめていった道を歩むものである。先人が行なったことをまねしながら、自らの道を進もうとするものだ。
  それでいながら、先人の道を完璧にたどることも、先人の力量に達することも、大変にむずかしい。それで賢明な人は、踏みしめた道にしても誰のものでもよいとはせずに、衆に優れた人物の踏みしめた道をたどろうと努め、そのような人の行動を範とすべきなのである。たとえ力量ではおよばなくても、余韻にぐらいはあずかれるからだ。
  言ってみれば、これは、慎重な射手のやり方である。的があまりにも遠すぎ、自分の力ではそれに達するのが不可能と思った場合、射手は的を、ずっと高いところに定める。狙いを高く定めることによって、せめては的により迫ろうとするからである。

――『君主論』

 宗教でも国家でも、それを長く維持していきたいと思えば、一度といわずしばしば本来の姿に回帰することが必要である。
  それで、改革なるものが求められてくるのだが、自然に制度の改革ができる場合は、最も理想的である。だが、なにかのきっかけでその必要に目覚め、改革に手をつけた場合も長命だ。
  つまり、はっきりしていることは、なんの手も打たずに放置したままでいるような国は、短命に終らざるをえないということである。
  改革の必要性は、初心にもどることにあるのだが、なぜそれが有益かというと、それがどんな形態をとるにしても共同体であるかぎり、その創設期には必らず、なにか優れたところが存在したはずだからである。そのような長所があったからこそ、今日の隆盛を達成できたのだから。
  しかし、歳月というものは、当初にはあった長所も、摩滅させてしまうものである。そして、摩滅していくのにまかせるままだと、最後には死に至る。
  本来の姿にもどることは、共和国の場合、自発的判断の結果か、それとも外からの圧力によるかのどちらかであることが多い。
  だが、共同体の活性化というこの問題を論ずるにあたって、やはり必要に目覚めた人々の苦労によって為されるほうが、外からの圧力によって無理強いの形で為されるよりも、良策と信ずる。

――『政略諭』

 なにかを為しとげたいと望む者は、それが大事業であればあるほど、自分の生きている時代と、自分がその中で働かねばならない情況を熟知し、それに合わせるようにしなければいけない。
  時代と情況に合致することを怠ったり、また、生来の性格からしてどうしてもそういうことが不得手な人間は、生涯を不幸のうちにおくらなくてはならないし、為そうと望んだことを達成できないで終るものである。
  これとは反対に、情況を知りつくし、時代の流れに乗ることのできた人は、望むことも達成できるのだ。

――『政略論』

 しかし、時代の流れを察知し、それに合うよう脱皮できる能力をもつ人間は、きわめてまれな存在であるのも事実だ。

――『政略論』

 優れた指揮官ならば、次のことを実行しなければならない。
  第一は、敵方が想像すらもできないような新手の策を考えだすこと。
  第二は、敵将が考えるであろう策に対して、それを見破り、それが無駄に終るよう備えを完了しておくこと、である。

――『政略論』

 行動ともなると、遠くに離れていては予知など不可能なものだが、計略の予知ならば、離れているほうがかえって有利なものである。

――『政略諭』

 戦闘に際して敵を欺くことは、非難どころか、賞讃されてしかるべきことである。
 人間生活一般において人を欺す行為は、きわめて憎むべきことだが、戦時は別だ。戦闘状態の中では、策略をめぐらせて敵を欺き、それによって勝利を得るのは、正面きってぶつかっていって勝利を収めるのと同じくらいに、賞讃されてよいことと思う。
 このことに関しては、歴史上の偉人の伝記を書く作家たちも同意見のようである。
 彼らもまた、策略によって勝ったハンニバルやその他の人たちを書くとき、非難どころか誉め讃えたのだから。
 ただし、わたしは、次のことは言っておきたい。
 すなわち、欺くことはよいことだと言っても、それは、信頼を裏切ることでも結ばれた条約を破ることでもないという一事である。
 なぜなら、この種の破廉恥な行為は、たとえそれによって国土は征服できても、名誉までは征服できないからである。
 だから、わたしの言っているのは、あなたとはもともと信頼関係にない相手に対しての、欺きについてである。つまり、戦時下のそれだ。
 たとえば、ペルージア湖のほとりで逃げるふりをして、ローマ軍の包囲に成功したハンニバルのやり方である。彼はまた、ファビウス・マクシムスの包囲網から脱出するのに、牛の角にたいまつを結わえつけて、ローマ軍を欺いたのであった。

――『政略論』

 祖国の存亡がかかっているような場合は、いかなる手段もその目的にとって有効ならば正当化される。
  この一事は、為政者にかぎらず、国民の一人一人にいたるまで、心しておかねばならないことである。
  事が祖国の存亡を賭けている場合、その手段が、正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞讃されるものか恥ずべきものかなどについて、いっさい考慮する必要はない。
  なににもまして優先さるべき目的は、祖国の安全と自由の維持だからである。

――『政略論』



▼小林秀雄  戦争について 昭和十二年――1937年

 歴史は将来を大まかに予知する事を教える。だがそれと同時に、明確な予見というものがいかに危険なものであるかも教える。歴史から最大の教訓を知らぬ者だ。歴史の最大の教訓は、将来に関する予見を盲信せず、現在だけに精力的な愛着を持った人だけがまさしく歴史を創って来たという事を学ぶ処にあるのだ。過去の時代の歴史的限界性というものを認めるのはよい。併しその歴史的限界性にも拘らず、その時代の人々が、いかにその時代のたった今を生き抜いたかに対する尊敬の念を忘れては駄目である。

 この尊敬の念のない処には歴史の形骸があるばかりだ。

 現在は将来の予見の為に犠牲に出来る様なものではない。予見とは実際には寧ろ遅疑なく現在に処そうと覚悟した人々だけに訪れる光の如きものである。歴史は断じて二度繰り返されるものではない。スペインの政府軍が勝っても、フランコ軍が勝っても、ロシヤのモデルもドイツのモデルも繰返される筈はない。支那が将来スペインのモデルを繰返す筈もないのだ。


これは正確にいえば、回帰ではない。

何故なら、かつてこの維新は完遂されなかった。







維新へとこの国を向かわせる3つの策。



衝撃と、屈従と、そして――



新世紀維新への戦略を決定づけるもの。









維新の構想を描いた小栗忠順。

彼が遺した、最後の策を組み入れる。





▼司馬遼太郎 著 『明治という国家』

 江戸開城の前夜、小栗は主戦派でした。

 主戦派がいいとかわるいとかではありません。小栗の心映えというものは、じつに三河武士らしいということをいっています。かれは、薩長から挑戦されてなぜ戦わずして降伏するのか、戦って、心の花を一花咲かせるべきではないか。福沢のいう「瘠我慢」であります。

 小栗の作戦は、こうです。

 薩長軍――新政府軍――は、長蛇の行軍隊形をつくって東海道を東へ東へと進み、箱根をこえて、関東平野に入ります。その行車中の部隊を、静岡県下の東海道でもって、寸断してしまう。その方法は、日本最大の艦隊をもつ徳川方が、駿河湾に海軍兵力をあつめ、艦隊で東海道を射撃しつづけるのです。ある程度の新政府軍はぶじに通過させる。半ばあたりから、これをやるのです。ぶじ通過した新政府車を、関東において袋のねずみにしてやっつけてしまう。

  あとで、新政府軍の総司令官である大村益次郎が――この人は新政府軍唯一の名将だった人ですが――これをきいて"もし徳川方がこれを実施すれば大変なことになっていたろう"といったといいます。おそらく歴史はちがったものになっていたでしょう。









何故ならば、最高の聖域が守護しているものは軍事力だからだ。

マッカーサー司令官の下で国会を監視する任務についていたウィリアム・ジャスティン中佐
「日本は憲法を変えることが出来ないだろう。我々は占領が終わったあと日本人が直ちに憲法を変え、ふたたび軍事国家になることを恐れていた。だから日本人が憲法を変えられないように、さまざまな条件をつけてがんじがらめにした。」
(日高義樹 著『日本人が知りたくないアメリカの本音』)



自衛隊は未だ軍ではない。

小泉総理の政治生命を賭けて送り出された、イラクへの自衛隊派遣。





西太平洋に展開する米軍。





幕末維新の歴史は、江戸城無血開城という形で一つの終幕を迎えた。

歴史は旋転する。





米朝が戦えば、必ず米国側が勝利する。

小泉総理は強硬な外交を主張しない。

何故ならばこの日米の戦略の中心にいる。



小栗と小泉総理が同じ立場であるのは、極東において軍事力を行使するという根源的な決定権を持っていないことだ。

そして違う立場である点は、日本国の最高責任者であるという点。

小泉総理には自衛権の行使に踏み切る責任と権限がある。





小泉総理はここまで忍耐を重ねた。

すべては最後の一手を打つために残されているから。





150年の時が構築した日米関係、歴史、軍事力、経済力、政治、戦略、情報――

すべてを使い切る。





この戦略で何を討つのか?



人、勢力、制度、思想、精神?





―― 戦後という時代

60年という時間 ――





これから予想される動きは、

・北朝鮮の核開発問題の国連安保理への付託

・米国海軍第七艦隊を中心とした海上封鎖

・国内のテロ組織への破防法適用

・最悪の場合、北爆







衝撃波は繰り返し聖域を襲う。

かつて封建制度に終幕をもたらしたように、再び米国海軍によって。

それをこの国に止める術はない。

半世紀前そうだったように。





沈黙が叫びをあげ、古い聖域は破壊される。

破壊され、生成され、構築され、――

――人々の中に繰り返し反響してゆく沈黙

そして、新たな聖域が形成される。



人の想像力以上のものはない。

国民の意志が、国を在るべき処へ運ぶ。



かつて、マッカーサーがそうしたように。



この国には幸運にも、維新という変革への概念が、人々の中に根源的に存在している。



これから、今後数十年の維新の始まりになる。

それは長く、凄絶な道程となるだろう。

約束の地は、楽園ではない。





2001年4月26日。

85%の支持率という国民の意志により、新世紀維新への扉の前に、この国は立った。







小泉政権の終焉は、新世紀維新の幕開けを告げることになる。







私は、この門の前でもう一度立ち止まる。

果たしてこれが聖域の果実だったのだろうか、と。










孤高の宰相



 英雄のまわりではすべてが悲劇になり、半神のまわりではすべてが茶番劇になり、そして神のまわりではすべてが――さて、どうなるのか。もしかすると〈世界〉にでも――

――フリードリッヒ・ニーチェ《善悪の彼岸》




ダグラス・マッカーサー

沈黙の支配者

姿の見えぬ半神の周りで騒ぐ人々

すべては茶番劇







小栗忠順

沈黙の犠牲者

英雄の悲劇

清冽な精神と偉大な事業







小泉純一郎

沈黙の破壊者

神でも半神でも英雄でもなく

この国のこの時代を担った宰相





拉致被害者の人々に同情を示せないほど私は不幸ではないし、

小泉総理がサンパウロで流した涙の理由を忖度できないほど、私は疎いわけでもない。





 知識階級という様な言葉を知らなかった明治の知識人は、自分の責任に於いて知識を愛し求める術をよく知っていた。そして知識人の選良が期せずして到達した大問題は、わが国の伝統的文化と新しい西洋の文化とをどういう具合に統一したらいいかという事であった。漱石も鴎外も一生涯この問題に悩んだ。福沢諭吉も言った様に、日本の知識人の生は二重になっている。この大問題を離れてこれからの日本の文化の個性だからだ。敗戦による反動から、何かと言うと国際的という言葉を喜んで使っているが、個性のない文化なぞ全くなさぬ、cultureとtechniqueとは異うという事にやがて皆が気付く時が来るであろう。日本の文化の個性というものを観察すれば、恐らくこれほど複雑な異質な諸文化を背負うた知識人は世界中にないと思うだろう。封建主義の清算なぞと高を括っていても何んにもならぬと悟るだろう。
  (小林秀雄  知識階級について 昭和二十四年――1949年)









小栗忠順の遺した精髄は、最後に残した戦術よりも、もっと上位のものだ。



未来への透徹したヴィジョン、それを具現化した物理的遺産、誠忠な献身、戦略的思考。





そして、意志。





先人の遺志を受け継いだ人から、私はその遺産を受け取る。





中国や米国は敵であって敵ではない。

国益を最大化する上での選択は何か。

その選択の上で、障害となるものを排除する。

障害でないかそうでないかを分けるものが認識と指導者のヴィジョンであり、障害を排除するものが戦略と呼ばれる。





・小泉政権において、

・北朝鮮が関連する、

・日本の有事。





この条件下でのみ、私が書いたことが意味を為す余地があるかもしれない。

それ以外には意味は無い。





私は硬質なものに、無機的なものになろうと考えた。

自らを鍛え、情報の戦いに耐えうる断片に、可能ならばなりたいと。

情報の戦いは、国家が存続する限り永遠に続く。








 勝が営んだ江戸幕府の葬式というものは、明快な主題がありました。むろん、かれは口外していませんが、"国民の成立"もしくは"国民国家の樹立"ということが、秘めたる主題もしくは正義だったでしょう。
 (司馬遼太郎 著 『明治という国家』)







私は微弱ながら、戦後の日本という時間を見た。



私の唯一つの祈願のために。



私は、この日本という国家の、新しい世紀の一人の国民に、なりたいと思う。







聖域の果実は―――




















美徳は狂暴に抗して、武器を持って起たん

戦火は速やかに熄まん

祖国の民の心に

古えの勇武は今も滅びざれば


――ニッコロ・マキアヴェリ 『君主論』 末尾より
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sanctuary lost THE ORIGIN V.聖域

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/sanctuary.html
然れど善悪を知るの樹は汝その果を食ふべからず。汝之を食ふ日には必ず死ぬべければなり

――『創世記』2・17




いわゆる「小泉総理にはヴィジョンがない」という批判がある。



小泉総理の掲げる「聖域なき構造改革」とは何か。



第百五十一回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説 平成十三年五月七日

 (新世紀維新を目指して)

  この度、私は皆様方の御支持を得、内閣総理大臣に就任いたしました。想像を超える重圧と緊張の中にありますが、大任を与えて下さった国民並びに議員各位の御支持と御期待に応えるべく、国政の遂行に全力を傾ける決意であります。

  戦後、日本は、目覚ましい経済発展を遂げ、生活の水準も飛躍的に上昇しました。資源に恵まれないこの狭い国土で、一億二千七百万人もの国民が、これほど短期間に、ここまで高い生活水準を実現したことは、我々の誇りです。

  しかし、九十年代以降、日本経済は長期にわたって低迷し、政治に対する信頼は失われ、社会には閉塞感が充満しています。これまで、うまく機能してきた仕組みが、二十一世紀の社会に必ずしもふさわしくないことが明らかになっています。

  このような状況において、私に課せられた最重要課題は、経済を立て直し、自信と誇りに満ちた日本社会を築くことです。同時に、地球社会の一員として、日本が建設的な責任を果たしていくことです。私は、「構造改革なくして日本の再生と発展はない」という信念の下で、経済、財政、行政、社会、政治の分野における構造改革を進めることにより、「新世紀維新」とも言うべき改革を断行したいと思います。痛みを恐れず、既得権益の壁にひるまず、過去の経験にとらわれず、「恐れず、ひるまず、とらわれず」の姿勢を貫き、二十一世紀にふさわしい経済・社会システムを確立していきたいと考えております。

  「新世紀維新」実現のため、私は、自由民主党、公明党、保守党の確固たる信頼関係を大切にし、協力して「聖域なき構造改革」に取り組む「改革断行内閣」を組織しました。抜本的な改革を進めるに当たっては、様々な形で国民との対話を強化することを約束します。対話を通じて、政策検討の過程そのものを国民に明らかにし、広く理解と問題意識の共有を求めていく「信頼の政治」を実現してまいります。

  相次ぐ不祥事は、国民の信頼を大きく損ねてしまいました。政治や行政に携わる一人ひとりが国民の批判を厳粛に受け止め、職責を真摯に果たす中で、信頼関係の再構築を図っていかなければなりません。

  さらに、国民の政治参加の途を広げることが極めて重要であります。首相公選制について、早急に懇談会を立ち上げ、国民に具体案を提示します。

 (むすび)

  新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。

  私は、この内閣において、「聖域なき構造改革」に取り組みます。私は、自らを律し、一身を投げ出し、日本国総理大臣の職責を果たすべく、全力を尽くす覚悟であります。議員諸君も、「変革の時代の風」を真摯に受け止め、信頼ある政治活動に、共に邁進しようではありませんか。国民並びに議員各位の御理解と御協力を心からお願い申し上げます。

(ttp://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2001/0507syosin.html)



私ならば、最も望んでいることを冒頭に述べる。

「聖域なき構造改革」とは方法の名であって目的ではない。

小泉政権が目指す目的とは、究極的には「新世紀維新」である。

これが小泉総理のヴィジョンだ。

ここで問わねばならないのは「聖域」とは何か、ということであるが、それが容易に語りえるものであるならば聖域ではない。





「聖域」とは何であろうか。






 マッカーサー元帥は、自ら〈聖域〉と称して、巨大な執務室に立て篭もり、部下を寄せ付けない〈孤高の人〉であったが、このホイットニー准将だけはその〈聖域〉に立ち入ることができたたった一人の将軍だった。
 (三根生久大 著 『日本の敗北』アメリカ対日戦略 100年の深謀』)



 青い眼の大君 ダグラス・マッカーサー

日本の軍隊が完全に壊滅すれば、ヒロヒトの神聖も国民の目の前で壊滅してしまう。そうすれば精神的虚脱が生じ、新しい考えをうけ入れる機会ができよう。日本国民は彼らに敗北をもたらした多くの手段に対して、恐怖と尊敬をあわせ持つことは避けられないだろう。彼らは力が正義をつくることを信じて、われわれアメリカ人こそ正義の士であると結論するだろう

――ダグラス・マッカーサー

▼袖井林二郎 『マッカーサーの二千日』

「大統領新聞係秘書チャールズ・G・ロスは、先週、日本の降伏提案に対する連合国の回答の中に挙げられた最高司令官にはアメリカ人が任命されるということを確認した。三千マイルの大洋を越えてアメリカ軍を勝利に導いた人々が偉大なキラ星の如く並ぶ中で、そのうち一人が、かつては神聖だった日本の天皇を通じて、平和を達成するという至高の権限を手にするのだ。推測される何人かの候補者の中で一人抜きん出ている者、それはマッカーサー陸軍元帥である。アメリカの戦時指導者すべての中でこの将軍は、ジャップと最も長期間に渡って戦い、最もいまいましい敗北を初期に喫し、しかももっとも輝かしい再起を為し遂げたのだ。他の司令官の誰にも増して、マッカーサーの生々とした個性はこのモダン・ショーグンの役割に適することであろう」

天皇を通じて日本国民を支配する、それこそまさに将軍家の機能に他ならなかった。明治維新によって最後の将軍が廃絶されて以来、七十余年ぶりで、日本は将軍を戴くことを強制される。しかも史上初めて戦いに敗れての結果であってみれば、乗り込んでくるショーグンが紅毛碧眼の偉丈夫であることは是非もなかった。幕末に外国の使節が日本の真の実力者である徳川将軍を「大君(tycoon)」と呼んだひそみにならえば、我々がここで対面するのは「青い眼の大君」である。

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ダグラスは父を理想の人格として生涯を通じて尊敬しており、その勇気、指導力、行政能力をそっくり引きついだといわれる。しかし彼は同時に父の資質に含まれていた二つの欠点も引きついでいた。それは、「自分の領域とみなしているところへ文官が口をさしはさむことに対する軽蔑と侮蔑、そして自分の管轄権を越えた問題に対して遠慮ない発言を行なうこと」であった。この父にしてこの子あり。二人を知るものは親子を貫く強烈な個性についてこうもいう――「わたしはアーサー・マッカーサーほど、とほうもなく自我意識の強い人物はないと考えていた――とにかくその息子に会うまではね」(ジョン・ガンサー)

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「平和主義とその連れ[同衾者(ベッドフェロー)]の共産主義は、至るところで私たちをとり巻いている。劇場に、新聞雑誌に、協会の説教壇に、講演会場に、学校に、この勢力はさながら霧のようにアメリカの顔をおおい、騒乱を求める勢力を組織化して働く者の倫理を破壊している。われわれは米国にはんらんしているセンチメンタリズムや感情主義を、しっかり地についた常識で置きかえねばならない。

 平和主義のやり方では平和は保証されず、米国を侮辱や侵略から守ることもできない。自尊心を失いたくないと思う国は、みずからを守る用意がなくてはならない。心ある者はだれしも、戦争が残酷で破壊的であることを知っている。しかしわれわれを包む文明という外皮は、戦争熱だけではくずれない。歴史はかつで偉大だった国が国防を怠ったために灰に帰したことを示している。ローマやカルタゴはどうなったか。ビザンチン帝国はどうなったか。あの偉大だったエジプトはどうなったか。死の叫びを世界に無視された朝鮮はどうなったか。われわれもまた滅亡してしまうことを望まないなら、備えをもとうではないか」

1932年6月 マッカーサー ピッツバーグ大学卒業式典記念講演 

 

 この事件(ボーナス・マーチ事件)の年の秋、大統領に当選したフランクリン・ルーズベルトは、このようなマッカーサーの姿に独裁者の影を見出し、「稀代のデマゴーグ」ヒューイ・ロング上院議員と並んで「アメリカで最も危険な二人の人間」に数えた。その言明を直接きいたタッグウェル(のちの大統領顧問)によると、ルーズベルトは次のように語ったという――この国の企業家や影響力ある人々は、この30年代の経済的危機の中で民主主義を軽蔑し、強力な指導者を求めている。アメリカでシーザーになり得る人間の中で「マッカーサーほど魅力と経歴と威厳に満ちた風貌をみごとに備えている人間はいない」

/////

「われら主要参戦国の代表はここに集まり、平和恢復の尊厳なる条約を結ばせようとしている。相異る理論とイデオロギーを主題とする戦争は世界の戦場において解決され、もはや論争の対象とはならなくなった。また地球上の大多数の国民を代表して集まったわれらは、もはや不信と悪意と憎悪の精神を懐いて会合しているのではない。否、ここに正式にとりあげんとする諸事業に前人民を残らず動員して、われらが果たさんとしている神聖な目的に叶うところのいっそう高い威厳のために起ち上らしめることは、勝者敗者双方に課せられた責務である。

 この厳粛なる機会に、過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界、人間の尊厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは予の熱望するところであり、また全人類の願いである。

 日本軍の受諾せんとする降伏条件は、いまや諸君の前の降伏文書の中に記載されている。連合国最高司令官として、予の代表する諸国の伝統に従って、降伏条件の完全、迅速、忠実なる遵守を確かめるために必要とする一切の手段をとると同時に、正義と忍耐をもって予の責務を遂行することは、予の堅き決意であることを声明する・・・・・・」

1945年9月2日 対日戦勝利の日「YJデー」 米戦艦「ミズーリ号」での演説



  日本が降伏文書に調印し占領が正式に始まったその日のうちに、占領軍最高司令官マッカーサーの存在は、天皇の心の中に深く刻みつけられた。すぐれた媒介があったためとはいえ、その源はミズーリ号艦上のスピーチにある。その意味ではこれは日本の歴史を決定したスピーチといえよう。マッカーサーは二千日の在日の間に、日本の国民や指導者を前にした公開の演説または放送を全くしていない。文書による声明か下僚による代読だけである。それまで多くの機会に演説を行ない、雄弁家として知られたマッカーサーは口をつぐんでしまったかの観がある。


 彼は次第に自分自身をはるか高みに押し上げて、天皇と現存する政府とを通じてリモート・コントロールを行なうのだが、それにしても横浜からでは働きかける対象に遠すぎた。日本政府はGHQを横浜に閉じこめようとしていたが、彼は東京にでて来なければならない。将軍には首都に城が必要なのである。
  (中略)

 九月八日マッカーサーがアイケルバーガー、ホイットニーらを引きつれて東京で進駐式を行ない、ついで、アメリカ大使館に星条旗を掲げたことは、単なる大使館の再開ではなく、その旗の下に日本の主権が従属することを意味していた。因みにその国旗は日本が真珠湾を奇襲したときワシントンの国会議事堂の上にかかげられていたものである。日本人もそうだがアメリカ人は特にそうした因縁が好きである。調印式のさいミズリー号にかざられた星条旗は九十二年前、日本の開国を迫ったペリー提督の旗艦のマストにひるがえっていたものであった。



「私は日本国民に対して事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった。私の権力は至上のものであった」
「私は八千万を越える日本国民の絶対的な支配者となり、日本がふたたび自由諸国の責任ある一員となる用意と意志を示すまでその支配権を維持することとなったのである」(『回想記』)

/////

 「沈思黙考する遍在神」

 戦いにおける勝者は、勝っただけでは単に敵より強かったか運がよかったにすぎない。彼が力と戦運に恵まれただけでなく、正しかったからこそ勝ったのだということを示すためには、勝者は敗者を裁かなければならない。敗者を断罪することによって、勝利が完成する。太平洋戦争に関する三つの戦犯裁判を指揮することによってマッカーサーはそれを果した。三つとは、マニラの虐殺に代表されるフィリピンにおける残虐行為の責任を問われた山下本文大将の裁判、パターン「死の行進」の責任で起訴された本間雅晴中将の裁判、そして日本の戦争責任を問われた二十八人の指導者にかかわる「東京裁判」である。いずれの場合も、マッカーサーは総司令官として、裁判規則を定め、判決を最終的に審査し、それを承認した。法廷に姿を現わすことは決してなかったが、彼は、これら三つの裁判のすべての上に、「あたかも沈思黙考する遍在神(オムニプレゼンス)のように……鎮座していたのである」(ベアワルド、袖井訳『指導者追放』)。

/////

「日本は民主主義で進まねばいかん。民主主義発展のためには援助を惜しまぬ。……日本はこれから、東洋のスイスたれ」



マッカーサーは
「今日の世界でキリスト教を代表する二人の指導的人物こそ、自分を法王だとさえ考えている。法王が精神的な面で共産主義と戦っているとすれば、かれは地上でこれと取り組んでいるのだ、という考えだ」(『マッカーサーの謎』)。だから、改革の中でもっとも根本的な――そしてそれだけに困難な――改革である、日本国民の精神改革に、彼が力を注いだのは当然であろう。
  (中略)

 だが日本人がキリストを求めなかった最大の理由は、彼らの多くが物質的な復興=繁栄という現世の利益を追うことに専念していたからだったのではないだろうか。それを可能にしてくれた「救世主」としてマッカーサーがいる。それで足りなければ天皇を敬うことも許されている。それ以外の権威を必要とする理由がどこにあろう。
(中略)

「天皇は目に涙を浮べられて、日本再建についてのマッカーサー将軍の態度と関心に感謝の言葉を述べられた。天皇は、国民がマッカーサー将軍を“神風”と考えている、とおっしやられた。ペリー提督はアメリカヘの日本のトビラを開いたが、マッカーサー将軍はアメリカの心を日本に向って開いてくれた」

 マッカーサーがこれを書くために用いた民政局の資料によると’“Kamikaze”は divine influence、つまり「神の威霊」となっている。神に奉仕しているつもりのマッカーサーは、そのあまりに強烈な個性と尊大さの故に、日本人の目には神そのものに映ったのであろうか。そうだとしたら、キリスト教が占領下日本にひろまらなかったもう一つの理由は、マッカーサー自身にあることになる。
(中略)

だが、キリスト教の精神によって、日本を共産主義に対するとりでとして、精神的に武装し「東洋のスイス」たらしめようという理想が実現できないことは、もはや確かだった。

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 「立憲的手続の下に支配している多数派のものから政権を窃盗により、また浸透、欺瞞により少数派のものが奪いとることができるための暴力および脅迫の手段として共産主義は出現したのである。概念上、無神論である共産主義は全智全能の神の存在を否定し、人類の高度な感受性を支持する道徳的教訓および神学的教義を拒絶する。共産主義の指導者の人格に適合して共産主義の唯一の潜在的動機は個人的権力の欲望に奉仕することである。
 この目的のために共産主義は犯罪者、腐敗しやすいもの、および無智なもののための集中手段となった」
  「共産主義は混乱、不安および暴力を広めることにより、秩序だった社会の団結および力を破壊しようとするために社会のこれらの変態的分子を一つの組織だった規律ある有力な力に統合するのである。人類の中で共産主義の犠牲になった者に対しては、最後に奴隷にするほか何ものも与えない。共産主義はかくして真の哲学的基礎を持だない国家的および国際的民権剥奪運動として出現したのである」
  「共産主義が成功するためには破壊しなければならない諸自由のタテのかげでその背信的目的を前進し続けていることはこの時代の矛盾の一つであり、かかる運動に対し法律の効力、是認および保護を今後与えるべきや否やの問題を提起するのである」

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コワルスキー幕僚長は「当時の米国軍隊の中で、マッカーサー元帥を除いて誰があれだけの自信と自惚れと勇気をもって日本の再軍備を命じることができたであろうか。彼はポツダムにおける国際協定に反し、極東委員会よりの訓令を冒し、日本国憲法にうたわせた崇高な精神をほごにし、本国政府よりほとんど助力を得ずして日本再軍備に踏み切ったのである」と賞賛と皮肉を交えた観測を下している。

 もちろんマッカーサーは日本人への信頼だけで素手で日本の防衛ができるとは考えていなかった。彼は自分の掲げた軍備撤廃の理想が時代に早すぎたことを、朝鮮戦争の勃発によって決定的に知らされたのである。しかし、一旦戦争が始まり、野戦司令官の任についたとき、彼の心は勝つという意思と、それを実現するための方策に支配される。警察予備隊の創設はその一つにすぎない。かくてマッカーサーは変身(メタモルフォーシス)をとげる。クラーク・ケリーはその変身の意味を次のように分析する。

「この変身の中に、我々は再びマッカーサーを一つのシンボルとして見る。それは一人の分裂的人間というシンボルだ―平和と戦争の間に、善と悪との間に引き裂かれる男。永遠の平和を夢みながら常により大きな破壊的な戦争をたたかう男。清冽で安定し思索的で安らぎに満ちた平和の理念を尊びながら、激動に挑戦に、そして戦争という残酷な冒険に、熱心に喜んで応じていく男」―それがマッカーサーなのである。

 あるいはマッカーサーは一人の双面神なのかも知れない。平和の守護神と戦争の英雄という二つの顔を共存させて矛盾を感じないこの男は、公けに示す自分の顔が平和の顔から戦争の顔へ急転換することをみずからの責任とはしない。もし責められるものがあるなら、それは転換を余儀なくさせた状況の方である。いま朝鮮戦争の野戦司令官として、戦う彼の念頭には勝利以外のなにものもない。

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 トルーマンはいう―「私の感じでは、マッカーサーはついに真実と嘘の違いのわからない男だったと思う」。「何らリアルな感じのしない男という強い印象がある」というトルーマンのコメントは同じく痛烈である。







ウィルキンソンはマッカーサーの複雑な人間性を理解しようと大いに努力し、「冷酷で、見栄っ張り、無節操で自意識が強いが、すごい素質、生き生きとした想像力、過去の事例からすぐ学び取る能力を持ち、指導者になるべき人物だ」と記している。
  (リチャード・オルドリッチ 著 『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』) 

▼ジェイムズ・バムフォード 著 『すべては傍受されている 米国国家安全保障局の正体』

 これらの報告はすべて、統合参謀本部、ホワイトハウス、マッカーサー元帥、国進軍司令官が利用可能だった。にもかかわらず、十月十五目にトルーマン大統領に中国軍の介入可能性について訊かれたマッカーサーは「きわめて少ない」と答えた。

 「東京のマッカーサー司令部のG−2[情報部]等から配布されていたような通信情報を見ていれば中国人民解放軍の朝鮮戦争介入に驚く者はいなかったろう」と、最近でたNSAの高度機密報告にある。同報告はこの悲劇の責任者としてマッカーサーを直接名指している。第二次大戦中マッカーサーは通信情報を無視し、それに反した戦闘計画を立てた。マッカーサーは鴨緑江に向け進軍することに熱心なあまり、中共軍の大量介入を示唆する通信情報を過小評価したのだろう。かつて彼は日本に関する"不都合"な通信情報報告を過小評価したが、それと同じだ。こうして彼は麾下の将兵を兵を朝鮮における大敗北へ追いやった」





1867年10月14日の大政奉還より、70年余の時を経てダグラス・マッカーサー元帥は占領した日本に君臨した。
日米両国史上に残るこの複雑な人物は、キリスト教の伝道者たらんとして、また維新以来の将軍としてこの国を改造した。

小泉総理の所信表明演説に掲げられた"聖域"と"維新"とは、この戦後日本を造った人物へ向けられたものとして私は捉えている。

雄弁家として知られたマッカーサーは口を噤み、次第に自分自身を遥か高みに押し上げていった。
なぜなら彼は、沈黙の持つ力を知っていたからだ。

沈黙と劇的なエピソードは、人々に神性を見出させる。



江藤淳 著 『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』▼

《 削除または掲載発行禁止の対象となるもの
  (1)SCAP―――連合国最高司令官(司令部)に対する批判
   連合国最高司令官(司令部)に対するいかなる一般的批判、および以下に特定されていない連合国最高司令官(司令部)指揮下のいかなる部署に対する批判もこの範暗に属する。
  (2)極東軍事裁判批判
   極東軍事裁判に対する一切の一般的批判、または軍事裁判に関係のある人物もしくは事項に関する特定の批判がこれに相当する。
  (3)SCAPが憲法を起草したことに対する批判
   日本の新憲法起草に当ってSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に当ってSCAPが果した役割に対する一切の批判。
  (4)検閲制度への言及
   出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及がこれに相当する。
  (5)合衆国に対する批判
   合衆国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (6)ロシアに対する批判
   ソ連邦に対する直接間接の}切の批判がこれに相当する。
  (7)英国に対する批判
   英国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (8)朝鮮人に対する批判
   朝鮮人に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (9) 中国に対する批判
   中国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (10)他の連合国に対する批判
   他の連合国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
  (11)連合国一般に対する批判
   国を特定せず、連合国一般に対して行われた批判がこれに相当する。
  (12)満州における日本人取扱についての批判
   満州における日本人取扱について特に言及したものがこれに相当する。これらはソ連および中国に対する批判の項には含めない。
  (13)連合国の戦前の政策に対する批判
   一国あるいは複数の連合国の戦前の政策に対して行われた一切の批判がこれに相当する。これに相当する批判は、特定の国に対する批判の項目には含まれない。
  (14)第三次世界大戦への言及
   第三次世界大戦の問題に関する文章について行われた削除は、特定の国に対する批判の項目ではなく、この項目で扱う。
  (15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に間する言及
   西側諸国とソ連との間に存在する状況についての論評がこれに相当する。ソ連および特定の西側の国に対する批判の項目には含めない。
  (16)戦争擁護の宣伝
   日本の戦争遂行および戦争中における行為を擁護する直接間接の一切の宣伝がこれに相当する。
  (17)神国日本の宣伝
   日本国を神聖視し、天皇の神格性を主張する直接間接の宣伝がこれに相当する。
  (18)軍国主義の宣伝
   「戦争擁護」の宣伝に含まれない、厳密な意味での軍国主義の一切の宣伝をいう。
  (19)ナショナリズムの宣伝
   厳密な意味での国家主義の一切の宣伝がこれに相当する。ただし戦争擁護、神国日本その他の宣伝はこれに含めない。
  (20)大東亜共栄圈の宣伝
   大東亜共栄圈に関する宣伝のみこれに相当し、軍国主義、国家主義、神国日本、その他の宣伝はこれに含めない。
  (21)その他の宣伝
   以上特記した以外のあらゆる宣伝がこれに相当する。
  (22)戦争犯罪人の正当化および擁護
   戦争犯罪人の一切の正当化および擁護がこれに相当する。ただし軍国主義の批判はこれに含めない。
  (23) 占領軍兵士と日本女性との交渉
   厳密な意味で日本女性との交渉を取扱うストーリーがこれに相当する。合衆国批判には含めない。
  (24)闇市の状況
   闇市の状況についての言及がこれに相当する。
  (25)占領軍軍隊に対する批判
   占領軍軍隊に対する批判がこれに相当する。したがって特定の国に対する批判には含めない。
  (26) 飢餓の誇張
   日本における飢餓を誇張した記事がこれに相当する。
  (27) 暴力と不穏の行動の煽動
   この種の記事がこれに相当する。
  (28)虚偽の報道
   明白な虚偽の報道がこれに相当する。
  (29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
  (30) 解禁されていない報道の公表 》

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 ここで看過すことができないのは、このように検閲の秘匿を強制され、納本の遅延について釈明しているうちに、検閲者と被検閲者とのあいだにおのずから形成されるにいたったと思われる一種の共犯関係である。

 被検閲者である新聞・出版関係者にとっては、検閲者はCCDかCI&Eか、その正体もさだかではない闇のなかの存在にほかならない。しかし、新聞の発行をつづけ、出版活動をつづけるというほかならぬそのことによって、披検閲者は好むと好まざるとにかかわらず必然的に検閲者に接触せざるを得ない。そして、被検閲者は、検閲者に接触した瞬間に検閲の存在を秘匿する義務を課せられて、否応なく闇を成立させている価値観を共有させられてしまうのである。

  これは、いうまでもなく、検閲者と被検閲者のあいだにおけるタブーの共有である。この両者の立場は、他のあらゆる点で対立している。戦勝国民と戦敗国民、占領者と被占領者、米国人と日本人、検閲者とジャーナリスト――だが、それにもかかわらずこの表の世界での対立者は、影と闇の世界では一点で堅く手を握り合せている。検閲の存在をあくまで秘匿し尽すという黙契に関するかぎり、被検閲者はたちどころに検閲者との緊密な協力関係に組み入れられてしまうからである。

 タブーは伝染すると、文化人類学者はいっている。「タブーとなっている人や物に接触したものは、それ自体がもとのタブー同様危険なものとなり、新たなる汚染の中心となり、共同体にとっての新たな危険の源泉となる」つまり、被検閲者は、タブーとの接触の結果「もとのタブー同様危険なもの」に変質し、「新たな汚染の中心」となり、必然的に「共同体にとっての新たな危険の源泉」とならざるを得ない。

 この伝染現象の動因とたっているのは、恐怖以外のなにものでもない。検閲者の側における「邪悪」な日本に対する恐怖と、被検閲者の側における闇の彼方にいて生殺与奪の権を握っている者たちへの恐怖―――新聞関係者を、国家に対する忠誠義務から解放した「新聞と言論の自由に関する新措置」指令のごときも、それだけではおそらく占領軍当局の期待通りの効力を発揮し得なかったにちがいない。表の世界の"解放"は、影と闇の世界の黙契を支える"恐怖"の裏付けを得て、はじめて日本人の「精神にまで立入り」、これを変質させる手がかりをつかんだのである。

 重要なことは、検閲の存在をあくまでも秘匿するというCCDの検閲の構造そのもののなかに、被検閲者にタブーを伝染させる最も有効な装置が仕掛けられていた、ということである。この点で、CCDの実施した占領下の検閲は、従来日本で国家権力がおこなったどのような検閲と比較しても、全く異質なものだったといわねばならない。

 「出版法」「新聞紙法」「言論集会結社等臨時取締法」等による検閲は、いずれも法律によって明示された検閲であり、被検間者も国民もともに検間者が誰であるかをよく知っていた。そこで要求されたのは、タブーに触れることではなくて、むしろそれに触れないことであった。検間者は被検間者に、たとえば天皇の尊厳を冒涜しないというような価値観の共有を要求したからである。
  つまり、戦前戦中の日本の国家権力による検閲は、接触を禁止するための検閲であったということができる。天皇、国体、あるいは危険思想等々は、それとの接触が共同体に「危険」と「汚染」をもたらすタブーとして、厳重に隔離されなければならなかった。被検間者と国民は、いねば国家権力によって眼かくしをされたのである。

  これに対して、CCDの検閲は、接触を不可避にするための検閲であった。それは検閲の秘匿を媒介にして被検間者を敢えてタブーに接触させ、共犯関係に誘い込むことを目的としていた。いったんタブーに触れた披検閲者たちが、「新たな汚染の中心」となり、「邪悪」な日本の「共同体」にとっての「新たな危険の源泉」となることこそ、検間者の意図したところであった。要するに占領軍当局の究極の目的は、いねば日本人にわれとわが眼を刳り貫かせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼を嵌めこむことにあった。

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《……反抗や敵意、あるいは通敵協力者の烙印を捺されはしないかという恐怖を態度に表わす者は皆無であった。あるいはもしいたとしても、その感情を巧みに隠蔽していた》

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検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられて行く。

 この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。

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1948年2月6日
  CI&E「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)
CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に間する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ばして来た民間情報活動の概要を提出するものである。文書の末尾には勧告が添付方れているが、この勧告は、開局が、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の続行に当り、かつまたこの「プログラム」を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものにまで拡大するに当って、採用方れるべき基本的な理念、および}般的または特殊な種々の方法について述べている

各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること

 一、戦争の真相を叙述した『太平洋戦争史』(約一万五千語)と題する連載企画は、CI&Eが準備し、G−3(参謀第三部)の戦史官の校閲を経たものである。この企画の第一回は一九四五年十二月八日に掲載され、以後ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載された。この『太平洋戦争史』は、戦争をはじめた罪とこれまで日本人に知らされていなかった歴史の真相を強調するだけではなく、特に南京とマニラにおける日本車の残虐行為を強調している。

  二、この連載がはじまる前に、マニラにおける山下裁判、横浜法廷で裁かれているB・C級戦犯容疑者のリストの発表と開運して、戦時中の残虐行為を強調した日本の新聞向けの「インフォーメーション・プログラム」が実施された。この「プログラム」は、十二月八日以降は『太平洋戦争史』の連載と相呼応することとなった。

d、ラジオ
  (1)『真相はこうだ』――これは『太平洋戦争史」を劇化したものであるが――という番組が、一九四五年十二月九日から一九四六年二月十日まで、十週間にわたって週一回放送された。

  (2)それと同時に、CI&Eは、日本の放送ネットワークに『真相はこうだ』の質問箱の番組を設けた。これは『真相はこうだ』の聴取者に、質問の機会をあたえて番組に参加させようとする意図によるものである。『真相はこうだ』の放送が終了した時点で、この質問箱は『真相箱』となった。この番組は四十一週つづき、一九四六年十二月四日に終了した。この番組には、毎週平均九百通から千二百通の聴取者からの投書が寄せられた

四、この「インフォーメーション・プログラム」の第二段階は、一九四六年初頭から開始された。この第二段階においては、民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできるような将来の日本への希望に力点を置く方法が採用された。しかしながら、時としてきわめて峻厳に、繰返し一貫して戦争の原因、戦争を起した日本人の罪、および戦争犯罪への言及がおこなわれた。第二段階の活動としては、次のようなものがあげられる。

  a、新聞
  (1)週三回の記者会見、毎日の報道提供、新聞社幹部と記者の教化等、活動の大部分は民主化を強調するプログラムにあてられている。かくして日本のあらゆる新聞は、全国的にはCI&Eを、府県別には軍政部を通じて、毎日占領政策の達成を周知徹底させられている。政治、行政、社会の風潮、経済、公衆衛生、福祉、海外貿易等、占領のあらゆる面に関する詳細な説明と質疑応答が、このメディアを通じて処理されている。SCAPは、このメディアを通じて、何を日本人に助言し援助しつつあるかを示している。CI&Eはまた、日本の民主化達成のみならず、経済的、社会的自立のために必要な、詳細な理念と方法を保有している。

  (2)民主化の過程を進行方せる一方で、日本の戦争に関する罪や、破滅をもたらした超国家主義に直接言及し、罪悪感を扶植する努力もなおざりにされていない。一九四六年六月に東京裁判が開廷されるに先立って、CI&Eは国際検事局のために二回の記者会見、弁護団のために一回の記者会見を開催した。この記者会見には、共同通信と全国の代表的な新聞の記者たちが出席した。国際法廷の目的と手続きについて入念な解説が行われ、同様に入念な報道が行われた。横浜では、同地で裁かれるB経戦犯を目的とする「インフォーメーション・プログラム」が開始され、これに関連して一連の記者会見が開かれた。A級およびB級戦犯裁判開始以来、CI&Eは、B級裁判については毎日情報将校提供の広報資料を配布し、A級裁判については全面的な「インフォーメーション・プログラム」を遂行中である。市谷法廷で取村中の日本人記者団との連絡事務に当るために、連絡将校が毎日派遣されている。

  (3)裁判に関する一切の情報を日本の新聞に取得させるために、特に注意が払われているが、とりわけ検察側の論点と検察側証人の証言については、細大洩らさず伝えられるよう努力している。(下略)

  (4)CTC(対敵諜報部隊)およびCI&Eの新聞出版班の活動を通じて、新聞や雑誌の幹部に対し、公式の席上や日常の記者会見の席上で、戦前戦中の日本の報道機関の腐敗ぶりを指摘する試みが、繰返しておこなわれている。日本の侵略と、軍国主義政府のお先棒をかついだ新聞の役割との関係は、動かしがたいものだと力説することにしている。
 一九四七年七月に開催された、日本新聞協会年次総会で、主賓のD・C・インボデン少佐(CI&E新聞課長)は、次のように語った。
 「二、三の日本の新聞編集者と会談したところ、この人々は、新聞が政治上の議論に容喙する責務はないと思うと語った。私は不同意を表明しなければならない。私は確信するが、もし戦前に日本の新聞が政治上の議論に影響力を行使していたならば、東條とその一味徒党は、日本を今日のような悲惨な状況に陥し入れようとはせず、またしようとしてもできなかったであろう……」
「われわれの務めは、……日本に、いつの日か自由な新聞となるべき責任ある新聞を創り出す手伝いをすることである。マッカーサー元帥は、降伏後も日本の新聞に引続いて発刊を許可したが、これは前例を見ないことだ。それまでの歴史の示すところによれば、占領軍の司令官は敵国の新聞に停刊を命じるのが常道である。……」(下略)

五、G−2(CIS・参謀第二部民間諜報局)のみから得られる口頭の報告にもとづき、当CI&Eは左のごとく諒解する。

a 合衆国内の一部の科学者、聖職者、作家、ジャーナリストおよび職業的社会運勤家たちの論説や公式発言に示唆されて、日本の一部の個人ないしはグループが、広島と長崎への原爆投下に"残虐行為"の焙印を押しはじめている。さらにこれらアメリカ人のあいだには、一部の日本の国民感情を反映して、将来広島でアメリカの基金によって行われるべき教育的・人道主義的運動は、何であろうとすべてこのいわゆる"残虐行為"に対する"贖罪"の精神で行われるべきだという感情が、次第に高まりつつある。

  b、一部の日本人、特に世界と同胞に対して、日本の侵略と超国家主義を正当化しようとしている分子のあいだに、東條は自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない。

  c、この二点は、両々相侯って、現在なりを潜めている超国家主義者たちが、占領終了後に再び地歩を固めようとするに当って恰好の証拠となるものである。

 六、これらの態度に対抗するため、今一度繰り返して日本人に、日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍の行った残虐行為について自覚させるべきだという現実が、非公式にCI&Eに対してなされている。なかんずく"マニラの掠奪"のごとき日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきであり、広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーンを開始すべきであるという示唆が行われている。

 七、当民間情報教育局これまでの本件に間する研究およびG−2(CIS)ならびに局内のメディア担当責任者との協議の結果、本キャンペーンの「第三段階」は、左記のごとき基本方針および方法によって実施されるのを相当と思料する。

 a、基本方針
  (1)直接かつ正面からの攻撃を目的とする宣伝計画は、双刃の刃となりかねず、大多世論を激昂させ、日本人を一致団結させることにもなりかねないので、極度の注意が肝要である。一方、現在人手可能な文書類は、"超国家主義者"と"残虐行為"的思考が、一部少数の分子に限定されていることを示している。

  (2)全面的な宣伝計画実施との関連において、それがわが方の政策と矛盾しないかどうかという問題についても、考慮しなければならない。現在の政策は、日本の安上りな再建をめどしており、そのためには早期講和が望ましいと考えられている。一方、問題の諸点について"正面攻撃"を開始した場合、占領軍当局はアメリカ国民に対して、日本人は信頼に価せず、経済援助継続には問題があり、講和条約は望ましくないと、黙示的に認めることになる。

  (3)東條裁判と広島・長崎への"残虐行為"はいずれも"ウォー・ギルト"のうちに分類言れてしかるべきものだという点については、大方の見解が一致している。しかしながら、その処理は、左記の計画中に略述されている個々の方法によって多様化することができる。

  b、一般的方法
  (1)超国家主義に対する解毒剤としての政治的情報・教育の強調。(現在までに大規模に実施され、現に実施されつつあるが、さらに一層集中化された「プログラムLを展開中であり、承認を待っている)

  (2)超国家主義運動の復活を示すあらゆる具体的な動きを暴露し、細大洩らさず報道すること。そして、そのことによってそれらの動きを支える誤った思想を指摘し、その不可避な結果を明らかにすること。

  (3)影響力のある編集者、労働界、教育界および政界等々の指導者とつねに連絡を密にすること。その際、全体主義国家に対する自由社会の長所を強調すること。

  (4) 進歩的、自由主義的グループの組織発展を奨励すること。

 c、特定の方法
  (1)新聞
  (a) CI&Eの新聞出版班は、特別任務に当る新聞係将校(単数)を任命したが、その任務は、日本人編集者との連絡を維持し、前記b(3)に示されたイデオロギーを鼓吹するとともに、東條および他の戦争犯罪人裁判の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるよう指導することにある。広島に聞する報道もまた、任務のうちに含まれる。

  (b) 極東国際軍事法廷に常駐する新聞出版係連絡将校(女性)は、東條の最終弁論と評決の段階に特に留意して、引続き自由な新聞の目的と義務に聞する広報活動を行うものとする。

  (c) 新聞出版班は、一九四八年(昭和二十三年)四月に予定されている広島での原爆の碑献呈式に代表を派遣し、日本の新聞関係者がこの行事を正しく解釈するよう指導する。

  (d) 東條と広島の双方について、SCAP各部局より新開発者用に適切な材料を求められることになるものと思われるが、その材料は、パラグラフ五において指摘されている印象に対抗し得るものでなければならない。(マッカーサー元帥の声明が発表されれば、はなはだ有効と思料言れる)

  (2) ラジオ
  (a) CI&Eラジオ班は、戦犯裁判の継続中、パラグラフ四b(1)および(2)に略述方れている線に洽って、引続き定期番組において「ウォー・ギルト」の主題を強調するものとする。また、パラグラフ四b(4)に略述されているその他の番組においても、常時「ウォー・ギルト」の主題に言及するものとする。

  (b) 裁判での東條の最終弁論と評決の段階においては、大々的な取材および報道が計画されている。

  (c) CI&Eラジオ班特別代表一名が、日本の放送関係者に助言と指導をあたえる目的で、四月の献呈式の際広島に派遣される。

  (3) 展示
  (a) CI&E展示現は、すでに戦犯裁判に関するポスター・シリーズの概要を準備し、関係SCAP各部局の承認を待っている。その主題は、何故に戦犯裁判が聞かれているか……いかに少数のグループが、国家と全世界を渾沌のなかに投げ込んだか……にある。……平均的市民は自分の生活の問題についての真の発言権を持てなかった……誤った情報を鵜呑みにしたあげくの因果応報……軍艦、軍用機、弾薬等に費やされた金と、それが平和な目的のために用いられた場合、どれだけの家が建ち、電力の余裕が生じ、近代化が進んだかの比較等々……戦犯裁判から学ぶべき教訓の数々

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つまり、一面における禁止と他面における強制の原則が、ここでも拡大されて効果的に併用された結果、『太平洋戦争史』と題されたCI&E製作の宣伝文書は、日本の学校教育の現場深くにまで浸透させられることになったのである。

それは、とりもなおさず、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の浸透であった。『太平洋戦争史』は、まさにその「プログラム」の噴火として作成された文書にほかならないからである。歴史記述をよそおってはいるか、これが宣伝文書以外のなにものでもないことは、前掲の前言を一読しただけでも明らかだといわなければならない。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。

  これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起こった災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである。

 そして、もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないから。

 CI&Eが、このような対立の図式を仮構するに当って、どの程度マルクス主義的思考の影響を受けていたかは、さだかではない。しかし、「これらのうち何といっても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは真実の陰蔽であらう」という、前書の一節が、グロテスクな響きを発せざるを得ないのは、この宣伝文書が、戦争とは国家間の争いにほかならないという自明な「真実」を「隠蔽」したまま、いわゆる「真相」の暴露に終始しているためというほかない。しかも、この宣伝文書が発表されたとき、日本の言語空間は、すでにその存在を秘匿し、「隠蔽」していたCCDの検閲によって、ほぼ完璧に近いかたちに閉され、監視されていたのである。

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 なぜなら、教科書論争も、昭和五十七年(1982)夏の中・韓両国に対する鈴木内閣の屈辱的な土下座外交も、『おしん』も、『山河燃ゆ』も、本多勝二記者の"南京虐殺"に対する異常な熱中ぶりもそのすべてが、昭和二十年(1945)十二月八日を期して各紙に連載を命じられた、『太平洋戦争史』と題するCI&E製の宣伝文書に端を発する空騒ぎだと、いわざるを得ないからである。そして、騒ぎが大きい前には、そのいずれもが不思議に空虚な響きを発するのは、おそらく溜涙となっている文書そのものが、一片の宣伝文書に過ぎないためにちがいない。
 占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうか返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というはかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しつづけているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生れの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。
 つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史批判によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。教育と言論を適確に掌握して置けば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことを、CCDの検閲とCI&Eによる「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、表裏一体となって例証しているのである。



WGIPが効力を発揮したのは、次の理由にも因るだろう。



民主主義の定着には歴史が要る。英国の民主主義もマグナ・カルタから名誉革命まで五世紀の試行錯誤を繰り返してきた。日本の現在の民主政治は、政治の実態からいって大正デモクラシーとほとんど変わらないが、一番大きな違いは、その間軍人に政治を委ねた試行錯誤があまりにも破滅的だったために、国民のあいだにもう民主主義以外の選択肢が存在しなくなっている、その安定性にある。
  (岡崎久彦 著 『日本外交の情報戦略』)



日本はキリスト教圏にはなることはなかったが、戦後日本の言語(思考)空間は、思いのほかキリスト教的であるといっていい。



▼永井均 『これがニーチェだ』 講談社現代新書

 だが、ニーチェの議論の真骨頂は、じつはここから先にある。「罪」の、とりわけキリスト教的「原罪」の観念の起源の探究が、次の課題である。それは、債務−債権関係と良心のやましさとを、二つの源泉とする。

  たとえば、責任の観念が成立する以前、罰は、受けた被害に対する被害者の怒りの爆発という意味しかもたなかった。苦痛を与えられたら苦痛を与え返せ。要するにお返しである。だが、なぜお返しをするのか。それは、加害者と被害者の関係が債務者と債権者の関係と感じられていたからであろう。苦痛は、金品とは逆に、与えた者が負債を負って債務者となり、与えられた者が債権者となる。つまりそこにはいわば、お返しすべき約束と責任が暗黙のうちに生じているのである。債務−債権関係の起源は、このように古い。

  こうした債務−債権関係は、現存する人間を越えて、共同体と祖先の間にも成立するようになる。祖先の犠牲と功績に対する畏怖心、祖先に対する負債の意識は、絶対的な債権者として神という表象を生み出すにいたる。ユダヤ教の神がその典型である。だが、この負債の意識は、それだけではまだ、宗教的な意味は持っていても、道徳的な意味は持っていない。それが道徳的な意味を持つためには、やましい良心がそれを自己の内面に取り込む必要があるのだ。

  やましい良心の起源は人間の内面化にある。残酷さに祝祭的な喜びを覚えるような人間の攻撃的な本能が、何らかの力によって外に発散することを妨げられ、はけロを失って内へと祈り返したとき、そこにやましい良心が成立するのだ。自分の心の中の苦悩に自虐的な快楽を感じること――それがやましい良心の本質である。「それと同時に、人類が今日なお快癒していない、最も重い、最も不気味な病気が持ち込まれた。人間が人間であることに、自分自身であることに苦しむという、あの病いである。それは、人間が動物的な過去から強引に引き離され、新たな状況と生存条件へ飛躍し突進したことの帰結であり、これまで人間の力と喜びと恐れの基礎となっていた古い本能へ宣戦布告したことの帰結にほかならない」(『道徳の系譜』)。こうして、人間は反省意識による自己観察を知ることになり、これまで地上に出現したことのない「将来性に富んだあるもの」(同)、すなわち精神となった。この病気とともに、人間はいねば一個の創造的な芸術作品となったのである。

  そのやましい良心があの負債を自己の内面に取り込むとき、外面的な負債(Schulden)は内面的な罪責(Schuld)に変わる。キリスト教の本質は、個々の人間が唯一の神に対して負債を、しかも自力ではけっして償うことができない負債を負っている、という解釈の創造にある。
  自分ではけっして償うことのできない罪――だが、この解釈こそが人間を救うのである。はけ口を失った不安な生は、「罪人」という恪印を押されることによって、はじめて意味を待つからである。人間の生全体を「罪」という観点から意味づける、新たな強力な道徳空間が、こうして成立する。

  この過程は、誰も考えつかないような、じつに意外な、途方もない、最後の一手によって、完成することになる。すなわち、キリストの磔刑である。債権者の方がなすすべもない債務者のために自分を犠牲にするという恐るべき奇策である。「神御自身が人間の罪のために自分を犠牲にされた、神御自身が身をもって支払いを引き受けてくださった、神こそはわれわれ自身が返済できなくなったものをわれわれに代わって返済してくださる唯一の方であられるのだ、――債権者が債務者のためにみずからを犠牲にする、それも愛ゆえに(これが信じられようか?――)債務者への愛ゆえに!」(『道徳の系譜』)

  この返済は、それが知らされてしまったならば、内面化された、精神的に深められた、祈たな負債を生み出すことになるだろう。誰にも借金などした覚えのない者に向かって、こう吹聴してまわる人物がいたらどうだろうか。「まだ気づいていないかもしれないが、おまえは実は莫大な借金をしていたのだ。でも、安心しろ。おまえのその借金は、なんともう俺たちの親分が支払ってくれたのだから」。これを間いて、身に覚えのない者も、つい感謝したくなるだろうか。私ならその人にこう答えたい。「きみがそれを吹聴してまわるかぎり、私はきみを信用できない。人の借金を(愛ゆえに)肩代わりしてくれるほどの方なら、そのことが知られることを望まないであろうから。きみは親分さんを利用して新たな債権者になろうとしているね? きみのその行動そのものが、きみの言説の嘘をすでに示しているのではないか?」

  良心のやましさの成立は、自分で自分の生の現実を知り、自分で自分を統御する、新しい人間の可能性を意味した。だが、キリスト教の僧侶の介入によって、事態は意外な方向に展開したのである。転倒した形ではあっても、敵に向けられていたあの攻撃的本能が、自分に向けかえられ、自分の存在それ自体をやましいものと考える、神の前にひれ伏すしかなすすべのない、精神の奴隷が誕生したのである。
  (中略)

 返済を吹聴してまわるのは、パウロをはじめとするキリスト教の僧侶たちである。ニーチェは彼らを禁欲主義的僧侶と呼ぶ。彼らの介入によって、やましい良心が負債を罪として内面に取り込むようになるとき、人間は神に対して償うことができない負債を負った罪人となるのだ。罪人たちの恐怖を鎮める力を待つのは僧侶だけだ。肉体の病理を知りそれを統御できるがゆえに、医師たちが病人たちを支配する権力を待つのと同様、精神の病理を知りそれを統御できるがゆえに、僧侶たちは「罪人」たちを支配する権カ――この世を越えた絶対的な権力――を待つことになる。M・フーコーのいう牧人型権力の出現である。

  無によって支配され、無に向かって方向づけられた、魂の麻薬患者が、つまりニヒリストが、こうして誕生する。いや、そうではない。それは充実した、意味のある生なのだ。僧侶の方向づけのおかげで、さ迷えるやましい生は、はじめてひとつの一貫した意味を待ったのだ。「これまで人類の頭上をおおっていた呪いは、苦悩そのものではなく、苦悩に意味がないということであった。しかるに、禁欲主義的理想は、人類に一つの意味を提供したのだ。(中略)だが、この解釈は――疑う余地なく――新たな苦悩をもたらした。より深い、より内面的な、より有毒な、より生を蝕む苦悩である。それはあらゆる苦悩を罪というパースペクティヴのもとに引き入れたのである。……にもかかわらず――人間はそれによって救われたのだ」(『道徳の系譜』)。

  われわれは自分の存在の意味の問題に苦しんでいるので、苦悩という最も強い潜在的な力をもっていたものに意味が与えられて、そのマイナスのパワーがプラスに転化することは、大変な喜びなのである。なぜなら、それぱ、苦悩の問題と意味の問題を、一挙に、しかもたぐい稀なほどの力をもって、解決してくれるからである。僧侶は、この世での苦悩の原因を取り除いてはくれないが、それに意味を与えることで、生に希望を与えてくれるのだ。

  そうなってしまえば、僧侶のたくらみを見抜き、その誘惑を拒否する者は、まさにそのことによって、最も罪深い者とされるほかはなくなる。また、意味のある生をうらやましく感じ、しかもなお僧侶の誘惑には乗り切れない者は、そのことによって、また別の種類のニヒリスト――自分の生の空しさを嘆く種類の――にならざるをえなくなる。空間がつくりかえられてしまったのである。
 (中略)

 ところで、この僧侶自身は、いったい何者なのだ? ニーチェは言う。「禁欲主義的僧侶ぱ、別の者でありたい、別の他にありたいという願望の化身である(中略)だが、ほかならぬ彼のこの願望こそが、彼をこの世に縛りつけるのだ。この力ゆえにこそ、彼はこの世で人間として存在するためのさらにいっそう有利な条件をつくりだすために努力せざるをえない道具と化す。――この力のゆえにこそ、あらゆる種類の出来損ない(中略)といった全牧畜の牧人となって彼らを導き、本能的に、彼らを生存につなぎ止めるのである。(中略)禁欲主義的僧侶、この外見における生の敵、この生の否定者、――彼こそが生を護るきわめて大きな力であり、肯定を生み出す力でもあるのだ」(『道徳の系譜』)。ニーチェがけっして単純な思想の宣伝家ではなく、繊細な認識者であり探究者であることが、この引用からもわかってもらえると思う。つまり、牧畜たちとはちがって、この牧人には力があるのだ。

  その創造的な力が、この世の現実を否定する意志と結びついて超越的な背後世界(神、天国、等)を握造し、その観点からこの世の生に意味を与えたとき、禁欲主義的理想が生まれる。背後世界を信じることはこの世で禁欲的であることを強いるからだ。禁欲主義的僧侶とは、自分の本能の力だけで、このような転倒したパースペクティブを打ち立て、みずからそれを生きることができる力を待つ者のことである。だが、その僧侶の生が貫徹されるためには、不安におびえるルサンチマン的弱者の存在が不可欠なのである。そこに完璧な相互依存関係が成立する。僧侶は弱者の「傷から来る痛みを鎮めながら、同時にその傷口に毒を注ぐ」(『道徳の系譜』)。ということはつまり、弱者は傷口に毒を庄がれながらも、その傷から来る痛みを僧侶に鎮めてもらうのである。

「人間のこの本質的に危険な存在様式、すなわち僧侶的な存在様式という土壌の上で、およそ人間というものがはじめて一個の興味ある動物となったのであり、これによってはじめて人間の魂はより高い意味で深さを獲得し、そして邪悪になったのである」(『道徳の系譜』)。つまり、人間という動物はここにおいてはじめて深い意味で悪くなったのであり、興味深い人間的現象のすべては、この悪にその起源を持つのである。

  僧侶は、転倒したパースペクティブの内部においてではあるが、力への意志に活路を与えることに成功した。これは特筆すべきことである。その土壌の上で、自己の罪過をごまかすことに対する極度の潔癖さが、「良心の贖罪師的鋭敏さ」が、つまり真理への意志が育てられたのである。キリスト教によって学問的良心にまで鍛えられたこの真理への意志、真理へのこの誠実さこそが、ついにはキリスト教の虚偽を暴き、それを打ち倒すことになることを、われわれはすでに知っている。禁欲主義的理想によって育てられた真理への意志が、育ての親である禁欲主義的理想そのものを否定するのだ。自分をごまかさずに、自分に嘘をつかずに、誠実に考え直してみるならば、神などじつは存在しない。神の国もじつは到来しない。

  こうして「無への意志」が暴露され、こうして「神」は死ぬ。「比較的近い時代」における無神論の到来である。そのとき一方では、無意味、無駄、徒労、甲斐のなさの感覚がひろがる(受動的ニヒリズム)。他方ではしかし、真理への意志を信じた、新しい、科学的、政治的冒険が開始される(能動的ニヒリズム)。

  禁欲主義的理想の無への意志が、真理への意志を育てることによって、おのれ自身を凌駕するそのプロセスのうちに、ニーチェは、力への意志の自己貫徹を見た。無への意志が、背後でおのれを支えてきた力への意志によってついに凌駕されたのである。隠されていた力への意志が、おのれの外皮を食い破るまでに自己成長を遂げたのだ。だからたとえば啓蒙主義の成立は、力への意志の自己貫徹なのである。そう認識するニーチェ自身もまた、一面では、この自己超克し、自己貫徹する「力」の化身にほかならない。

  だが、ただひとつ、そこにおいてなお、ただひとりニーチェだけが与える最後の一撃がある。それは、その真理への意志そのものに対して、「真理への意志そのものは何を意味するか?」(『道徳の系譜』)という問いを立てたことである。

  この最後の一撃がニーチェを傑出させるのだ。つまり、「真理への意志」そのものに対する真理への意志。「誠実さ」そのものに対する誠実さ。自分の問いそのものを自己破壊することをも辞さない極端化された誠実さ。系譜学の遂行とは、まさにそういう作業であったのだ。だから、それは、最終的には、もはや真理への意志への誠実さであることができず、むしろ、力への意志そのものへの誠実さとなるだろう。こうして、真理への意志もまた無への意志であることが暴露されて、「真理」として現れていた「神」もまた死ぬ。

  なぜ「神」は死ぬのだろうか。ニーチェが与えた究極の答えはこうだろう――もともとほんとうは死んでいたからである。もともと〈神〉が死んでいたからこそ、いま「神」が死ぬのだ。まずは、それが無であることによって〈神〉が死に、つぎにその無が知られることによって「神」が死ぬ。ニーチェのニヒリズム概念の外見上の多義性は、この構造に由来するのであろう。

  それにもかかわらず、同時にまた、この系譜学的探求を通して、「神」に代わるものが発見されたのではないか? 〈神〉が再発見されたのではないか? たしかに、転倒したパースペクティブの内部においてさえ、無への意志という外皮を内側から食い破って、自己貫徹する力への意志が発見された。だが、それは「神」に代わりうるものだろうか。それは〈神〉であろうか?





小泉総理にヴィジョンがないのではない。ヴィジョンは既にその始まりに告げられている。
小泉総理はそれ以来ヴィジョンを語れない、というよりもむしろ語らない。
なぜなら、その戦略の質的な転換を要請する出来事が起こったからだ。

9.11

日本の新世紀の幕開け――この日を境にして、新時代に対応した国家の安全保障体制の確立が要求された。
日本単独での安全保障体制の根幹を破壊し、そして戦後の日本を造ったもう一つのアメリカは、見えない敵との不確実な戦争に突入した。




マッカーサー司令官の下で国会を監視する任務についていたウィリアム・ジャスティン中佐
「日本は憲法を変えることが出来ないだろう。我々は占領が終わったあと日本人が直ちに憲法を変え、ふたたび軍事国家になることを恐れていた。だから日本人が憲法を変えられないように、さまざまな条件をつけてがんじがらめにした。」
(日高義樹 著『日本人が知りたくないアメリカの本音』)



 ブッシュ政権の意向と政権に関係の深いシンクタンク等の提言は、リチャード・アーミテージ氏が中心となってまとめた「合衆国と日本:成熟したパートナーシップへ向けての前進」が象徴する通り、マッカーサーが遺した戦後日本の構造的な弊害を解消することにある。



アーミテージ・レポート

最も重大な点は、日米関係を米英関係にまで高めようという提案である。
総論:アメリカ外交の中心は、ヨーロッパからアジアにシフトしつつある。ヨーロッパにおける大きな軍事紛争の可能性はもうないが、アジアにはある。核兵器使用の可能性もある。台湾海峡と朝鮮半島が最も危険だ。日米同盟こそ、アジア太平洋地域における安定と繁栄の基礎である。
政治:日本の若い政治家たちは、唯経済主義では未来は切り開けないと考えており、国家主権の尊厳に覚醒しつつある。これは同盟強化の好機である。
安全保障:日米同盟のモデルを米英同盟に求めるべきである。しかしそのためには、日本が集団的自衛権の行使を認めなければならない。
情報:アメリカは日本との情報共有を進めなければならないし、日本独自の情報収集衛星を容認すべきである。
経済:日本は規制緩和・市場開放を勇気をもって進め、経済の持続的成長力を回復しなければならない。日本とシンガポールの自由貿易協定は、将来のアメリカとの共同市場設立の実験として歓迎する。
外交:日本は「小切手外交」から脱皮すべき時である。日本外交の独自性追求は、アメリカの国益と相反することはない。
(藤井厳喜 著 『ジョージ・ブッシュと日米新時代』)





小泉総理の新世紀維新の構想もまた、軍事的色彩を帯びていく。

新世紀維新への戦略は何度でも書き換えられる。
アメリカが日本を打ち破ったように、この国はアメリカが遺した亡霊を葬らねばならない。


沈黙を武器にするには、あらゆる誤解を受け入れる必要がある。
それと引き換えに困難な使命の遂行を可能にさせる。



沈黙が支配する聖域への涜聖は、同じく沈黙をもって為される。





▼NHK報道局「自衛隊」取材班 『海上自衛隊はこうして生まれた 「Y文書」が明かす創設の秘密』 

 海上自衛隊の哨戒機P3C百機により集められた潜水艦情報は、横須賀を事実上母港とする米海軍第七艦隊の行動にも生かされ、「ソビエトの軍事力の封じ込めに大きく寄与した」(海幕防衛部幹部)とされている。

 「第七艦隊の打撃力を海自の哨戒能力が補完する体制だった。両者が連動したからこそソビエトは膨大な軍事支出に耐え切れなくなり、冷戦の崩壊に至ったのだ」(海幕首脳)とも言われている。

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「NAVY TO NAVY」という世界各国の海軍に特徴的な用語を説明しながら、小貫は言った。

「世界各国の海軍は、自分たちは外交官であるという誇りと自負があり、国家を超えた連帯感を持っている。特に半世紀にわたって、冷戦時代をともに支えてきたという海上自衛隊の米海軍に対する思いは特別なものがある」

 さらに続けて、

「要するに、海上自衛官は形を変えたアメリカ人なんですよ」

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 アーミテージ米国務副長官の「Show the flag」(旗幟を鮮明に)発言が話題になっていた時である。

 日本とアメリカしか持たない最新鋭の護衛艦「イージス艦」の派遣が、国会でも議論していた。

「イージス艦を出すかどうかのこの議論は、海軍=国家という構図を象徴することだ」

という打ち合せでの小貫の発言が、右田の取材メモにも残っている・

同じ頃のメモに、海上自衛隊の幹部が語った言葉も記されている。

「もしここで海上自衛隊が後方支援に乗り出さなければ、日本は国際社会の孤児になってしまう。アメリカの軍事力にタダ乗りしたまま、政治と経済は一流でも、安全保障では四流といわれる」

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 答える佐久間氏は、穏やかな表情とは裏腹に、切り口の鋭い、明快な言葉を繰り出した。

「イージス艦は、情報通信能力で桁違いのずば抜けた能力を持っています。海上自衛隊はそれを米海軍と訓練し続けてきました。NATO(北大西洋条約機構)よりも互いに連携しやすい関係にあるのです」

 イージス艦派遣の是非、有無については言及せず、佐久間氏は米海軍がいかに海上自衛隊の協力を望んでいるかを具体的な言葉で説明した。

 そもそも「日米同盟」において、明確な共通の目標を持つ日米は、精神的にも一体となったシステムであること、湾岸戦争直後、機雷の掃海を単独ではできない米海軍に代わって、海上自衛隊は最後まで任務を全うし、「ウェルダン」と米海軍の指揮官に称賛されたこと。このように補完し合う海軍同士は国際的な関係なのだ、そう強調する。

 佐久間氏の米海軍への強い信頼感と憧憬にも似た一体感が、ひしひしと伝わってくる。

 米海軍第七艦隊司令部から「海上自衛隊がいてくれて、どんなに心強いか」と言ってもらったと語る時、佐久間氏は何ともいえない満足げな表情を見せた。

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「テロ攻撃で崩壊した世界貿易センタービルがアメリカの富の象徴なら、空母はアメリカの軍事力の象徴だ。世界貿易センタービルの高さが三百メートルあまり、空母の長さもちょうど三百メートルあまりだ。アメリカは次は空母が狙われるかもしれないと本気で恐れていた。だからレーダーも艦載機の使えない停泊という危険な状態を脱し、一日でも早く洋上に出たかったのだ。当時の米海軍の警戒心は尋常ではなかった。」(海幕幹部)

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 チャップリン司令官は、防衛大学校の卒業式や海上自衛隊が主催するパーティーを覗いたことのある人なら一度は目にしたことのある、いわば在日米海軍の「顔」だ。元々ヘリコプターのパイロットで、上陸作戦を行う強襲揚陸艦の艦長として、アフリカのソマリアやカリブ海のハイチでの作戦に参加していたらしいと聞いていた。(中略)

 のちに海上自衛隊のある幹部は、アメリカがヒステリーともいえる状態に陥っていたのだと、当時の事情を打ち明けてくれた。

 2001年9月11日、突如、大型旅客機による自爆テロという予想外の自体に直面したアメリカは、本土の防空に異常なまでに神経質になっていた。本土が直接被害にあったのは、二百年以上前の独立戦争以来初めてのことだった。民間機の飛行は再開させたが上空の監視の目を緩めることはなかった。当時アメリカが考えたのは、アメリカの東海岸と西海岸の両岸にイージス艦を張り付けて、本土の防空を担当させようという前代未聞のアイデアだった。ただ、アメリカ本土の海岸線は単純に計算しても東西それぞれ二千キロ近い。いくらイージス艦のレーダー性能がいいといっても、最低四隻ずつ、計八隻が必要となる。交代のために待機するイージス艦も用意した場合、その倍は必要になる。こうした事情から、アフガニスタンから遠く離れたディエゴ・ガルシア島にイージス艦を一石でも派遣することは、さしものアメリカにとっても大きな負担だったのである。

 この幹部は、米海軍側が「イージス艦を出してくれ」と具体的に要求してきたことはないが、日頃の会話の中で、「米海軍はこういう艦艇をこういう場所に展開させて、こういうことをやっているよ」といった情報の提供を受けていると話した。

 海上自衛隊と米海軍が調節しながら支援の構想を決めているのではなく、米海軍からキャッチした情報をもとに海上自衛隊側がどのようなプランが可能か、みずから組み立てていくというのがこの世界の流儀のようだ。当時、海上自衛隊の幹部の頭の中には、米迂回軍の苦しい台所事情を軽減してあげたい、しかもそれがアメリカの利益にもなり、日本の国益にもつながるはずだという思いがあったのである。これが最初のイージス艦派遣論gの真相だった。

 チャップリン司令官は、日本のイージス艦のディエゴ・ガルシア島への派遣構想については最後まで語らなかったが、司令官は思わせぶりな一言を述べていた。

「日本の周辺海域で日米が共同演習できるのですから、いつの日にか、海上自衛隊の艦艇が米海軍の艦艇と同じ作業を行う能力があると理解しています。私たちが何を頼んでも、海上自衛隊にはまったく問題なくこなせる能力があるでしょう。しかも素晴らしい働きをするでしょうし、私たちはとても頼りになります」

 海上自衛隊はアメリカの秘匿された苦境さえも共有する立場にあり、それゆえアメリカの働きに敏感に反応したということだったのか。なぜ海上自衛隊が焦りを感じていたのか、謎が一つ解けたような気がした。

 取材班は皆、「日米同盟は海洋同盟である」というある幹部の話を思い浮かべていた。

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 防衛庁の電波傍受施設は、昭和58(1983)年の「大韓航空機撃墜事件」の際、旧ソビエト軍機の交信内容を傍受。政府の判断でその内容を「撃墜の動かぬ証拠」として国連に提出するだが、当時の空気を知る四十歳代半ば異常の幹部自衛官は口を揃えて、「あれで十年遅れた」と振り返る。

 要するに傍受内容の公表で、日本がどういった電波情報をどの程度まで聞いているかという手のうちを明かしてしまったことになった。ソビエトはその後、当然のことながら交信方式を変更した。その解読に再び追いつくのに十年を要してしまったというのである。電波傍受能力に関する情報は、極めて秘匿レベルの高いものなのだ。

 さらに、防衛庁・自衛隊にとって、もっと隠さなければならない存在がある。米軍情報である。

 防衛庁の電波傍受施設が動き始める前に、アメリカの軍事衛星から工作情報はもたらされる。アメリカの軍事衛星は、北朝鮮の工作船情報はもたらされる。アメリカの軍事衛星は、北朝鮮の工作船拠点とされるナムポ(南浦)、ウォンサン(元山)、チョンジン(清津)などをはるかな上空から監視、工作船の出入港状況を常時とらえている。出港後も複数の衛星で代わる代わる追跡する。情報は米国防総省情報部局と防衛庁情報本部、横須賀を事実上の母港とする米海軍第七艦隊と海上自衛隊自衛艦隊司令部の、主に二つのルートで入ってくるとされる。こうした情報と並行して防衛庁電波傍受施設での工作船の位置特定作業が進められ、最後に哨戒機P3Cの乗員が目視で相手を確認する、というカラクリだ。

「日米安全保障」の一端と言えばそれまでだが、一般国民には縁遠い両者の関係性がそこにある。

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「日米同盟はその実、海洋同盟である」(海幕防衛課幹部)

すなわち、日米関係の根幹は、戦後一貫して「アメリカ海軍と海上自衛隊にあった」、というのである。

「同盟」とは、軍事的意味を多分にはらむ言葉だ。

 海上自衛隊は、ハワイ・オワフ島にある米海軍太平洋艦隊司令部に、常時三佐クラスの幹部自衛官を連絡官として派遣している。ある太平洋艦隊司令官は、海上自衛隊の連絡官にこう話したという。

「日米関係は、政治にも経済にも存在するが、両国のパートナーシップのために汗を流し、時に犠牲を払ってきたのは、われわれ(米海軍と海上自衛隊)だけなのだよ」

 日米同盟は海洋同盟だという思考は、米海軍側にもあるようだ。

 海上自衛隊のトップである海上幕僚長は、例年、年頭の訓示でまず第一に「米海軍との協調」を挙げるという。海上自衛隊の形は、対米関係を極めて重視する日本の縮図ではないのだろうか。

 ある元海将は、日米同盟について、自分たちがアメリカに全面的に与しているわけではない、と前置きしたうえで、次のように語った。日米同盟を単に”友好”や”連携”という言葉で語らないところが印象的だった。

「弱肉強食の国際政治の現実の中で、日本が生きのびるためには、スーパーパワーであるアメリカにつくしかない。国家として長い将来を考えると、長いものには巻かれなければならぬ時代もあるということだ。アメリカは恐ろしい国だ。日本のDNAを残すためには、今は取り入るしかないんだ・・・・・・。百年か二百年かたって、相手(アメリカ)が仮に弱ってくれば、その時には別の選択肢を考えればよい」

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 『よみがえる日本海軍』でY委員会の資料を含め、様々な資料や証言を駆使しながら、米海軍からみた「海上自衛隊の創設・現状・問題点」を検証した米海軍の少佐、アワー。アワーはこの論文を上梓した後、同研究に伴って培った海上自衛隊人脈を買われて、昭和48(1973)年まで横須賀の在日米海軍司令官の政治顧問を務めた。アワーはその後中佐に昇任。昭和53(1978)年には横須賀を事実上の母港とする米海軍第七艦隊のフリゲート艦の艦長となり、翌54(1979)年には米国防総省の日本担当課長となった。さらに2年後の56(1981)年、ロナルド・レーガン大統領が就任すると、上司の東アジア太平洋地域担当の国防次官補代理に海軍出身のリチャード・アーミテージが就いた。現在、米国務副長官を務めるアーミテージである。アワーとアーミテージはともに日本をはじめ極東の安全保障政策に深く関わった。アワーは昭和63(1988)年、日本担当部長として米国防総省を去るまで公人として日本に関わり続けた。そして今もたびたび来日し、日米同盟の重要性を訴える講演などをして各地を回っている。

 海上自衛隊の幹部はよく、「アメリカの知日派と呼ばれる人たちは皆、海軍出身なんですよ」とうれしそうに語る。日米同盟の基底は「海軍(海上自衛隊)」にあると言いたいのだろう。

 9・11米同時多発テロ事件の後、インド洋に海上自衛隊を派遣するかどうかの議論が続いていた時、ある海幕首脳は米政府内の知日派について次のように語ったことがある。

「米政府内に知日派と呼ばれる人たちはいるが、決して多数派ではない。その人たちの立場を危うくしないためにも、日本が早期に対テロに協力する姿勢を示す必要があると私は思う。日本がいつまでも決心できないと、知日派の面々は『お前たちの育ててきたという日米安保とはこんなものか』と窮地に立たされかねない」

 アワーは現在、米政府担当者ではなく大学教授の肩書を持つが、この海幕首脳の言う「知日派」とは、アワーと現在も気脈を通じているとされるアーミテージなどを指していたと思われる。もちろん海幕首脳の脳裏にはアワーの姿も浮かんでいたのかもしれない。

 アワーは、日米同盟は戦闘条約ではなく「保険政策」だと言った。同盟の目的は戦争に勝利することではなく、紛争が起こることを抑止するためだと笠間に説明した。

「日米同盟関係は、冷戦期よりも強まったと思う。冷戦後すべての違いを超えて日米には共通する国益がある。日米の人口は世界人口の7パーセントにすぎないが、この7パーセントで世界の富の40パーセントを押さえている。言葉も文化も違うが、二つの豊かな大国が繁栄を享受している。日米はともにこの繁栄を享受したいのだ。ソビエトが敵だった時も、ソビエトの人間が憎いからではなく、彼等がわれわれの富を脅かすから戦ったのだ。日米安保は、不安定に対する保険なのだ」

 アワーはさらに冷戦期を振り返ってこう言った。

「率直に言って、冷戦期のソビエトは『日本はアメリカの奴隷だ』と見誤った。アメリカが戦えと言えば、日本は戦うと思っていた。でもそれが抑止力となった。ソビエトはアメリカの艦隊と戦うだけでなく、P3C、護衛艦などを持っている日本艦隊とも戦わなければならないと恐れていたのだ。その抑止力は大きかった。今、中国、北朝鮮が『日本に闘う意思あり』と思っていたら同じ(効果を生む)だろう。しかし『日本が後方支援しかしない』と思ったらリスクはより大きくなる。アメリカと組むことで抑止力は高まるのだ」

 しかし、日本には憲法解釈上、集団的自衛権の行使に歯止めがかけられている。テロ対策特別法に基く対米支援が進められているが、アメリカは日本にどこまでの協力を求めているのか笠間はアワーに聞いた。

「内閣法制局が『日本には集団的自衛権があるが、それを行使できない』と言ったから、制限された。日本には、(一)何もしない、(二)後方支援、の二つの選択肢しかなくなった。しかし、もし日本が将来決断したら、(一)何もしない、(二)後方支援、(三)小規模の戦闘、(四)中規模の戦闘、(五)空軍も導入しての大規模戦闘、という五つの選択肢に増える。しかし、今は政策によって選択肢は二つしかない。今はいいが、将来、後方支援だけでは不十分になったらどうなる?日本の貢献はアメリカ人だけでなく、日本人から見ても不十分なものになるだろう」

 そしてインド洋、アラビア海で進められている海上自衛隊による対米後方支援について「とてもよい評価をしている」としたうえで、その意味をこう解説した。

「今回(の海上自衛隊による支援)は、とても自然な継続の結果だと思うんだ。帝国海軍は1945年で解体され、1952年に(GHQ=連合国総司令部による)占領が終わり、日本にも小さな陸海軍=自衛隊ができた。その初期においてすら、米海軍と海上自衛隊は緊密な関係を持っていた。陸や空の日米関係よりも緊密だった。海運国である日米の国益は、太平洋においてとても近い。陸・空でも現在は日米でより緊密な関係ができているが、海上自衛隊と米海軍の関係は早い時期から築かれ、とても洗練されたものとなっている。1980年代、海上自衛隊と米海軍はとても近かった。1990年代、湾岸(湾岸戦争における日本の軍事的非協力)によってそれは遠ざかった。しかし、それは海上自衛隊のせいではなく政治の問題だ。今、小泉首相が決断し、海上自衛隊は行動できた。政治的決断さえあれば、海上自衛隊は行動できる。日本、そしてアメリカ、さらにイギリスの三カ国はいずれも海運国であり、国益において協力できる」

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 式典では、正面の壁いっぱいに飾られた巨大な「日の丸」と「自衛艦旗」を背にして、石川亮海幕長(当時)が壇上に登った。その場に居合わせた藤木も右田も小貫も笠間も、現役最高幹部が創設50周年のこの日をどのように総括するのか、かたずをのんで見守っっていた。石川海幕長は、終戦直後のある「伝説」から始まった。

「昭和20年(1945)年11月30日、帝国海軍は77年の歴史を閉じました。巻く引きを務めましたのは最後の海軍大臣である米内光政大将であります。帝国海軍が終焉を迎える日、海軍省の中庭において、米内海軍大臣はじめ海軍省職員が見守る中、海軍軍楽隊による演奏会が行われました。その時、最後を飾った曲は、栄光の海軍を象徴する『行進曲海軍』でありました。聴く者も、演奏する者も涙を禁じえず、万感胸に迫るものがあったと伝えられています。この演奏会に参加した人々の胸に去来したものは、海軍への惜別の念と、いつの日にか新たな海軍を再建したいという熱い思いでありました」

 帝国海軍は、明治元(1868)年に海軍局が設置されたのをその起源としている。

 そして敗戦の年(昭和20年)、9月13日に陸海軍の統帥権のすべてを掌握していた大本営が廃止、10月15日に海軍の全作戦を司る軍令部が廃止、陸海軍は完全に武装解除され、11月30日、海軍省も廃止されて77年の歴史に幕を閉じることとなった。

 石川海幕長が式辞の中で披瀝した「伝説」とは、旧海軍最後の日に起きた出来事である。

 海上自衛隊や旧海軍関係者の間で言い伝えられているのだが、この日、今の東京・霞が関の厚生労働省と農林水産省の敷地にあった旧海軍省の中庭に生き残りの海軍省職員が集まり、海軍軍楽隊による演奏が行われた。そして曲目の終わりに「行進曲 軍艦」、いわゆる軍艦マーチが奏でられたのだという。当時、軍艦マーチは軍国主義の復活につながるとして、演奏は自粛されていた。海軍がなくなるにあたり、米内海軍大臣は「海軍の再建」を部下の海軍省幹部に委嘱したというのが「伝説」の中身だ。

 その時、実は軍楽隊の演奏はなかったというのがのちに判明した史実のようだが、石川海幕長の式辞がいきなり海軍解体の話から始まったことに取材班は戸惑いを感じた。各国の駐在武官が列席し、NHKだけでなく民放各社のテレビカメラも回る公の場で、現役最高幹部が「海軍を再建したいという熱い思い」を明言したからだ。

 もちろん内輪では、「伝統墨守、唯我独尊」の海上自衛隊といわれるだけあって、「海上自衛隊は帝国海軍の伝統を受け継いでいる」という話をたびたび耳にした。ただし、現役最高幹部の口から公式の場でこうした発言が出ようとは予想だにしていなかった・・・・・・、というより、いわゆる五五年体制の時代なら、海幕長の進退問題に発展しかねない発言だった。しかし、何事もなかったように、石川海幕長の式辞は次にY委員会の歴史に移っていく。

「日本国民の軍に対する抵抗感が極めて強い時代における旧海軍軍人を中心としたこの一大プロジェクトは、おそらくわれわれの想像を超える大変なご苦労を伴ったものと推察されます。これら諸先輩の心を支え、苦難を乗り越えさせたものは、米内大将以下が海軍最後の日に誓った『新しい海軍』を再建し、再び『行進曲 軍艦』をよみがえらせるという一念であったと思います」

「われわれは、今後とも海軍のよき伝統を日本の財産として、堂々と継承してまいります。そして、そのうえに『真心を尽くす』ということを精神基盤とした海上自衛隊のよき伝統を築き上げていく決意であります。

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 海上自衛隊の幹部(三尉以上)と呼ばれる人たちに「アーレイ・バーク大将を知っていますか」と問えば。99パーセントの人は「はい」と答えるだろう。今の若手士官でも知らない人はいない。そして、皆バークを「海上自衛隊の生みの親」の一人として認識している点で一致している。

 1901(明治34)年に生まれたアーレイ・バークは、メリーランド州アナポリスにある米海軍兵学校を卒業、太平洋戦争で日本海軍との熾烈な戦闘を戦い抜いた。戦後、1950年(昭和25)年9月に来日。当時、東京にあった米極東海軍司令部の参謀副長(少将)として、朝鮮戦争が激しさを増す中、翌5月に転属になるまで勤務を続けた。

 この日本滞在の間、バークは旧日本海軍幹部らによる「海軍再建」計画に助言を与え、彼等の意向を米海軍作戦本部に伝える役割を担った。アメリカによる占領下、バークの存在が海上自衛隊の前身、海上警備隊の発足に果たした役割は極めて大きかった。

 その後、バークは1955(昭和30)年に米海軍トップの作戦部長(CNO)に就任。歴代作戦部長の中でも異例と言える三期六年の任期を勤め上げ、退役した。この間バークは、米海軍と同じ護衛艦や対潜哨戒機を海上自衛隊に対して提供することに尽力した。この頃つくり上げられた海上自衛隊の部隊編成は、現在のそれの基礎とも言える。

 バークの存在は、海軍兵学校出身の草創期の幹部たちから防衛大学校世代の幹部へと語り継がれてきた。さらに1970年代、バーク自身が米東海岸のノーフォーク海軍基地に寄港する海上自衛隊の遠洋航海部隊の初任幹部に対し、決まって「海軍士官のあり方」といったテーマで講和を行っていた。この頃の初任幹部は、今海上自衛隊の最高幹部クラスに位置している。こうした背景があって、海上自衛隊では今の若手士官に至るまで、バークを「(みずからの組織の)生みの親」と認識しているのである。

 また、海自の公的な記録の中でもバークは圧倒的な存在感を示している、1977(昭和52)年、創設から25年を迎えて海上自衛隊が編纂した『海上自衛隊二十五年史』には次のような記載がある。

「バーク少将は米極東海軍司令部参謀副長の職を離れた後も、わが国の防衛力建設に関するよき理解者であった。海上自衛隊が設立された後、米海軍作戦部長バーク大将の尽力により『あきづき』『てるづき』二隻の護衛艦が域外調達され、海上自衛隊に提供された他、当時の最新鋭対潜機P2V−7・16機、及びS2F−1・60機が無償提供され、P2V−7の国産が実現するなど、同大将は創設期の海上自衛隊の育成に多大の尽力を与えた」

こうした関係だから、海上自衛隊は、海上自衛隊はアーレイ・バークを非常に大事にした。ある意味で「ご先祖様」のような感覚で敬っていたところがある。防衛庁担当記者の小貫は、現在の海幕副長・道家一成海将からバークの思い出を聞く機会があった。

道家海将は、平成2(1990)年6月から同5(1993)年までの三年間、ワシントンの日本大使館で防衛駐在官を務めた。当時の階級は一佐だった。

大使館着任後間もなく米海軍のトップ、海軍作戦部長の交代式がアナポリスの米海軍兵学校で行われた。この式典に海幕長経験者四人が出席した。四人の米滞在中の日程に「バーク大将訪問」もあり、道家海将が案内することになった。

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増田教授

「アメリカという占領する側の考えが変わると、直ちに占領される側の日本は影響を受ける。占領された側としてはやむをえないことだが、日本はアメリカの方針転換に翻弄され続けた。軍人などの公職追放解除をめぐる動きも、その最も顕著な例だったのだと思います」

占領開始直後、アメリカは日本の非軍事化・民主化を中心とした政策を行っていたが、冷戦の開始に伴い、1948年1月、ロイヤル陸軍長官の「日本の反共防波堤化」演説をきっかけとして変化していった。さらに同年10月にまとまられた対日占領政策「NSC13/2」によってアメリカは、日本の経済自立化を促す方向へと大きく政策転換した。それが海上自衛隊の創設に関するアメリカの転機だったと増田教授は指摘する。

 ただし・・・・・・、と増田教授は付け加えた。

「日本は、アメリカの変心に翻弄されるだけでなく、したたかにそれを自分のものにしていった。その姿に今の日本を見るうえでの連続性を感じます」

 占領期と戦後日本の「連続性」。この言葉は番組にとって重要なキーワードとなっていく。

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1948年(昭和23)年3月 マッカーサーとジョージ・ケナンの会話記録

 朝鮮戦争前、国務省をはじめとするアメリカ政府は、すでに日本の再軍備の可能性を検討し始めていた。しかし、マッカーサーは再軍備は不可能であると考えていた。

 当時は国務長官高官であったケナンとの会話の中で、「日本人の戦争体験からくる再軍備への拒否感」と、日本国憲法の存在がそう考える理由だと明確に語っている。

1948年10月21日 国務長官から米統合参謀本部へのメモ

 アメリカ政府は、「共産主義の防波堤として」日本の再軍備を必要と考えていた。しかし、具体的な方法としては、軍隊再建ではなく、警察機関の創設によって補おうという計画であったことが記されている。

 一とあわせて、朝鮮戦争の時のアメリカ政府は、海軍再建について積極的な考えをもっていなかったことが明確である。

1950(昭和25)年、1月と4月 国務省幹部による会話記録

元海軍大将・野村吉三郎が、GHQ外交局の幹部を少なくとも二回にわたって訪問したことが記録されている。

 その時、野村氏は「日本はスイス=中立国にはなりえない。アメリカの長期にわたる保護がぜひとも必要である」と進言したと記されている。

 第二復員局がアメリカへの働きかけを始める頃と前後して、公職追放されていた旧海軍の大物が、密かにアメリカとのつながりを強めていたことを物語っている。

1950年8月19日 ダレス宛ハリー・カーンからの書簡

 この文書を読んだ時、キャサリンと右田は一瞬顔を見合わせた。「EMPEROR’S MESSAGE=天皇のメッセージ」という言葉が記されていた。日本再軍備の関連文書に、なぜ昭和天皇に関する文書が含まれているのか。

 これは、バケナムという米国人ジャーナリストが昭和天皇の側近と会話した内容を、ハリー・カーンというニューズウィーク社極東部長が、国務省のダレスに報告する手紙だった。

 昭和天皇の側近が、「天皇は、公職追放緩和を求めている」と伝える内容だった。

 キャサリンは一読し、これは「バックチャンネル=裏の外交ルート」だと表現した。戦後、政治に関わらないと憲法で定められた天皇。その権威が政策に何らかの形で影響を及ぼしていた可能性を示していた。

1951(昭和26)年3月19日 海軍作戦部長から統合参謀本部への覚書

 日本人を要員とした艦艇の武装化を早急に進める必要性があることを進言する内容である。すなわち、米海軍が日本海軍の再建を積極的に支持していることを示している。

1951年8月28日 マーシャル国防長官からトルーマン大統領への書簡

 日本人を要員とした艦艇を武装化し、その日本海軍を防衛と国内治安の安定のために使用したいと大統領の承認を求める書簡。

「旧帝国海軍軍人たちの働きかけによってアメリカは、日本に海軍を再建することが必要だという方向へ考え方を変えていったのではないか」





▼2004年8月12日 西日本新聞 非戦の回廊 自衛隊―加速する変容

 二〇〇三年一月、米国務副長官リチャード・アーミテージは日本人記者団を前に上嫌だった。「日本は素晴らしい旗を見せた」。前年十二月、海上自衛隊のイージス艦が、アラビア海でアフガニスタン作戦支援の洋上給油を続ける補給艦警護のため横須賀を出た。米軍とリアルタイムでデー夕を共有し共同作戦が可能な最新鋭艦。憲法が禁じる集団的自衛権行使につながるとの論議を積み残したまま、政府は派遣に踏み切った。

  ○一年「9・11米中枢同時テロ」後、米軍は警戒監視の一角を任せたいと派遣を打診。反対派を抑え一九八八年の日本への売却を後押ししたアーミテージも派遣に期待を表明していた。
 海軍出身のアーミテージは海上幕僚監部の幹部を前に「米海軍はここ」と手をかざし、その手をわずかに下にずらし「次がJMSDF(海自)」と言ったことがある。

 「冷戦を共に闘い抜いた。米は海自の実力を分かっている」と幹部。
 海自は自衛隊の中でも特に米軍との結び付きが深い。米海軍から艦艇を譲り受けて発足。冷戦期の八〇年代、環太平洋合同演習(リムパック)などで共同訓練を重ね、旧ソ連の潜水艦封じ込めの共同作戦を展開した。

  海自出身の元統合幕僚会議議長夏川和也は「最初は大人と子供。装備もノウハウもすべて見習った」と言う。米海軍にとって信頼できるパートナーであることが日米同盟を支え、国益につながるとの意識が強い。





▼阿川尚之 著『海の友情 米国海軍と海上自衛隊』

アワーだけでなく、戦後横須賀や佐世保に駐在した経験のある米海軍関係者は、その多くが現在にいたるまで日本と日本人に好意的である。私がアメリカに住んでいたときも、むかし日本に駐屯していたという現役退役の海軍士官や下士官に出会うと、決まってなつかしそうに思い出を語ってくれた。もしかすると、日本で勤務した米国軍人、特に海軍軍人は、層の厚さからも数のうえからも、もっとも有力な隠れ親日派かもしれない。

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 留学から帰った内田は、その後昭和四十四年(一九六元年)、海上自衛隊の最高指揮官である海上幕僚長に昇進した。この職を三年弱務めたあと、昭和四十七年に退役する。海上自衛隊での最後の十年間、内田は与えられた任務を黙々と果たした。しかしアメリカでの厚遇と比して、日本で海上自衛隊幹部が尊敬を受けることは少なかった。国防に関する海上自衛隊制服組の考え方は、なかなか理解されない。日本政府は国の防衛について真剣に考えていない。ソ連の脅威について認識が足りない。シビリアンコントロールがなていない。我々の話が本当に通じるのは、海の上でともに訓練に励むアメリカ海軍だけだ。航空自衛隊や陸上自衛隊よりも、むしろ話が通じる。

  「ネイヴィーは不思議なものです。そこにはもっとも洗練された国際的に通じる文化がある。飾らずとも交わっていける共通の教養をもっている。マナーからすべて、おまえネイヴィーか、ああそうかとなる。互いにわかりあえる。遠慮がいらない。海が影響しているのはまちがいないと思います。海というのは、嘘を言ってもはじまらないのだから。嵐がくると、同じ方法で危難を避けねばならない。大自然を相手にし共通の流儀をもった集団同士、仲間としての意識がある。ネイヴィー同士、時には同胞よりも話がしやすい。

  情が移るというのですかねえ、わが先輩がぶつかっていって負けた国の海軍、それと仲良くすることによって、わが先輩の意志に沿うているんじゃないか。最大の敵と最大の仲良しになるのを、先輩に見せてやろうじゃないか。そういう気持ちがありましたねえ」

  話が通じやすいネイヴィー同士がさらに親しくなり、いざというときともに働くためには、もっともっと人的交流を活発にせねばならない。留学から帰ってから今に至るまで、内田はそう信じてきた。海上自衛隊が世界で名誉ある地位を占めるためには、同じ海軍同士の友情を築くのが早道だとの計算もあったろう。海草長時代、各国の海軍と人の交流にっとめた。東南アジア各国の海軍ともつきあいができたし、同盟国アメリカの海軍とのつながりは特に大切にした。

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戦時中渾身の力をふりしぼってアメリカ海軍と戦った中村は、戦後海上自衛隊に入って米海軍から学び、艦艇や航空機を譲り受け、共同で訓練に励む立場に置かれた。アメリカ人の教官は概して親切でオープソで、悪い印象は持たなかった。海の戦いは陸の戦いと違い、顔をつきあわせて殺し合うわけではないから、個人に対する憎しみや恨みはお互いに抱かなかった。それに米海軍も日本海軍も英国海軍の末裔であり、訓練や作戦のやり方に違和感はなかったという。

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 兵学校時代は目立たなかったバークが、任官するとめきめき頭角を現した。最初に乗り組んだのは戦艦「アリゾナ」である。持ち前の体力とやる気で艦内のつらい仕事を完璧にやりとげるこの若い士官ぱ、上官の注目を引いた。バークはこの艦で五年間勤務する。異例の長さであった。彼のすさまじい働きぶりを見て、同僚士官たちは「パークは五十になるまでに死ぬだろう。もし死ななければ海軍作戦部長になるだろう」と噂しあったという。
(中略)

  このころからパークは日本に興味を抱いていたらしい。一九二九年、一通りの艦隊勤務を終えたパークはアナポリスヘ戻り、幹部教育を受ける。そのあと、ミシガソ大学で一年間化学を学んだ。ある目、パークの書斎に太平洋とアジアの地図が貼ってあるのを見た級友が、不思議に思ってそのわけを尋ねると、パークは「君、我が国はいつか日本と戦うことになる。そのときにはお国のために太平洋でひと働きするつもりだ。そのためにもこの地域のことをできる限り詳細に頭へ叩き込んでおく必要がある」と答えたそうだ。パークがミシガン大学から修士号を得て無事卒業した、その十年後、彼の予想したとおり両国間で戦争が始まる。
  バークの名が内外に知られるようになったのは、戦争中ソロモン海域で縦横の活躍をしてからである。開戦時ワシントンで勤務についていたバークは、艦隊勤務を再三懇願して、四三年の二月、第四三駆逐隊司令としてようやく南太平洋に出る。海軍大佐に昇任したあと、十月第二三駆逐隊群司令に任ぜられた。エスピリトゥ・サント島で旗艦「チャールズ・S・オースバーン」に着任したパークは、集合した傘下の駆逐艦長たちに、かねて用意した戦術書を渡す。その表紙に
は、こうあった。

  ジャップを殺すに役立つなら、重要なり
  ジャップを殺すに役立たぬなら、重要でなし
  常に貴艦の練成度を高め、戦闘に備えよ
  常に補給を怠らず、戦闘に備えよ
  常に戦闘準備状況を、上官に報告せよ

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 日本滞在中のパークにもっとも大きな影響を与えたのは、開戦前夜駐米大使を務めた野村吉三郎元海軍大将である。ホテルでのでぎごとをきっかけに、バークはこの国のことをもう少し知りたいと思った。日本人の哲学と論理は何なのか。何が彼らを万歳突撃に駆り立てたのか。どうして日本人は自分たちどうし、あるいは外国人に対して、こんなに礼儀正しいのか。あれほど荒々しい戦い方をする人々が、他人の気持ちになぜこれほど気を使うのか。中国人や朝鮮人とはどこがどう違うのか。誰か自分にこれらのことをわかりやすく説明してくれる人はいないだろうか。
ピアス大佐に相談すると、野村を推薦された。

  バーク自身の文章によれば、野村は、バークを最初自宅に招き、着物を着せ、畳の上に座らせた。野村は机の上に大きな朝鮮の地図を広げ、日本の朝鮮統治の歴史と、なぜそれがうまく行かなかったかを説明する。そして地図を十五分間集中して見つめ、できうるかぎり多くを記憶するようにと言った。そのあと今度は地図をどけて、覚えたことを現在の戦争と関連づけて考えるようにと命じる。沈黙のなかでさらに十五分ほど経ったとき、バークは少し足を動かした。すると野村が言う。「どうしたのかね」。

  「足がしびれたので動かしましたと私が答えると、野村は言った。それが君の最初の教訓だ。朝鮮半島の地図を思って集中していたら、しびれなど感じなかったはずだ」

  こうして戦争に負けた国の引退した老海軍大将と、戦争に勝った国の前途ある海軍少将のあいだで、交流が始まった。日本に滞在した約九ヵ月のあいだ、バークは忙しい合間を縫ってほぼ一週間に一度野村に会う。野村はパークに、地理や天候そして国民性といった、いつの時代にも変わらぬ要素がいかに重要かを教えた。「国連軍が鴨緑江に近づいたら中国は参戦するだろうか」とある日パークが尋ねると、野村は「必ず参戦する、奇襲攻撃をかけるために密かに参戦するだろう」と、確信をもって答えた。周恩来がインドでのスピーチで警告しているではないか。国家は狼のごとくだ。隅に追い詰められたら必ず激しく抵抗する。バークはその内容を国連軍の情報担当者に知らせたが、誰も耳を貸そうとしなかった。そして野村の予言は100パーセント正しかったと、バークは記す。

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 バークは日本滞在中、海上自衛隊の前身である海上警備隊の誕生にあたって大きな役割を果たす。敗戦とともに海軍は解体されたが、戦前の英米協調はを中心とする海軍指導者は、将来の海軍再建を期していた。海軍省を引き継いだ第二復員省内部では、密かに再建計画の作成が行われる。しかし戦後しばらくは、海軍の再建など夢にしか過ぎない。一九四八年五月に海上保安庁が発足し、最小限の武装を許された巡視船が海上の治安維持にあたるようになったときでさえ、日本海軍の復活につながるとして、占領行政を監督する対日理事会や極東委員会の席上でソ連が反対し、イギリス、中国、オーストラリアの代表も警戒感を表明した。占領事総司令部内でも、民生局が当初反対の立場をとった。

  戦後日本へ進駐した米海軍は、しばしば米内光政、山梨勝之進、野村吉三郎など海軍の良識派といわれた指導者を宴席に招き、鄭重に遇した。日米海軍間には戦前活発な交流があった。たとえば海軍作戦部長をつとめたウィリアム・V・プラット大将は、一九二九年練習艦隊司令官として野村が米国艦隊旗艦「テキサス」を訪れたとき、同艦隊長官であったし、連合軍紀司令部最初の海軍代表ベアリー少将は、そのとき長官の副官を務めていた人物である。一九三一年から三二年にかけて第一次上海事変が起こったとき、作戦部長になっていたプラットは、ワシソトソ駐在の海軍武官下村正典大佐と夕食を共にする。そして日本海軍はなぜ野村を上海に派遣しないのかと尋ねた。下村は早速本省に電報を打ち、米海軍の意向を伝える。東京の海軍首脳はこの意向を尊重し、野村を上海に派遣した。その結果、事変が日米関係に悪影響を与えることはなかった。日米海軍間には、このように緊密な意思疎通があった。

 こうした戦前のつながりがあればこそ、野村はベアリー少将はじめ米海軍の友人だちと会うたびに、日本海軍再建の構想を語った。彼らは共感を示しはしたが、具体的な動きにはつながらない。海軍軍人同士の友情はあっても、アメリカ偏はまだ、日本の再軍備を真剣に考えていなかった。

  米側の態度が徴妙に変化しはじめるのぱ、朝鮮戦争が勃発する前後である。アワーの研究によれば、すでに一九四八年の終わりごろ、米国国家安全保障会議が日本における軍事能力拡張を秘密裏に推進するとの決定を下し、翌年日系の米民間人を極東米海軍司令部に送り込んだ。そしてこの人物が一週間に二回、海上自衛隊発足後第二代の海上幕座長となる長沢浩元海軍大佐と会い日本語で情報関係事項や再軍備について旧日本海軍士官たちの考えを聞いた。

  一九五〇年六月朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは警察予備隊の発足ならびに海上保安庁の8000人増強を、日本政府に対して書簡で指示する。続けてその秋、吉田茂総理が米偏要人を招いた席で、極東米海軍司令官ターナー・ジョイ中将が、野村に向かって語りかけた。「ソ連から米国に返還されたフリゲート艦(PF)が18隻ある。これを日本に貸与してもよい」。同じころ、日本へ着任したばかりのバークが大久保海上保安庁長官に、「ソ連に貸していたフリゲ
ート艦をとりもどすので、海上保安庁の任務に提供してもよい。その使用の方途を研究するように」と話を持ちかけている。

  バークは、大久保にワシソトンを訪問して海上保安庁強化を陳情するように勧め、翌年一月大久保はそれを実行に移す。大久保はペンタゴンで、巡視船の速力(一五ノット)ならびに船型(一五〇〇トン)制限の撤廃、大砲の搭載、アメリカのフリゲート艦提供、浮遊機雷監視用航空機保有などを要請した。これらの要求はパークからの根回しもあって、ことごとく承認されたという。

  一方、一九五〇年六月にはジョン・フォスター・ダレス米国務省顧問が来日し、吉田首相と講和ならびに再軍備について話し合った。バークが大久保の海上保安庁強化案を支持していたことなどからみて、この時点ではアメリカ側に、日本海上兵力別途創設の意図はない。再軍備構想も、陸上兵力増強が中心のようだった。

  この事態に危機感をつのらせたのが、海軍再建をめざす日本海軍の元指導者たちである。野村と近い立場にあり米内光政海軍大臣のもとで最後の軍務局長をつとめた保科善四郎元海軍中将は、そのあたりの事情について「我が新海軍再建の経緯」という手記を残している。これによると、朝鮮戦争勃発に伴い再軍備の動きが出てきたが、「米国の意向として伝へらるる所に依れば海、空軍は米国側にて引受け陸軍丈け再建する方針の如く、斯くてぱ陸軍独走の苦い明治、昭和の歴史を繰り返す虞あり、陸、海、空同時再建の必要を米国側に理解せしむる必要ありとし、其運動の開始に努力することとなった」とある。

  一九五一年一月十七日、保科は野村を自宅に訪ね、自らの危惧を伝える。これに対して野村は近く再来日するダレスと面会すべく努力していることを明かした。それを受けて保科は、ダレスに申し入れるべき内容を盛り込んだ海軍再建に関する意見書を、野村のために用意すると約束した。

  野村はまず根回しのため、一月二十二目ジョイ極東米海軍司令官を訪れ、新海軍再建案を示す。この案は、第二復員省の仕事を引き継いだ厚生省復員局残務処理部内で前年十月旧海軍関係者が作成した、再軍備に関する研究資料をたたき台としたものである。同研究資料によれば、軍は陸軍と海軍の二本だてとし、海上兵力は巡洋艦二隻、駆逐艦一三隻をふくむ総隻敬二七五隻、二一万トン、兵力約三万四〇〇〇人となっている。ジョイは提示された再建案の規模に驚きを示した。そして自分は総司令部から日本海軍再建について任されているけれども、米海軍は西太平洋の制海権を確保する力針であり、この海面を去る意思がない、再建日本海軍については横須賀に繋留中のフリゲート艦を基幹とするコーストガードくらいの規模を考えていると述べた。野村がさらに詳細を計画の策定者から説明させたいと申し入れると、ジョイはバークを指名し紹介する。

  野村に指名されてバークヘの説明に当たることになった保科は、まず旧友エディー・ピアス海軍大佐に再建案を示し、パーク少将の人となりを尋ねた。ピアスは、「彼はファイティング・オフィサーでありシンシャーでエーブルで級友の評判の良い方である」と説明し、次いで電話にて保科を紹介し、「保科とは二十年来の知友であり信頼し得る人物で海軍はもちろん部外の評判も良い、胸襟を開いて話されたい」とパークに伝えた。ピアスという人は海上警備隊誕生史の節目節目で、重要な役割を果たしている。

  保科が初めて正式にパークと面会したのは、一月二十三日である。、、ハークは保科を「頗る慇懃に接待」した。保科は再建案をバークに示す。このときの内容は復員局作成の研究資料よりさらに増大している。護衛空母四隻、潜水艦八隻、巡洋艦四隻、総隻敬三四一隻、総トン数二九万二〇〇〇トン、海空軍機(海軍航空隊航空機のことだろう)七五〇機。戦前の海軍に比べればどうということはないが、ネイヴィー相応の規模を考えたことがわかる。

  これに対しパークからいくつかコメントがあった。海空軍を必要とする理由を明記せよ。海軍整備の実際計画を記述せよ。米海軍としては横須賀に繋留中のフリゲートなどをなるべく早く渡すよう、海軍省に申し入れる。海軍の任務をもっと具体的に記述すること。海上にはよく訓練された士官を要する理由を明記せよ。これは文官にはわかりにくいから、はっきり書け。一々もっともな指摘であり、反応はおおむね好意的であった。二十九日、保科はバークのもとに修正案と兵力配置図を持参する。バークは一覧のあと“Excellent and Perfect”と賞賛した。保科がこの反応を野村に報告すると、大変喜んだという。

  一月末再来日したダレス特使に当初会見なかったので、野村は私信をしたため海軍再建計画の修正案と一緒にダレスの秘書フィアレーを通じて届けた。ダレスの随員に海軍の代表がおらず、特使は陸軍の再建だけ考えているとの情報がもたらされ、野村は少し気弱になる。しかし二月三日シーボルト大使邸で催されたカクテルパーティーの席で特使と初めて会ったとき、修正案の礼を述べられ、気をよくした。修正案は二月九日、吉田首相にも届けられる。

  その後保科はパークに会って、ダレス特使は陸上兵力しか考えていないのでぱと懸念を表明する。パークは、ダレスは再軍備の細目にまで手が届いていない、自分はダレスの随員であるジョンソンに日本のような島国は英国と同様海軍と海軍航空隊が国防上絶対必要だと話したが、反論はなかった。野村修正案はジョイ司令官名でシャーマン作戦部長あてに送り、すでに同意を得ている。正式のルートで回答があるだろうと伝えた。そして日本海軍の再建は、「米国の利益ともなり又日本の為にもなると思ふと云う根本的の考の下に相互信頼の上に立てる良い日本海軍の再建を力説した意見を作戦部長に対し提出した」と付言した。

  アワーの研究によれば、、ハークは三月にコ斐ワシソトンヘ戻り、ラッドフォード大西洋艦隊司令長官と会って、ソ連から返還されたフリゲート艦を日本に使用させる件について話し合った。ラッドフォード司令長官には日本海軍の必要性を強調し、新日本海軍が掃海艇と哨戒艇で出発すべきという自分の考えを述べたと、バークは同地から東京のジョイ極東米海軍司令官あてに送った書簡のなかで述べている。ワシントン滞在中、おそらくシャーマン海軍作戦部長ともこの件について語っただろう。

  東京へ戻ったバークは、三月三十一日、日本政府が野村修正案に同意ならば米海軍は野村バーク案にて進めるとのシャーマソ作戦部長の意向を、保科たちに伝えた。ところが大蔵当局が同案発足後の維持費に問題ありとして、同意しない。国の財政を預かる立場としては、まだとても海軍を維持でぎないと考えたのであろう。このため米海軍の好意的提案を無にすることとなった。保科は「我国の将来を考え遺憾極まりなし」と述べている。

  この事態にもかかわらず、パークは野村たちの活動の支援を熱心に続けた。四月三日保科邸で野村とピアスを交え懇談したときに、パークは、「日本海軍の建設に適当な海軍士官を一〇人ぐらい出してもらうよう一案を海軍省に提出してある。同意を得ればジョイ司令官からマッカーサーに相談し、日本海軍士官を入れて共同で計画と訓練を行なうための部局を作り、将来の海軍省の基幹としたい。自分はもうすぐ巡洋艦戦隊の司令官として日本を離れ、その後秋にはワシソトンヘ戻るが、そうしたら海軍省で実現に努力する」と述べた。

  これより少し前に、バークは「船舶の護衛、哨戒、掃海および漁船の保護などの業務を計画しかつ実施するための機構制度に関する研究」を提出するよう、日本側に申し入れていた。これに応える形で四月十八日、野村からジョイヘ、保科からバークヘ、復員局で完成させたばかりの第二次研究資料が届けられる。本資料は艦艇、航空機、武器および弾薬をアメリカから一時貸与してもらい、要員、給料、弾薬以外の補給物資を日本が負担して、将来の海空軍の母体とすることを提唱していた。そして本計画実現の方法には、独立した戦力機関、海上保安庁の外局、極東米海軍司令部の編成指揮下に置く機関という三つの方法があるが、第一案が理想的で、第三案は望ましくない、第二案がもっとも実現性があると記した。日本側はもし独立組織を創設するならば、憲法に抵触しないこと、外国、少なくとも西側諸国の正式な同意を取りつけること、議会の承認を得ること、自主独立のものたるべきこと、旧海軍から人を得ること、米軍に連絡参謀を派遣し日米合同研究委員会を設け、米海軍と緊密なる連携を維持することなどを強調した。

  パークはこの計画に大いに感銘を受け、四月二十二目、七ページに及ぶ書簡に日本側の新しい案を添付して、海軍作戦部長の部下である国際部長のジェームズ・サッチ少将に送った。そして少将に作戦部長への説明を要請する。書簡のなかでパークは「この問題はいつかは我々が直面しなければならないものである。早く取り組めば取り組むほど、アメリカにとってより有利な結果となろう」と述べた。日本側の三案については、「新日本海軍は必ずしも海軍と呼ばれる必要はない。沿岸警備隊あるいは海上警察、またぱその他の名称であってかまわない」。四、五人のアメリカ海軍士官と約一〇人の日本海軍将校で日米合同研究グループをつくり、小規模な日本海軍の創設について研究、計画、指導をさせよう。「これらの旧日本海軍将校グループは、新しい日本海軍省の中核となるであろう。合同グループはまず第一歩として小規模の海上部隊―おそらく六隻を越えない哨戒艇と小規模の将校下士官兵訓練学校を設立するであろう」と付け加えた。

  ここまで尽力したあと、五月はじめ、第五巡洋艦戦隊司令官に任命されたパークは東京を去る。九月には対日講和条約と日米安全保障条約がサンフランシスコで調印された。その一カ月後の十月十九日、総司令部を訪れた吉田首相は、最高司令官リッジウェイ陸軍大将に対し、横須賀に繋
留されているフリゲート艦受け入れの意思があることを正式に表明する。すでに一年前、野村と大久保に打診のあった、ソ逓から返還された艦である。翌日、岡崎勝男内閣官房長官は、山本善雄元海軍少将と柳澤米吉第二代海上保安庁長官を官邸に招く。そして貸与舟艇の受け入れと運用態勢確立のため、旧海軍から八名、海上保安庁から二名、計一〇名からなる委員会をもうけ、政府の諮問に応じて欲しい旨を伝えた。

  こうして発足したのがいわゆるY委員会である。この委員会では、新しい組織を海上保安庁から独立したものとするかどうかについて、何回もやりとりがあった。そして翌一九五二年四月、海上警備隊がとりあえず海上保安庁の付属機関として発足した。同年八月、海上警備隊は海上保安庁から独立し、警察予備隊とともに保安庁警備隊となる。海上保安庁の航路啓開部門、つまり朝鮮水域で活躍した掃海部隊は、警備隊に吸収された。さらに講和条約発効後の一九五四年七月、海上自衛隊として再発足する。野村たちが夢見た海軍再建は、こうしてようやくその第一歩を踏み出した。

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 海上警備隊発足に一役かったことは、バークにとってもよい思い出になった。このころのことを、バーク自身はのちにこう記す。

  「(海軍関係者との議論のなかで)私は日本が本土と重要な海上交通路を防衛するために、十分な規模の海軍を保有すべきだという、自己の見解を披瀝した。そう主張したのは、何も日本のためではなく、合衆国のためである。日本が自らの防衛力を有することは、自由世界と合衆国の利益にかなう。なぜなら合衆国が日本を守れないときが必ずくるからである。私は合衆国と日本が友好国であり同盟国であるべきだと信じた。(中略)世界のために貢献するには、他国に影響を及ぼし得るよう、経済、軍事、政治の各分野において強力でなくてはならない。三つすべてが必要である。どんな国も他国に完全に頼りきるべきではない。もしそうすれば強国の属国になるしかなく、何ら進歩に貢献できないであろう」

 また『海上自衛隊二十五年史』に寄せた序文のなかで、バークは「私の生涯でもっとも楽しかった経験の一つは、多大なる尊敬を寄せるようになった人々と一緒に、日本に適した海上防衛戦力の概要につき議論したことである。そのなかには、野村吉三郎大将、保科美四郎中将、長沢浩海将、中山定義海将、そして大久保武雄氏がいる」と述べている。

  さらにアワーの著書、『日本海上兵力の戦後再軍備』に寄せた序文には、こうある。

  「どんな軍隊にとっても一番重要な要素は幹部の品格と能力である。私は日本が、まず最初に、きっかり十人の最も優秀な帝国海軍士官を選び、新しい海軍を創設すべきだと助言した。日本はそれを実行に移し、それゆえに今日、日本海軍は精強である」

  バークが海上自衛隊生みの親の親といわれるのは、このような事情によるものである。

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 一九八九年には、バークを隣に立たせたバーク夫人ボビーがシャンペンを割って、イージス駆逐艦「アーレイ・バーク」を進水させた。生前に自分の名前が艦名となったのはバークが三人目、その進水式に本人が立ち会ったのは初めてだという。

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 パーク少将(ジュリアン・バーク。アーレイ・バークとは別人)家の居間には、十九世紀初頭とおぼしいアレキサンドリアの港を描いた絵がかかっている。食後談笑しながらこの絵を見ていると、少将がいろいろ説明してくれた。アレキサンドリアは連邦政府の首都がコロンビア特別区に置かれるよりずっと前から、煙草の積み出し港として栄えた。煙草を積んだ帆船はここからポトマック川を下ってチェサピーク湾に出て、大西洋を渡りヨーロッパヘ向かった。バーク家は代々この街で銀行業を営んでいた。南部の伝統に従って、軍人も多く出した。南北戦争ではもちろん南東に属して戦った。南軍の総司令官ロバート・E・リー将軍は親戚にあたる。

  「南北戦争は、奴隷制度にしがみつく頑迷な南部が反乱を起こしたかのように受けとめられがちだが、南部人はそう考えない。北部の人間に乗っ取られた連邦政府の横暴に耐えかね、州固有の権利を守るために立ち上がった戦いであったと、今でも多くの人が信じている。やむにやまれぬ戦いだったんだ」

  バーク一族は代々、初代大統領ジョージ・ワシソトン将軍が通った教会で、日曜日ごとの礼拝を欠かさない。少将は今でも同じ教会で役員を務める。教会を中心に古い家族が絆を保ち、伝統を維持する。今はすっかりワシントンのベッドタウンになってしまったアレキサソドリアにも、そうした南部の貴族的な文化がかすかに残っている。パーク少将には少年時代、カソリックの友人が一人しかいなかったという。もちろん黒人はまったく別世界に住んでいた。つきあってよい家柄とそうでない家柄が、厳然と分かれていた。南部というのは、そういう場所であった。

  「第二次世界大戦の結果起こったことが、アメリカには一つある」

  パーク少将は、絵を見ながら言った。

  「それは南北戦争の傷跡がついに癒えたということだ」

  軍の動員計画が実施されて、大規模な人口の移動が起こった。北部の人間が南部へ移り、南部の人間が北部や西部の軍事基地やその周辺に移動した。そして戦後そのまま住みついた。

  「北部と南部の人間が肩を並べて働き、軒を接して暮らすようになって、敵対心やわだかまりがようやく消えたのだよ。共通の敵ドイツや日本と戦って、アメリカは一つという意識が初めて生まれた」

  アメリカ国内で一つの大きないくさが戦われ、その傷跡が癒されるまで、同じ国民でありながらおよそ八十年かかった。日米戦争の傷跡がすっかり消えるまでには、もう三十年ぐらい、一緒に汗を流して働く必要があるのかもしれない。

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 ハロウェイ大将は、一九一二年(大正十一年)にサウスカロライナ州チャールストンで生まれた。父親が海軍提督、母方の祖父が陸軍の将軍という、軍人一家である。兄弟の一人がウェストポイントの陸軍士官学校を出たし、いとこで海軍に進んだ者がいた。夫人の父親も海軍提督である。民主主義の国アメリカでありながら、代々軍人という家は珍しくない。とりわけ海軍には、ある時期まで一種貴族的な雰囲気があった。そうした環境にあって、日本こそアメリカの仮想敵国だと父から教わって育った少年が海軍を目指すのは、ごく自然な成り行きである。

  希望どおり、一九三九年にアナポリスの海軍兵学校へ入学する。一九四一年十二月七日には、将来の妻と外出していた。兵学校の門まで帰ってきて、真珠湾攻撃を知る。そのとき、実は真珠湾がどこにあるか知らなかった。ニュースに接して最初は、「やった、これで日本を完全にやっつけた」と考えたそうだ。当時大方のアメリカ人は、日本が安物の粗悪品しか作れない国だと思っていた。ジャップが旧式の複葉機でハワイの太平洋艦隊を攻撃しても、次々に撃墜されてしまうはずだ。そう考えたという。ところが詳細が明らかになるにつれ、事態の深刻さが判明する。ワシントンの海軍省艦艇局にいた許婚の父親が、「こっぴどくやられた」と教えてくれた。真相を知って、ハロウェイと周囲の侯補生たちは、日本海軍の腕は確かだ、我々が兵学校で教わった通りの方法で見事に奇襲攻撃を成功させた、これは手ごわい敵だと思ったそうだ。

  ローズヴェルト大統領は真珠湾をだまし討ちだとして徹底的に非難したし、国民の多くもそう考えた。しかし、あれは戦意高揚のためのプロパガンダだったと、ハロウェイ大将は言う。海軍内部にいるものは、日本海軍の技倆の高さに、一種の尊敬さえ覚えたと言うのである。

 一九四二年六月に兵学校を卒業した。大戦の勃発で一年繰り上げての卒業である。戦局は芳しくなかった。南太平洋で撃沈された巡洋艦の乗組員がワシソトソに帰ってきた。一様にショック状態にあった。厳しい報道管制が敷かれ、米海軍艦艇が沈んだニュースは一般国民に知らされなかった。アメリカ海軍はずいぶん長い間なかなか日本海軍に勝てず、目立った戦果を上げたのは、ソロモン水域で駆逐艦部隊を率いるアーレイ・パーク大佐、ムースバーガー大佐など、ごく一部だけであった。

 ハロウェイ大将は、アメリカ海軍が戦争に勝ったのは結局物量の差によるもので、もしその差がなければ日本が勝っただろうと語る。「ちびのジャップ」などというのは非戦闘員向けの宣伝文句であり、海軍軍人の多くは敵である日本海軍の能力を高く評価していた。

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 戦場での体験にもかかわらず、ハロウェイ大将は敵である日本人に対して憎悪感を抱いたことがないという。むしろ日本海軍は敵ながらあっぱれとの感じが強かった。パールハーバーでは友人が死んだし、兵学校のルームメートも戦死した。しかし戦争で戦死者が出るのは当たり前と考えた。いとこの一人はコレヒドールで日本車の捕虜となり、パターンの行進を経験したが、戦後まったく憎しみを抱かず、むしろ周囲が驚いた。「我々は戦いに負けたんだ。日本車は厳格だったけれど、自国民にも同じように厳格だった」と語った。ずっとのちにヴェトナムで捕虜になった友人も、同じように憎悪の感情を長く引きずらなかった。それが軍人というものだとハロウェイは言う。死ぬまで日本人を嫌った提督を一人知っているが、そういう人は稀だった。

 ハロウェイは一九五一年(昭和二十六年)の秋、はじめて日本を訪れる。空母「ヴァレー・フォージ」乗り組みの艦載ジェット攻撃機パイロットとして、横須賀に入港した。着艦したジェット戦闘機を止める強力なネットを飛行甲板に取りつけるのが、寄港の目的である。寒くて暗い日であった。ドックで作業する日本人を見て、これが敵であった人々かと思うと、妙な気がする。しかし横須賀艦船修理部の仕事は文句のつけようがないほど素晴らしかった。現場の労働者はよく働き、仕事が丁寧であった。ハロウェイは日本人に対して尊敬の念をいだく。
 (中略)

 こうした経歴を経たあと、ハロウェイ大将は一九七四年七月、第二十代の海軍作戦部長に就任する。大将は前任のズムワルト大将に引き続いて、海上自衛隊との関係を大事にした。当時の海上幕僚長は中村悌次海将である。中村はハロウェイを目本に招き、またハロウェイが中村を逆にアメリカヘ招いて、両者は意見を交換する。ハロウェイは中村にこう語った。米国軍事予算には引き続き削減の圧力がかかるだろう。アメリカ海軍だけで極東の安全を確保することはできない。であれば将来米海軍と海上自衛隊は戦略的な役割を分担すべきである。第七艦隊はソヴィエトのバックファイア戦略爆撃機から日本を守る。海上自衛隊は宗谷、津軽、対馬の三海峡を監視して、ソヴィエト海軍の通行を抑えてほしい。また中東からの石油輸入に全面的に依存している日本は、シーレーンを一〇〇〇マイル程度自分で守るべきである。「マヤゲス」号乗っ取り事件に見られるように、シーレーンを妨害すれば小国でも日本の通商活動を効果的に破壊できる。

  これに対して中村は、全く同感だが、モのためには海上自衛隊は、まずもってシーレーンを防衛できるだけの作戦能力を備えねばならないと述べたという。残念ながら、当時の海上自衛隊にはまだそこまでの力がなかった。

  こうしたやりとりは、もちろん公式なものではない。しかし彼らが語り合った海上自衛隊と米海軍の任務役割分担は、やがてレーガン政権時代ほぼその通りに実現する。それより五年前、ハロウェイと中村はすでに日米海上兵力の進むべき道について議論していた。

  この二人は何も隠し立てせずに話し合えたし、お互い話した内容を他には決して漏らさなかった。中村はまた、ハロウェイが答えにくいような微妙なことを無理に尋ねようとしなかった。ハロウェイは中村を一〇〇パーセント信頼していたという。

  なぜそのような信頼関係が築けたのか。アナポリスの町の海岸に近いとあるレストランで一緒に食事をしながら私が尋ねると、ハロウェイはしばらく考えてからこう答えた。

  「やはり中村提督がすぐれた指導者だったからだと思う。非常に頭のよい人であったし、こちらとまったく同じように考えたから、多くを話る必要がなかった。他の国、他の指導者ではそうはいかなかった」

  「海上自衛隊と米海軍は、英国海軍から伝わった伝統を共有している。海上自衛隊は法的に海軍でないけれど、その練度の高さ、職業意識の高さ、ユーモアのセンス、品格、手際のよさ、すべての面で一流のネイヴィーである。同じ事態に接して同じように考え対処する訓練ができている。あまりごちゃごちゃ言わなくても、すぐに一緒に仕事ができる。そういう意味で、実にやりやすい相手だった」

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  アワーがワシソトンヘ戻りペンタゴンで働きはじめたのは、カーター政権時代である。国防長官ハロルド・ブラウンの下に国防次官補を筆頭とする国際安全保障局があって、国防長官のミニ国務省と呼ばれていた。政治と軍事の接点として、予算上も権限上もきわめて強力である。リンドン・ジョンソン大統領の時代には、米ソ軍縮交渉で有名なポール・ニッツェがこの部局を任され、ラスク国務長官より強力だといわれた。アワーはここで、最初アマコスト国防次官補代理の
部下として働いた。

  約二年後の一九八一年一月、ロナルド・レーガンが大統領に就任し、この部局はいっそう強力となった。ペンタゴンとの関係がぎくしやくしたカーター政権と異なり、レーガソ政権は国防を重視した。多少の紆余曲折があったものの、八三年までに国防長官がキャスパー・ワインバーガー、アジア太平洋地域担当の国防次官補がリチャード・アーミテージ、日本課長がジェームズ・アワーという体制が確立した。ちなみにこのころワインバーガー国防長官の補佐官を務めたのが、アーミテージと近い関係にある、のちの統合参謀本部議長で新ブッシュ政権の国務長官となったコーリン・パウエルである。さらにパウエル大将の息子マイケルは、現役の陸軍士官時代、一時アワーのもとで働いていた。

 アーミテージは海軍の出身である。一九八七年に海軍兵学校を卒業した。アメリカはヴェトナムでの戦争に深く介入し苦戦していた。アーミテージは自ら志願し、この戦争で危険な作戦に従事する。一九七三年一月にパリでヴェトナム和平協定が締結されると、戦いを途中でやめることに抗議して海軍を辞めてしまう。ただしサイゴンにある米軍駐在武官本部の民間人顧問としてヴェトナムに留まり、特殊任務についた。シルヴェスター・スタローソが演じた映画の主人公ランボーは彼がモデルだという、まことしやかな説がある。

  いったんワシソトンヘ戻ったが、一九七五年四月に北ヴェトナム軍がサイゴンに迫ると、国防省から特定南ヴェトナム人の救出作戦実行を頼まれる。六年間の長きにわたってヴェトナムで戦って、その最期を見届けずにはいられない。パンアメリカン航空の最後の定期便で戦乱の国へ戻り、陥落寸前の市内に入る。北の軍隊に包囲されたサイゴン郊外のビエンホア空軍基地にヘリコプターで乗り込み、機密保持のために基地内の機器を破壊してまわった。そして取り残されていた南ヴェトナム空軍の将兵三〇人と一緒に、間断なく撃ちこまれる砲火のなかを命からがら脱出した。そのあと南ヴェトナム海軍艦艇と将兵およびその家族数千人を率い、八日かかって無傷でフィリピンまで連れてきた。アワーと同様、アーミテージは典型的なヴェトナム戦中派に属する。

  その後ワシントンヘ戻り、ロバート・ドール上院議員の事務所で補佐官として働いた。レーガン大統領候補の選挙戦に加わり、功績が認められ、政権に入る。大統領の特使としてフィリピンの独裁者フェルディナンド・マルコスやパナマの独裁者マヌエル・ノリエガと直談判をして民主化を勧めたり、アフガニスタンのゲリラ、ムジャヒディンの代表と交渉したあと、ナイフを振りかざす彼らと一緒にテーブルを囲んで羊の肉を食べたりと、世界中を飛び回って危機や紛争の解決にあたった。実に勇ましい国防外交問題のエキスパートである。しかしがっちりした体躯とは裏腹に心優しい人で、自宅では黒人の子供を何人も里子として引き受け育てている。

  アーミテージが国防次官補であったころ、ペンタゴンに日本の国会議員団がやってきて面会したことがある。少し遅れて姿を現したアーミテージは、昨晩寝ていないために皆さんの質問に的確な回答がでぎないかもしれないと、会談の冒頭ことわりを言った。

  「里子の一人が熱を出して苦しがり、一晩中腕に抱いてあやしていたため、眠れませんでした。そして子供を抱きながら考えました。君は肌の色が黒いが、アメリカに生まれてよかった。この国でならたとえ差別があっても、努力さえすればどんな職業にでもつける。はやく熱をさましてがんばれってね」

  アーミテージの述懐を聞いて、ある社会党の議員が、「今日あなたに会って、レーガン政権の好戦的な安保政策についてたくさん文句を言おうと思っていたけれども、今の話を聞いて何にも言えなくなった」と述べたそうだ。

  若干年下ではあるものの同じ海軍出身であるアーミテージを上司に得て、アワーの仕事は格段にやりやすくなった。アーミテージはヴェトナムで戦った勇ましい武人であるだけでなく、抜群の知力を有し、判断が常に的確であった。アワーはアーミテージのことを、クロゼット・インテレクチュアル、つまり隠れインテリと呼んでいる。カーター政権から居残ったアワーを最初警戒するふうがあったが、しばらく一緒に仕事をするうちに全面的な信頼を寄せるようになった。対日政策について、アワーがアーミテージに提言する。彼はそれをよく聞いて、同意すれば直接ワインバーガー国防長官に伝え、実行に移した。

  このラインがよほどよく機能したからであろう。八三年にアワーが規定により中佐で海軍を退役するとき、ワインバーガーは彼を自室に招き、レーガン大統領と自分はアワーが退役すると聞いて遺憾に思っている、制服を脱いだあともできれば国防省に留まってほしいと要請した。明らかにアーミテージの進言を得ての言葉であったが、アーミテージは長官の発意だと言い張った。

  政治的任命であるこの人事は、ホヮイトハウスの承認を必要とする。必要な書類を提出してからしばらくして、ホワイトハウスはこの人事案を却下した。共和党内の対日強硬派が、アワーは日本に近すぎる、アーミテージを日本びいきにしようと画策していると主張して、ストップをかけたのである。しかしワインバーガーとアーミテージが強硬に抗議して、この決定はくつがえされる。二人に対するアワーの信頼がさらに高まったのは、いうまでもない。

 こうしてアワーは文官の日本担当部長として、同じ仕事を八八年八月まで続けた。ヴァンダーヴィルド大学に移った今も、アワーとアーミテージのつながりは強い。

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 アワーは国防総省で、もちろんアメリカの国益のために働いた。ただ、それまでの経歴からも与えられたポストの性格上も、日本との安全保障関係先実に力を注いだ。特に海上自衛隊との協力体制強化に心を砕く。まず提言したのは、海上自衛隊がシーレーン、つまり海上交通路を自ら防衛するという案である。

  海上自衛隊が自らのシーレーン防衛を引き受けてくれることは、アメリカ側に大きなメリットがあった。海車力を西太平洋へ投入せずにすめば、他の分野へ展開できるからである。いねば日本の海域分担である。海上自衛隊は日本列島から南へ伸びるシーレーンを中心とする海域で、また宗谷、津軽、対馬の三強海峡で、ソヴィエト潜水艦の動きを昼夜監視する。米海軍は日本が防衛しきれない南東太平洋やインド洋のシーレーンを守ると同時に、いざというとき空母機動部隊でソ連を叩く。

  ただし米政権内部にも、日本がその軍事プレゼンスを増大させることについて、国務省を中心に否定的な見解があった。戦後の目本には軍事アレルギーがあるから、こうした役割を求めるべきでないというのである。日本の軍事大国化を警戒する向きもあったろう。これに対しアワーは、ソ連の軍事力抑止のため日本を信頼しその協力を求めるべきだ。アメリカは日本の助力を必要とする。また日本にはシーレーン防衛に必要な装備を備えるだけの財政的能力がある。信頼して協力が求められないのなら、同盟の意味はない。こう主張した。

 シーレーン防衛は、そもそも海上自衛隊の長年の夢であった。それどころか、海上自衛隊発足の根本理由だといってもよいだろう。なぜなら、敵の攻撃から日本の国土を守ることのみが自衛隊の役割であれば、海に関しては沿岸贅備にあたる海上保安庁だけで用が足りるからである。

  アワーは日本で海上自衛隊創設の事情を調べたときに、京都大学の高坂正亮教授がもらした言葉をよく覚えている。自分は海上自衛隊の任務がよく理解できない。専守防衛に徹するならば、海上自衛隊は必要ないではないか。一体海上自衛隊は何をめざしているのか。アワーは、高坂教授のこの疑問こそ、海上自衛隊の存在意義に関する根源的な問いかけだと思った。

 海上自衛隊がめざしたのはもちろん、日本の領海を一歩も出ない専守防衛ではない。広い太平洋に出て、海洋国家日本の海上交通路を守ることである。海上自衛隊の指導者たちは、これをブルーウォーター・ネイヴィーヘのあこがれと呼んだ。碧い海原を行く海軍を想う言葉である。しかし予算もない艦もない初期の海上自衛隊にとって、その実現は不可能に近かった。防衛庁内部にも、たとえばのちに国防会議事務局長を務めた海原治のように、海上自衛隊が領海の外に出て活躍することに否定的な立場をとる者があった。それでも海上自衛隊の制服組は、いつの日かブルーウォーター・ネイヴィーたらんと夢見て、日夜訓練を続けたのである。

  アワーは幹部学校留学中、壁に貼ってある大きな地図に太い練が引かれているのを見た。大阪湾から南西諸島ぞいに台湾とフィリピンのあいだのバシー海峡まで続く線と、東京湾から硫黄島を経由してグァム島の北まで延びる線を、教官や学生は中村ラインと呼んでいた。中村悌次海幕長の引いた、海上自衛隊が本来守るべき日本の海上交通路という意味である。二つの線はそれぞれほぼ一〇〇〇海里の長さがあり、一〇〇〇マイル・シーレーソ防衛構想の最初の出所となった。それ以遠、たとえばバシー海峡からペルシャ湾まで、あるいはグアムから北米大陸までについては米海軍の制海権に領るというのが、暗黙の前提である。中村は自分の名前がついたそのような線ぱなかったと言うが、アワーは中村から直接、こうした海上自衛隊の防衛構想をたびたび聞かされたのを覚えている。

  アワーの提言には、このように海上自衛隊が抱いた長年の夢が投影されていると考えて間違いない。海上自衛隊発足の研究を行ない、海上自衛隊の学校で勉強したアワーが、その成果を自国の国益に照らして再構築し、アメリカ側の要望として日本へぶつけたのである。早くも一九七九年の日米安保事務レベル協議の席で、アマコスト国防次官補代理が日本に対して北太平洋の防衛を要請したのは、アワーの助言によるものであった。

  一九八一年二月には、国防次官補代理に就任したばかりのアーミテージがアワーを伴い、対日安全保障政策のあるべき方向を探るため非公式に来日する。レーガン政権発足後、はじめて日本を訪れた高宮であった。カーター政権とは一味違う新しい政策を打ち出したい。こう考えたアーミテージは、外務省の丹波実安保課長や防衛庁の岡崎久彦国際問題担当参事官、自民党の椎名素夫政調副会長、アワーの友人である木村英雄などと積極的に会い、意見を交換した。このときはじめて出た考え方が、日米海上兵力の任務役割分担(ロールズ・アンド・ミッションズ・シェアリング)である。海上自衛隊と米海軍が役割を分担し、二つで一つの海軍となる。海上自衛隊は対潜水艦作戦や機雷掃海などを行ない、一方アメリカ海軍は空母機動部隊を中心とした攻撃能力を提供することにより、共同でソヴィエトの脅威に対処するべきだ。

 アーミテージにこの考えを最初に説明したのは自分だと言う木村英雄は、これを内田ドクトリンと呼んでいる。戦後日本が置かれた国際環境を勘案したうえで、内田海幕長以来、海上自衛隊の首脳が考えつづけたブルーウォーター・ネイヴィーの役割を煎じ詰めると、論理的にここへ行きつくというのである。木村によれば、これに対し中村悌次海草長は、理屈はわかるが、日米海上兵力を一つにし、ここまで育ててきた海上自衛隊を将来にわたって一人前のネイヴィーにできないのは、情において忍びないと、あるとき述べたという。できればすべて自前でやりたい、しかしそれぱでぎないし賢明でもないというのが、かつての帝国海軍を知る海上自衛隊指導者たちの率直な心情であった。

  まったくの余談だが、このときアーミテージをもてなすのに、増岡一郎と木村英雄の口ききで代議士の山下元利が金を出し、ある料亭に席を設けた。外務省の高官や木村たちがアーミテージと一緒に杯を交わすなか、仲居さんたちが彼の厚い胸板を見て驚き、触らせろとうるさい。英語で注文の趣旨を聞いたアーミテージは、相好を崩して答える。「こういう要請を受けたのは初めてだ。日米関係は何事もレシプロカル、つまり双務的でなければならない。本要請も、双方向ありなら受けましょう」同席した木村から聞いた話である。

  アワーによれば、ロールズ・アンド・ミッションズという言葉を初めて使ったのは、レーガン政権の初代国務長官に就任が決まったアレキサンダー・ヘイグ陸軍大将である。イランからの石油購入や防衛予算について公然と日本を非難したカーター政権を念頭に置きながら、レーガン政権下では同盟国を表立って批判することは避け、非公開の席で安全保障に関するそれぞれのロールズ・アンド・ミッションズについて率直に意見を交わしたい。こう述べた。

  これを知ったアーミテージとアワーは、日米間の任務役割分担についてメモを作成し、ワインバーガー国防長官に提出する。日米が各々防衛すべき海空域を分け、それぞれが分担する任務を定め、軍事技術は最大限相互に提供しあうとの内容であった。ちょうど同じころ、レーガン政権下で留任が決まったマイク・マンスフィールド駐日大使からレーガン大統領に電報が送られ、安全保障問題と通商問題について新大統領がなるべく早く対日政策を表明するようにとの意見具申がなされた。大統領はこの前言に従って関係各省に政策提言を行なうよう要請し、安全保障についてはアワー・アーミテージ作成メモの内容がレーガン政権の政策として正式に採用される。





▼ 西日本新聞 非戦の回廊 揺らぐ三原則 2004年11月11日掲載 
 その玉川に転機をもたらしたのは、海軍大将アーレイ・バーク。九十二人抜きで55年に海軍作戦部長に上り詰めた伝説の人物だ。装備供与などで海上警備隊誕生を支援し「海自生みの親」といわれた。
(中略)

85年ごろと記憶している。バークに「今度、おれの名前が付いたイージス艦ができる。興味あるか」と聞かれた。当時、米国ではイージス艦の開発が本格化。「いつかは日本に」と思っていた玉川はうなずいた。

バークはすぐに受話器を手にした。

「タマガワというやつがいる。日本がイージス艦を買いたいと言ったら、彼を使ったらいい」

相手はRCA社、現在のロッキード・マーチン社だった。


 

その一つは「菊クラブ」と呼称され、一般にも〈日本寄り〉と見做され良好な日米関係を維持することに努力を重ねてきたグループである。
(中略)
その「菊クラブ」の代表が自他ともに「知日派」をもって鳴る日本最大の理解者といっていいリチャード・アーミテージ氏だった。
 (三根生久大 著 『日本の敗北』アメリカ対日戦略 100年の深謀』)





・米国における最大の知日派は米国海軍出身者である。
・ 米国海軍出身者の対日観を決定的に変えたのは海上自衛隊である。
・日本を防衛する究極的な存在は在日米軍、特に米国海軍第七艦隊である。
・ 米国海軍第七艦隊の最良のパートナーは海上自衛隊である。
・ 海上自衛隊を創設したのは帝国海軍出身者と米国海軍である。
・ 海上自衛隊は帝国海軍の末裔であり、米国海軍とともに英国海軍の流れを汲む。






▼「三十年河東 十年河西」

富坂 聰  翻訳・志水 武三 「文藝春秋」十月号掲載

孤高の首相 小泉純一郎

 この人物を論評する前に、彼の将来について中国の権威ある日本問題研究所が分析した二つの予測結果について記しておこう。

 一、小泉純一郎氏は悲劇的な運命を持つ人物である。彼の行う「改革」には名前があっても、ほとんどの国民にはその中身も実体も分かっていない。そのため、時間が経てばたつほど中途半端なものとなり、具体的な利益と成果が見えなければ、どんどん注目度が低下し支持層が減っていくだろう。まさに、「善始あって善終なし」の状況に陥るだろう。

 二、小泉総理は、日本の政界においてはここ数十年でも稀にみる傑出した政治家となるであろう。小泉政権もまた、戦後有数の長期政権となり、小泉首相の名は近代日本の政治史にも残るほどの影響力を発揮するだろう。中国の関係機関も、小泉対策を十分かつ真剣に検討する必要がある。

 孤高という言葉こそ、いまの小泉首相を表現するに最もふさわしいだろう。「孤独で高傲」とは、まさに小泉首相の立場そのままである。彼がいま向き合っている戦後の自民党政治は、長い歳月を経て、表面は清らかな湖面のように澄みながらも、湖底には分厚い汚泥が深く堆積されているといった状況にある。その汚泥を清掃するためには相当の勇気と手腕が必要なのは言うまでもなく、そうでなければ逆に泥に足をとられて身動きもままならず溺れ死んでいくしかない。

 小泉首相は自民党改革を掲げて当選し、直後の支持率は85%という前代未聞の数字を記録した。この圧倒的支持の背後には、汚泥を一掃してくれるのではないかという国民の熱い期待があったのである。

 だが、「改革」という二文字は、いまの日本政治にはふさわしくない表現だ。

 二十世紀末の中国。70年代末期から?小平氏が実行した改革・開放のように、「改革」とは実際には「革命」でなければならない。?小平革命によって、古い独裁的計画経済が潰され、いまのような資本主義の優れた要素を取り入れた社会主義市場経済が確立されたのだ。

 すわわち、小泉改革は新しい「革命」でなければならない。毛沢東氏は、文化大革命の中で「不破則不立」(破らざれば立たず)という名言を残している。日本の政治はまさにこの状態にある。旧弊を打ち破らなければ新しい政治体制は立てられない。政治革命がなければ、日本は永遠に政治小国に甘んじ続けるしかないのである。

 改革の成功のためには、二つの必須条件を満たさなければならない。

 一つは、国民・有権者とマスコミの強力な支持。そしてもう一つが、絶対的権力の支持である。

 一つ目の条件に関しては、すでに小泉政権発足時に満たされていたはずだ。日本の国民は、中途半端な政治改良ではなく、真の政治革命を心から期待していたはずである。85%という驚異的支持率こそ、何よりの証であろう。

 だが、現実は三年以上が過ぎたいまも改革の成果はあまり見えてこない。中国の諺で言えば、「雷声大、雨点小」(雷の音ばかりが激しくて、雨は落ちてこない)状態だ。有権者もマスコミも現実的で功利的であるから、いくら掛け声の雷鳴が大きくても、成果という雨の恵みがなければ離れてしまうだろう。そして、小泉首相はまさに、この絶好の改革の条件から見放されようとしている。

 八五%などという異常な政権支持率は、もはや北朝鮮以外にはほとんど見られないものだろう。その意味では絶好の機会を逃すことになるのだ。

 かつて小泉首相を含めた「YKK」は、実力も知名度もキャリアもそなえた日本政界の希望の星だった。しかし、いまは過日の輝きは失せ、「惨めな」という言葉で表現されるありさまだ。

(中略)

 仮説だが、もし加藤紘一氏と山崎拓氏が昔の勢いのままであったなら、小泉政権の立場もいまとは大きく違っていただろう。党内での妥協や駆け引きといった負担が減り、小泉首相の発言も行動ももっと大胆であっただろうと想像される。

 いまでは、孤独な小泉首相は自民党内の抵抗勢力と真っ向から勝負する力を失ってしまった。彼にはまだ、自民党を解体するまでの「革命」を行うだけの度胸もなければ指導力もないということだ。

 だが、もし日本で革命が成功した場合は、日本は長い混乱の時期を経てまったく新しい政治の局面を迎えることだろう。それは、歴史的な新紀元と呼べるものだ。従来の官僚主導型の国家体制も変えられるかもしれない。

 中国の?小平氏は、1978年から中国の歴史を変える改革・開放の大革命を成功させた。当時、中国にあった抵抗勢力や民衆の戸惑いは、いま小泉首相が対峙している抵抗に比べたら、恐らく十倍、いや二十倍も激しいパワーだったに違いない。そして、残念ながら日本には、?小平氏のような英雄的政治家が生まれる土壌はない。

(中略)

 では、なぜ日本の政治土壌には世界に名を馳せる英雄が出ないのか。

 一つの根本的原因は、日本の政治家が国家の利益と名誉より、自分自身の利益と名誉を重んじるからだろう。

 小泉改革を成功させようとしても、数十年の伝統を継承してきた権力と利益の既得権者たちは、おとなしく「はい、分かりました」と政治陣地を放棄するとはとても考えられない。

 改革の三年間、小泉政権への支持率は、85%から45%前後まで下がってしまった。そして、小泉首相はますます孤独になっていくのだ。

 一人の人間として見た場合、小泉氏は非常にプライドの高い人だと思われる。世襲議員で、若いころにはイギリス留学もし、系統的な西洋教育を受け、欧米式の民主政治に心酔している。趣味は、クラシック、オペラ、ハリウッド映画。骨の髄から「酒池肉林」タイプの泥臭い政治家を軽蔑している。派閥政治も嫌っている。

 根本的な改革はかなわなかったが、ギリギリの妥協をしながら、改良を試みている。特に人事では、「傲慢」と形容される予想外の党役員・内閣人事を行い、若手の起用などでも驚きの声と喝采を浴びていた。

 中国の唐家セン前外相が思わず、

「小泉政権はいつもの短命政権と思ったが、ここまで続くとは予想しなかった。日本の政治過渡期にはこういう人物が必要だろう」

 とオフレコで評価したほどだった。

 小泉氏の基本的政治理念は、「親米・反共」である。彼は、中日国交正常化後の三十数年間で中日関係を最も悪化させた政治家の一人だ。

 首相就任以来続く毎年恒例の靖国神社参拝は、中国人の反日感情を最高潮に高めさせた。最近になってやっと中国の高官も、「小泉首相は、本当に骨と肝がある」と驚嘆したほどである。

 中曽根内閣以降の歴代政権は、ほとんど中国政府の顔色を見ながら対中政策を調整してきた。たまに、国内世論の圧力で対中強硬論に傾いても、いつのまにか修正されてしまうのだ。そしていまでは、中国の国家指導者と親交を持ち、中国政府内に広い人脈を持つことが、大政治家たる証の一つとなっている。

 その点、小泉氏は歴代首相たちより賢かった。「土下座外交」との批判が民間に渦巻くなか、靖国神社への公式参拝を公約に掲げて実行し、対中ODAの削減を行った。こうした一連の行動は、日本国内で喝采を浴びると同時に中国政府には難題を投げつけた。

 小泉氏は、中国側の裏事情を見抜いていたのではないか。

 いままで中国は戦争の被害者として、歴史清算問題を切り札に日本の歴代内閣に圧力をかけ、常に両国間の政治的駆け引きのなかで主導権を握り、日本からODA資金と円借款を獲得してきた。

 ただ、こうした古い切り札を使いすぎたためにいまではあまり通用しなくなってしまった。特に、若返りが進む日本の政界では、効果を失いつつあるのだ。

 小泉首相が毎年靖国神社に参拝しても、中国政府には非難声明を出すほかには、何の実効ある対策も取ることはできない。正直なところ、中国側には昔のような切り札はもうないのである。

 また、別の意味で中日関係をこれ以上悪化させても国益にはなんらプラスはないことも明らかなのだ。

 いま、中国政府がむしろ恐れていることは、民衆が反日感情を高ぶらせたことを切っ掛けに、国に対するあらゆる不満を爆発させ、政権安定の基盤を揺るがすことだ。特に、四年後の北京オリンピックや六年後の上海万博を控えるこの時期には、昔のような狭小な民族主義情緒をバックに、日本に圧力をかけるといったことはさすがにできなくなっているのだ。(以下略)





新世紀の維新というヴィジョンは、再構築されねばならない。



第157回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説 平成15年9月26日
 (はじめに)
  私は、就任以来、「構造改革なくして日本の再生と発展はない」との信念の下、改革を進めてまいりました。
  この間、国民には、今の痛みに耐え明日を良くし、変化を恐れず新しい時代に挑戦しようと呼びかけてまいりました。改革の痛みに直面しながらも、多くの国民の努力によって、日本再生に向けた改革にようやく芽が出てまいりました。
  「民間にできることは民間に」「地方にできることは地方に」との方針で構造改革を進め、活力ある社会を作り上げていかなければなりません。
  この度、小泉内閣の責務である改革を更に推進していくため、内閣改造を行いました。新しい体制の下、構造改革路線を堅持し、改革の芽を大きな木に育ててまいります。



「聖域なき構造改革」という名を冠せられた改革の実体は、国民には分からないように「隠されている」。

改革の果実は果たしてどこにあるのか。



その果実は、小泉純一郎という人が創った聖域にある。



ここから先は新世紀の聖域になる。



さて、聖域の果実に手をかけようか――






文献

1.袖井林二郎 著 『マッカーサーの二千日』 中公文庫
2.三根生久大 著 『日本の敗北 アメリカ対日戦略100年の深謀』 徳間書店
3.阿川尚之 著『海の友情 米国海軍と海上自衛隊』 中公新書
4.リチャード・オルドリッチ 著 『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』 会田弘継 訳 光文社
5.NHK報道局「自衛隊」取材班 『海上自衛隊はこうして生まれた 「Y文書」が明かす創設の秘密』 NHK出版
6.岡崎久彦 著 『日本外交の情報戦略』 PHP新書
7.藤井厳喜 著 『ジョージ・ブッシュと日米新時代』 早稲田出版




――そして、回帰して、かの別な小路を走り、彼方へ、ぼくらの前へ、この長い凄絶な小路を辿って、――ぼくらは永劫に回帰せねばならぬのではあるまいか

フリードリッヒ・ニーチェ 『ツァラトゥストラかく語りき』 幻影の謎 / 原田義人・訳
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人は己の喪失を確実なものとするような諸手段によって己を救わなければならない。

――カタ・ウパニシャッド




現代人は二つの人生を同時に生きている。一つは現実の世界、もう一つはデジタルの世界である。



知ろうとする欲望の強弱と、検索に掛ける言葉を取捨選択する能力、記憶装置に蓄積される情報群。
博学を衒うことも、何者かを演じることもできる。
開放された電子の空間は、それぞれの時間を喰らいながら果てしなく増殖を続ける。
ネットに繋がっていると、強い情動を感じる。

ネットの特性として幾つか挙げてみると、
 ・匿名性
 ・不確実性
 ・速度

これらは諸刃の剣ではある。


○匿名性

 兵を形わすの極は、無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺うこと能わず、智者も謀ること能わず。形に因りて勝を錯くも、衆は知ること能わず。人みな我が勝の形を知るも、吾が勝を制する所以の形を知ることなし。故に其の戦い勝つや復さずして、形に無窮に応ず。

――『孫子』 第六 虚実編

▼中島悟史 著 『曹操注解 孫子の兵法』

真の戦略家は無名であれ

 『老子・乙本』第二十二章に、「常に客観性を要する参謀役は当事者である組織指導者になってはならない。たやすく自己満足するような者は出世しない。やたら目立とうとする者は中味がなく、先の見通しは暗い。自慢ばかりしている者は他から功績を認められない。地位に満足して、いばりくさっている者は、やがては地位をうしなう(企者不立、自是者不彰、自見者不明、自伐者无功、自矜者不長)」とあるように(真の戦略家は無名であれ》と孫武は説いた。
  曹操が引用した太公望の言葉は、『六絹・軍勢篇』の「敏に勝つ者は形無きに勝つ。上戦はともに戦うなし。故に勝ちを白刃の前に争う者は、良将に非ざるなり(勝敏者勝於無形、上戰無與戰、故爭勝於白刃之前者、非良將也)」である。

 『黄帝四經・經法・道法篇』は「したがって《道》の原理によって天下の情報を議論する者は何ものにもとらわれず、国家や国境にもとらわれず、自分の立場にもとらわれず、自分の利害も捨てた人物である。……利害を離れて判断できるのが本当の智者ということである。最も智恵のある者は、天下の情勢を総覧して、権力のバランスを調整し、天地自然の必然性の法則を応用する人物である(故執道者之観天下也、無執也、無處也、無爲也、無私也……無私者智、至智者爲天下稽、稱以權衡、參以天當)」とある。





▼ジェイムズ・バムフォード 著 『すべては傍受されている 米国国家安全保障局の正体』

 たとえ食堂で隣のオフィスの人と食事をしているときでさえ、仕事の話をしている様子がない、ということだ。就業規則は「話すな、訊くな」である。新任者に渡される『NSAハンドブック』のまず最初に書いてあることは「匿名性の実践」だ。「おそらく新入局員が知るべき最初の保安要領のひとつが、匿名性の実践である……」とある。「匿名性とは、NSA職員は自分自身や自分のNSAとの関係に他人の注意を惹いてはならないということである。またNSA職員は、NSA関係者以外からNSAの活動に関する特定の質問を受けた場合、肯定も否定もしてはならないと注意されている」さらにこのハンドブックは「匿名性の実践は、きわめて多岐にわたる」と警告する。





▼松岡心平 著 『宴の身体――バサラから世阿弥へ――』

「花の下連歌」

  中世の初め、京都近郊で、春、桜が爛漫と咲いている下で行われた行事に「花の下連歌」がある。
  中世後期、室町時代に全国規模でしかも各階層にわたって盛んに行われた連歌会の原型であった。
  ただし、花の下連歌の孕む問題は、単に連歌という、和歌に替わる中世固有の一文芸ジャンルにとどまるものではない。
  花の下連歌を、この連歌会特有の共同性の面から追求していくと、そこに姿をあらわすのは、中世の新しい共同の世界、人と人との新たな結びつきを示す「一揆」なのである。
  花の下連歌の共同性を考える際重要なのは、まずこの連歌会が、花の下、つまり桜の下で張行されるということである。
  桜に関しては、古来、日本人特有の信仰がある。
  桜の花びらが散っていくのを、憤死した人間の怨霊すなわち御霊の吹き荒れと感じるというもので、桜の樹の下に眠っている御霊を鎮魂する祭が行われた。 (中略)

  枝垂桜のもとに張行される花の下連歌は、「よろづのもの」に開放されていたが、「よろづのもの」は「忍びて」、つまり身分・姓名を隠して連歌会に参加しなければならなかった。連歌の一座を構成する宗匠や連衆は、善阿法師や花下の十念房など主に念仏聖であり、彼らは遁世者、アウトローであって、建前上あらゆる社会的関係を断ち切っている者たちであった。そういう無縁の聖たちが主宰する連歌会に参加するためには、世俗にあって有縁の人々である「よろづのもの」は一時的にせよ身分・姓名を隠すことで自己を無縁化させる必要があったのだ。
  花の下連歌の無縁の場は、同時に無礼講の空間でもあった。
  (中略)

 花の下連歌は、無縁の場であるがゆえ無礼講空間となり、
(中略)
  貴賤の自由な交流が可能となったのである。

    

「連歌と一揆」     

 わけても興味深いのは、一揆と連歌会が実際にストレートに結びつく例が、すでに南北朝期から見られることである。
  (中略)

  このとき、文芸としての連歌は、一揆集団の形成・維持の上で、二つの重要な機能を果たしたと思われる。
  第一は、連歌の融和的側面である。連歌では、他者をよく理解し、前の句を充分に咀嚼しないと、いい句は付けられない。そして、完全に目立たないような句を作っても面白くないし、また突出してしまうと全体の雰囲気が壊れてしまう。つまり、連歌会においては、全体の「座」の空気を常に感じ取り、その流れに寄り添って主句していかなくてはならないという、気くばりが常に要求されるのであり、これはまさに、一揆集団をまとめていく時の配慮と結びつくのである。
  第二は、連歌のもつ興奮性である。
  連歌の付合には、他人が付けるということにより見当もつかない偶然性が一句ごとに介入してくるのであり、偶然性によってひきおこされる意外さの感興の集積が、連衆全体を興奮へと導いていくのである。
  こうして、「一巻の終りに至りては某々の句のよかりし、すぐれたりしなどの意識は何もなくなり、たヾ面白し、愉快なりと感ずるのみにして恍惚として我を忘れたる境に」(山田孝雄『連歌概説』)達するのが、上級の連歌というものであり、これは一揆集団における身心の昂揚という側面にぴったりと結びつくのである。
  いったんそこに入れば社会的関係をわすれて一味同心できる共同世界が遊宴の文芸として身近にあったことの意味は地方武士にとって大きかったにちがいない。社会的流動、不安定という時代状況にあって地方武士たちは連歌の場に積極的に新たな共同の場を求め楽しんだともいいえようが、いずれにせよ、無縁平等の共同性の支配する連歌の場を生きた「宴の身体」はレベルこそちがえ、一揆の身体へと容易に引用されていったのだ。



「連歌会所」           

 一方、「会所」という言葉は、鎌倉期に入って、『無名抄』『沙石集』などに漢詩や和歌の場として見え始めている。
  (中略)

 会所は、無縁の人間によって管理される場であり、また世俗の身分秩序を離れた空間であった。
  (中略)

 能舞台は、なにもない空間ではあるが、コスミックな意味の方向性を濃密に持つ空間である。これに対し、会所はなにもなくフラットな空間であるゆえ、羅列的な装飾空間になりうる。五十もの花瓶と花々が立ちささめく貞成親王の会所は、無方向なエネルギーの充満するバサラ空間であるといっていいだろう。

 会所は、花や茶や連歌といった文芸の母胎ではあったが、いざその花や茶などが花道・茶道といった形で洗練されてくると、非シンメトリーの空間へと昇華されてしまう。茶室の空間などその典型であろう。

 中世にあっては、権力者の屋敷の中にまで、無縁空間としての会所が作られたが、これは江戸期に入ると姿を消す。しかし、江戸期に入っても、無縁で融通無碍の空間としての会所は、地下水脈となって日本社会の底に流れ続けたと思われる。山口昌男氏は、「幕末になってくると、会所的なものは表面的には殺されるけれど、例えば草莽がそこから出てくる空間であったり、それから例の隠れキリシタンばかりではなくて、隠れ浄土も九州に集まって、そこでは武士も商人も百姓も一緒になった仏飯講空間をつくる、というふうにいろいろ形を変えて生き残ったのではないか、という気もするわけです。本来、中世であれば無縁とかアジールといったものが、近世では画一された政治空間が出来たために隠れてしまった。しかしいろんな名目をとって姿を現わす」(トータルメディアとしての能」『国文学』昭和六一年九月号)と言う。

 これは実に近代までも持ちこされたのではなかろうか。森山軍治氏は、『民衆蜂起と祭り』(筑摩書房)で、秩父事件での困民党の組織のされ方や動員範囲は、俳諧の交流網とほぼ重なると述べている。中世に発する連歌・一揆・会所の問題の射程は、おそらく近代、そして今日までも届くものと思われる。





▼金春國雄 著 『能への誘い 序破急と間のサイエンス』

能はそれぞれの演者がアノニマス(匿名)な存在として全演者の共通意図の下に機能することによって、初めて成立する





よろずもの、無礼講、無縁、連歌、座、空気、偶然性――

同じ地方に生まれた人々は、時代が変わろうとも、同じような気質をもちつづけるものである。

機械と電子の媒体に替わったが、連歌のような言葉の饗宴は、日本人には馴染み深い。
2chのような匿名掲示板には卓抜した書き手が幾人もいるし、それらの人の中には無名で通す人もあれば、書き込みを特定する記号を付ける人もある。

個人的なことになるが、私の主張いうのはそれほどバリエーションに富んだものではない。
このwebsiteで私の書いていることというのは、日米同盟とそれを推進している小泉総理を支持しているという単純なものだ。
自分の持つ型に従って、事象に反応している。






もし運命というものが世にあるならば、それは運命そのものが舞台をぐるぐる廻っていた

――川瀬一馬


 ▼観世寿夫 著『観世寿夫 世阿弥を読む』  

 沈黙

・創造は沈黙に対決して人間の存在を実証することからはじまる。

・沈黙は恐怖を持つ。

・何もない「無」から、訓練を積み重ねた「有」へ移行する。

・透徹した自己否定、自己の放擲、言語による理解を超え、「死」という逃れ得ない現実的な「無」へと回帰する。

・絶望的な真空の中にある虚、非情な美と緊張、虚構の裏にある真実性を引きずり出し、舞台という虚構の世界を実存へと引き上げる。

・演技者を固有の個性から無人称的なところへ持っていく。

 

 夢幻能

・夢幻能は、ワキ方の役である僧や旅人の前に、所の里人が来合わせて、その土地や風物にゆかりのある物語りをするという設定でたいていははじまる。その物語りが進行するにしたがって舞台はしだいに物語りの世界にひき込まれ、語り終わった時点においては里人―大方はシテの役―は物語りの主人公と一体化してしまい、私はその霊であると主人公の名をほのめかして消え失せる。そこまでが前段で、なおも旅人が物語りの主を想って待っていると、ふたたびシテが、今度は物語りの主人公の在りし日の姿で現われ、昔の有様を仕方ばなしにして見せたり舞を舞ったりして、いつのまにかまた、闇の世界へと消えてゆく。これが典型的な夢幻能の形である。つまり夢幻能とは、ワキの役をつうじて、舞台全体を幻想の世界へとひき込んでしまう。この手法は、語り物の持つ呪術性―語るは騙るにつうずると言われているが―を巧みに利用することで、現実的な時間や空間を超越させ、曲の本意を的確に観る人びとの脳裡に印象づけることを可能にする。

・本質的に劇的なものは人間と運命との対決が根底にすえたものである。

・語るは騙るにつうずる。

 

 立つ

・からだの中の自分のありどころを捉えるという基本を自得する。

・前後左右から無限に引っ張られているその均衡の中に立つ。

・無限に空間を見、しかも掌握する。

・能舞台という、吹き抜けの宇宙的空間の中に、ひとつの存在として立つ。

・自分の中の内的な力によりて、劇空間の中の不確定なものを、極限にまで切りつめる。

・吹き抜けの無限の空間、無限であるべき空間の把握。

・そこに立つ自分は、とぎれることなくしずかに、永遠の無限の向こうに気持が通わせる、そうあるように目をひらく。



 力

・基本的なカマエは崩さず、それ以外の無駄な力は抜いてからだを柔軟に扱う。

・力は自分の内へ向けて満たす。

・力一杯になる稽古は、究極的には、外側への力をいつでも抜くことができるようになるためである。

・自分の内部で充実し、集中しているたしかな力は、外に向けては余分な誇示などせずにすむ。



 身体

・からだは縦横に使いこなさなければならない。

・近くで聞けば決して大声でなく、しかも遠くまで明晰に聞こえる声を持つ。

・演ずることへのべたついた欲望を排除し得ている声とからだ。

・詞章についた感情移入や情調的演技を濾過し、余分なものはすべて技術に還元する。

 見る

「無心の位にて、我心を我にも隠す安心」

・演じている自分の心、自分の意識を自分自身にも隠してしまわなければいけない

・自意識を離れる

・何かに化けようということは、その役らしく見せるという表象的物まねの域でしかない。そうかといってなまの役者そのままが出てしまっては、観客の反発を買ってしまう

・舞台上の演技者は、意識を超越した次元へ追い込まれていなければならない

「離見の見」

・「我見」から脱け出した離れた視点を持つ

・舞台にのめり込んでしまわない、覚めた眼がなければならない

・このように読んだから、観客にはこういうふうに見せられる、と思ったり、いかにも解説しているかのような解釈の見える能ではまずい。

・舞台という虚構をいかに実存に変えるには、まず演者が、見せる意識を自分の中から取り除かねばならない。同時に観客の見るほうの意識も変える。

・演者側の、見せよう、与えようという意識が見えてしまったら、観客は多くの場合反発するだろう。そっぽを向くか批評家的になるかである。

・博識を標榜したり、観客におもねって見せることとちがう。

・はじめに自分なりの解釈があって、それを自分の中で消化していくうちに、解釈を超えたものを立ち現わせる

・演技者というものは、まず観客の立場を理解し、その同じ時点に立つことができなければならない。

・その演技者は、多くのさまざまな表現を可能にする技術や感覚にすぐれていなければならず、そのための修練を重ねたうえで、自分の能を通じての生き方をはっきりと打ち樹てることが必要である。つまり観客を知り、能を知らねばならない。

・そのうえで、そうした演者の強い意思を他人に見られぬ仕掛けを考える。

・「我心を我にも隠す安心」、つまり自分の意志を自分でさえ意識する必要がなくなるほどの強い深い境地が最高である。そこに至ってはじめて「見所同心の見」が成り立ち、観客の主体性と演者側の主体性とが相反することなく一体となってその舞台を経験し、演者は観客を意識することも、無視することも、おもねることもなく自分の能を創り上げることができる。

・役者というものは、若さと美貌に執着したり、技術の達者さに溺れたがったりする。

・からだが利いたり、技術に自信があったりすると、ともすれば必要以上にオーバーな動きになりやすい。

・若ければ、動けるだけ動いての熱演も魅力のうちだが、ある年齢以上の熱演は、逆に観客をシラケさせかねない。

・「自分」と「役」と「観客」の三つのものの相応を見きわめ、体得する、それが「能を知る」ことに外ならない。

「まことの花を極めぬ為手と知るべし」

・自分の技術に頼って、あくどい芸や達者にまかせた芸に陥り、いつか非幽玄な役者に成り下がってしまう者になってはならない。

「関心遠目」
「心閑かにして、目を遠く見よ」
「命には終わりあり、能には果てあるべからず」

 年齢

二十代

・役者としての正しい基礎を築く。

・この時期の稽古はその役者の一生の芸の行方を定めさえする。

・師について学ぶということは、この時期までのことである。

三十代

・三十四、五歳は盛りのきわめ、その年齢までに、あらゆる役との対決をし終え、自分の能が鑑賞の対象になる。

 

 仮面

・観客に対するときの表玄関でもあるおもて、その能面の裏の暗闇の中に能役者は姿を隠している。

・隠れているからこそ逆に、役者自身の訴えたいことを思いのままに舞台上に描き出すことができるということもあるし、面というワンクッションをおくことが、演者と観客という対立者でも、協力者でも、批判者でもある複雑な関係を素直にときほぐしてくれもする。

・能の役者というのは、常に冥暗の世界と現世との中間にただよう霊魂のようなものだから、何らかの思いなり訴えなりを安心して託し、託すことによって、ある呪術力を持たせてもらえると信ずることのできる相手がなくてはならない。

・ある意味では自分の顔になりながら、それを通して内側の演技者が定着していたい。

・演者としては、仮面そのものが、自分と同等またはそれ以上の力量をもって立ち向かっていてほしいし、そうした仮面と演者の枯抗のうえにこそ、夢幻能の持つ緊張感を支えるものが生まれる。

・変身のための呪術性、魔術性、憑依性。

・そこでは演者も、役柄も、特定の誰かであることも否定している。

・本質的な意義は、顔面表情その他の瑣末的演技を一度全部切り捨てることによって、身体全体の内から湧き上がる演技を要求される

・能面は、単に他の人間に化けるためのものではなく、そうかといって、役と役者とを同一化してしまうためのものでもない。

坂邦恵氏『仮面の解釈学』
  仮面を意味するペルソナとは、人称なしの、つまり、自分でも相手でも特定の他人でもない、あるいは自分でも相手かもあるかもしれぬ「原人称」とでも名付けられるべきもの

・感情をあからさまに表出しようとはしない。「我」の表現はない。

・能の演技を成り立たせる基本であるカマエやハコビ、そしてすべての演技表現は、まず安易な表現欲を切り捨てさせられるところから出発する。しかも面によって、演者は顔まで失わせられてしまう。

・面をかけるとき、演者は自分の姿を鏡にうつして見ている。自分を客体として眺めている。

・いかなる芸能でも、舞台に出れば観客に見られることが役者の宿命で、したがって役者はいつも見られているという意識から離れられないものだが、その、見られるという意識、さらにそこに必然的に出てくる見せるという意識、それをなくす。

・面をかける、ということは能の役者にとって、これから一番の能を演ずる自分の、心の状態と位置とをきめる鍵となる。

・面をかけると演者は自分の内側に自分を入り込ませることが可能になる。

・自分を、日常的な世界から飛躍した場所に持っていく手立てとなる。

・今日演ずる能の、自分の思いを面の裏側に思いきりぶつけても、面が、それを支えてくれなければならない。

・面の力を信じて、永劫の亡魂とも自分を思える。

・面は、安心して己れの全部を委ねられるものであってほしいのと同時に、思いきって闘い合える相手でもなければならない。

・役者の内面と役者が感じる面の力とが闘争するだけでなく、役者の肉体と無機的な木彫品である面との反発のし合い、闘い合いが、そこに象徴される。


劇、それは何事かの到来である。能、それは何者かの到来である。

――ポール・クローデル



○沈黙と神性



微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る。故に能く敵の司命と為る。

――『孫子』 第六 虚実編

▼中島悟史 著 『曹操注解 孫子の兵法』

柔軟性なきものは滅ぶ

 『黄帝四經・道原』には、「故に聖人こそ、無形なるものに真理を洞察することができ、民衆たちの声なき声をも聴きわけることができ、何でもないところに真実を発見することができるのである(故隹聖人能察無形、能聽無聲、知虚之實)」とある。

 『同・經法・道法篇』には「ゆえに最も純白に、最も透明に仕上げれば、織り布も精神もすみずみにまで広がり、形がなくなってしまうような柔らかさになる(故能至素至精、浩彌無形)」



▼鈴木晶 著『ニジンスキー 神の道化』

ニジンスキーは、わずかな写真と、その踊りを見た人びとの証言の中にしか存在しないダンサーである。私は、動くニジンスキーが見たいという願いと同時に、彼にはいつまでも「イメージの中にしか存在しないダンサー」でいてほしいという願いも抱いているのだ。だから、観にいった映画が劇映画だったことに、失望すると同時に安堵したのである。

 ここまでに、すでに何度も「ニジンスキー・ファン」という言葉を使ったが、実際に世の中にはニジンスキー・ファンとかニジンスキー崇拝者と呼びうるような人びとが大勢いる。私のまわりにもたくさんいる。ニジンスキー・ファンとは、ニジンスキーこそ史上最高のダンサーだと信じている人たちのことである。

 これは、考えようによってはじつに奇妙な現象である。ニジンスキー・ファンの誰ひとりとして、ニジンスキーの踊りをじかに見たことはないのだから(ニジンスキーが最後に人前で踊ったのは一九一九年のことだから、世界中を探せば、ニジンスキーの踊りをこの目で見たという人は何人かまだ生存しているかもしれないが、それはこの際問題ではない)。ダンサーにとっての作品、つまり小説家にとっての小説、画家にとっての絵に相当するものは、いうまでもなく「踊り」である。したがって極端な言い方をすれば、ニジンスキーを崇拝するということは、その人の小説を読んだことがないのに特定の小説家を崇拝するようなものだ。

 そうした矛盾にもかかわらず、現実にはニジンスキー・ファンが大勢いる。それどころか、ニジンスキーの名声がこれほどまで高まったのは彼の死後のことである。たしかに彼はバレエ・リュス時代に一世を風靡したが(といっても欧米だけであるが)、彼を崇拝する者の数は彼の死後かなり経ってからのほうが生前よりもはるかに多いはずである。少なくとも日本の場合、一九七〇年代以前には、ニジンスキーの名は一般にはほとんど知られていなかった。

 それなのにどうしてニジンスキーはこれほど崇拝されているのか。

 まず、「幻は乗り越えられない」ということがある。誰でもいいが、たとえばファルーフ・ルジマートフのことを考えてみよう。ルジマートフ・ファンにとって、彼は世界最高のダンサーである。ファンたちから見れば、他のダンサーたちはどんなに優れていようともルジマートフには及ばない。だが、彼らファンですら、ルジマートフのことを史上最高のダンサーだとは考えていないだろう。彼らがルジマートフのことを「世界最高」と言うとき、それは「今現在、世界最高」、つまり「現在、彼の右に出る者はいない」という意味であって、ファンの多くは心の底で「昔は昔で素晴らしいダンサーがいたのだろうし、時代が変わればまた優れたダンサーが出てくるだろう」と考えているにちがいない。つまり、ルジマートフはやがては乗り越えられる存在なのだ。だが、幻は乗り越えられることはない。言い換えれば、他と比べられることを拒否する。

 ニジンスキーは生前、「ヴェストリスの再来」と騒がれた。ヴェストリスはロマンティック・バレエ時代の名ダンサーである。だが、私たちはヴェストリスという名を間いても少しも胸はときめかない。彼は私たちにとってあまりに遠い存在なのだ。史上最高のバレリーナがタリオーニではなく、アンナ・パヴロヴァであるのと同じことだ。ニジンスキーの時代には、ヴェストリスはすでに神格化されていた。そして今度はそのニジンスキーが、観客の前から唐突に姿を消すことによって、幻としてのみ存在するダンサーとなった。そして「神」の仲間入りをしたのである。

 ニジンスキーが神格化されたのは、彼の生涯があまりに劇的だったからだ。俗っぽい言い方だが、彼は彗星のごとく現れ、彗星のごとく姿を消した。彼が観客の前で踊ったのは、その六十一年の生涯のうちのたった数年間である。そういうダンサーが理想化されやすいことは、恋愛のことを考えてみればよくわかる。恋愛にはかならず「終わり」がある。恋入たちはかならずや別れる。それは恋が初めるからだ。それまでは「あばたもえくぼ」だったのが、「えくぼもあばた」に変わる。あんなにも素晴らしく見えた相手が、しだいに色初せて見えるようになる。だが、一つだけ例外がある。恋愛の絶頂期に相手が死んでしまえば、恋する者の心の中では恋愛は終わることがない。恋人の崇高なイメージは崇高なまま存在しつづける。残された恋人が詩人だったならば、失った恋人を賛美しつづけることが、彼に残された人生の仕事となる。

ニジンスキーは若くして狂気の闇へと消えていったために「伝説」になりえたのである。しかも彼は、右に挙げた恋人の例とは違って、突然死んだわけではない。夭折していたとしたら、現在これほどまで崇拝されてはいないだろう。彼は狂気に陥ったことによって、死んだ場合よりももっと高い地位に昇った。なぜなら、少なくともニジンスキー崇拝者にとっては、彼の狂気と彼の踊りとはどこか深いところで繋がっているのであり、彼の狂気は「聖なる狂気」なのである。ニジンスキー・ファンの間には、「彼は踊りを奪われたために狂気に陥った」という説がかなり広く浸透している。この説が果たして妥当なものなのかどうかについては、いずれ詳しく検討することになろうが、どちらにしても、ニジンスキーの狂気は、舞踊の中に潜む狂気、すなわち「神になる」とか「神に憑かれる」といった一種のトランス状態に光をあてることになったのである。

 ただし、ニジンスキーの狂気といっても、私たちは彼が主に精神病院で過ごした日々について詳しく知っているわけではない。せいぜい精神病院のカルテにしるされた彼の姿と、妻ロモラの眼を通してみた彼の姿しか知らない。それはあくまで「外」から見たニジンスキーにすぎない。後世に影響を与えることになったのは、ニジンスキーの狂気というより、一九一九年頃、すなわち彼の精神が狂気の闇の中へと沈んでいきつつあった頃に書かれた『手記』である。この『手記』はニジンスキーが世を去る十年以上前の一九三七年に出版された。出版当時もそれなりの話題を呼んだらしいが、この書物を世界的に有名にしたのは、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』(一九五六)である。この世界的ベストセラーによって、ニジンスキーは、ヴァン・ゴッホやT・E・ロレンス(アラビアのロレンス)と並んで、「アウトサイダー」(言ってみれば「確信犯的はみだし者」)としての地位を確保したのである。

 かくしてニジンスキーは「幻の中でのみ存在するダンサー」となったのだが、私たちの手元には、数が限られているとはいえ、写真が残されていることをも忘れてはならない。それらの写真は、たんなる存在証明ではなく、どれ一つをとってみても、恐ろしいほどのインパクトをもって私たちに追ってくる。写真を見てニジンスキーに一目惚れ」したという人は多い。

 たとえばここに「コボルト(小鬼、地の精)」を踊るニジンスキーの写真がある。この写真を見た者は誰しも、一体どんな踊りなのだろう、そもそもこれは一体何なのだろう、と胸をときめかせたにちがいない。『シェエラザード』を見ても『薔薇の精』を見ても『牧神の午後』を見ても、ニジンスキーは他のダンサーにはけっして見られないオーラを放っている。バレエに詳しくない人が見ても、「これは只者ではない」と感じるはずだ。これらの写真は「幻の踊り」を再現するための魔法の鍵である。つまり、私たちの脳裏にしっかりと焼き付けられたこれらの写真たちは、やがて頭の中の劇場で動き出す。動く映像が残されていないがゆえに、ニジンスキーは私たちの頭の中で、他のダンサーにはけっして真似のできない「最高」の踊りを見せてくれるのである。

 アウトサイダーという言葉は、別にコリン・ウィルソンの造語ではなく、昔からある語だが、ウィルソンによって新しい意味を盛り込まれ、世界的流行語となった。一言でいえば「はみ出し者」「疎外者」「仲間はずれ」である。社会に適応することができず、周囲の人びととなじめない。だが、彼が社会に溶け込めないのは、彼の眼には社会の病が見えてしまうからで、一般の人びとはそれに気づいていないからこそ平気で日常生活を続けることができるのだ。その意味で、アウトサイダーは真理の探求者であり、「見者」でもある。しかしながら、アウトサイダーは社会の指導者になれるわけではない。彼らは往々にして自分自身を知らず、その洞察はしばしば狂気という形をとる。いわば、自分だけが眼が見え、他はみんな盲人という、H・G・ウエルズの描く『盲人の国』に住んでいるようなもので、アウトサイダーたちはたえず寂寥感・孤独感・無益感に苛まれている。

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「アウトサイダーの制御への試み」から一般的な結論をひきだそうとするどんな企ても、肉体の修練を第一の仕事とした「アウトサイダー」の経歴をそれに付記しないかぎり、完全に満足のゆくものとはなりえない。ヴァン・ゴッホとロレンスについてこれ以上一般論を述べる前に、誰か、かような人物を考察してみる必要がある。例として適当な聖者や隠者にこと欠かぬが、どちらにしても、われわれがこれまで守ってきた条件に合致しそうにない。その条件とは、「アウトサイダー」たるものは、その宗教に関するかぎり、「出発点から始めねばならぬ」ということである。彼は宗教から出発してはならぬのであり、誰にも理解でき容認できる立場、すなわち世のなかと人生とから出発せねばならない。とすれば、選択の範囲はかなり狭められるが、幸運にも、手近な実例が一つある。
(コリン・ウィルソン著『アウトサイダー』 中村保男訳)



文献

1.観世寿夫 著『観世寿夫 世阿弥を読む』 平凡社ライブラリー 
2.ジェイムズ・バムフォード 著 『すべては傍受されている 米国国家安全保障局の正体』 瀧澤一郎 訳 角川書店
3.中島悟史 著 『曹操注解 孫子の兵法』 朝日文庫
4.金春國雄 著 『能への誘い 序破急と間のサイエンス』 淡交社
5.金関猛 著 『能と精神分析』 平凡社
6.観世銕之亟 『ようこそ能の世界へ 観世銕之亟 能がたり』 暮らしの手帖社
7.松岡心平 著 『宴の身体―バサラから世阿弥へ―』 岩波書店
8.観世清和 『一期初心 能役者森羅万象』 淡交社


語りえぬものについては沈黙しなければならない

――ウィトゲンシュタイン



今日ではむしろ情報量に富む生データを情報に携わる人々すべてが、それぞれの立場から観察・判断することが大切になっている。

情報分析とは直感力を頼りに多元方程式をいっぺんに解こうとするようなアート(芸ないし芸術)の要素がある(弁証法的思考)。
この多元方程式は全ての変数が与えられているのではないので不確実な問題から不確実な回答を引き出す決断を伴うのが宿命である。
不確実の中の確実性を高めるツールとして経験あるいは失敗の集積、雑多な知識(ナレッジ)が役立つ。
その繰り返しからエキスパティーズ(専門技能)が育ってくる。
情報を読むためには第一歩として「パターン認識」が大切だ。
パターン認識を向上させるためにはバックグランドとして専門分野(アカウント)を単一にしぼるべきだ。
情報で店を構えたいのなら材料の仕入れ段階から骨身を惜しまずに走り回り、意地でも「分かりませんとは言わない」という看板を張り通すことだ。
やせ我慢がなければ苦難に耐えられない。



これから先は沈黙を書く。
沈黙とは書くものではなく、一切が虚偽にしかならない。
ただ、 私は書く。

私は小泉純一郎という人が何を見ているのかを知りたいと思った。

2004年5月22日のあの日から――



自我を隠す暗闇から、それだけを見つめる。



Sometimes I've seen what people think they've seen.

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sanctuary lost THE ORIGIN III.外交

http://www17.ocn.ne.jp:80/~kuwairai/diplomacy.html
 我々は学んだ。広大な海が、もはや我々を新たな時代の危機から守ってくれないことを。政府は、どこで発生したものであれ、テロの脅威に対峙する責任がある。だからこそ我々は、アメリカの敵との戦いに打って出るのだ。

――ジョージ・W・ブッシュ大統領 初代国土安全保障長官トム・リッジの就任式典にて 2003年1月24日


小泉総理への批判に多いのは、
 ・歴史への見識の低さ
 ・戦略なき低姿勢な外交姿勢
 ・ヴィジョンを示したことがない

意味不明なものになると、
  ・小泉総理はノーベル平和賞を貰いたがっている
  ・金正日に弱みを握られている
  ・北朝鮮への朝貢外交だ
  ・拉致被害者とその家族に対して冷淡だ

外交交渉には感傷などの入り込む余地はまったくない。

内閣総理大臣の座。
自衛隊最高指揮監督権。




自衛隊法第七条
内閣総理大臣の指揮監督権

内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。





 「最高司令官は、陸軍参謀総長を介して戦略、戦術、作戦に関連する指揮を行うということをはっきり確認したい」

―― フランクリン・ルーズヴェルト大統領、スチムソン陸軍大臣宛の手紙 1942年2月




クラウゼヴィッツ『戦争論』 ▼

第一部 戦争の性質について

第三章 軍事的天才

 およそ異常な事業というものは、それがかなりの熟練度をもって遂行されるためには、それ相当の非凡な理性と情意との素質を必要とするものである。この素質がひときわ目立ち、異常な業績をなし遂げたとき、このような素質を持ち合わせている人を天才と名づける。
(中略)

天才をもって、ある事業をなし遂げるために発揮される極めて高度な精神力という意味に理解しておいてよいだろう。
(中略)

われわれは、ひたすら軍事行動に向けられた精神力の複合的傾向性を考察し、この傾向性こそ天才性と考えてみようと思う。
(中略)

なぜなら戦争とはそもそも不確定なものである中に包まれているといっても過言ではないからである。したがって戦争には緻密で透徹した理性の力が要求され、その判断によって事態の真相が解明される必要があるのである。理性的には凡庸であっても、あるいは偶然によって事態の真相が見出されることもあるだろうし、またあるいは非凡な勇気が理性の凡庸さを補ってあまりある場合もあるだろう。しかし多くの場合、つまり平均的な理性の凡庸さというものはいかんともし難いものなのである。

  戦争とはまた極めて偶然の支配する世界でもある。人間活動の諸分野において、偶然の支配する領域に関しては戦争に勝るものはない。それは戦争が不断に偶然と接触し合っているからである。偶然はあらゆる状況の不確実さを深め、事件の発展を押し止めてしまう。

  あらゆる情報や予想が不確実であり、これらに絶えず偶然が混りこんでくる結果、戦争当事者は常に事態が最初の期待とは異なったものになって行くのを見出すだろう。そしてこの事実は当然彼の作戦や、少なくともその作戦に属する種々の予定に影響を及ぼさないわけにはいかない。この影響があらかじめ予定されていた作戦を中止させるほどに大きなものであれば、言うまでもなく新しい作戦をたてなければならない。だがそのような場合には、往々にして新しい作戦を練り直すための資料が欠けていることがある。なぜなら作戦変更の時にあたっては、状況は大抵速断を要求しているものであって、新しい資料を吟味して作戦を練り直す時間的余裕などあり得ないものだからである。しかし一般的には、予定の事項を修正したり、偶然的要素を考慮に入れておいたりすることは必要であるが、さりとてそのことによって予定の全作戦が根底から崩れてしまうというようなことはあり得ず、ただ若干の動揺が起るというぐらいのことにすぎない。というのはそのようなあらかじめの考慮によって、確かに状況に対する資料は増大するだろうが、そのことは必ずしも洞察の不確実性を減少させるものではなく、かえって増大させるものだからである。けだし、これらの資料は一挙に入手されるものではなく、ぽつりぽつりとしか入手し得ないものである故に、その度ごとにわれわれの決断はぐらつき、常に戦々恐々としていなければならないことを考えれば、それも当然のことであろう。

  さて戦争当事者が、このような予期せざる新事態に直面して、たじろくことなく不断の闘争を続けてゆくためには、二つの性質が是非とも必要になってくる。すなわち、その一つは理性であって、これはいかなる暗闇の中でも常に内的な光を投げかけ、もって真相のいずれにあるかを発き出すものである。その二つは勇気であり、この微弱な内的光に頼ってあえて行動を起そうとするものである。前者はフランス人の表現を借りて比喩的に言えばクー・ディユ〔「眼の一撃」くらいの意味―訳者〕と呼ばれているものであり、後者はいわば決断心である。

  このクー・ディユについて若干考えてみるに、もともと戦争においては戦闘が最も目立ち易いものであり、そして戦闘においては時間と空間が最も重要な要素となる。このことは、騎兵隊が迅速な決戦を絶えず心がけていた時代には一層よくあてはまるものであった。それゆえ、時間や空間についての測定は敏速かつ的確な決断によらざるを得ず、これはまた正確な眼力によってしか目測し得ないものであった。フランス人がクー・ディユと名づけたのはこれである。そしてまた今日まで、多くの兵学理論家はこの語を右に述べたような狭い意義に限って使用してきた。しかし今日では、戦闘を遂行するにあたって下されるべきあらゆる的確な決断が、すべてクー・ディユと呼ばれるに至っているとこは注意しておく必要がある。例えば適切な攻撃点を見定めることなどもこれである。つまり、クー・ディユとは単に肉体的眼力ばかりのことではなく、精神的眼力も指しているのである。もちろんこの語は発生上から見れば戦術の領域に属するものではあったが、戦略においてもしばしば迅速な決断が要求されるものである以上、戦略の領域において使用しても差支えない。この語につきまとっている比喩的で狭量なニュアンスを取り除いてその本質を言うなら、このクー・ディユなる語の意味は、日常的眼力の人にはまったく見えないか、あるいは永い観察と熟慮の末ようやく見得るところの真理を、迅速かつ的確に把握し得る能力のことにほかならない。

  決断心とは個々の場合に発揮される勇気の一形態のことである。そしてそれが人間の性格になれば、決断心もまた精神の一つの習慣となる。ところでここで言う勇気とは、肉体的危険に対する勇気のことではなく、責任に対する勇気、つまりある程度精神上の危険に対する勇気のことである。フランス人の表現によれば、この勇気はしばしばクラージュ・デスプリ〔精神の勇気―訳者〕と呼ばれている。というのは、この勇気は理性から生れるものだからである。とはいえそれは理性の発現されたものと見なすより、情念の発現されたものと見なすべきだろう。もともと純粋の理性が勇気であるはずはなく、最も理性的な人が往々にして決断力を欠くなどということはざらにあることだからである。それゆえ、理性はまず勇気の感情を覚醒させ、これによって自らを維持し、かつまたこれを己れの礎石としなければならない。なぜなら、危機に際しては、思想よりも感情がより強力に人間を支配するものだからである。
  以上によって明らかなごとく、決断心とは、事に臨んで事態の動機を十分に推測できず、そのために疑惑の念にさいなまれ、躊躇のあまり危機に陥らんとするときそれを免れしめるところのものである。
(中略)

  さてこれまでクー・ディユと決断心について論じてきたのであるが、次にわれわれはこれらと極めて密接な関係にある沈着について論じなければならない。戦争のごとく予期し得ない事態の多く起る世界においては、この沈着こそまことに重要な役割を演ずる。というのは、沈着とはそのような予期し得ない事態に、よく対処してゆく能力のことだからである。不意の情報依頼に対して的確に応答したり、突然ふりかかってくる危険に対して敏速にその救済手段を講じたりするのが沈着の働きである。この応答したり、救済手段を講じたりする処置が適切であれば、この場合はそれでよいのであって、あえてそれが非凡である必要はない。というのは、もしそれが熟慮の上でなされたものであればたとえ平凡なものであり、ありふれた処置であっても、理性の敏速な処置として満足さるべきものだからである。つまり沈着という語は、理性がいつも傍にあって敏速に処置に応じられるという精神状態を意味しているのである。
(中略)

  頑強とは、個々の衝突にあたって抵抗の強さの点について見た意志の力のことであり、忍耐とは、個々の衝突にあたって持続期間の長さの点について見た意志の力のことである。この両者は極めて似かよっており、しばしば混同して用いられている。しかし本質的に異なる両者の差異を見落としてはなるまい。つまり個々の強烈な印象に対する反応である頑強は、その基盤を単に感情の強さにもつことにあるのに反して、忍耐は頑強以上に理性の支えを必要とするものなのである。というのは、行動の持続期間が長びけば長びくほど、その行動の計画性もそれだけ必要になってくるものであって、この計画性こそ一部分忍耐の力の源泉となるものであるからである。
(中略)

  そこでわれわれは、激烈な感情の運動のさなかにあってもなおかつ理性に従って行動するいわゆる自制心というものは、感情それ自身のなかにその根拠をもっているのだと考えた方がより真理に近いのではあるまいかと考える。すなわち激烈な感情のさなかにあっても均衡を失わない感情があり、この均衡によって初めて理性がその優位を確立し得るのではあるまいか。とするなら、この均衡感情は人間の品位によってもたらされる感情、つまり人間のもつ最も高貴な矜持にほかなるまい。それはこうも言えるだろう、すなわちその矜持とは明察力と理性を備えた人間として、いかなる場合も品位をたもつように行動しようという内面的精神的な要求にほかならない、と。それゆえ、感情の強固さとは、いかに激烈な感情の動きのなかにあっても常に均衡を失わないような態度を指す、と断言しておきたい。
(中略)

  最後に、かりそめには動じないが一旦感動したとなるとその相が極めて深い人間について見るに、これまでの三種の型の人間との関係はちょうど烈火と焔との関係に似ている。この種の人間こそ、困難な軍事行動にあたって、例えて言えば大岩石をゆり動かす巨人のごとき力を発揮する者である。そして彼らの感情の活動たるや、大きな物体の運動にも似て初めは遅々としているが、動き出した以上何ものをも圧倒せずんばやまない力をもっている。

  しかしながら、この種の人間が前者のように自分の感情に惑わされ、後になって自責の念にさいなまれるようなことはないとしても、彼らが決して均衡状態を失うことはなく、盲目的激情に溺れることもないなどと言おうとすれば、これもまた経験的事実に反することとなろう。彼らとて高貴な自制心が欠けていたり、あるいはこれが十分でなかったりした場合には、すでに述べたような事態がしばしば起こりがちである。われわれはこのような実例を、時として文明程度の低い国民の輩出する英雄について見ることがある。けだし理性の訓練が不十分な彼らにあっては、どうしても激情に翻弄されがちだからである。もっとも文明国民のなかの、とりわけ教養のある階層においてさえ、人間が激烈な感情に捉えられる実例が少なくないのは事実であるが。

  したがって、われわれはここでもう一度次のように言っておきたい。すなわち、感情の強固な人間とは、単に感情の激昂し易い者のことではなく、感情が激昂している時でも均衡状態を失わない者、胸中に渦巻く嵐にもかかわらず、常に洞察と信念とを失わない者のことである、と。それは例えて言えば、嵐にもまれる船舶の羅針盤の針のごとく、常にその進路を見失わないようなものでなければならない。
(中略)

  危険と苦痛とのために身も心もはり裂けんばかりの瞬間には、理性によって得られた信念も容易に感情に打ち負かされてしまうものである。殊にあらゆる事態がぼんやりしていて明確な輪郭が掴み難いときには、それらを深くかつ明瞭に洞察することは極めて困難であって、見解の動揺変更もやむを得ないことがある。およそ戦争は常にただ実情を推測し予感することによって遂行される場合が多い。それゆえ戦争におけるほど各人の見解が多様に分れ、さまざまな印象が流れこんできて自分の信念を押し潰そうとするものはない。このさまざまな印象の圧倒的量は、いかなる鈍重な理性の持主でも容易に対抗し得ないほどのものである。というのは、それらの印象は余りにも強く、また一見余りにも生き生きとしているので、それらが一束となって迫ってくるや感情は一たまりもないからである。

  行動をより高次の見地から導き出そうとする一般的原則と見解だけが、明瞭にして深い洞察を結実させ得る。そしてまた、いわばこのような一般的原則があって初めて、個々の事態に対するわれわれの見解も一貫性を保ち得るのである。だが後から後からと押し寄せてくる見解や現象を眼のあたりにして、なおかつ過去の思弁の結果を固守することはまさに最大の難事である。個々の事象と原則一般との間にはしばしば大きな距離があるものであり、この距離を埋めるためにはある程度の自信も必要となり、その反面懐疑の余地も十分残されることになる。このような自信を保つためには、多くの場合、思弁の外にあって思弁を支配している立法的原則以外のものは役には立たない。それは、いかに疑わしい事態に当面しても、自分の最初の見解を固守し、明瞭な信念によって余儀なくされざる限りこれより逸脱すべきでないと命ずる原則のことである。われわれは、すでによく吟味された原則が一層真理に近いものであることを確信し、一時的な現象がたとえどれほど強烈であろうとも、その真実性は必ずやすでに吟味された確信に優先権を与え、この確信を固守するならば、われわれの行動は、いわゆる性格と呼ばれるあの堅実性と持続性を獲得することになるだろう。

  感情の均衡が性格の強固さに、どれほど大きな影響力をもっているかは容易に理解されるところであろう。それゆえ、感情の強固な人間はまた多くの場合性格も強いものである。

  さて一戦争あるいは一戦役全体の最高司令官と、これに直属する諸司令官とを比べてみると、その間には極めて深い断絶がある。というのは、後者は直接指揮監督されているために、自分独自の精神的活動の領域が非常に狭められているからである。
(中略)

  すでに述べてきたように、下級指揮官にしても、彼が優秀な人材となるためには、優れた精神的能力が必要であるし、それも地位が高まるにつれて、その必要性も大きくなってくるのであるが、これをもって考えてみても軍隊の二流の地位にあって一応の名誉をもっている将官についての世間の見解は、まったく間違っていると言うべきだろう。彼らは一見博学者や文筆家や外交関係の政治家などに比べて単純な人物に見えはするが、だからといって彼らの活動的理性がもっている卓越した性質を見誤ってはなるまい。もちろん時には、下級の地位にあった時に獲得した名声によって身分不相応の高位に進み、そこで無難に務めているので馬脚を露わさずにすんでいるような人物もいるにはいる。このような人物がいるために、その地位にはその地位なりの人格が必要である、ということの理解が一般に妨げられているのである。

  したがって、戦争において卓越した軍功をたてるためには、下位から上位に至るまで、それぞれに非凡な天才が必要となる。しかるに歴史家や後世の人々の言によると、天才とは第一位にある者、つまり最高司令官の地位にあって抜群の軍功をたてた者を指して言っているようである。もちろん、この地位にある者にとって、その精神と理性の高さが要求される度合は、二流の者に比べてはるかに大きいことを考えれば、あながちそのような見方も不当と言えないのは事実であるが。戦争全体、あるいはわれわれが戦役と呼んでいる最大の軍事行動を輝かしい勝利に向けて推進していくためには、高次の国家関係を洞察する大いなる見識が必要である。戦争推進と政治とがここで合体し、最高司令官は同時に政治家であらねばならないこととなる。
(中略)

  すなわち、最高司令官は同時に政治家となるが、それとともに彼は常に軍人であることをやめてはならない、と。なぜなら、最高司令官たる者は、一面で全国際諸関係を把握していなければならないとともに、他面では自分の行使し得る手段でもってなし得る事業の範囲を正確に知っていなければならないからである。

  しかしながらこの場合、諸関係は極めて多様であり、かつその境界も定かではないために、最高司令官にとっては非常に多くの要因を一度に考慮しなければならないことになる。あまつさえこれらの要因の大部分はただ蓋然的にしか知り得ないものであるので、もし最高司令官にしてこれらすべての要因を明晰な精神によって即座に把握するに非ざれば、諸々の考察や反省が紛糾錯綜し、もはやいかなる判断も下せないことになってしまうだろう。
(中略)

  最高司令官にとって必要な精神的能力とは、統一力と判断力とであって、それが発展して驚くべき洞察力ともなり、それが飛翔するに及んで数千の不明瞭な諸観念に触れ、たちまちこれらを解決してしまうものである。これに反して凡俗な理性の持主は、苦労して漸くそれらに照明をあてるのだが、そのために自分の力をすっかり出し尽くしてしまうものである。ところがこれら高次の精神的活動、つまりこの天才的眼力も、これまで述べてきた感情や性格の特性によって支えられているのでなければ、歴史にその名をとどめる事実とはなり得なかったであろう。


  それが単に真理であるというだけでは人間を動かす動機としては極めて弱い。それゆえ認識することと意欲すること、知っているということとできるということの間には大きな隔たりがある。人間の行動に最も強力な誘因となるのは常に感情であり、そして行動を最も強く維持するのは、もしこのような表現が許されるなら、いわば感情と理性の合金である。われわれがこれまで述べてきた決断力・頑強・忍耐・性格の強固さ等はすべてこれに属している。

  だが、これら高次の理性と感情との活動性が最高司令官に備わっていなければならないとしても、それが彼の活動の全体的成果によって立証されず、ただ俗世間的にそのような活動性が最高司令官に備わっているはずだと信じられているにすぎないだけなら、そのような最高司令官はおそらく歴史に名を留めることはできないであろう。

  軍事上の諸事件について世人が熟知していることはと言えば、普通極めて単純なことであり、また互いに類似したものである。それゆえ、もし単なる歴史家の伝えるものだけに頼っていたならば、その間克服されねばならなかった諸困難について知ることはほとんど不可能であるだろう。ただ時として最高司令官あるいはその戦友のメモワールなどのなかに、またある事件についてものされた特殊な歴史的研究の副産物として、全体を織りなしている多くの糸の一部分が明るみに出されていることがある。ところが多少重要な行動を起すにあたって、それに先立ってなされた熟慮煩悶の大部分は、故意に隠されているか、それとも偶然に忘却されているかのどちらかである。というのは、それが政治的利害関係にかかわるからということもあろうし、単に建築物の完成後に取り払わねばならない足場としてしか考えられていないということもあろうからである。

  最後にわれわれは、高次の精神的能力についてこれ以上の分析を試みることなく、ただ通俗的に用いられている区別に従って、いかなる種類の理性が軍事的天才にとって最も役立つかを見ようと思う。理論と経験とに照して、われわれは次のように言うことができるだろう。すなわち、戦争にあたってわれわれが自分の子弟の生命、祖国の名誉と安全を託し得るような人物は、創造的頭脳の持主というよりはむしろ反省的頭脳の持主であり、一途にあるものを追い求めるよりは総括的にものを把握する人物であり、熱血漢というよりは冷静な理性の持主である、と。



第六章 戦争における情報

 そもそも情報とは、敵軍と敵国についてのわれわれの全知識のことであり、したがってまたわれわれの想定と行動の基礎となるものである。今この基礎の性質、つまりその不確実で変化し易い性質に想いをはせるならば、戦争という建築物がどれほど危険なものであり、どれほど崩壊し易いものであり、どれほどまたわれわれをその廃墟の下に埋め尽し易いものであるかを感ぜずにはいられないであろう。――実際、確実な情報でなければ信用してはならないとか、自分を信頼することなく濫りに情報だけを信じてはならないとかということは、どの書物にも見られる言葉であるが、このようなことは所詮は貧弱な書物の上だけでの慰めであり、体系を樹で、概要を書くことを趣味にしているような輩が、自分の蒙昧を押し隠すために吐いた方便の言葉にすぎないのである。

  戦争中に得られた情報の大部分は相互に矛盾しており、誤報はそれ以上に多く、さらにその他のものといえど大部分何らかの意味で不確実ならざるを得ないはずである。そこで将校に要求されるものは、事物と人間に関する知識であり、それらに基づく一定の識別力である。しかも彼はこの識別をただ蓋然性に頼ってのみ遂行しなければならないのである。

机上において、あるいは真の戦場以外において作成される最初の作戦計画のなかで、すでにこの困難さは少なからず感じられるのであるが、情報が相乱れて入ってくる戦争の混乱のさなかにあっては、この困難さは測り知れないほど大きくなってくる。それらの情報が相互に矛盾しながらも、ある均衡を生じ、批判的吟味を要求するような余地があれば、まだしも幸いである。

ところが、多くの情報が相互に袖足し合い助長し合って、イメージを一層鮮明なものに着色し、一気に決断へと急がせるような場合は、批判的吟味が忘れられているだけに、一旦それらすべての情報が虚偽、誇張、誤りなどであったなどとわかるや、今までよく吟味もせずに信じ切っていた者は窮地に陥り、まったく愚か者であらざるを得なくなる。一言でいえば、大抵の情報は間違っていると思って差支えなく、しかも人間の恐怖心がその虚偽の傾向をますます助長させるもととなるのである。けだし一般に誰でも善いことよりも悪いことを信じたがる傾向をもち、その悪いことも必要以上に拡大して信じたがる傾向をもっているからである。

このような仕方で伝えられる危険についての情報は大抵虚偽のものか誇大なものであるが、それはまるで大海の波のように一度は崩れ去っても、何の原因とも知れないまま再び高く盛り上ってくるものである。そこで指揮官は波がぶつかって砕け散る岩のごとく、自己の内的見識を固く信じて事に当らなければならない。彼の任務は決して容易なものではない。生まれつき冷静な素質を備えている者や、戦争の経験に慣れ、判断力を養い得た者などは別として、一般に指揮官は、虚偽の情報に惑わされんとする傾向と闘って徒に恐怖に陥ることなく、自分の内的見識を確信しつつ、事態の希望に満ちた側面を見るように心がけなければならない。彼はそうすることによって初めて均衡を得、正当な判断を下すことができるようになるだろう。

もともと事態の真相を看破することの困難なことは、戦争の諸障害中最大なものの一つであるが、指揮官は一事態にあうごとに、それがかつて考えていたものといかに異なるかを思い知るだろう。そして、一般に感覚から受ける印象は厳密な計算によって作られた観念よりも強力なものなので、多少とも重大な事業を遂行しようとするとき、古来いかなる指揮官もその遂行の当初にあたって常に新しい疑惑と闘わねばならなかったのである。それゆえ、他人の人知恵に左右され易い凡庸な人間は、いよいよ事を遂行するにあたって、事態が当初の想定とは異なるのを見て躊躇してしまうものである。しかも凡庸な人間というものは、もともと他人の入知恵に左石される弊害をもっているだけに、その程度は一層烈しいものとなる。

もっともこのような状況においては、自ら計画を立案した者でも、今や事態を目撃するに及んでは、容易に自分のそれまでの計画に疑念をはさみがちである。したがって、このような状況においてはなおさら指揮官たる者は、堂々と自分の信念に自信をもち、もって目前の幻影を排除しなければならない。この種の恐るべき危険の幻影は、いわば大道具によって描き出された舞台の前景のようなものであって、この物々しい大道具が取りのけられて初めて、視界は忽然として開け、自己の最初の計画も滞りなく展開するものである。

――これが、計画と実行との間にある一大飛躍というものである。



第二部 戦争の理論について

第二章 戦争の理論について

13 これらの諸理論はすべて天才を常軌を逸したものとして度外視してきた

  このように、貧弱な知識による一面的考察をもって理解し得ないものは、すべて学問の埓外にあるものとして放棄され、天才の領分に属するものとして扱われてきた。けだしこの種の論者からみれば、天才とは常軌をもっては律し得ないものなのであるからである。

  たとえ今ここに法則があったとしても、天才の用には供するに足らず、また天分ある者は傲然とこれを無視し、甚しい場合は嘲笑をしか返してもらえないような、そのような法則を甘んじて遵奉しなければならない軍人こそ惨めであろう。しかしまた考えてみるに、天才の軌跡こそ最も優れた法則でなければならないはずである。そして理論とは、天才がいかなる方法で、いかなる理由で天才であるのかを全力を挙げて究明するものであるとさえ言えるだろう。

  精神を無視し、これと対立するような理論もまた惨めである。この矛盾は、その理論がいかように謙虚な態度に出ても掩い隠し得るものではない。いやそれが謙虚であればあるほど、ますますその理論は嘲笑と軽蔑とを受け、現実の活動から追われて行くことになるであろう。

24 第三の特性、諸事実の不確実性

最後に、戦争においてはすべての事実が極めて不確実であるということも、戦争にとって独特な困難さの一つである。ここではすべての行動が、かなり輪郭のかすんだ薄明の境で行われねばならない。それはちょうど、霧のなかや月明りのなかで物を見るようなものである。このように確実性に乏しく完全な洞察をなし得ない事柄は、才能によって推察されるか、偶然的幸運に委ねられねばならない。つまり客観的知識の不足を補うためには、才能か偶然的幸福に頼らざるを得ないこともある、ということである。

26 しかし理論を構成するために道がないわけではない

しかし地位が上昇するにつれて諸困難は徐々に増加してゆき、最高司令官ともなれば、すべてのものが天才に委ねられねばならぬほど困難さは測り知れないものとなる。
(中略)

理論的法則を構成することの困難さは、戦術においてよりも戦略においての方がはるかに著しい、と言うことである。

40 名将たる修業に多くの歳月がいらず、また最高司令官が学者である必要のない理由

  それまで別の仕事をしていた人が一旦戦争になるや忽ち将校となり、さらには最高司令官ともなって登場し、偉大な功績を打ち樹てることがあるのは歴史上しばしば見られる事例であるが、
(中略)

また古来から優れた最高司令官が博識で教育ある将校から生れることなく、たいていの場合その境遇上多くの知識を修得する暇がなかったような人々の間から生れることが多い(以下略)。
それゆえ、未来の最高司令官を育成するために、末端までの詳細な知識が必要であるとか有用であるとか言う輩は常に笑うべき衒学者としてあしらわれてきた。このような知識がかえって害になるだろうことは容易に証明できるだろう。なぜなら人間の精神というものは、己れに授けられた知識と思想によって育成されるものだからである。いやしくも自分に授けられたものを自分に関係ないものとして排斥してしまうのでない限り、人は大いなるものを授けられれば大器となり、小さいものしか授けられなければ小器にとどまる以外にはないことは自然の理と言うものである。

41 従来の矛盾

戦争に欠くべからざる知識はこのように単純なものでこと足りることを従来の人々は理解せず、この知識をことさら末梢的な知識や技能と混同してきた。その結果、理論が一旦現実世界の諸現象と衝突するような事態に当面するや、すべてを天才に委ねてしまい、天才は理論を必要としないだの、理論は天才のために書かれるべきではないだのと説明する以外に手はなかったのである。

42 かくて人々は知識の効用を否定し、一切を天賦の才能に帰してしまった

 常識的にしか物を考えることのできない輩は、偉大な天才と博識な衒学者との間にあまりにも懸隔のありすぎることを感じ、一種の懐疑論に陥ってしまい、ついには理論など何ひとつ信じられないものだと主張し、作戦の能力など天賦の才能によるものであり、才能いかんによって作戦の成功不成功も決まるものだと思いこむに至る。このような放言も、あの末梢的な知識を後生大事にしている輩に比べたら、より真理に近づいていることは否定されるべきではない。

44 戦争の知識は単純であるが、その習得は必ずしも容易ではない

 戦争の知識はその取り扱う対象が少なく、しかも常にただその要点だけを把握すればよいのであるから、甚だ単純であると言うことができるが、その運用は決して容易であるとは言えない。軍事行動がいかに困難なものであるかは、すでに第一部で述べておいた。それらの困難のうち勇気でもって克服し得るものは問題外として、理性に基づく活動に関しては下級にあってなら単純かつ容易であるが、上級に昇るにつれてその困難の度が加わり、最上級つまり最高司令官の地位に至っては凡百の理性が遠く及ばない最も困難なものとなる。

45 いかなる知識が必要であるか

 最高司令官は博識の歴史研究家である必要はないし、また政治評論家である必要もない。彼に必要なことはせいぜい国政の概略に通じ、因襲的諸傾向、互いに交錯する利害関係、現在の諸問題、現在の諸人物等を知っていれば十分である。また彼は冷徹な人間観察家であったり、鋭利な性格分析家であったりする必要もなく、ただ己れの部下の性格、思想、品行、長所などをわきまえていればよいのである。さらにまた彼は車の構造や馬に砲車を引かせる方法等を熟知している必要はなく、その代わりさまざまな状況に応じて一縦隊の行軍に必要な時間を正確に測定することを知らなければならない。およそこれらの知識は学問的公式や体系によって得られるものではなく、事物を観察し世に処するにあたって、適切な判断力が働き、これらの事柄を把握すべき才能が鋭敏に働く時にのみ得られるものである。

 それゆえ、上級軍人に必要な知識は、特殊な才能による考察、つまり研究と熟慮によってのみ獲得することができる。この才能はいわば一種の精神的本能であって、ちょうど蜜蜂が花から蜜を吸い取るように、人生のさまざまな現象からそのエッセンスだけを採り出すのである。またこの知識は研究と熟慮とから得られるばかりでなく、日常生活からも得ることができる。確かに日常生活の豊富な教訓からではニュートンやオイラーのような人物を生み出すわけにはゆかないだろうが、コンデやフリードリッヒのような優れた軍略家を生み出すことはできるものである。

 それゆえ、われわれは軍事行動の精神的威厳を保つために、虚偽の説や愚劣な衒学趣味に足をとられる必要はないのである。古来、偉大な最高司令官にしてその精神の狭量なものはあった例はないが、これに反して下級にある間は目ざましい軍功を立てていても、高級の地位に昇るや、その精神的力量の不足のために凡々として終わってしまった人物の例は枚挙にいとまがない。いや、最高司令官の地位においてすら、その権限の広狭にしたがって精神能力の間に差異が生じてくるのは、おのずから明らかであろう。

46 知識は能力とならればならない

 ここにもう一つ念頭に入れておかねばならない条件がある。この条件は他のいかなる知識にもまして作戦の場合、特に重要なことである。というのは、作戦の知識はまったく精神のなかに同化してしまっていなければならないということであり、いささかでも同化されずに残っているというようなことがあってはならない、ということである。世上幾多の技術や活動を見るに、行為者はかつて学んだことがあるだけで、平生忘れ去ってしまっていた真理を塵を払って取り出しこれを応用することもできる。いや彼が平生手にしている真理ですらも、完全に己れの精神の外に置くこともできるだろう。例えばある建築家がペンをとりアーケードの礎石の抵抗力を算出したとしても、この答えは複雑な数式の結果であって決してこの建築家の精神の表現ではない。彼は苦労の末漸く材料を選び出すや、これを理性の操作に委ねなければならない。ところでこの理性の操作法にしても彼の発見によるものではなく、また操作の過程でこの操作法の必然的であることを意識しているわけでもない。大部分彼はただ機械的熟練に身を委ねているにすぎないのである。しかし戦争にあってはそうではない。ここでは行為者は、精神上の諸反応や諸事物の形態の不断の変化等を処理しなければならないので、その知識の全体をいわば精神的装置として常に自分の内部に保持していなければならないのである。つまり戦争における行為者は、いかなる場合に当面してもとっさの間に己れの能力によって決断を下さなければならないということである。言い換えるならば、戦争における行為者の知識は精神および生活とまったく同化して真の能力とならなければならないのである。このことが一見名将の行動を極めて容易なものに見せ、一切が天賦の才能のしからしめるものであるかのごとくに思わせる所以である。ここで天賦の才能というのは、もちろん研究や熟慮によって育成された才能でないもののことを指しているのは言うまでもない。

  以上の考察によって、われわれは作戦の理論を明らかにし、その解決の方法を指示し得たと信じている。

  われわれは作戦について、これを戦術と戦略に分けたが、すでに述べた通り、このうち戦略に関する理論の方が戦術のそれに比べてはるかに困難であることは疑うべくもない。なぜなら、戦術はその対象の範囲が極めて限られているのに反して、戦略は直接講和をもたらす諸目的の方面に可能性が無限に広がっているからである。そしてまた、この目的を怠りなく追求せねばならぬ者こそ最高司令官であるわけであるから、戦略のなかでも最も困難な問題が常に最高司令官の背にかかっているということになる。

  それゆえに戦略の理論、なかんずくその最高の事業に関するものは、戦術の理論に比べて単に事物の観察に終始し、もって交戦者が事物を洞察する際の手助けをするだけで満足しなければならぬ場合が多い。とはいえこのような洞察が全思考力と融合するなら、彼の動作は以前にもまして軽快かつ確実になり、彼自身己れの精神と何の関連もない単に客観的な事実真理に身を屈することはなくなるであろう。



第八部 作戦計画(草案)

第六章 [戦争と政治]

 これまで、戦争の本質と個々人や社会団体の利害との軋轢を、対立するこの二要素のいずれをも軽視しないよう、その両面から概観してこなければならなかったが、この軋轢はもともと人間自身のうちに根ざすものであって、哲学的知性をもってしても解き難いものなのである。ところで次にわれわれは、実際の活動上、この矛盾する二要素が部分的に相殺され、統一されている面を研究してみようと思う。われわれがこの統一をこれまで問題にしてこなかったのは、その前に上の矛盾を明確に描き出し、種々の要素をばらばらに考察しておく必要があったからである。ところで、この統一とは、戦争が政治的取引の一部にすぎず、したがって、決して独立のものではない、という概念のうちに求められる。

  むろん今日誰しも、戦争が政府や国民の政治的関係によってのみ生ずるということを知っている。しかし普通、人は、戦争とともに政治的関係が中断し、独特の法則に従うまったく別の状態が発生するものと考えている。

  これに対して、われわれは、戦争とは他の手段をまじえて行なう政治的関係の継続以外の何ものでもない、と主張する。ここにわれわれは、他の手段をまじえて行なう、と書いたが、これによって主張せんとしたことは、この政治的関係は戦争そのものによって中断したり、まったく別のものになったりしはしないということ、むしろ、その用いる手段こそ違え、政治的関係は本質的に不変であるということ、そして、継起する軍事的事件を繋ぐ主要な流れは、開戦から講和に至るまで切れ目なく続く政治の姿にすぎないということ、なのである。それ以外に一体何か考えられるというのか。そもそも、外交的文書が途絶えたからといって、その都度、諸国民諸政府の政治的関係も途絶えてしまうものであろうか。戦争とは要するに政治的関係を別種の文書や言葉で表現したものにすぎないのではなかろうか。戦争には確かに独自の方法はある。しかし独白の論理などは決してありはしないのである。

  それ故、戦争は決して政治的関係から切り離し得ないものであり、もしそれを切り離して考えるならば、関係のあらゆる糸は切断され、戦争は意味も目的もないものとならざるを得ないだろう。

  この考え方は、戦争が完全に戦争であり、敵意の剰す所なき発露である場合にも、欠くことのできない原則である。なぜなら、戦争の基礎をなし、その主要な方向を決定する一切の事柄、例えば、彼我の兵力、両国の同盟国、両国民や両国政府の性格等、第一部第一章において述べられたところのものは、すでに政治的性質を有し、全政治関係と不可分に結び付いているからである。―‐さらに、戦争がその概念通りに首尾一貫したものでも、極端にまで力を押し進めるものでもなく、中途半端なもの、自己矛盾を合むものであること、戦争そのものがそれ自体の法則にだけ従うことはあり得ず、ある全体の一部と見なされねばならないこと、そして、この全体がすなわち政治そのもの以外の何ものでもないということを考えれば、右の考え方は二重に不可欠となるはずである。

  戦争が政治の手段として用いられると、戦争の本質に由来する一切の必然的な結果は回避され、終局的な可能性は軽視されて手近な蓋然性だけが問題となる。こうして全行動は極めて不確実となり、戦争は一種の遊戯と化する。かくて各国政府はこの遊戯における老桧さと明察力とでもって敵を凌駕することに誇りを感ずるに至るのである。

  それ故、政治は戦争から一切の苛烈な要素を剥奪して、これを単なる手段と化してしまう。会戦は本来、両手で満身の力をこめて振り上げられ、一度限りに打ち下される恐ろしい巨剣であるべきはずであるが、それが政治の手にかかると、突き、洋撃、ひっぱずし等を行ない得る軽便自在の細剣となり、時には稽古用試合刀ともなってしまう。 激烈な戦争の本性と天性臆病な人間の本性との矛盾は、もしそれを解決と呼び得るとするならば、このようにして解決されているのである。

  戦争が政治に所属する場合には、政治の性格を受け入れることになる。政治が大規模かつ強力になれば、戦争もまたそのようになり、遂にはその絶対的形態に達するほどになることもある。

  したがって、上述のような考え方をしたからといって、戦争の絶対的形態を無視する必要はなく、むしろ、この姿を絶えず背景に思い浮べておく必要があるといった方がよいであろう。

  このような考え方を通してのみ戦争は再び統一性をとりもどし、一切の戦争は単一種類のものとなり、判断には正しく精確な立場と視点とが与えられてくるのであって、大計画はそうしか立場や視点から企画され判断されねばならない。

  むろん、政治的要素は戦争の些末事にまで深く漫透しているわけではなく、例えば、騎馬哨兵の配置や斥候の派遣が政治的配慮に基づいてなされるわけではない。しかし、全戦争、一戦役、そしてしばしば一会戦に対してさえも、政治的要素の影響力は決定的なものがあるものである。

  個々の問題を論ずる場合には、この視点はあまり役に立たなかったであろうし、かえって、注意を散漫にする怖れさえあったであろう。これ、われわれがこの視点を最初から直ちに提示し得なかった理由でもある。だが、戦争計画や戦役計画を論じる際にはこの視点は必要不可欠のものとなる。

  そもそも人生において最も重要なことは、ものを把握し判断するのに必要な立場を正確に突きとめ、それを厳守することである。なぜなら、一つの視点を得ることによってのみ多様な現象は統一的に把握されるものであるし、視点の単一性のみが矛盾の発生を防ぎ得るからである。

  同様に、作戦計画の作成にあたっても、あるいは兵士の眼で、あるいは行政官の眼で、あるいは政治家の眼でものを見るといった多くの視点からの観察などは許され難いことである。とするならば、およそ一切の他の立場を支配する視点は必然的に政治の立場であろうか、という問が生じてくる。

  政治は内政上の一切の利害、また個人生活の利害や哲学的に考えられる利害をも統一し、調和させるものであるということ、これがわれわれの前提である。なぜなら、政治はそれだけでは意味のないものであり、これら一切の利害の代弁者として他の国家に相対するものにすぎないものだからである。政治が誤った方向をとり、名誉心、私的利害、政務官の虚栄心の道具となる場合もないではないが、ここではそれらを考えないことにする。なぜなら、兵術の書が政治に訓戒を垂れるなどということはもってのほかのことであり、ここでは政治を全社会の一切の利害の代弁者と考えるほかはないからである。

  すると残る問題は、作戦計画立案の際に、政治的立場は純粋に軍事的な立場(そういうものが考えられるとして)に道を譲るべきか、つまり、その前にまったく消滅してしまったり、それに従属してしまったりすべきものであるのか、それとも、政治的立場があくまでも支配的であり、軍事的立場こそがそれに従属すべきものであるのか、という問題だけである。

  戦争とともに政治的視点が完全に消滅するといったようなことは、戦争が敵意にのみ由来する生死の闘争である場合にしか考えられることではない。だが、ありのままの戦争を見れば、それは、すでに述べたごとく、政治そのものの表現にほかならないことがわかるであろう。政治が戦争を生み出す以上、政治的視点が軍事的視点に従属するなどということは矛盾も甚だしい。政治は頭脳であり、戦争は単なるその手段であって、その逆ではない。したがって、軍事的視点が政治的視点に従属する場合しか考え得ようがないのである。

  現実の戦争の性質を考え、本部第三章において述べておいたこと、すなわち、あらゆる戦争を理解するには、何よりもまず、政治的な諸力や諸関係によって与えられるその性格や主要な輪郭を推測しなければならないということ、そして、しばしば、いや今日では、ほとんどの場合、戦争は一つの有機的全体であり、個々の部分は全体から切り離しては考えられないということ、したがって、あらゆる個別活動は全体に合流し、全体の理念によってのみ規定されるべきであるということ、これらのことを想い起せば、戦争を指導し、戦争の基本線を規定する最高の視点が政治のそれ以外にはあり得ないことは、完全に確実かつ明瞭になることと思う。

  このような立場に立つとき、作戦計画は完全なものとなり、史上のそれに対する理解と判断とは一層容易かつ自然となり、確信はいよいよ強固となり、動機は言切満足すべきものとなり、かくて歴史は一層理解し易いものとなる。

  またこのような立場に立つとき、政治的利害と軍事的利害との衝突は少なくとも本質的には存在しなくなり、したがって、それが生ずれば、洞察が不完全なためにのみ生じたものと見なされることになる。政治が容易に成就できない要求を戦争に課すようなことがあれば、それは、政治はそもそも己れの利用し得る手段の範囲を知っているはずだ、という当然すぎるほど当然なわれわれの立論の基礎となっている前提に反することとなる。ところで政治が軍事的諸条件の経過を正しく評価している場合には、戦争の目標に適しか事件や方針を決定するのはまったく政治の任務であり、また政治のみの任務でもあることになる。

  一言にして言えば、兵術は、最も高い立場に立ってこれをみるとき、政治となる。ただし、外交文書を交す代りに会戦を交すところの政治となるということである。

  この見解からすれば、大軍事事件やそれに対する作戦については純粋に軍事的な判断が可能である、といった主張は許されないばかりでなく、有害でさえあると言えよう。実際、戦争計画立案の際に軍人に諮問し、内閣の行なうべきことについて純粋軍事的に批評を求めようとするのは、不合理なやり方である。しかも、既存の戦争手段を最高司令官に委託し、この手段に応じて戦争あるいは戦役の作戦が純粋軍事的にたてられるべきであるとする理論家諸氏の要求に至ってはその不合理さを評すべき言葉がない。一般の経験からしても明らかなごとく、今日のごとく複雑にして発展した戦争にあっても、戦争の基本線は常に内閣によって、専門的に言うなら、軍事当局ではなく、政務当局によって決定されるべきものである。

  右のことは完全にものの道理にかなっているというべきである。けだし戦争のための主要な作戦計画のどれ一つとして、政治的関係の洞察なしに立案され得るようなものはありはしないからである。したがって、政治が戦争の遂行に有害な影響を及ぼすなどという非難はその言い方を誤っている。もし非難されるべき事態があるとすれば、それは政治そのものなのである。政治が正しくその目標にかなっていれば、それは必ずや戦争に有益な影響を及ぼさずにはいない。この影響が目標から外れていれば、その原因は政治の不正のうちにこそ求めらるべきなのである。

  ただ、政治がある軍事的手段および処置に対して、誤った、その性質に合致しない効果を期待する場合だけは、この規定づけによって戦争に有害な影響を及ぼし得る。外国語に習然していない者は時に正しい考えを抱いていながら、それをうまく表現できないことがあるが、それと同様に、政治もしばしばその本来の意図に合致しない処置をとることもあるのである。

  実際このような事例は枚挙にいとまがなく、これを見ても、政治的関係の運用には軍事についてのある程度の理解が是非とも必要なことがわかる。

  しかし、論述を進めるに先立って、容易に起り得る誤解を防止しておかねばならない。われわれは、君主が直接に政治を執っていない場合には、文書に埋まった陸軍大臣、学識ある軍事技術者、あるいは戦争に優れた才能を発揮する軍人などの人々こそが、最上の首相たり得るなどと考えているわけではない。一言で言えば、軍事に対する洞察などは首相にとっての主要な特質ではなく、視野の広い卓抜な頭脳、強固な性格こそ彼のもたねばならぬ主要特質なのである。軍事に対する洞察などは何らかの方法によって十分補うことができるものである。ペルイスル兄弟およびショアズール公爵はともに優秀な軍人であったが、それにもかかわらず、彼らの治下におけるフランスほど軍事的政治的行動が拙劣であったことはなかったではないか。

  戦争は政治の意図に完全に合致すべきであり、政治はその手段たる戦争に無理な要求を押しつけるようなことがあってはならないとすれば、政治家と軍人とが同一人のうちに体現されていない限り、とるべき手段はただ一つしかない。すなわち、最高司令官を内閣の一員として、主要な評議や決議に参加させることである。だが、これもまた、内閣、すなわち政府自体が戦場の近くにあって、事柄を遅滞なく処理し得る場合にのみ可能なことである。

  これは一八〇九年にオーストリア皇帝が試み、一八一三年、一八一四年、一八一五年に連合軍の君主連が試みたことであって、その効果は完全に立証されている。

  最高司令官以外の軍人が内閣に影響を及ぼすのは極めて危険なことである。それが健全で有用な行動を生み出すことは滅多にない。一七九三年、一七九四年、一七九五年にカルノーがパリにあって諸軍の軍事行動を指揮したような例は徹頭徹尾非難されねばならない。というのは、テロリズムは革命政府だけがなし得ることだからである。(中略)

  それ故、ここで、戦争は政治の手段であるということを繰り返して言っておきたい。戦争は必然的に政治の性格を担わねばならず、その規模は政治の尺度で測られねばならない。したがって、戦争の遂行はその大筋において政治そのものである。政治はその際ペンの代わりに剣を用いるが、それだからと言って、政治はそれ独自の法則に従って考えることを止めはしないのである。





プロイセンと現代日本とをそのまま重ねることは出来ないけれど、それでもいくつかの示唆をクラウゼヴィッツは与えてくれる。
首相にとっての主要な特質は、視野の広い卓抜な頭脳、強固な性格、である。




ジョン・H・アーノルド『歴史』▼

・歴史とは、過去に関する真実の物語から構成された、ひとつのプロセスであり、議論である。

・現代の歴史家が行なうべき三つの徳目とは、批判力に富むこと、疑い深いこと、妥当な推測を行なうことである。

・歴史家が過去におけるすべての事件を語ることは不可能であり、その中のほんの一部を語ることができるにすぎない。

・何について語ることが可能であり、あるいは何について語らねばならないのか、歴史家は決定を求められる。

・「歴史」(歴史家が過去について語る真実の物語)は、関心をとらえ、現代においてふたたび語ろうと決めたことだけからできている。

・歴史家が真実の歴史を選びだす際の理由づけは時代によって変化する。

・過去をそのままのかたちで提示するだけではなく、解釈する必要がある。

・物語のコンテクストを見つけだす作業は、「何か起こったか」を述べるだけでなく、何を意味するかを述べようとする試みである。

・歴史家は、みずからの関心、道徳、倫理、さまざまの信念、世界の働きや人びとがある行為をなす理由をめぐる自分自身の考え方にしばられている。

・「推測」という言葉は、歴史記述のプロセスがある程度の不確実性を含んでいることを示唆している。

・歴史家はつねに「過ち」を犯す。完全に「正しい」ことなどありえない。あらゆる歴史の説明は空白部分や問題点、矛盾や不確実性を抱えている。つねに他人と同じ意見をもつわけでないという理由からも「過ち」を犯す。他の意見をもつ人からみれば「過ち」を犯しているのだ(ときに歴史家がある事柄の解釈についてグループを形成することもある)。

・過ちを犯しつつも、歴史家はつねに自分の記述を「正しい」ものにしようと試みている。史料が実際に示しているものに忠実であろうとするし、何が起こったかを完全に理解しようとして、利用可能な資料をすべて見つけだそうと努力する。

・歴史は史料を取り扱い、それを提示し、説明を行なうにあたって想像力を用いる作業である。

・歴史家にとって重要なことは、実際に何か起こったかであり、そしてそれが何を意味するのかということである。

・疑念は「歴史」が存在するためには不可欠である。

・歴史が「真実」であると言えるのは、それが基づいている事実つまり史料と矛盾していないときで、そうでない場合には、なぜ「事実」が間違っており、修正する必要があるかを示さねばならない。

・読者を(さらには自分自身を)説得する作業を行なうという意味において、歴史とは「物語」である。

・過去それ自体は語りの形式をなしてはいない。全体とすれば、それは人生そのもののように、まとまりを持だない混沌とした複雑な存在である。

・過去が現在にふたたび割りこんでくるとき、それは強力な位置を占める。

・「歴史」について考えるとは、歴史とは何のために――あるいは誰のために――あるのかを考えることである。

・歴史そのものを「歴史化する」ために、歴史は何に源を発し、どこから始まり、どのように変化したのか、さまざまな時と場所においてそれが何のために用いられてきたのかを考えるために、過去をふり返る。

・ 過去の歴史記述を、現在行なわれていることと対比するために、そして学問対象としての歴史が時代につれて変化してきた以上、それが将来ふたたび変化することもありうることを肝に銘じておくために用いる。

・すべての歴史は何らかのかたちでそれ自身の現在について何かを言おうとしている。

・戦争・国務・統治の適切な運営術に関して社会を教化するにあたっては、歴史が不可欠である。

・歴史は大きな力をもっている。その時代に歴史はひとつの役割を果たし、歴史は人びとにアイデンティティを与える。

・歴史家のセミナーでは、若い学生たちはそこで名の知れた学者を囲み、一次史料を直接扱うことを通して技法を学ぶ。教育予算が許すかぎり、このモデルが若い歴史家の職業教育の基礎をなしている。

・目の前にある資料が偽造ではないことを確かめなければならない。

・「偏向」(著者の偏見とそれがもたらす記述の歪み)を探しだす作業は、「偏向のない」立場の存在を暗に主張することにつながりかねない。かりに「偏向」とは個人のもつ独特の考え方を含む概念だと考えるとすると(現にそういうものであるはずだが)、「偏向をもたない」文書など存在しないことになる。

・発見された「偏向」が「捨て去られる」べきものではなく、逆に利用できるものだということであり、「偏向」は探しだして根絶やしにすべき何かではない、追いかけて大切にすべきものである。

・文書が示してくれるもの、示してくれないものについても考えてみる必要がある。それが何を言っているかを考えるのと同様に、何を言っていないかをも考えなければならない。

・資料が示すものと、沈黙している部分と、湧きあがってきた関心を組み合わせることによって、探究の方向―出発点から進んでゆく道筋―を決める。

・利用可能なすべての文献を使って自分の目的に合致する箇所を探す退屈でつらい作業が、歴史家がやっていることの一端である。歴史の研究という作業のひじょうに多くの部分が退屈であり、歴史家の能力のひとつはその退屈にもめげずに作業をつづけ、ごく稀な発見の瞬間を待ち望むことである。戦争とは、瞬間的な熱狂がときおりめぐってくる長い退屈な時間であると言われることがあるが、歴史研究も似たようなものである。

・ほとんどの歴史家は史料館にあるオリジナルの文章資料と同様に、出版された資料集も利用する。たいていの場合、オリジナルの文章を見るのが最良であるのは確かだが、それはしばしば時間と忍耐と研究助成金の枠を越えた願いである。ともあれ出版された版を見ることにもそれなりの見返りはある、誰かほかの人が退屈でつらい仕事の大部分を肩代わりしてくれ、みずみずしい果実を素引からもぎとってもよいということだから。

・資料は馬鹿正直に分かりやすく書かれたものではない。それは特定の状況において、特定の読み手のために書かれたものである。

・ある時点で資料は語ることを止める。そこからは歴史家が推測を始めなければならない、それが文書の解釈である。

・それらを補強するものとして史料を利用することができるのは確かだが、橋を作った役割を否定してはならない。歴史家はそうした小さな橋を作る必要がある、しかしそこに橋をかけだのが誰であり、なぜそうしたのかを忘れてしまったり、それぞれの橋でわずかながらも通行料が要求されるという事実を無視することは不可能であるし、無視すべきでもない。それを支払うことによって、望みどおりの道筋を歩きつづけるかわりに、それ以外の道を閉ざしてしまったり通行不可能にしてしまったりする可能性もある。

・最終的には選択を行なわなければならず、進むべきひとつの道を、足元のしっかりしたひとつの推測を決めるしかない。

・推測は推測でしかない。あまりに多くの仮定を積みかさねすぎると、道に迷ってしまう。

・資料が「おのずから語る」わけではない。資料は他者に代わって、この世を永遠に去ってしまった者に代わって語る。

・資料がさまざまの声をもつこともありうる―複数の声というところに注意してほしい―それは進むべき方向のヒントを与え、考えるべき問題に気づかせてくれたり、さらなる資料へ導いてくれたりする。しかし、資料がみずからの意志を持っているわけではない。歴史家がそこに生命を吹きこむ。

・資料は出発地点のひとつにすぎないが、歴史家はその手前から存在し、みすがらの技能を使い、選択を行ないながらその先へと進んでゆく。なぜこの文献であって、他のものではないのか。なぜこれらの証書であり、他の証書ではないのか。さらには、なぜ裁判記録ではなく、証書を調べるのか。日記ではなく、政府文書を調査するのはなぜなのか。どの問題を追いかけるのか、どの道筋をたどるのか。そこで、他の例はないかと探し始めることになる。このようにして新たな物語が始まる。出発点が、資料のさまざまな声と歴史家の関心の間にあるどこかにできあがる。

・歴史家は単に「史料館から報告を行なう」わけではない。そのようなことをすれば、まったくの嘘ではないとしても、真偽のあやふやな混乱した話を繰り返すのが関の山だろう。資料は馬鹿正直ではない、その声は特定の目的、特定の効果をねらって語られている。それらは過去の現実を映す鏡ではない、それ自体が事件である。

・つねに新たな疑問が湧きあがってくる。一番の理由は、そこに空白、省略、沈黙があることである。資料は語ってくれないし、すべてを教えてくれるわけでもない。あるフランスの歴史家が最近言ったように、それこそが歴史の不可能性であり、可能性でもある。つまり、歴史は完全な真実を求めるのだが、無数の不明点が必ず残されてしまうために、決してそこにたどり着くことはない(真実の物語がありうるのみである)。しかしその問題こそが、過去を自明の真実とするかわりに、研究すべき対象とすることを可能にするのであり、より正確には研究することを要求しさえする。

・歴史の出発点のひとつは資料であるが、資料のなかの空白、あるいは資料と資料の間の空白にも出発点はある。

・ものごとは脅威にさらされることによってより明確に見えてくることがある。

・歴史が可能となるためには、資料を必要としているが、同じく沈黙をも必要としている。

・総合という作業はつねに何かを沈黙させてしまう。総合は有用であるし、不可避でもある―しかし、それはあくまでも「真実の物語」なのであって、真実のすべてではない。

・すべての歴史は暫定的である。それは手に負えないほどの複雑さを前にして何かを述べようとする試みである。

・歴史家はみすがらの解釈が物語を語る唯一の方法であると絶対に主張してはならない。あれこれの歴史が不完全であるからといって、それを軽視してはならず、歴史に許された真実の物語として受け止めねばならない。

・歴史とは、みずからは選択できない環境の下にある人びとによって作りだされる。彼らは、それぞれが営む人生を通じて環境に影響を与える。「環境」、「歴史」、「人びと」は別々の存在ではない。それらは共に進んでゆき、ひとつのバターンを取り出してくれる歴史家を待っている。

・すべてがとは言わないまでも、ほとんどすべての出来事は、結果を見通せないままに、ある目的を達成しようとする人びとの行為の結果として起こる。

・人はみすがらの現在と結びついた理由から、みすがらの現在と結びついた環境のなかで行為を行なう。しかし人がなすことは、さざ波をたてながら、今という瞬間を超えて、他の無数の人生から放たれたさざ波と出会う。そして、それらのぶつかりあう波によって作られた模様のどこかに、歴史が生まれる。

・歴史家は過去の言語がもっているニュアンスに敏感でなければならない。

・時代の言葉は特定の集団の言葉なのであり、権力をめぐる争いと絡み合っている。

・異なる歴史物語を沈黙させる行為は2000年以上にもわたって実際に行なわれてきた。

・異なった考え方や心性を理解するためには原資料を注意深く用いなければならない。そのためには、それを書いた人物が意図しなかったようなやり方で、彼らが考えもしなかったような意味を読みとることが必要となる。そのような方法は現代の歴史家から「木目に逆らって読む」と呼ばれている。「木目」とは資料が要求する方向性と、そこに含まれる主張のことである。

・最終的には、歴史家には分からないが、事実と意味が反対の極に存在するというような主張はできないということ。いかなる「事実」も「真実」も、意味、解釈、判断という文脈を離れては語ることができない。真実とは合意に追するためのプロセスであるということ。「真実」(「真実の物語」として受け入れられるもの)は、他の人びとが、絶対にではないにしても、ともかく一般的に受け入れてくれなければ成立しない。

・歴史家は資料によって許容される範囲に忠実であり、その限界を受け入れなければならない。存在しない記述をでっち上げたり、みずからの語りと矛盾する史料を隠匿したりしてはならない。それらの規則に従っているだけでは過去が残しか謎を解き、出来事に関して一貫した明解な説明を生みだすことはできない。「真実」は人間の生活や行為の外側では起こらないということを受け入れたときにこそ、真実を―あるいは複数の真実を―その偶然がらみの複雑さを残したままで提示する試みを始めることができる。それに満たないすべての試みは、歴史家白身を、そして過去の声をともに失望させる。

・歴史とはひとつの議論であり、その議論がいくつもあることが変化の機会を与えてくれる。「これこそが唯一取りうる道である」とか、「物事はつねにこうだった」などと言う独断的な人に出会ったとき、歴史を引いて抗弁することができる。これまでにも行為の方向性はつねにさまざまあったし、さまざまな存在のしかたがあった、と歴史は異議を唱える手段を与えてくれる。





WWIIに関係した歴史に対する発言について

目的:中国の主張を無力化する
 中国は、力には屈するが道理には屈しない。
 中国は変化に乏しい。
 日本の強大化に対しては、中国は歴史問題のカードを切り続けることで対応する。
 中国は米国の覇権に挑戦しようとしている国であり、日本が完全に優位に立つことは可能性としてはあるだろうが、いつになるかは不明である。

目標:米英を日本側の主張に取り込む
 そのためには米英にとって不可欠な国家であること。

この問題は戦勝国である米英にとって微妙な問題である。




1999年11月(*8)
ブッシュ大統領(当時候補)が大統領選挙へ向けて行った外交演説の結び部分
「われわれは日本を打ち破った国である。その後食糧を配り、憲法を起草し、労働組合を奨励し、女性に参政権を与えた。日本人が受けとったものは報復でなく慈悲だった」

米英を刺激して中国側の歴史認識に立つことのないように、発言には注意を払うこと。
日本は敗戦国であり、戦勝国側に立つ中国に対して最初から劣勢であったという事実と、中国がこれまで歴史問題のカードを有効に使用し、優勢に立っていたことを認識する。



2005年5月7日
  ブッシュ大統領は7日、リガ市内で演説。ヤルタ会談を批判。
 (読売)

2005年5月16日
  小泉総理、予算委員会。
  「日本は戦後60年間、戦争に巻き込まれず、戦争もしていない。戦没者全般に敬意と感謝の誠をささげるのがけしからんというのは理由が分からない。軍国主義の美化ととらえるのは心外だ」
  (朝日)
「中国側は『戦争の反省』を行動に示せというが、日本は戦後60年間、国際社会と協調し、二度と戦争をしないという、その言葉通りの行動によって、戦争の反省を示してきた」
  「いつ行くか、適切に判断する」
  (共同)

2005年5月26日
  アーミテージ前国務副長官
  「日本人は歴史に向き合い、戦後60年間、世界の人々にとって模範的な市民だった」
 (毎日)


小泉総理の姿勢は防御的であるが、日本は現在のところ孤軍ではない。
日本はイラク戦争において米英を支持した。

防御は攻撃よりも容易であり、究極的には小泉総理の強固な姿勢の維持でこと足りる。


状況誤認からであれ、恐怖からであれ、怠慢からであれ、攻撃者がとるありとあらゆる躊躇的行動はすべてそのまま防御者の利益になる。
防御者が迅速かつ剛胆な力をもって防御から猛烈な反撃に転ずる時、これが防御の最も光を放つときである。
この問題は、小泉総理には秘策はない。戦略的に正しい。
敵のもっている諸手段を粉砕しあるいは略奪するのはただ攻撃行動によって可能であると思い込み、防御をもって錯乱弱劣を極めたものと見なすような浅薄な見解は排除してかまわない。
(参考:クラウゼヴィッツ『戦争論』 第六部 防御の項)

事象の包括的な観察は難しいが、可能な限り視野を広く保つ。
歴史に対する発言と最高意思決定者としての能力とを直接結び付けるのは誤りだ。

「笑うべき衒学者」「虚偽の説や愚劣な衒学趣味」「末梢的な知識を後生大事にしている輩」といった"歴史至上主義者"へのクラウゼヴィッツの言葉は、絶えることなく現在までを貫く。



 抗日宣伝に対して日本の政治の宣伝下手なぞ攻撃している一部のインテリゲンチャより、民衆の黙々たる鼻の方が、宣伝というものの性格について、もっと深く知っていると僕は思っている。この鼻は宣伝の巧い拙いなどを批評しないだろう。併し恐らく事変に関する政府の宣伝の拙いのは、この事変の抽象的な方針は明らかだとしても具体的な見通しについては、いろいろ曖昧たらざるを得ない結果であろう、と、この鼻は嗅ぎつけているかも知れないのである。又恐らく宣伝の拙さも一種の消極的な宣伝であり、政治家は沈黙すら宣伝に使う者であるくらいの事も、この鼻は口には言わぬが心得ているかも知れないのである。

昭和十二年―――― 一九三七 小林秀雄「宣伝について」



2004年5月22日。
この日から一つの沈黙が事態を支配している。
2004年5月22日を語る前に、最も関わりの深い2001年9月11日とそれに関連する事象について触れる。




2000年10月11日(*6)
アメリカ国防大学 国家戦略研究所(INSS)特別リポート「合衆国と日本:成熟したパートナーシップへ向けての前進」
  (通称「アーミテージ・リポート」)、公表。

総論
  アジアは、政治・経済・安全保障などさまざまな面で、アメリカにとってますます重要な地域となっている。日本、オーストラリア、韓国などはデモクラシーを実現しているが、中国は巨大な社会・経済変動の只中にあり、その行く先は不透明である。
  もはやヨーロッパでは大きな軍事紛争の可能性は少ないが、アメリカを巻き込んだ紛争は、朝鮮半島ならびに台湾海峡でいつおきても不思議ではない。
  インドとパキスタンの衝突も心配される。いずれの場合も、核兵器使用の可能性がある。
  第二次大戦後、日本は民主国家(デモクラシー)として地域の安定を形作り、信頼を醸成することに大きく貢献してきた。そして、日本との関係は、今かつてないほど重要になってきた。我々は、継続する米日関係のために六つの提言を行う。

漂流の時代から活性化の時代へ
  冷戦時代、米日の二国は、自由主義陣営のパートナーとして重要な役割を果たし、冷戦の勝利を勝ち取った。
  しかし、冷戦勝利の後に、米日関係は眼前の闘うべき相手を失ったためか、緊張感を失い、漂流し始めた。そして、90年代は経済問題を中心に米日関係は衝突を繰り返した。
  北朝鮮のミサイル実験によって、また台湾海峡の緊張により、米日は両国関係の重要性に目覚めた。しかし、米国は対中関係に重点を置いていた。米日対話は安保分野においては、北朝鮮に関するものだけだった。
  漂流の時代から、いまや米日同盟関係を活性化する時がやってきた。アメリカ人は、日本を無視・軽視せずに、日本の潜在力を高く評価する必要がある。

日本の若手政治家への期待
  日本では、自民党の力は過去十年衰え続けているが、野党もこれに代わる力をつけることはできなかった。
  財政官の「鉄の三角関係」の結束も拡散してきた。
  今の日本の指導層が本格的改革に取り組むとは考えられない。しかし、若い世代は経済力だけで自国の未来は切り開けないと考えており、彼らは国家主権への新たな尊厳に目覚めようとしている。
  日本におけるこれら若い世代の政治家の登場によって、米日関係を活性化するチャンスが生まれてきた。

強力な米日安全保障の構築
  21世紀に向けて、米日両国は早急に安全保障上の協力関係を構築しなければなれない。強力な米日同盟こそがアジアにおける紛争を未然に防ぐことができる。
  日本の集団的自衛権の否定は、米日同盟関係の重要な制限となっている。集団的自衛権の行使により、緊密で効果的な協力関係は可能となる。しかし、それを決定できるのは、あくまで日本国民だけである。
  米日両国は、大西洋における特別な同盟関係である米英関係をモデルにすべきである。そのために、次の七点が考慮されなければならないと思われる。

米国は「尖閣列島を含む日本防衛に強い責務を持つ」ことを明確にし、日本も対等な立場での同盟国となる。
安保条約を実質的に機能させるために、日本は「ガイドライン法案」に沿って国内制度を整備する。
米日両国の軍隊は緊密で具体的な協力関係を築かねばならない。国際テロや国際犯罪にも対応できるようにしなければならない。
現行法では、日本が国連維持活動に参加するに際し、あまりに多くの制限を設けている。日本はこの制限を取り払い、平和維持活動や人道的任務に参加するべきである。
危機に対応する機能を維持できるという条件つきで、沖縄を含む在日米軍基地をできるだけ削減すべきである。
米国は防衛関連技術を優先的に日本に提供するようにする。米日の防衛産業が戦略的提携関係を組むことを奨励する。
ミサイル防衛協力を推進する。
米日関係は「バーダン・シェアリング(負担の共有)」から「パワー・シェアリング(権力の共有)」へと前進するべき時がきたのである。

日本が必要としている情報に協力
  NATO諸国と比べた場合、米国は日本への情報共有を怠っている。情報面でも米日は緊密な協力体制を築かねばならない。
  CIA長官も、国家安全保障担当の大統領補佐官もこの点に留意すべきだ。協力関係の対象も拡大して、違法移民、国際犯罪、国際テロに対処しなければならない。
  米国は日本が必要としている情報(スパイ)衛星の開発を援助すべきだ。
  一方、日本は情報管理のための法的整備を行なう必要がある。

日本経済の繁栄は米日関係に不可欠
  経済的に健全な日本であってこそ、米日関係も健全であることができる。全アジアにおけるアメリカの国益は、繁栄する日本経済を通じて増大するのである。日本はアメリカの輸出先として第三位を占めている。
  不孝なことに、この十年は日本経済にとって停滞と不況の十年であった。1992年から99年にかけての年平均成長率はたったの1パーセントでしかなかった。
  市場開放と経済のグローバル化を受け入れてこそ、日本経済の持続的成長は可能になるだろう。規制緩和と貿易障壁の削減が不可欠である。
  日本の景気刺激策は、土木工事を中心とする公共投資に依存してきたが、これでは景気刺激の実効は上がらず、いたずらに財政赤字を拡大する結果となってしまった。
  日本とシンガポールで話し合っている自由貿易協定は、将来韓国やさらにアメリカを含む自由貿易協定のテスト・ケースとして歓迎する。

日本外交は独自性を追及せよ
  アメリカは日本外交を単なる「小切手外交」と見なすのを止めるべきである。日本も「小切手外交」から脱皮して、リスクを覚悟の上で指導力を発揮すべき時がやってきた。
  アメリカは、日本が国連・安全保障理事会の常任理事国になることを支持する。
  しかし、日本は同時に、集団安全保障には明確な義務を伴うことを認識すべきである。
  日本外交の独自性の追及は、決してアメリカの国益に反したことではない。米日両国の追及すべき外交目標は、大部分共通のものである。



2001年1月20日(*3)
  ブッシュ大統領、就任。

2001年1月21日(*2)
  ブッシュ大統領就任演説
  「米国は自由を守るため、力の均衡をとりながら、世界の問題に関与し続ける。同盟国とわれわれの利益を守る」と国際政治に「関与」していく方針を確認。
  統合参謀本部議長は、QDR2001の準備作業の一部を米国防大学国家戦略研究所(NDU・INSS)に依頼。
  INSSは1999年9月に5つの作業部会を設置し、そこで研究作業を行い、その結果を『QDR2001』(ミッシェル・フローノイ委員長)として公表。
  INSS報告では、
   「米国が国益をどう定義するのか」
   「米国の国益にとっての最大の脅威とその対処」
   「基本的な国家安全保障の目的」
   「次の10〜20年間で米軍が抑止し、必要であれば戦って勝利する戦争とは何か」
  といった、次期大統領が国防計画を策定する際の課題を12項目あげたうえで、戦略A〜Dの4つの戦略的選択肢を列挙。

「戦略A:戦略環境形成(Shape)、対応(Respond)、現在は準備(Prepare)」
「戦略B:関与はより選択的に行い変革を急ぐ」
「戦略C:関与はより選択的に行い戦闘能力を高める」
「戦略D:関与を今行うことによって明日の紛争を抑止する」
 第1は、「戦略B」と「戦略C」が米軍の「選択的な関与」を行うことを強調。
 第2は、米国の国家戦略の基礎となる「脅威」として、現在の「2MTW(大規模地域紛争)」を想定する計画が「戦略A」と「戦略C」であるのに対して、「戦略B」と「戦略D」は「1MTW+SSC(小規模紛争)」を想定。

エリオット・コーエンの分析
「2MTWは現状に合致せず、防衛予算の大幅増強なしに現在の米軍の規模を維持することは不可能である」
「MTWは湾岸戦争の事例を基盤とし、大規模な艦隊と戦闘機に支援された装甲部隊の展開を想定しているが、現在考えられるイラクによる侵略、北朝鮮の韓国に対する侵略などは、MTWで想定している規模の兵力は必要ない」

ラムズフェルド、2001年1月12日の上院軍事委員会での国防長官への就任のための公聴会

大量破壊兵器の拡散に対応し得る防衛力の構築、
多様な脅威に迅速かつ柔軟に対応し得る軍事力の維持、
指揮・統制・通信能力及び情報収集能力の強化、
現在の安全保障環境に見合った装備品調達の効率化・迅速化、
国防総省の組織機構の改革、
従来の「大規模紛争」ではなく、「多様な脅威」の強調。
2001年2月13日(*2)
  ブッシュ大統領、ノーフォーク海軍基地で演説。
  ラムズフェルド国務長官に包括的国防計画や兵力構成の見直し指示。
  ラムズフェルドは国防見直し(Defense Review)で
   中東と朝鮮半島で同時に起きる大規模地域紛争への対処を想定した「2正面戦略(2MTWs)」の放棄、
   米軍全体規模削減(国内外の基地縮小)、
   機動力の向上、
   ミサイル防衛の強化、
   装備の大幅な変更(新技術を兵器開発に積極的に導入)を中心に検討。

2001年4月26日
  小泉純一郎内閣総理大臣、就任。

2001年5月7日
  小泉総理、内閣総理大臣所信表明演説。

2001年6月30日
  日米首脳会談、キャンプデービットにて。

2001年9月11日(*2)
  アメリカ同時多発テロ
  米本土へのテロ攻撃に関して「21世紀委員の国家安全保障委員会」のPhase IIIレポート“Road Map for National Security” で、「今後四半世以内に米本土に壊滅的被害をもたらす攻撃があり得る」と予測。対策の欠如を警告していたのが現実となる。

2001年9月19日 午後7時30分(*4) 
  小泉総理、緊急記者会見。
  「米国における同時多発テロへの対応に関する我が国の措置について」

安保理決議第一三六八号において「国際の平和及び安全に対する脅威」と認められた本件テロに関連して措置を取る米軍等に対して、医療、輸送・補給等の支援活動を実施する目的で、自衛隊を派遣するため所要の措置を早急に講ずる。
我が国における米軍施設・区域及びわが国重要施設の警備を更に強化するため所要の措置を早急に講ずる。
情報収集のための自衛隊艦艇を速やかに派遣する。
出入国管理等に関し、情報交換等の国際的な協力を更に強化する。
周辺及び関係諸国に対して人道的・経済的その他の必要な支援を行う。その一環として、今回の非常事態に際し、米国に協力するパキスタン及びインドに対して緊急の経済支援を行う。
避難民の発生に応じ、自衛隊による人道支援の可能性を含め、避難民支援を行う。
世界及び日本の経済システムに混乱が生じないよう、各国と協調し、状況の変化に対応し適切な措置を講ずる。
2001年9月27日(*4)
  日本、9.11テロを非難する国会決議、可決。

2001年10月1日(*2)
  QDR2001で脅威基盤戦略(Threat-Based Strategy)と決別。新たに能力基盤戦略を採用。
  「不確実性」と「非対称脅威」

影響脅威基盤戦略が能力基盤戦略に転換され、それと同時に2正面戦略が見直し。
9.11テロを反映して「本土防衛」が最優先課題として強調され(ホームランド・ディフェンス)、テロ戦争の核となる「非対称戦」の重要性
9.11テロでロシアとの協調関係を進展させたアメリカはMAD体制からの脱却を目指し、ミサイル防衛をより重視した核戦略を推進。
「トライアッド」から「ニュー・トライアッド」へ転換。
米軍のトランスフォーメーション。
 ラムズフェルド国防長官 QDR2001序文
 「伝統的な仮想敵国想定ではなく、奇襲や策略など非対称戦術に頼る敵の攻撃能力を前提にした対応をしなければならない」と
 「脅威を基盤としたモデル」(脅威基盤戦略、Threat-Based Strategy)を見直し、「能力を基盤としたモデル」(能力基盤戦略、Cabapibily-Based Strategy)へとシフト。
 能力基盤戦略とは「“敵”が誰であるか」「どこで“戦争”が起こるか」ということではなく、「“敵”といかに戦うか」

 第1は、単に国家だけではなく、テロ組織などの非政府主体による脅威も含めてあらゆる脅威を対象とする。脅威の対象がいかなるものであれ、米軍はその脅威が持つ能力に対処する。21世紅型の非対称脅威として、テロ、大量破壊兵器拡散、情報、宇宙分野などにおける不確実な様態の脅威に柔軟、迅速、かつ正確に対応することを重視。
 第2は、米軍の能力に応じて戦略をたてる。RMA(軍事革命)により米軍は核戦力、通常戦力、戦略防衛能力で圧倒的に優位に立とうとしている。その米軍の能力に応じて迅速にかつ正確にあらゆる危機に対処することが可能となり、その能力を基盤として戦略を積み上げる。
   同盟・友好国の保証、
   競争相手を思いとどまらせる、
   侵略者の抑止、
   敵の撃破。

 米軍のトランスフォームとは、世界情勢の変化と技術進歩と並行して、米軍の組織・編成・運用等を変革することにより能力・効率向上を行い、軽量化、高速機動、大きな破壊力を持つ米軍に改変すること。

米本土や同盟国などの米軍の作戦上重要な基盤を防護し、大量破壊兵器に打ち勝つ、
情報システムの一体性を確保し、情報攻撃を実施する、
米軍の接近を妨害する手段が用いられる米国から遠方からの戦域に対して米軍を投入し、作戦を継続し、妨害手段を撃破する、
重要な移動および固定目標に対して各種の距離から、そして全天候条件下とあらゆる地形条件下で航空戦能力と地上映能力をお互いに保管しながら組み合わせて用いる方法で、継続的な監視、追尾を行い、大量の精密攻撃により迅速な交戦を行うことで敵の聖域化を拒絶する、
宇宙システムとその支援基盤の能力と生存性を強化する、
情報技術と革新的な概念を用いることにより、相互運用可能な4軍の統合的なC4ISR構成機能と、任務にあわせて変更が可能な統合作戦能力を開発する。
 「リスク管理」は現在から将来への防衛戦略の中心的要因と位置づけ、同盟国や友好国を威圧や侵略の「脅威」から抑止し、必要とあれば敵に勝利をおさめることを保証。
  兵力管理、運用の任務を達成するための兵員のリクルート、維持、準備および兵力の即応性
  運用、短期的な紛争・偶発事故のための軍事的目標達成能力
  将来の挑戦への準備、中長期的な軍事的挑戦を思いとどまらせ、あるいは勝利する新たな能力への投資する能力と新たなオペレーションの概念を作る
  制度、防衛のためのマネイジメント業務開発、リソースの効率的利用、効果的オペレーション能力。
の4つの枠組み。

本土防衛、
前方抑止、
戦闘使命、
小規模紛争対処作戦への転換
の要求。
 脅威基盤戦略から能力基盤戦略へ転換したことに伴い、2正面戦略が変更。
 「主要な同時に起こる大規模地域紛争に敏速に対処し、大統領の選択でいずれか1つの紛争を決定的に勝利する」能力を持つ。
 ポール・ウォルフォウィッツ国防副長官
 「2正面戦略は過去10年間で益々不適当」となり、「兵力規模を基礎とした」戦略から移行する「パラダイム的シフト」が行われた。
 「短期的には2正面戦略は維持すべきだ」としながらも「2正面戦略の同時生起は蓋然性の低い」ものであるので、長期的にみて蓋然性の高い「非対称的な脅威」を戦略の基礎であるべきであることを提言したNDPの助言。
 「Capability-based strategy」を「脅威を基礎(Threat4)ased」として築かれた現在の米軍から、将来の軍隊への架け橋、となる」と位置づけ。「過渡的な戦略」。
戦力規模構成の基礎は脅威基盤戦略から転換。
   米国防衛、
   前方抑止、
   重複する大規模紛争の1つを勝利し、残りを撃破する能力、
   小規模紛争遂行能力、
の4つの目的に合わせて戦力構成する。
 「即時に動員できる前方駐留・前方展開部隊、グローバルに利用できる偵察、攻撃、指揮・統制施設、情報作戦能力、破壊力の大きいしかも持続的作戦遂行も可能な緊急展開部隊の新たな組み合わせ」といった配置再編が必要。
 各軍に対しては、
  陸軍:IBCT(前進配備の暫定旅団戦闘チーム)を導入し、アラビア湾での地上軍戦闘能力強化、
  海軍:西太平洋における空母戦闘群のプレゼンス増強と3〜4の海上戦闘部隊、および誘導巡航ミサイル潜水艦の母港を探す、
  空軍:太平洋、インド洋、アラビア湾で非常時使用基地増加、
  海兵隊:中東での非常事態を想定し、海上事前集積装備の一部を地中海からインド洋とアラビア湾へ移動方法の立案、
 を指示。

 ホームランド・ディフェンス
  2001年9月20日に本土安全保障局(OHS)をホワイトハウスに設置、トム・リッジをその長官に指名し本土安全保障体制を強化。
  米国の国防戦略の中核に本土防衛の強化を据える。
  ラムズフェルド、米本土があらゆる敵からの脅威にさらされていることに言及。
 QDR2001序章
  今日の戦争を「米国が選ぶものでなく、テロという悪の力が米本土に持ち込む破壊と残虐のことだ」と定義し、「本土防衛」を強調。
  「大規模で伝統的な戦いに備えるだけでは十分ではない」と徹底したテロ対策の必要性を強調。
  米国にテロ攻撃やゲリラ戦を仕掛けてくる「非対称な戦争」に備えるため、生物・化学・核兵器の使用を想定した監視体制の確立のほか、テロ活動に対する情報収集の強化を掲げた。
  「すべての敵から国家を守ることである」という政策を米軍の最優先課題とし、
  「国外から仕掛けられる攻撃に対して国内の住民、領土、重要な防衛関連インフラを守るために、十分な軍事力を維持する」
  国防総省には「米国領土でCBRNE(化学、生物、放射能、核、強化高性能爆弾)の結果を管理するための支援義務がある」

2001年10月5日(*3)
  小泉政権、テロ対策特措法を閣議決定。

2001年10月7日(*3)
  米英軍、アフガニスタン攻撃開始。

2001年10月19日(*3)
  米軍、特殊部隊投入。地上戦に突入。

2001年10月29日(*4)
  テロ対策特措法、可決成立。
   米軍など諸外国の軍隊への協力支援活動
   戦闘行為で遭難した戦闘参加者の捜索救助活動
   被災民救済活動

2001年11月9日(*3)
  情報収集のための自衛隊艦艇をインド洋に派遣。

2001年11月13日(*3)
  ブッシュ大統領、プーチン大統領と会談後、核弾頭大幅削減方針発表。

2001年11月14日(*4)
  日米調整委員会
   米国の希望する
    アラビア海での洋上給油
    燃料と物資の購入資金
   を予備費から早急に拠出し、一刻も早く米軍へ無償提供する。

2001年11月16日(*2)
  米軍、カブール制圧。

2001年11月16日
  日本政府、基本計画を安全保障会議と臨時閣議で決定。
  補給:艦船による艦船用燃料等の補給
  輸送:艦船による艦船用燃料等の輸送、航空機による人員及び物品の輸送
  その他:修理及び整備、医療、港湾業務

2001年11月25日(*3)
  海上自衛隊補給艦、掃海母艦、護衛艦が協力支援活動等実施のため出航。

2001年12月2日(*3)
  テロ対策特措法に基づき、海上自衛隊補給艦によるインド洋における米艦船への洋上給油開始。
  航空自衛隊、国外空輸を開始。

2001年12月7日(*2)
  タリバン、本拠地カンダハルを明け渡す。タリバン政権、消滅。

2001年12月13日(*2)
  ABM制限条約を脱退通告。
  「核兵器の一層の削減」
  ロシアは、経済的困難性のために核戦力は長期的にみれば米国と比べて劣性になるのは否定できない状況にあり、このままでは戦略的安定性を維持するのが不可能となる。
  戦略的安定性を確保するために、米国は核戦力をロシアと同等に削減。
  戦略的安定が失われた場合、米ソともファースト・ストライクを行うインセンティブが高まり危機が増加するため。
  脱退は通達から6ヵ月後に成立。 

2001年12月(*5)
  防衛庁電波傍受施設、不審船が使用する周波数帯を朝鮮労働党使用のものと同一と解析。
  米軍事衛星、ナムポから工作船出航を捕捉。

2001年12月21日 未明(*5)
  自衛隊司令部、「北朝鮮工作母船情報アリ」として監視エリア指定、上空からの監視ミッションを第一航空群に命令。

2001年12月21日 夕刻(*5)
  海上自衛隊、鹿屋・第一航空群所属P3-C哨戒機、九州南西海域において北朝鮮の不審船を目視。

2001年12月22日 未明(*5)
  防衛庁、不審船と断定。海上保安庁へ連絡。

2001年12月22日(*5)
  海上保安庁巡視船三隻、北朝鮮工作船を追尾。船体射撃による発砲応酬後、工作船は炎上、自沈。

2001年12月22日(*3)
  アフガニスタン暫定行政機構が発足、ハミド・カルザイが議長に就任。

2002年1月4日(*3)
  米国防省、「弾道ミサイル防衛局」の「ミサイル防衛庁」への改組を発表。

2002年1月8日(*3)
  米国防省、「核態勢の見直し」(NPR)を議会に提出。

2002年1月29日(*4) 
  ブッシュ大統領、一般教書演説でブッシュ・ドクトリンの基本路線を発表。
  「我々の第2の目標は、テロ支援国家が米国やその友好・同盟諸国を大量破壊兵器で脅威を与えるのを阻止することである」
  北朝鮮とイランに加え、イラクを「悪の枢軸」と名づけ、テロを支援していると強く非難。北朝鮮とイランへの言及がそれぞれ一センテンスだけなのに比べ、イラクには一段落(四センテンス)が割かれる。

2002年2月4日(*2)
  予算教書
  国防費の総額3、790億ドル(対前年比13.7%増)のうち対テロ戦争のための本土防衛予算として377億ドルが計上。本土防衛予算のうち、警察・消防・救急医療技師の教育訓練費35億ドル、国家安全保障対策費110億ドル、生物テロ対策費60億ドル、航空安全対策費50億ドル、諜報システム10億ドルなどにあてられる。

2004年2月4日
 小泉内閣総理大臣施政方針演説。第154回国会において。
 有事法制制定の方針を宣言。

2002年2月18日(*4) 
  ブッシュ大統領、日本の国会での演説。
  対アフガニスタン戦争における日本の貢献と日米同盟の固い結束を賞賛。
  小泉首相との首脳会談、イラクへの攻撃の意思を明らかにする。両首脳以外では、高野紀元外務審議官とコンドリーザ・ライス大統領補佐官しか同席していなかった少人数の会合で、ブッシュ大統領が「われわれはイラクを攻撃する。間違いなくやる」と明言。会談の四ヵ月後に明らかにされた。

小泉首相
「テロとの戦いで日本は常に米国とともにある」と伝える。米側は将来のイラク攻撃に対して日本の了解を取り付けたと理解。

  この時期に、米国側のイラク攻撃の意思と、日本側の基本的支持の方針が、日米両首脳間ではすでに確認。

2002年4月(*2)
  ブッシュ大統領、北方軍創設に署名。

2002年5月1日(*2)
  ブッシュ大統領、「国防大学演説」
  “MAD(相互確証破壊)体制の終焉”を宣言。“新しい枠組み”への移行を述べる。
  「冷戦時代の遺物」であるABM制限条約の撤廃とミサイル防衛の推進を訴え、MAD体制からの脱却を目指す。
  「冷戦時代とは異なる脅威に対処するためにミサイル防衛網を構築」
  「ABM制限条約の束縛を乗り越えなければならない」

 核戦略
  第1にMAD体制から脱却し、
  第2にテロや「ならず者国家」に対する「新たな枠組み」の構築を優先課題とする。ミサイルはすでに拡散しており、懲罰的抑止だけではこれらによる大量破壊兵器搭載ミサイル攻撃を抑止できない。「攻撃力と防衛力の双方に基づいた抑止」という新たな概念。
 冷戦時代の脅威基盤型から能力基盤型へ核戦力を変質させるため、戦略核に依存する抑止戦略(MAD体制)からの脱却をより明確に宣言。

 「新しい枠組み」
  能力基盤戦略に基づく多層的ミサイル防衛網の構築。
  多層的ミサイル防衛網とは、クリントン政権で進められてきたTMD(機械ミサイル防衛)、NMD(米本土ミサイル防衛)を統合し、全世界規模で、いかなる場所から発射されたいかなる射程の弾道ミサイルに対してもミサイル防衛(MD)による防衛網を構築するという構想。弾道ミサイルの発射直後から宇宙空間の飛翔段階、大気圏に再突入して目標に向かって弾頭が落下していく最端段階までの全飛翔段階において幾重にも各種の防衛システム配備を想定。従来TMD用とされてきた海上のイージス艦(巡洋艦と駆逐艦)から弾道弾迎撃ミサイルを発射するシステムも、多層的ミサイル防衛における海上配備型システムとされ、戦域・戦術弾道ミサイル、戦略弾道ミサイルの区別なく弾道ミサイル迎撃を行う構想に改正。
  NPR2002はロシアとのMAD体制の終焉を宣言しているが、完全にMAD体制を終焉させるまでにロシアの将来の情勢の変化を見極めながら慎重に行う。

 ミサイル、・ディフェンス(MD)に関する重要性は高まる。冷戦後は「ならず者国家」やテロリストのWMD搭載ミサイルにより攻撃される可能性が高まった戦略環境になる。ロシアが敵ではなくなりMAD体制の前提が消滅した現在、MDに比重を移す。
 2002年度のMD予算としてクリントン政権を6割以上上回る過去最高の83億ドルを要求。
 2002年1月の議会予算局レポート
 地上配備中間段階迎撃、海上配備中間段階迎撃、宇宙配備運動レーザーを独自に展開した場合、それぞれ600億ドル以上が必要。
 航空機搭載レーザーやイージス艦搭載の推進段階迎撃体系を展開した場合はさらに経費は増額されることが指摘。
 世界初のレーザー戦闘機、ABLの開発

 *ABL:発射された弾道ミサイルが上昇中に大出力レーザーを照射し破壊。
  ミサイル本体は勿論、核弾頭が積まれていれば、必然的に、その核弾頭が発射した国へ落とされる。発射そのものが自殺行為となる。(FNN)

2002年5月31日(*4) 
  福田康夫官房長官
 「憲法にも見直し議論がある時代だから、国際情勢が変われば非核三原則が変わるかもしれない」

2002年6月1日(*2)
  ブッシュ大統領、ウエスト・ポイント演説
 「テロに対する戦いは防衛のみでは勝利できない。我々は敵に対して戦いを挑まねばならず、敵の計画を分裂させ、最悪の脅威が現実のものとなる前に直面せねばならない。そういった世界に我々は入ったのであり、安全への唯一の道は行動以外にはない」
 「テロに対する戦いは防衛のみでは勝利できない」
 「敵に対して戦いを挑まねばならない」

2002年6月6日(*2)
  国土安全保障省設置演説「防衛のみではなく、敵に対して戦いを挑む」
  先制攻撃の可能性を示唆。

「アメリカの国土を護るための最初にやるべき、また最良の方法は敵が隠れ、計画を練っている場所を叩くことにある」

 ブッシュ大統領、「21世紀の新たな脅威に効果的により対処するために」国土安全保障省(DHS)の創設案を議会に提出。
  沿岸警備隊、運輸省、税関、移民局、連邦危機管理局(FEMA)などの幾多もの政府機関が本土の国土安全保障にあたっていたがこれを改め、一つの機関に統合するというもの。
  DHSは100以上にもまたがる連邦政府省庁を再編し、約17万人の職員を抱える予定。
  任務は、
   国境および運輸の安全、
   緊急準備および対応、
   対化学・生物・放射線・核対策、
   情報分析およびインフラ防衛
  の4つ。

2002年7月16日(*2)
  米国、 「本土防衛のための安全保障戦略」を公表し、連邦議会へ送付。
   テロ関連情報収集と警戒情報の発令、
   国内テロ防止活動強化、
   幹線道路、産業基盤、コンピューター網やデータベース等国家インフラ基盤の保護、
   緊急事態への備えと再強化、
  など6つの重点目標分野を設定。
  具体的な脅威として、核・放射能・生物・化学兵器による攻撃から通常型のテロ攻撃までを想定し、対策として国境や空港での危険物資の監視体制強化、船舶貨物に対する検査強化、生物テロに備えた新ワクチンや解毒剤の開発促進、国境警備、インフラ保護、対テロ活動の調整、テロ情報の分析強化などを進める。
  テロ予告に関する情報を情報公開法の適用外として政府が情報統制を行う方針も含む。
  「国防総省は国土安全保障、国土防衛、文民支援を明確に定義し、省内での指揮系統の役割と任務を特定」し、「国土安全保障省と協力し合う能力を高めねばならない」として、軍事支援に重点を置く統一戦闘司令官のポスト新設を提案。
  統合軍の組織変革。従来の統合軍は、欧州軍、太平洋軍、統合軍、南方軍、中央軍、宇宙軍、戦略軍。
  本土防衛はそれまで、北米航空宇宙防衛司令部がカナダとアメリカ本土の防空を担当し、統合軍司令部が大量破壊兵器によって攻撃された場合に各州や自治体との調整を行い、国防総省が軍隊の災害派遣を管轄。
  新たに北方軍を新設して本土防衛にあたらせるとともに、宇宙軍と戦略軍を統合する計画を発表。北方軍の守備範囲は米本土、カナダ、メキシコ、カリブ海の一部、米本土から500マイル以内の大西洋と太平洋上。
  国防総省は9.11テロヘの対応策としてペンタゴン保護庁(Pentagon Forces Protection Agency)の設置を行い、ワシントンDCにある国防総省を防衛する機能を付加。

2002年8月15日(*2)
  「国防報告」
  「米国の防衛には予防的措置と同時に時には先制攻撃が必要である」と述べ、敵を殲滅するためには「あらゆる手段をとる」。

2002年9月11日(*3)
  奄美大島沖にて不審船引き上げ、船倉内で小型艇発見。

2002年9月12日(*4) 
  ブッシュ大統領、国連総会において、イラクに関する国連演説。
  「総会出席の代表者の皆さん、われわれは我慢に我慢を重ねた。経済制裁も試みた。食糧・石油交換プログラムというアメも、連合国による武力行使というムチも試みた。しかし、サダム・フセインはこれらの努力をすべて無視し、大量破壊兵器の開発を続けた」
  と語ったあと、もう一度、国連決議案を提出し、国際的な協調を求める意思を表明。
  同時に「米国の目的に疑いIを持たれるようなことがあってはならない。安保理決議が執行され、平和と安全のための正当な要求が満たされない場合は、行動は避けられない」と、米国が提出する決議案が履行されない場合は武力行動をとるという決意を表明。

2002年9月13日(*4) 
  日米首脳会談、ニューヨークにて。

小泉総理、国際協調推進を望む日本政府の意図を伝える。
「ブッシュ大統領の国連演説を聞き、世界の人々は大変強い感銘を受けたと思う……この問題の解決に当たっては国際協調のための一段の努力が行われることが望ましい。米国民が憤慨されることは分かるが、ここは耐えがたきを耐え、さらに一段の国際協調をとることが望ましい」

ブッシュ大統領、小泉首相の説得に理解は示しながらも、武力行使をする意思を明確に伝える。
「外交努力は行うが、これが成功しなければ、他の方途を考えざるを得なくなる」

2002年9月17日
  第一次小泉訪朝。
  日朝首脳会談後、金正日が拉致を認め謝罪。

2002年9月20日(*2)
  ブッシュ・ドクトリン
  ブッシュ大統領、テロに対する戦争宣言。上下両院合同会議において。
  「単独で、もし必要であれば自衛権に基づき先制攻撃を行う」ことを「米国の国家安全保障戦略」(NSS2002)で明言。
  「自由と全体主義」の20世紀の対立軸、自由と民主主義の勝利に終わったことを指摘。
  事実上のアメリカの覇権確立の宣言。
  予防防御
  「危機が起こりドラスティックな救済を必要とする前に、危機の進展を先回りして防止するもの」
  「放置しておけばその事態あるいは国が脅威となる前に、予防する目的で軍事力を行使する」

 NPR2002「ニュー・トライアッド」戦略
  MAD体制の終焉を宣言。核使用の敷居を下げ一方的に確証破壊するUAD(Unilateral Assured Destruction)への転換を示唆。
  非戦略面でも先制攻撃を行う際の論理的裏付け。
  冷戦時代の
   ICBM、
   SLBM、
   戦略爆撃機の核攻撃手段
  によるトライアッド(核の3本柱)を改め、
   攻撃(核および非核)、
   防御(アクティブとパッシブ)、
   即応できるインフラストラクチャー
  とし、さらに指揮、統制、情報システムの促進とともに構成した戦略。
  自国の安全保障を最優先させるための国防戦略。国土安全保障省(DHS)とミサイル防衛(MD)。
   第1の柱である「攻撃」核および非核。
    「核」は従来のトライアッド(ICBM、SLBM、戦略爆撃機)としてニュー・トライアッドのなかに位置づけ。
    「非核」とは通常兵器の攻撃システム。
   第2の柱である「防御」
    能動的・受動的防衛の促進が必要。
    「能動的」防御は従来の攻撃能力に基づく懲罰的抑止であり、
    「受動的」防御はミサイル・ディフェンスによる拒否的抑止である。
    この懲罰的抑止と拒否的抑止とが表裏一体となり21世紀の戦略環境に対応できる。
  クラウチ国防次官補、懲罰的抑止から拒否的抑止へと段階的に比重を移す意思を示唆。
  「米国は攻撃的核兵器に大きく依存していたが、もはやそうはならない」。
   第3の柱である「即応できるインフラストラクチャー」
    新たに登場した脅威に対して短時間に対抗能力を生み出せる防衛基盤の再生。
    「攻撃」をニュー・トライアッドの頂点に置き、ブッシュ大統領が非核あるいは核による先制攻撃を行う際の理論的バックボーン。
    あくまでも従来の「ならず者国家」に対して懲罰的抑止に加えて拒否的抑止で「抑止力」の向上を第一義的にはかることにある。
    「抑止」が敗れた場合には「撃破」する。
 
米国の政策決定者が、
  第1に「どの国(あるいは脅威)」を、  
  第2に「どの時点」で、
  第3に「どのような攻撃兵器」で敵を撃破するのかの問題。

   第1の「どの国(あるいは脅威)」
   ブッシュ政権は「テロ」との戦いを継続するとともに、テロを支援する「ならず者国家」との第2段階の戦いに入る。
   核攻撃能力を策定するにあたり、
    第1は「直近型危機」、
    第2は「潜在的危機」、
    第3は「不測の危機」
   の3つの範躊に分けて考察。
    第1の「直近型危機」
    十分に認識され、差し迫りすぐに紛争に結びつく危機。イラクのイスラエル攻撃、北朝鮮の韓国攻撃、台湾をめぐる軍事的緊張。
    第2の「潜在的危機」
    起こりそうだが差し迫った危機ではないもの。
    米国に対して敵意をもつ、WMDとその運搬手段を保有する軍事連合が新たに出現することにより、米国の国防計画(核戦力計画を含む)に
    重大な影響をもたらすような潜在的な危機。
    第3の「不測の危機」
    キューバ危機のような突然で不測な安全保障上のチャレンジ。
    突然、ある国の政治体制が転換して現有する核兵器工場が新たな敵意を待つグループの手に渡ったり、WMD能力を備えた敵が
    突然出現したりするような事態。
   3つの危機に当てはまる国として北朝鮮、イラク、イラン、リビアをあげる。
   QDR2001でも、米国務省がテロ支援国家と規定する7カ国の国のうち5カ国(イラン、イラク、シリア、リビア、北朝鮮)が弾道ミサイルを保有し開発装備計画を進めているとして、弾道ミサイルの拡散によりテロ攻撃手段へ利用される懸念を指摘。
   これらの国は、長期にわたり米国に対して敵意を待ち、テロリストを支援・隠蔽し、WMDを保有しかつミサイル・プログラムを待つ。北朝鮮とイラクには軍事的な根強い懸念を待つ。
   中国に関して、未だに戦略的目標を持ち、核・非核戦力の近代化を推進しているので「直近の危機」もしくは「潜在的な危機」になりうる。
   ロシアに関して、イデオロギー上の対立は消滅し、協調的な関係にあるものの、ロシアには不安定要素が残り懸念が残る。

  第2の「どの時点」
   「危機が発生する以前」に何らかの予防防衛もしくは予防攻撃を行う。
   テロや大量破壊兵器の脅威が現実のものとなる前に先手を打つ「先制攻撃」は、「大量報復による抑止」「政策を通じた封じ込め」に代わるもの。
   「危機が起こり大規模な救済を必要とする前に、危機の進展を先回りして防止するもの」という予防防衛の考え、もしくは、「放置しておけばその事態あるいは国が脅威となる前に予防する目的で軍事力を行使する」予防的軍事力行使という概念の範疇に入る。
   1981年のイスラエルのイラク施設への攻撃。
   1991年の「砂漠の嵐」作戦で米国を中心とした多国語軍のイラク内にある非通常型兵器施設へ対して攻撃。
   軍事力行使にあたり保障、抑制、抑止、撃破の4つのステップ。最終段階の撃破までいく可能性もあり、そうした場合には新たな政権を樹立する国家創造活動が行われる。

  第3の「どのような兵器で」
   「非核」と「核」
   「非核」の攻撃力に問しては、地域紛争において「使いやすい軍事力」の精密攻撃戦力を中心としたもの、「核」の攻撃力が同列。
   単に脅威を抑止するだけでなく、紛争を戦って勝利することを前面に押し出したもの。
    核戦力の運用問題
     戦術核レベル
     地中の軍事施設を破壊する小型核兵器の開発。
     地中貫徹兵器の核爆弾B61Mod11を開発し、1997年に50発を実戦配備したが地中貫微力が9mと限られた能力しかない。

1998年6月の「国防科学委員会の地下施設タスクフォース」の調査
現在、世界の70カ国以上が地下の軍事施設を使用、その数は1万を超え、そのうち約1、100の地下施設が戦略的目的(WMD、弾道ミサイル基地、指揮中枢)施設だとしている。現在、米国はこのような戦略施設を適切に扱う手段に欠いていると指摘。米国の現有するB61Mod11312では地中にある強固な戦略施設を破壊できないため、より効果的な地中貫徹兵器の必要性を述べる。

最大の特色
  新たな非核戦略能力を核戦争計画に統合。ハイテク兵器と小型核兵器が一体化。新たな能力は地中深層強固目標(HDBT)、稼動・再設置可能目標を探し出し撃破し、化学・生物兵器のエージェントを撃破し、精密さを改善し、限定された損害にとどめる。新型核兵器の開発には、研究・生産のインフラ整備・強化が不可欠となる。

2002年10月1日(*2) 
  米軍の北方軍、始動。

2002年10月15日
  拉致被害者5人が帰国、24年ぶりに家族と再会。

2002年10月16日(*3)
  米政府、北朝鮮がケリー国務次官補訪朝時、核兵器用ウラン濃縮計画を認めたと声明を発表。

2002年11月8日(*4) 
  安保理、全会一致で決議1441号を採択。
  安保理の決定第一項
  湾岸戦争の停戦決議となった687号を含めた一連の国連安保理決議、とくに国連とIAEAの査察に対する協力義務に対して、イラクが「重大な違反」を続けていると結論。
   第二項
   これまでの決議に示された武装解除の義務を遂行する「最後の機会」をイラクに与えることが決定。
    30日以内に大量破壊兵器の開発プログラムに関する「最新で正確かつ、全面的、完全な報告書」を国連に提出する義務国連査察団を即時、無条件、無制限に、すべての場所において受け入れる義務がイラクに課せられる。
    これらの義務の不履行が続けば、その結果として「重大な結果(serious consequences)」に直面すると、安保理が繰り返し警告してきたことを再確認。
    過去に安保理が一連の決議を通じて繰り返し警告を行い、イラクがそれらを遵守しなかったことに対して武力行使が行われている。
    その事実を再確認しつつ、「重大な結果」を招くと警告。
    イラクが大量破壊兵器を持たないと主張するならば、イラクの義務であることが確認される。
 
  国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)のハンス・ブリクス委員長
  「深刻な結果」は「武力行使を婉曲的に述べたもの」

 成立過程で、決議違反が自動的に武力行使の引き金を引くことになるのを懸念したロシアとフランスの抵抗に遭い、査察に問題があった場合には再度安保理が対応を協議するという項目を入れる妥協案が採られる。
  大量破壊兵器開発計画の全資料提出と国連査察団に対する全面協力、その後の武装解除をイラクに対して義務付けており、裏返せばイラクがその義務をすべて履行しない場合の米国の武力行使に対して、国連安保理は道を開く。

2002年12月7日(*4) 
  30日間の期限寸前にイラク政権は大量破壊兵器開発に開する申告書を提出。
  「最新」の情報を含んだ申告書が要求されたにもかかわらず、その内容は大量破壊兵器が存在しないという、それまでの主張を繰り返すだけのものであり、要求された大量破壊兵器の廃棄を証明する内容は存在せず。

国連による生物化学兵器と弾道ミサイルの査察を担当したブリクス委員長
「イラク側はこの申告書を、私が期待を込めて提言したような『再出発』の契機としてはとらえていなかった」

  イラクの申告書が1441号で要求された水準を満たしておらず、イラク側の義務不履行だという認識は安保理の中で共有。
  ブッシュ大統領、イラクに対して完全武装解除を要求。
  フセイン政権が「過去11年間の態度を変えたかどうかという観点でのみ、判断する」

2002年12月17日(*3)
  米ミサイル防衛配備を発表。

2002年12月31日(*3)
  IAEA査察官、北朝鮮出国。

2002年12月(*4)
  米軍、12月までにイラク周辺に約6万人の地上部隊を駐留させる。1月20日には翌月にさらに5万人増派する計画を発表し、イラクにさらなる圧力を加える。

2003年1月10日(*3)
  北朝鮮、核拡散防止条約(NPT)より脱退を宣言。

2003年1月20日(*4)
  米軍、イラク周辺に2月にさらに5万人増派する計画を発表。

2003年1月28日(*4) 
  一般教書演説
  国連に対してイラクの武装解除を要求してきたがいつまでも経過を見守るつもりはないことを主張。

「米国の目的は過程をフォローすることだけではない。文明社会に対する脅威を排除するという結果を生み出すことだ」

国際協調
「わが国の進路は他国の決定によって決まるものではない。どのような行動がいかなるときに必要となろうが、私は米国国民の自由と安全を守る」

 国連安保理の承認が得られなくとも攻撃する意思を明確化。

2003年2月5日(*4)
  パウエル国務長官が米国の諜報情報をあえて公開して、イラク側の兵器秘匿を訴える。

2003年2月6日(*4)
  パウエル国務長官の国連報告を受けての、ブッシュ大統領の記者会見。時間切れを宣言。
  「間違いなく彼(サダム・フセイン)は最後まで偏すためのゲームを続けるだろうが、ゲームは終わった」

2003年2月(*4)
  米国政府、イラク周辺の正規部隊をさらに増派、中旬までに15万人にする計画を進める。

2003年3月2日(*3)
  北朝鮮のMig-29等の戦闘機4機、日本海で米RC-135電子偵察機に接近、追跡。北朝鮮領内に強制着陸を試みる。

2003年3月10日(*4)
  麻生太郎自民党政調会長、政府与党連絡会議で、「大量破壊兵器の開発阻止」という共通の目的を持って、イラクと北朝鮮の情勢を切り離さず協議していく与党体制をつくることを提案。
  山崎拓自民党幹事長、同日、党役員会で承認を得た後、与党三幹事長で話し合い、同協議会の設置を決定。

2003年3月16日(*4) 
  米英スペイン共同宣言「イラクの未来に問する宣言」。ポルトガル領アゾレス諸島において。
  イラクが国連への全面的な協力を拒むなら、「一連の決議が予測していた深刻な結果を招くことになる」と、仏独などに対する外交交渉打ち切りの事実上の最後通告を発表。

2003年3月17日(*4) 
  米英両国、イラクに関する安保理修正決議案の採択を断念。
  ブッシュ大統領、テレビ演説。
  フセイン大統領に対して「四八時間以内に国外退去せよ。拒否は武力行使という結果を招く」と、最後通牒を突きつける。
  「米国は平和解決を望み、この脅威に対処するため国連と協力してきた」と語り、今も効力を持つ国連安保理決議678号、687号を法的根拠として、イラクを攻撃することを明らかにする。
  全面的な武装解除を求めた1441号決議に言及し、「今日に至っても、イラクが武装解除したと主張できる国はないだろう……国連安保理がその責任を果たさないなら、われわれが自らの責任を果たす」と、国連主導のイラク武装解除が成功しなかった点を批判し、武力行使の正当性を主張。
  フセイン大統領、国外退去せず。
  一連の国連決議によって武力行使を行うことを明言。
  米国の対イラク武力行使に対する日本政府の支持、「日米同盟」の枠組み重視だけでなく、「国際協調」の、少なくとも形式を維持することが可能になる。

米国務省の日本担当者
「米国が国連に対して決議による攻撃を行う手続きを行ったのには日本政府による説得が大きかった」

外務省北米局の政策担当者
「日本が米国を説得するうちに初めは消極的だった英国も一緒に説得してくれるようになった。この件については、英国外務省は日本のイニシアチブのおかげだと評価してくれている」





「ヨーロッパとアメリカが共通の世界観を持っているというふりをするのはそろそろやめるべきだ。同じ世界に住んでいるというふりすらするべきではない」
( ロバート・ケーガン 2003年『ネオコンの論理』)





2003年3月18日(*4) 
  小泉総理、米英両国の支持を表明。自らの言葉で米国の武力行使支持を世界各国に比べいち早く発表。
  「今までブッシュ大統領も国際協調を得ることができるようにさまざまな努力を行ってきたと思います。そういう中でのやむを得ない決断だったと思い、私は、米国の方針を支持します」

2003年3月19日 夜(*2)
  米英両国、対イラク軍事行動「イラクの自由作戦」、開始。
  ウェストファリア体制の崩壊。

    ウェストファリア体制
     民族、主権、領土という3つの要素がかねあわされた主権国家。
     内政への不可侵性。侵略された側は抗議をし、時には戦争の準備を進めて対処する。
     国内と対外政策のあいだには厳然として境界が存在し、その境界は広く認識されていた。

2003年3月20日(*4)
  小泉内閣、全閣僚を集めた安全保障会議を開催。
  「緊急対策方針」
   イラク周辺における邦人の安全確保
   国内警戒態勢の強化
   関係船舶航行の安全確保
   世界と日本の経済安定
   被災民に対する緊急人道支援

2003年5月1日(*3)
  ブッシュ大統領、イラクにおける主要な戦闘の終結を宣言。

2003年5月21日(*4)
  小泉総理、イラク人道復興支援特措法へ初言及。米国訪問へ向かう政府専用機内において。

2003年5月23日
  日米首脳会談。テキサス州クロフォードの大統領私邸において。
  会談にはCIA同席。

小泉総理
「安保理決議1483が採択され、国際協調が再構築されたことはよかった」
「日本の国力を踏まえ、日本としてふさわしい貢献をしていきたい」

2003年5月31日(*2)
  ブッシュ大統領、拡散に対する拡散安全保障イニシアティブ(PSI)を初提唱。

2003年6月6日(*3)
  武力攻撃事態対処関連三法、可決成立。

2003年6月13日(*3)
  イラク人道復興支援特措法、閣議決定。

2003年7月26日(*3)
  イラク人道復興支援特措法、参院本会議で可決成立。

2003年8月1日(*4)
  イラク特措法施行。内閣官房に時限政策室のひとつとして、「イラク復興支援推進室」が設置。

2003年10月2日(*3)
  北朝鮮外務省、使用済燃料棒の再処理完了を発表。

2003年10月(*4)
  ブッシュ大統領訪日。
  「国連の安保理決議1511の全会一致での採択を実現する上での日本の役割は賞賛に値する」

2003年11月29日(*3)
  イラク、ティクリート近郊において米軍主催のイラク復興支援会議に向かっていた二人の日本人外交官、奥克彦参事官と井ノ上正盛三等書記官が銃撃を受け、殉職。

2003年12月9日(*4)
  臨時閣議でイラク人道復興支援特措法に基づく基本計画を閣議決定。
  小泉総理
  「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」

2003年12月19日
  リビアが大量破壊兵器の破棄を表明。
  アメリカ、六フッ化ウランをリビアから回収することになる。

2003年12月18日(*3)(*4)
  防衛庁長官、自衛隊の任務や活動区域をより詳細に示す「実施要項」を作成。小泉総理に報告。
 
  日本政府、弾道ミサイル防衛システムの導入を安全保障会議及び閣議において決定。

2003年12月19日(*4)
  小泉総理、実施要項を承認、自衛隊のイラク派遣命令を下す。

2003年12月26日(*3)
  航空自衛隊先遣隊、出発。

2004年1月4日(*3)
  アフガニスタンにおいて憲法ロヤ・ジルガ(国民大会議)において新憲法を採択。

2004年1月9日(*3)
  小泉総理、陸上自衛隊先遣隊・航空自衛隊本隊に派遣命令。

2004年1月19日(*4) 
  小泉首相は自身三度目となる施政方針演説。
  イラク復興支援には資金協力と人的貢献を「車の両輪」として取り組む

「イラクが必ずしも安全とは言えない状況にあるため、日ごろから訓練をつみ、厳しい環境においても十分に活動し、危険を回避する能力を持っている自衛隊を派遣することとしました。武力行使は致しません」
「平和は唱えるだけでは実現できません。国際社会が力を合わせて築き上げるものであります。世界の平和と安定の中に我が国の安全と繁栄があることを考えるならば、日本も行動によって国際社会の一員としての責任を果たさなければなりません」

2004年3月12日(*3)
  金正日、中国を非公式訪問。

2004年3月29日
  日本政府、内閣情報調査室の強化を指示。2006年度を目途。
  陸自に特殊部隊発足。対テロ、海外邦人救出のため。

2004年4月19日(*3)
  北朝鮮北西部・竜川駅で列車爆発事故。

2004年4月20日(*3)
  日本政府、「安全保障と防衛力に関する懇談会」設置。

2004年4月27日(*3)
  リビアの最高指導者カダフィ大佐、ベルギーのEU本部を訪問。

2004年4月28日(*3)
  国連安保理、大量破壊兵器の不拡散決議1540号を全会一致で採択。

2004年5月22日
  第2次小泉訪朝。
  日朝首脳会談。
  拉致被害者の家族5人が帰国。

「北朝鮮が核を廃棄することによって世界が安全になるのみならず、国際社会から評価され、北朝鮮にとって最も利益になるのが核の完全破棄だ。」
「北朝鮮が検証可能な核の完全破棄をすれば、国際社会は、喜んで国際社会の一員として迎えいれる。そうしたチャンスを逃してはならない。六者会合を活用し、北朝鮮側がしっかりとしたメッセージを出すべきだ。」

「ご批判は甘んじて受けます。全ての責任は、私にあります。」

以上が2004年5月22日までの流れ。



戦争の知識は単純であるが、その習得は必ずしも容易ではない。/ 理性に基づく活動に関しては上級に昇るにつれてその困難の度が加わり、最上級つまり最高司令官の地位に至っては凡百の理性が遠く及ばない最も困難なものとなる。/およそこれらの知識は学問的公式や体系によって得られるものではなく、事物を観察し世に処するにあたって、適切な判断力が働き、これらの事柄を把握すべき才能が鋭敏に働く時にのみ得られるものである。/ 必要な知識は、特殊な才能による考察、つまり研究と熟慮によってのみ獲得することができる。この才能はいわば一種の精神的本能であって、ちょうど蜜蜂が花から蜜を吸い取るように、人生のさまざまな現象からそのエッセンスだけを採り出すのである。



2001年6月30日
  日米首脳会談、キャンプデービットにて。

2002年2月18日
  日米首脳会談。ブッシュ大統領、小泉首相との首脳会談においてイラクへの攻撃の意思を明らかにする。
  ブッシュ大統領
  「われわれはイラクを攻撃する。間違いなくやる」と明言。
  小泉首相
  「テロとの戦いで日本は常に米国とともにある」と伝える。米側は将来のイラク攻撃に対して日本の了解を取り付けたと理解。
  この時期に、米国側のイラク攻撃の意思と、日本側の基本的支持の方針が、日米両首脳間ではすでに確認。



日米首脳会談から1年1ヶ月後。



2003年3月19日 夜
  米英両国、対イラク軍事行動「イラクの自由作戦」、開始。


 ピラミッドの底辺に行けば行くほど情報戦が難しくなる。
 感性を養う。情報交流のため、文学、芸術、音楽などの芸術的素養を養う。



つまり、
  ピラミッドの頂点に行けば行くほど、情報活動は易しい。
  文化や芸術に造詣が深く、人心を掴む呼吸を心得ている。

小泉総理はこの2点の条件に合致している。
文献に埋もれた過去の歴史ではなく、リアルタイムの情報を戦略的情報と呼ぶことにする。
戦略的情報の質という点において、小泉総理に比肩するような人物は日本にいない。
情報に関する法律、組織が未整備な状況においては、個の能力で打開する他はない。



2003年5月23日
  日米首脳会談。テキサス州クロフォードの大統領私邸において。
  会談にはCIA同席。
 

この会談は、2004年5月22日にとって重要な会談であった可能性が高い。
この会談をクロフォード会談と呼ぶことにする。


日米首脳会談における北朝鮮関連に関するやり取りの概要

1 総理より
a 拉致問題等の解決なくして国交正常化はない。国交正常化は拉致のみならず、核、ミサイル、過去の問題を包括 的に解決してから行うとの日朝平壌宣言の立場は変わらない
b 全てのオプションをテーブルにおくという点を理解する。ただしイラクと北朝鮮では対応振りが違う
c 平和的な解決が重要。
d 日米韓が協調することが重要
e (マルチの協議に)日本が参加することは不可欠
f 平和的な解決のためには対話と圧力が必要。
g 北朝鮮の違法行為の規制・取締まりを一層強化する。
h 拉致問題被害者が訪米した際の米国の対応に感謝する。
2 大統領より
a 北朝鮮の脅迫には屈しない
b 中国が責任ある行動をとり始めたことには意味がある
c 日韓の参加を得た5カ国協議を開催して北朝鮮を説得することが重要
d 問題を平和的に解決できると確信しており、そのためにも強い行動が必要
e 北朝鮮からの核や麻薬の拡散は絶対に容認できない
f 拉致は忌むべき行為、拉致された日本国民の行方が一人残らず分かるまで日本を完全に支持する。北朝鮮の拉致に対して強く抗議をしたい(総理より謝意を表明)
(ttp://www.kantei.go.jp/jp/singi/rati/ugoki/030523nitibei.pdf)

クロフォード会談から1年後。

2004年5月22日
  第2次小泉訪朝。
  日朝首脳会談。
  拉致被害者の家族5人が帰国。



諜報三大対象と呼ばれる、

兵員と輸送手段の集合
艦船の異様な動き
陸上の航空基地での航空機の集合
    を現認して確認をとる。



現在では、これらの情報は報道によってある程度知ることができる。

2004年5月23日
  The New York Times、報道。
  IAEA、北朝鮮がリビアにウラニウム提供の証拠を発見。



小泉第2次訪朝の翌日に報道されたこの情報の意味するものとは何か。

北朝鮮による核拡散疑惑。

これは米国が安全保障上看過しない危険な領域に、北朝鮮が踏み込んだ可能性を示唆している。

核のテロリストへの譲渡。

これは米国の考える最悪のシナリオであり、米国の安全保障上重大な脅威である。
安全保障に関心のあるアメリカ国民はこれを許容しない。
北朝鮮は、大量破壊兵器の拡散を防ぐ以外には、米国にとって撃破する価値を見出すことの難しい国家だった。
崩壊のデメリットよりも金正日体制の存続のデメリットが上回るのならば、米国はあらゆる選択肢を排除しない。


湾岸戦争で多国籍軍の航空作戦を指揮したチャールス“チャック”ホーナー司令官(*10) 
「我々は死傷者の発生を防ぐことを軍事的効果よりも優先させた。それが道義的に正しいことだからだ。アメリカ国民は息子や娘の戦死に際して、それが正義のためとなれば、信じられないほどの寛容さを見せてくれる。しかし、もし命が無駄に浪費されたと感じれば、その寛容さは大統領も将軍も予測できぬほど急速に失われる。犠牲者の発生に対する一般国民の寛容さがどの程度かが、危機における我々の政治的、軍事的意思決定を左右する。」



アメリカの正義とは何か。
自由と民主主義、それに自国の国益であり、国益の最たるものは安全保障である。
ここで歴史を振り返る。




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posted by     at 15:56| Comment(0) | sanctuary lost | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする